『地獄変』の紹介
『地獄変』は芥川龍之介の小説です。
芥川龍之介と言えば『羅生門』や『藪の中』が有名ですが、『地獄変』は芥川作品のなかでも、かなり衝撃的な展開を迎える小説です。
ここでは、そんな『地獄変』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『地獄変』-あらすじ
堀川の大殿様に20年仕えていた「私」は、地獄変の屏風の由来について回想します。
地獄変の屏風を描いた良秀という名の絵師は、とても横柄で、御邸では嫌われ者でした。
そんな良秀も、一人娘には多くの愛情を注いでいました。
良秀の娘は御邸に入り、持ち前の愛嬌で堀川の大殿様に可愛がられていたのです。
あるとき、大殿様から良秀に「地獄変の屏風を描くように」といいつけがありました。
良秀は牛車が燃える様子を描きたいと考えていましたが、彼は実際に目にしたものしか描けない性分です。
そこで、大殿様に「牛車を燃やして欲しい」とお願いしました。
後日、良秀の頼みどおり大殿様は、良秀の目の前で牛車を燃やして見せましたが、そのなかには良秀の娘が乗っていたのです。
良秀は最初こそ取り乱した様子でしたが、徐々に燃え上がる牛車に心を奪われ、一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていました。
それから一ヶ月ほど経ち、良秀は地獄変の屏風を描き上げると、自分の部屋の梁へ縄をかけ、命を絶ちました。
『地獄変』概要
物語の主人公 | 良秀 |
物語の重要人物 | 私、大殿様、娘、猿の良秀 |
主な舞台 | 堀川の大殿様の御邸 |
時代背景 | 平安時代 |
作者 | 芥川龍之介 |
『地獄変』―解説(考察)
・語り手『私』の役割
ここでは、作中における「私」の役割について解説します。
この作品では、語り手である「私」によって物語が進んでいきます。
芥川龍之介は、何故「私」に語り手を任せたのでしょうか。
まずは、「私」の設定を確認しましょう。
・「私」の立場
あらすじでも記した通り、「私」は大殿様に20年以上仕えている人物です。
時代背景も考慮すると、「私」は大殿様に絶対の忠誠心を示さなければいけない立場です。
そんな「私」の忠誠心がよく現れているのは、第十二章です。
第十二章では、「私」が猿の良秀に連れられていくと、部屋の中から飛び出してくる良秀の娘を見つける場面があります。
その場面で、「私」は娘に「慌ただしく遠のいていくもう一人の足音」の正体を尋ねますが、娘は首を振るばかりで答えません。
しかし、「私」はそれ以上追求しませんでした。いや、追求することができなかったという方が正しいでしょう。
なぜなら、この事件が起きる前に、大殿様が良秀の娘を無理矢理御意に従わせようとしているという噂が流れていたからです。
しかも、その噂は直ぐに消え、それからは誰も娘の話をしなくなったそうなのです。
この出来事で、御邸内に大殿様の圧力がかかっていることを示されています。
「私」はこのような経緯から、「慌ただしく遠のいていくもう一人の足音」の正体が大殿様であると悟ったのです。
「私」は大殿様の異常性を強調する役割を持つ
しかし、「私」の立場上、作中でそれを明言することはできません。
ここに「私」の存在意義があるのです。
大殿様のおかしな言動について、「私」はその非道性を咎めることができません。
良秀の娘を牛車と共に燃やした時でさえ、大殿様を正当化しています。
読者はこのような「私」の盲目さに違和感を抱き、益々大殿様に疑惑の目を向けるようになります。
つまり、芥川が語り手「私」に与えた役割とは、私利私欲のために殺人をも犯してしまう大殿様の異常性を強調することだと考えられます。
・良秀の独り言
良秀が昼寝中に発していた独り言について、作中でその詳細が語られる場面はありません。
ここでは、
- 良秀の独り言が作品のなかでどのような役割を果たしているのか
について考察していきます。
良秀の独り言は作中の第八章に登場します。
『なに、己に来いと言うのだな。―どこへ―どこへ来いと?奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。―誰だ。さう言う貴様は。―貴様は誰だ―誰だと思ったら』
『誰だと思ったら―うん、貴様だな。己も貴様だらうと思っていた。なに、迎えに來たと?だから来い。奈落へ来い。奈落には―奈落には己の娘が待っている。』
『待っているから、この車へ乗って来い―この車へ乗って、奈落へ来い―』
彼は実際に目にしたものしか描けない性分だったので、地獄というものを描くことにとても苦労していました。
そこで、屏風の依頼主である大殿様に「牛車の燃える様子が見たい。」と頼んだのです。
しかし、ここで良秀が本当に望んでいたのは、牛車が燃える様子ではなかったと考えられます。
そして、彼にとっての「地獄」というのは、愛する一人娘が苦しむ姿だったと考えられます。
しかし、自分の愛する娘を火にかけることなどできません。その葛藤が、良秀の独り言に現れたのでしょう。
良秀は、絵師として「地獄」をみたいと思う気持ちと、父親として「娘」を思う気持ちの間で、心が揺らいでいました。
作中では良秀の言葉が省略されていますが、大殿様の「萬事その方が申す通りに致して遣はさう。」という発言から、
- 牛車の中に「女」を乗せるのは大殿様の思いつきではなく、良秀の提案
であったと考えられます。
しかし、この提案によって、大殿様の異常性が発揮されてしまいました。
大殿様は、自分の意に従わない娘を火にかけてしまおうと思いついたのです。
大殿様の表情をみた良秀はその企みに気付いたのでしょう。しかし、最終的には「難有い仕合でございまする。」と言っただけでした。
なぜ、良秀はここで娘を守ろうとしなかったのでしょうか。
次のテーマでその部分について触れたいと思います。
・良秀と大殿様の対比
良秀の娘が牛車で焼かれる第十六章から、良秀と大殿様の対比が色濃く描かれています。
芥川はこの対比によって何を伝えたかったのかを解説していきます。
第十六章で大殿様は、仰々しく牛車の御簾を上げて、中にいる良秀の娘を披露しました。
良秀は炎の中でもだえる娘を見ると、大きく目を見開き、唇を歪めます。
愛する一人娘を失った父親の反応としては妥当でしょう。
一方の大殿様は、気味悪く笑ってじっと牛車の方をみつめていました。
これも、自分勝手な欲望を満たすことに成功した人間としては妥当な反応です。
『良秀=失った者』と『大殿様=得た者』
の対比がわかりやすく描かれています。
芥川が伝えたかったことは「美しく悲しい人間の存在」
しかし、あることをきっかけにして二人の様子は一変します。
後で詳しく述べますが、そのきっかけになったのは「猿の良秀」です。
「猿の良秀」が炎の中に飛び込んだ直後、良秀は不思議なことに嬉しそうな表情を浮かべていました。
それだけではなく、「「人間離れした厳かさを身にまとっていた」と語られています。
一方の大殿様も、先ほどとは打って変わって、青ざめた顔で獣のように喘いでいたそうです。
- 良秀は「絵師として被写体を得た人物」
- 大殿様は「思いを寄せていた女性を失った者」
として、先ほどとはまったく逆転した立場で描写されているのです。
この転劇によって、芥川は人間の二面性、つまり、「人間らしさ」を描いたと考えられます。
他者を思う心も、私利私欲に溺れてしまう心も、全て人間だから持ち合わせているものです。
作品の中で描き分けられていた大殿様と良秀の特性は、いつでも逆転しうるものでした。
芥川が『地獄変』で伝えたかったのは、美しく悲しい人間の存在だったのではないでしょうか。
『地獄変』の感想
・猿の良秀の役割は?
さて、この作品を読み解くにあたって「猿の良秀」の存在は無視することが出来ません。
「猿の良秀」は、はじめは御邸で嫌われ者でした。それ故に、良秀というあだ名が付けられたのですが、そんなかわいそうな猿を救ったのが良秀の娘です。
「猿の良秀」については、謎が多く残ります。
私は、芥川が「猿の良秀」を使って、娘の好感度を上げようとしたのだと仮定しました。
動物にも愛される、弱いものを助ける娘の人間性をよく表わしているとは思ったのですが、作品を読み進めていくにつれて異なる考えが浮かんで来ました。
「猿の良秀」は、
良秀の「他者を思う心」を体現した存在
ではないのかと思うようになったのです。
そうすると、大殿様に襲われそうになっていた娘を助けたことや、炎の中に飛び込んでいったことの説明がつきます。
「猿の良秀」が炎の中に飛び込んだ直後に良秀の様子が一変したのも、「猿の良秀」が死ぬことによって、良秀の『他者を思う心』が消えたことを表わしているからではないでしょうか。
「猿の良秀」の存在は、一体何を表わしているのか。その答えによって、登場人物たちの表情ががらりと変わってきます。
「作中での説明が多すぎる。」と評価されることが多い芥川龍之介ですが、彼は「猿の良秀」について多くの謎を残しました。
ひょっとすると、『地獄変』の隠れた主人公は「猿の良秀」なのかもしれません。
・良秀の自死
地獄変の屏風を完成させた良秀は、その翌日に自殺してしまいます。
娘を失ったショックが原因ならば、あの事件の翌日に自死しているはずです。しかし、良秀は地獄変の屏風を完成させてから命を絶っています。
娘が死んでから、父親としての良秀は消え、絵師としての良秀だけが残りました。
絵師としてのプライドが、娘をなくしたショックを上回ったのでしょう。
そうして、地獄変の屏風が完成したときには、絵師としての良秀も消えてしまったのではないでしょうか。
つまり、良秀は持ち合わせていた二面性の両面を失ってしまいました。それと同時に、生きる意味も失ってしまったのでしょう。
「独り言」で言っていたように、良秀も娘も、「奈落=地獄」に落ちていったのです。
以上、『地獄変』のあらすじと考察と感想でした。