『ドグラ・マグラ』「脳髄論」が示す『ドグラ・マグラ』の全貌とは?

『ドグラ・マグラ』の紹介

今回ご紹介する『ドグラ・マグラ』は夢野久作の作品で、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』・中井英夫『虚無への供物』と並ぶ、日本三代奇書のひとつです。

「『ドグラ・マグラ』を読破したものは精神に異常をきたす」という都市伝説ができてしまうほどに、この作品は多くの読者に影響を与えています。

ここでは、そんな『ドグラ・マグラ』のあらすじ・解説・感想までをまとめてみました。

『ドグラ・マグラ』ーあらすじ

巻頭歌
胎児よ
胎児よ
何故踊る
母親の心がわかって
おそろしいのか

・・・ブウウーーーーーーーーーンンンーーーーーーーーーンンンン・・・

青年は、コンクリートに囲まれた狭い部屋で目覚めました。

自分が誰なのか、ここはどこなのかも、思い出すことができません。

すると、隣の部屋から「お兄さま、お兄さま、お隣の部屋にいらっしゃるならもう一度お声を聞かせてください。妾はあなたの許嫁だった・・・あなたの未来の妻でした。結婚式を挙げる前の日に、お兄さまの手にかかってしまったのです。」という声が聞こえてきました。

青年は、この声に返事をしたいと思いましたが、自分が「お兄さま」なのか確信が持てず、返事をするのを躊躇いました。

看護師がやってきたので、青年は自分の名前を問いましたが、看護師は部屋から出て行ってしまいました。

しばらくすると若林博士と名乗る男がやってきて、ここは九州帝国大学の精神病科であると知らされました。

どうやら青年は、1ヶ月前に亡くなった正木先生という人の実験台だったようです。

若林博士曰く、正木先生はある事件の真相を知るために、青年の記憶を取り戻そうとしていたそうです。

若林博士は正木先生の実験を引き継ぎ、青年の記憶を取り戻すために、青年に標本を見せたり、書物を読ませたりしました。

その中に、『ドグラマグラ』という小説がありました。

さまざまな書物を読んでいるうちに、青年は

この事件に関わっている呉一郎という少年は自分なのかもしれないと思い始めます。

そのとき、死んだはずの正木先生が目の前に現れ、若林博士は青年が自分自身を呉一郎だと思い込むように誘導していると話し始めました。

青年が正木先生に言われるがまま窓の外を眺めると、そこには青年と同じ顔をした呉一郎が立っていました。

青年は自分が誰だかわからないまま、コンクリートに囲まれた部屋に戻りました。

・・・・・・ブウウウ・・・・・・・・・ンン・・・・・・ンンン・・・。

『ドグラ・マグラ』ー概要

物語の主人公 呉一郎
物語の重要人物 若林博士、正木先生
主な舞台 九州帝国大学精神病科
時代背景 近代
作者 夢野久作

『ドグラ・マグラ』ー解説(考察)

・「離魂病」で示される『ドグラ・マグラ』の魅力

「離魂病」とは、青年が侵されている病です。

現代で言い換えるならば、「幽体離脱」や「夢遊病」に近いかもしれません。

これは、魂と肉体が分離し、もうひとりの全く同じ人間が出来上がるというものです。

青年は『ドグラ・マグラ』のなかで終始この病に侵されているので、作中には実質青年がふたりいることになります。

つまり、青年は夢と現実の狭間で彷徨っているのです。

『ドグラ・マグラ』の魅力の一つとして、青年の正体が不明確な点が挙げられますが、これは青年が信頼できない語り手であることを示しています。

多くの読者が『ドグラ・マグラ』の読解に苦労したと思いますが、この理由の一つとして、青年=語り手の不確かさが挙げられるといえるでしょう。

・抜け出すことのできない「胎児の夢」

「胎児の夢」とは、正木先生が論文の中で唱えているものです。

簡単にいうと、「胎児は母親の胎内で、夢を見ているのではないか」というものです。

しかも、胎児は単なる夢を見ているのではなく、人類史を総復習した上でこの世に生まれてくると説いています。

そして、胎児は強制的に先祖が犯してきた悪業の数々も夢で見なければならず、その記憶を見終わるまで、母親の胎内で怯え続けるというのです。

ここで重要になってくるのは、胎児が先祖の夢を見ることで、先祖の記憶や心理が遺伝することです。

胎児が人類史を学んでから世の中に出てくることで、人間は同じ歴史を繰り返しています。

人間が繰り返す歴史とは、決して良いものばかりではありません。

差別や虐殺・戦争など、意味のない命の奪い合いを繰り返し、何度も反省しているのにも関わらず、争いごとは無くならないのです。

胎児の夢によって人間という生き物に刷り込まれた運命や倫理観は、先天的であり、避けることができません。

胎児は、自分もこの歴史を繰り返すことに怯えながら、母親の胎内で10ヶ月という長い時間を耐えるしかないのです。

・「脳髄論」が示す『ドグラ・マグラ』の全貌

「脳髄論」は、正木先生が唱えている説です。

人間の感覚や記憶・意思などは脳髄の判断によって行われているのではなく、身体に存在する細胞の全てが判断しているという説です。

この説によれば、脳髄は細胞の判断を仲介する機能しか持ち合わせておらず、単なる“電話交換機“ということになります。

ここで面白いのは、作中でこの説が完全否定されているところにあります。

「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪怪不可思議を極めた我輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという・・・

(『ドグラ・マグラ』より)

つまり、脳髄は物事を考える場所ではないということを、これまた脳髄が考えているという堂々巡りが起きているのです。

さて、この「脳髄論」が登場することで、作品にどのような影響を与えているのでしょうか?

『ドグラ・マグラ』の冒頭で部屋に響き渡っている「ブウウ・・・」という音は作品の末尾にも登場します。

作品の序盤では、青年が自分の正体を思い出すことができない状態でこの時計の音を聞いています。

そして、作品の終盤でも青年がこの時計の音を聞くわけですが、青年は冒頭と同じ状態で自分の正体をまだ確定できずにいます。

つまり、作中に描かれた長い一日の中で、青年の終わりと始まりは境目がない堂々巡りのような物語になっています。

輪廻転生などがキーワードになっている『ドグラ・マグラ』のなかで「脳髄論」を登場させることで、この世界が何度も繰り返されており、物事の境目が消えかかっているということを示しているのではないでしょうか。

『ドグラ・マグラ』ー感想

・精神に異常をきたす小説?ー日本三大奇書

冒頭でも紹介しましたが、この『ドグラ・マグラ』を読破したものは、精神に異常をきたしてしまうと言われています。

実は、わたしの大学時代の友人に『ドグラ・マグラ』を読破した友人がいました。

もちろん精神に異常はきたしていませんでしたが、他の作品を読むのとでは違う疲労感があるらしく、一度読んで満足してしまったようです。

わたしも、初めて『ドグラ・マグラ』を読んでみて、読破する困難さと読解する苦痛に直面しました。

『ドグラ・マグラ』の独特の世界に足を踏み入れると、わたしたちの世界の常識は通じなくなり、青年の正体とともに自分の正体すらもわからなくなってしまいます。

青年の正体を探しているつもりが、「信頼できない語り手」によって進められる物語の中で、いつしか自分の正体を探っているような気分になるのです。

また、「ブウウウ・・・」という不気味な時計の音が繰り返されることによって、読了した後も絶望感が残ります。

いくら時間が進もうとも、わたしたち人類は同じ歴史を繰り返しているのだな、と実感させられてしまうのです。

・青年の正体は、すべての人類?

『ドグラ・マグラ』最大の謎である「青年の正体」ですが、作品の中ではっきりと結論づけられることはありません。

青年の正体どころか、青年の存在さえ証明することが難しいのです。

先述した通り、青年は「離魂病」にかかっていて、夢と現実の狭間で彷徨う存在です。

『ドグラ・マグラ』で描かれている長い物語は、青年が見ている夢なのか現実なのか、わたしたちにはわかりません。

もしかしたら、青年が一瞬そう思ったように、全て「胎児の夢」なのかもしれません。

母親の胎内にいるすべての胎児は、青年が今見ているような夢のなかで自分の正体を探り、この世に生まれる時点で自我の芽生えの可能性を孕んでいます。

生まれるまでも生まれてからも、自己の確立は人生において大きな問題になってきます。

胎児のうちに夢を見ることで人類史や自我の確立を行うという説はとても興味深いですが、これはあくまで『ドグラ・マグラ』のなかでの話であって、わたしたちが生きる現実世界とはまた別の話になってきます。

『ドグラ・マグラ』を読んでいると、現実世界で起きている疑問の解説をされているような気持ちになるのですが、小説の中の話だと割り切って読まなければ、わたしたちも夢のなかから抜け出せなくなってしまいそうですよね。

以上、『ドグラ・マグラ』のあらすじと考察と感想でした。

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