大江健三郎『飼育』黒人兵を「飼育」する事で変化する「僕」の考え

『飼育』の紹介

「飼育」と聞くと、羊や豚などの家畜、犬や猫などのペットを思い浮かべるのではないでしょうか。

大江健三郎の『飼育』も同じように「飼い育てること」をテーマとしていますが、この小説では家畜やペットなどではなく、ある1人の「人間」を飼育するのです。

ここでは、そんな『飼育』についてのあらすじ・感想・考察をまとめていきます。

『飼育』-あらすじ

主人公の「僕」は、父や弟とともにある村に暮らしていました。

村から離れた<町>に住む人にとっては「僕」の住む村は開拓村で、村の人間は汚い動物のように嫌がられていました。

ある日、「僕」たちの住む村の近くの山に<敵>の戦闘機が墜落します。

村の大人たちは猟銃を持って山へと繰り出し、そこで1人の黒人兵が捕らえられます。

黒人兵は県が処遇を決めるまで、「僕」の住処の下にある倉庫で「飼育」されることになります。

そんな黒人兵に対して「僕」は<獲物>として興味を抱くのでした。

黒人兵を「飼育」していた「僕」たちでしたが、日が経つにつれ黒人兵と「僕」との間には奇妙な、殆ど<人間的>な絆が生まれます。

そんな中、黒人兵を県へと引き渡すことが決まります。

それを察した黒人兵は<敵>に豹変し、人質にとった「僕」の喉を締め殺そうとします。

「僕」の意識が遠のく中、大人たちの塊から「僕」の父が鉈を持って飛び出します。

そして、黒人兵が頭を守る為にかかげた「僕」の掌ごと、刃は振り下ろされるのでした。

黒人兵は死に、掌を失った「僕」は生き延びました。

しかし、一連の出来事を経た「僕」は、自分がもう「子供」では無くなってしまった事を悟るのでした。

『飼育』-概要

主人公
重要人物 黒人兵、弟、父、兎口、書記
舞台 谷間の村
時代 近現代であるが詳しく不明(戦闘機の描写から、第一次世界大戦以降だと思われる)
作者 大江健三郎

『飼育』-解説(考察)

・村と<町>

大江健三郎の『飼育』において、はじめに触れておきたいのが、語り手である「僕」が、単なる「町」ではなく<町>と呼んでいることです。

この表現にはどのような意味が込められているのでしょうか。

作中で「僕」にとって町は、自分の住む村と同じような場所ではなく、ある種の意味のこもった<町>であり、読み手にとっても物理的な問題に留まらないレベルでの距離感を感じさせます。

「僕ら、村の人間たちは<町>で汚い動物のように嫌がられていたのだし、僕らにとって狭い谷間を見下ろす斜面にかたまっている小さな集落にあらゆる日常がすっぽりとつまっていたのだ」

と「僕」が述べていることから、<町>は「僕」にとって全くの別世界のようなものであり、「僕」の行動や思考は小さな村のみに規定されていることが分かります。

さらには、未だ発展途上の未開拓な村に暮らす「僕」たちと<町>の人々との間に、公然とした差別が生まれていることを少年である「僕」さえも理解しています。

一方で、「僕」自身も「<町>の子供たちを、決してなじめない形をした地虫のある種のように嫌っていたし軽蔑もしていた」と感じており、互いに相容れない関係にあったのでした。

まずは、このような意味も含めた距離のある<町>が存在していることを理解しておきたいところです。

・日常と地続きの戦場

物語の序盤で「僕」は戦争を、

「村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎな」

いものだと考えています。

また、「<敵>の飛行機も、僕らには珍しい鳥の一種にすぎない」とまでも感じています。

つまり、「僕」にとって戦争はどこか遠い世界の出来事に過ぎず、上述した<町>のように距離感を感じているものでした。

しかし、このような「僕」の考えは黒人兵を「飼育」する事によって変わっていかざるを得なくなってしまうのです。

<獲物>として捕らえられた黒人兵とやがては「殆ど<人間的>な絆」を結ぶほどになっていた「僕」は、最後には<敵>として豹変した黒人兵に人質にされてしまいます。

この時「僕」と<獲物>であったはずの黒人兵との関係は、一気に逆転してしまいます。

<町>の人々よりも、村の大人たちよりも下位の存在だった「僕」は、黒人兵の「飼育」を通して快楽とある種の権力を得ていました。

しかし、人質にされたその時「僕」は黒人兵によって「飼育」されているも同然になってしまいます。

結果的に「僕」は解放されますが、以前のように「戦争」を遠いものとして考える「僕」ではありません。

戦争、血まみれの大規模な長い闘い、それが続いているはずだった。遠い国で、羊の群 れや、刈り込まれた芝生を押し流す洪水のように、それは決して僕らの村へは届いてこな い筈の戦争。ところが、それが僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶしに来る、父が鉈を ふるって戦争の地に体を酔わせながら。そして、急に村は戦争におおいつくされ、その雑 踏の中で僕は息もつけない。

大江健三郎『大江健三郎自選短篇』「飼育」岩波書店,163頁

「僕」は一連の出来事を通して、身をもって「戦争」を知るのでした。

<獲物>であった黒人兵は、山犬のような動物ではなく、<敵>として人間を殺す「兵士」なのです。

差別的に家畜のような扱いをしていたとしても、「僕」が<人間的>な絆を結んでいたはずの黒人兵は、戦争によって一瞬にして<敵>の「兵士」へと、父を含む村人さえも狂気を孕んだ人間を殺す「兵士」へと変貌するのでした。

そして、捕らえられた「僕」は「捕虜」としてしか存在していません。

ここにおいて、「戦争」から遠かったはずの村は紛れもなく「戦場」と化しています。

つまりは、「戦争」はどこか遠い世界の存在などではなく、「戦争」がこの世のどこかに生まれた時点で、あらゆる場所が常に戦地であると言っても良いでしょう。

そのようなテーマが『飼育』には根底として流れているのでは無いでしょうか。

・少年の「成長」

『飼育』では、上述した「日常と地続きの戦場」というテーマを地盤としながら、もう一つの重要なテーマが流れています。

それは『「僕」という少年の「成長」』です。

私たちの生きている現実でも、子供は生き物を飼うことによって、「飼育」を通して人間的に成長するという話を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。

捕まえた(あるいは買ってきた)生き物に愛情を込めて育てて、場合によっては<人間的>な絆を結び、やがては生き物の死によって大切なものを失うことを経験し、その悲しみを乗り越える、といったようなプロセスを経て子供は成長すると言われています。

このようなプロセスは『飼育』の「僕」においても当てはめることができるでしょう。

ただし、

  • 「飼っている生き物が人間だということ」
  • 「生き物に牙を向けられた事」

を除いてです。

物語の終盤で、「僕」は傷ついた掌を「お前のぐしゃぐしゃになった掌、ひどく臭うなぁ」と挑発されますが、「あれは僕の臭いじゃない」「黒んぼの臭いだ」と言い放ちます。

このやり取りは「僕」自身を投影していた黒人兵の死をもって、子供の時の「僕」と決別する、というようなプロセスを取った「成長」の証だとも捉えられないでしょうか。

奇妙な情念を黒人兵に向けていた「僕」は、捕虜にされた際、黒人兵がトイレとして使っていた樽で用を足すことになります。

その時「僕」は黒人兵がどう思っているか分からないにも関わらず、屈辱的な思いを感じています。

この時、「僕」の中にはもう1人の「僕」が存在しています。黒人兵に向けていた「視線」をもう1人の自分が「僕」に向けることで、自己の内でその過程において「僕」は黒人兵と同一化を果たしたとも言えるのではないでしょうか。

そのような、ある種自分にとって「屈辱的な自己」であった子供の「僕」を、黒人兵とともに死んでしまったものとして扱う事で自身の「成長」を感じようとしているのかもしれません。

『飼育』-感想

・物語の「舞台」は?

大江による『飼育』という物語の舞台は作中では明らかにされていません。

具体的な土地の名前は出てこず、「僕」の住む村と、書記をはじめとする村人とはまた異なる人々が住む<町>が物語の主な舞台となっています。

また、土地の名前だけでなく人の名前すらも決められていません。それ故に読みづらくなっている部分もあるでしょう。

しかし、明らかにされていないからこそ存在する価値があり、むしろそのお陰で「普遍性」を持たさせられているとも言えるのでは無いでしょうか。

例えば、「僕」の住む村と<町>との物理的にとどまらない「距離感」は、世界中のどこにでもありうる事ですし、日本においては部落差別を思い浮かべる人もいる事でしょう。

皆さんは『飼育』を読んでいて、どのような場所を思い浮かべましたか?ちなみに私は初めに読んだとき、ベトナム戦争中のベトナムを思い浮かべました。

他にも「僕」が黒人兵に向ける「視線」についても同じです。

自らと異なる姿形を持つものに対して「性的ともいえる眼」を向ける一方で、「動物的なもの」「野蛮なもの」として捉える侮辱的な眼をも同時に向けています。

このような「視線」を向ける原因ともなる「おぞましい何か」は今なお人々の心に棲みついているはずで、心当たりがある人もいるかもしれません。

このように、様々な人の心に棲む「おぞましい何か」を炙り出すことができるのは、『飼育』の舞台が明確な固有名詞を持って設定されていない事から生まれる「普遍性」のおかげだと私は感じました。

以上、大江健三郎の『飼育』のあらすじ、考察、感想でした。

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