大江健三郎『万延元年のフットボール』蜜三郎の「痛み」と「期待」とは?

  1. HOME >
  2. 日本文学 >
  3. 大江健三郎 >

大江健三郎『万延元年のフットボール』蜜三郎の「痛み」と「期待」とは?

『万延元年のフットボール』紹介

『万延元年のフットボール』は大江健三郎著の小説で、1967年1月号から7月号にかけて『群像』に連載されました。

本作は、幕末期の1860年とそのちょうど100年後であり学生運動が激化していた1960年、時代の転換点となった2つの象徴的な元号をモチーフとし、谷間の村で巻き起こる暴動をめぐる兄弟の対立を描いた物語です。

著者の作風の転換点ともいわれる作品であり、ノーベル文学賞の受賞理由において代表作としてその名が挙げられています。

ここでは、『万延元年のフットボール』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『万延元年のフットボール』あらすじ

根所蜜三郎とその妻・菜採子は、息子の精神障害や友人の奇怪な自死へのショックから荒んだ生活を送っていました。

そこに渡米していた蜜三郎の弟・鷹四が帰国し、共に故郷の谷間の村で新生活を送ることとなります。

鷹四は万延元年の一揆の指導者であった曽祖父の弟に憧れており、やがて村全体を巻き込む暴動の指導者となりますが、村の娘の殺害によりその座を追われます。

その夜、鷹四はかつて白痴の妹を近親相姦・妊娠させ自死に追い込んだこと、そのために自己処罰の欲求に駆られていたことを蜜三郎に告白しますが、仲間を裏切り逃げた曽祖父の弟と同じように鷹四も卑劣な方法で逃げ延びるにちがいない、と言い放ち、鷹四はその直後、悲惨な自死を遂げました。

彼の死後、倉屋敷の地下倉の発見によって曽祖父の弟が逃げ延びてはいなかったことを知ると、蜜三郎は「自分の内部の地獄に耐えている人間」への想像力を持とうとしなかった自らを恥じ、彼らの覚悟をようやく認めます。

姦淫によって菜採子がみごもった鷹四の子と障害をかかえた息子とを夫婦で養っていくことを決めた蜜三郎は、動物採集隊の通訳責任者としてアフリカで新生活を始めるのでした。

『万延元年のフットボール』概要

主人公

根所蜜三郎:根所家の三男であり、当主。息子の精神障害と友人の自死を受け、絶望のさなかにある。

重要人物

根所鷹四:蜜三郎の弟、根所家の四男。悔悛した学生運動家として渡米し帰国。谷間の暴動の指導者となる。
菜採子:蜜三郎の妻。当主。息子の精神障害と蜜の友人の自死にショックを受け、アルコール依存症に。
蜜三郎の友人:蜜三郎の唯一の友人。精神を病んで縊死する。
曽祖父の弟:万延元年の一揆の指導者。

主な舞台

愛媛県 大窪村

時代背景

1960年代

作者

大江健三郎

『万延元年のフットボール』解説(考察)

本作には象徴的な場面が多々ありますが、なかでも特に印象的なのは蜜三郎の友人と鷹四の自死ではないでしょうか。

そのどちらも死にざまに強いメッセージ性が感じられ、主人公・蜜三郎の心情にも大きな変化をもたらします。

ここでは、彼らの象徴的な死にざまとそれらに対する蜜三郎の受け止め方を通じて、作品の主題のひとつとなっている蜜三郎の「痛み」と「期待」について紐解いていきたいと思います。

顔を赤く塗り、肛門に胡瓜をさして縊死した友人

まずは、物語の序章として語られる蜜三郎の友人の死にざまについてみていきます。

彼は「朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死」しました。

そのありさまは「朱色の顔をして素裸の、腿には生涯の最後の静液をこびりつかせた、まさに救出しがたい死者」と語られています。

この奇怪な自死のあり方には、そのヒロイズム脆弱さとが表裏一体として示されていると考えられます。

導きの神・サルダヒコ

まずは、ヒロイズムを示す側面として、「サルダヒコ」というキーワードに着目したいと思います。

これは、彼の死にざまをみた「友人の祖母」の言葉です。

サルダヒコとは『古事記』に登場する神で、猿や天狗のような怪奇な風貌をしており、真っ赤な酸漿のように照り輝いているといわれています。(※1

それらから連想される赤い顔は、顔を朱色に塗った友人の死にざまと重なります。

サルダヒコは天照大神によって地上へ派遣された天つ神たちを迎え入れて案内したことから導きの神ともいわれており、ここについても友人に重ねられるエピソードが存在します。

友人は死の直前に、精神異常者のための療養所「スマイル・トレーニング・センター」の粗暴な看護人を半殺しにする事件を起こし、「精神安定剤を服用し腹をたてることもできなくなっている無抵抗の患者たち」に深く尊敬されていたのです。

祖母は、彼のこの行動について「立派なことをした」と語っています。

(前略)療養所で立派なことをしたこの子は、他の精神病者から、すっかり尊敬されました。それでもうあすこにとどまっていることはできなくなったのです。(中略)もし、あすこで自殺するとしたら、顔を朱く塗って裸になって首をくくることなどはできなかったでしょう。あの子を尊敬している他の精神病者に妨害されましたよ。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,14

祖母がその死体をみて「サルダヒコのような」と呟いたのは、悲惨な彼の死にざまの中にもヒロイズムを見出そうとしていたからではないでしょうか。

口を切り裂かれた海鼠

一方、彼の祖母とは異なり、蜜三郎はその死体から脆弱さを見出しています。

そのキーワードとなっているのが、「海鼠」です。

蜜三郎は「サルダヒコ」という言葉から、祖母の英雄的解釈とはまったく正反対の連想をします。

彼が友人を重ねたのは、サルダヒコとの交渉役をつとめたアメノウズメという神が口を切り裂いたとされる海鼠でした。

(前略)サルダヒコ、サルダヒコノミコトは、天降る神々を天の八衢でむかえた。その闖入者群の代表としてサルダヒコと外交折衝したアメノウズメは、新世界の原住民たる魚どもをあつめて支配権を確立しようと試み、沈黙して抵抗した海鼠の口を、此ノ口ヤ答ヘヌ口とナイフで切りさいた。頭を朱色に塗った、わが心優しい二十世紀のサルダヒコは、むしろその口を切りさかれる海鼠の同類ともいうべき人間だった。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,15

蜜三郎は、その奇怪な死にざまから看護人を半殺しにした友人のヒロイズムではなく、その後「深甚な悲しみ」をいだき、以来《なんでもいいから、陽気にしていようじゃないか!》というヘンリー・ミラーの言葉にとらえられた彼の脆弱さを思っていたのです。

彼はアメノウズメを前にして口を裂かれるしかなかった海鼠の無力さを、友人の中に見出していました。

友人の死にざまは、下記の相反する2つの性質を表裏一体として象徴しています。

  • 正義感から粗暴な看護人を半殺しにした暴力的なヒロイズム
  • 自身の暴力性に悲しみをいだき、陽気にいきたいと願う脆弱さ

そして、彼の死に対する蜜三郎の受け止め方には、作品全体を通して描かれるヒロイズムへの抵抗感も表れているといえるでしょう。

柘榴のように裂け、血にまみれて死んだ鷹四

次に、物語の終盤に描かれる鷹四の死にざまについて考察していきたいと思います。

彼の自死については、次のように描写されています。

(前略)かれの頭と裸の胸の皮膚は、そこに数多くの柘榴が蝟集したような具合に裂けて血にまみれ、男はズボンだけつけた真赤な石膏製の等身大模型のようだ。(中略)そして死んだ男が銃口を見つめて立った筈の高さには、壁と構造材の上に、赤鉛筆で人間の頭と肩の輪郭が描かれ、その頭にはふたつの大きな眼だけ克明に書きこまれている。僕はもう一歩前に進み、霰弾と血糊を足裏に感じながら、描かれた両眼に、霰弾がびっしり撃ちこまれて、窪みの底に鉛の眼が開いているようであるのを見た。略図の頭の脇の壁には、おなじ赤鉛筆で、
――オレハ本当ノ事ヲイッタ
と書きつけてある。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,402-403

この死にざまには、鷹四が長年苦しんでいた精神の分裂と自死の直前の深い絶望が表れています。

それぞれについて、詳しくみていきます。

柘榴のように裂けて崩れた死体

霰弾によって柘榴のように裂けた死体が象徴するのは、鷹四が苦しんできた精神の分裂を表したものといえます。

それがわかるのは、彼が蜜三郎の妻・菜採子に自身の苦しみを吐露する場面です。

(前略)考えてみればおれはいつも暴力的な人間としての自分を正当化したいという欲求と、そのような自己を処罰したいという欲求に、引き裂かれて生きてきたんだよ。そのような自分が存在する以上、そのような自分のまま生き続けたいという希望を持つのは当然だろう? しかし、同時にその希望が強くなれば強くなるほど、逆に、そのようなおぞましい自分を抹消したいと願う欲求も強まって、おれはなおさら激しく引き裂かれた。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,346

菜採子には打ち明けませんでしたが、ここで鷹四がいう「暴力的な人間としての自分」とは、かつて白痴の妹をいいくるめ近親相姦をした末に自死に追い込んだことを示しています。

  • それは妹を守るためにも有効な手段であったという自己正当化の欲求
  • 純朴な妹を自死に追い込んだ罪の意識からくる自己処罰の欲求

この対立する2つの欲求に、鷹四は長年、精神を引き裂かれてきました。

そんな彼の精神分裂の究極点として現れたのが谷間の暴動の煽動でした。

  • 暴力的な指導力で谷間の人々を救うという自己正当化の欲求を満たす
  • 最終的に、暴力性をエスカレートさせ自己処罰の欲求をも満たす

相反する2つの欲求を満たしうる最終手段であり、彼なりの自己統一の形だったのです。

しかし、そうした「本当の事」を打ち明けてもなお、蜜三郎に「今度だってきみはなんとか卑劣な手段を弄して生き延びるにちがいない」と責め立てられ、鷹四は逃げ道を断つべく自死を選択することとなりました。

霰弾によって引き裂かれた肉体は、鷹四が苦しみ続けた精神の分裂をそのまま表しているようです。

霰弾の撃ちこまれた両眼

次に着目したいのは、鷹四のダイニングメッセージともいえる両眼に霰弾の撃ちこまれた赤鉛筆の絵と「オレハ本当ノ事ヲイッタ」の文字です。

ここには、蜜三郎に最後まで自分を受け入れてもらえなかった鷹四の深い絶望が表れています。

「眼」からまず連想されるのは、事故で片眼の視力を失った蜜三郎のことでしょう。

鷹四は死の直前、蜜三郎に網膜の提供を申し出ていました。

「蜜、きみの妨害がなければ、たとえおれは明日のリンチを生き延びても、確実に死刑にはなるだろう。リンチで死んでも処刑されても、とにかく蜜におれの眼をやるから、その網膜を使ってきみの眼を手術してくれ。そうすればすくなくとも、おれの眼球だけは、おれの死後も生き延びていろんなものを見るわけだ、それが単なるレンズの役割にすぎないとしても心が休まるよ。蜜、そうしてくれ」

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,396

しかし、蜜三郎はそれを「憤激におののいてしまう声で」強く拒絶しています。

彼は、鷹四のことを必ず逃げ道を用意している卑劣な男だと考えており、網膜提供の申し出もそのひとつだと感じたのでしょう。

鷹四の中にヒロイズムへの憧れを満たしたい気持ちがあったことは否定できませんが、後に蜜三郎の妻・菜採子は、この申し出が、救われたいと願う鷹四の切実な思いでもあったのだと語っています。

(前略)死んでゆこうとする鷹がどんなに憐れに恐怖心を克服するためのわずかな希望をたくしていたかわからないのに、蜜は、鷹が眼をくれるという申し出を拒んだわね? 鷹が、なぜ蜜は自分を憎んでいるのか、とへりくだって訊ねたときにも、いや自分は憎しみを抱いていない、といってやるかわりに、その鷹をなおも冷笑して二重に恥かしめたわね? そのようにして蜜は、鷹が一等酷たらしく惨めな気分で顔全体をボロボロにしてしまうほかない所へ放り出したのよ!(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,426

「暴力的な死がもっとも恐しい」と語っていた鷹四は、迫り来る死の恐怖に打ち勝つべく、死後にも残る何らかの希望を兄に託そうとしていたのです。

しかし、なけなしの力で縋りついた蜜三郎に拒絶されたことで、そのような淡い期待はすべて捨て去るという覚悟をもって描いた両目を霰弾で潰したのではないでしょうか。

後ほど言及しますが、ここで頑なな態度を示していた蜜三郎は「本当の事」から目を背け続けている状態でした。

鷹四はそれを知っていたからこそ「オレハ本当ノ事ヲイッタ」という言葉を、蜜三郎に突きつけたのかもしれません。

彼のダイニングメッセージは、深い絶望の末に絞り出した、蜜三郎への痛烈な非難の思いだったのではないでしょうか。

鷹四の残酷な死にざまは、下記の2つを蜜三郎に突きつけるためのものでした。

  • 自己正当化の欲求自己処罰の欲求に引き裂かれた精神の苦しみ
  • 深い絶望の末に行き着いた、完璧な自己処罰を成し遂げようとする覚悟

しかし、蜜三郎はこれほどまで痛烈なメッセージをも受け止めることを拒否しました。

彼がようやく鷹四を認めたのは、曽祖父の弟の新事実を発見した後のことであり、蜜三郎のヒロイズムに対する拒絶反応がいかに強いものであったかがわかります。

躰の各部分の鈍い痛み/熱い「期待」の感覚

友人と鷹四の死に対する蜜三郎の受け止め方にはヒロイズムへの過剰な抵抗感が表れており、彼が感じている人生への閉塞感とはここに強く由来していると考えられます。

蜜三郎を紐解くキーワードは、躰の各部の痛み熱い「期待」の感覚の2つです。

これらは冒頭の1段落目からラストシーンにいたるまで断続的に描写されており、これらを紐解くことが作品全体の主題を読み解く鍵になるといってもよいでしょう。

それぞれについて、詳しくみていきたいと思います。

自己矛盾から立ち現れた痛み

まずは躰の痛みについて考察していきます。

彼が感じていた鈍い痛みとは心理的なものであり、その原因はヒロイズムへの抵抗が生んだ自己矛盾であったと考えられます。

冒頭の描写から順にみていきたいと思います。

(前略)そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような、躰の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,7

これらの痛みについて、後に蜜三郎自身は「心理的な痛み」であると語っています。

(前略)はじめは分断されて感じられる躰の各部の理由のない痛みとしてあらわれてきたものの意味を、いまは明瞭につきとめた。しかもこの心理的な痛みは意識化されることによって克服されたというのではない。それよりもかえってより頻繁に襲ってくるのである。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,68

息子の精神障害や友人の自死などによる精神的負担が、躰の痛みとして現れていたのです。

それを克服する手段を探るため鷹四とともに大窪村での新生活を試みた蜜三郎でしたが、その痛みは断続的に襲ってきて、癒されることはありませんでした。

ようやく痛みの本質に迫ることができるのは、倉屋敷での告白の後、鷹四に「きみはなぜそのようにもおれを憎んでいるんだ?」と問いかけられた時のことです。

(前略)僕はこんどこそ射殺されるかもしれないと感じたが、なお他者の暴力に由来する恐怖心は現実的なものに感じられず、自分の内部の不愉快な熱と躰の各部の痛みのみが耐えがたく自覚された。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,401

鷹四の「本当の事」を聞いた蜜三郎は、いよいよ痛みを耐えがたく感じています。

彼が鷹四の告白によって突きつけられている精神的負担とは何なのでしょうか。

それは「自分があたかも冒険的な日常をおくる者のごとく」感じられる出来事――つまり、ヒロイズム的なものを封じることで生じてきた自己矛盾だったのではないでしょうか。

蜜三郎は、あらゆる人々のヒロイズムを徹底的に否定しようとします。

  • 看護人を半殺しにした友人は、自身の暴力性を嘆き命を絶った無力な臆病者
  • 谷間の暴動を煽動する鷹四は、ヒロイズムに憧れているだけで本質的には勇敢でない
  • 兄のS次は村の笑いものであり、勇敢さゆえでなく憐れな犠牲者として殺された
  • 一揆の指導者であった曽祖父の弟は、卑劣にも逃げ延びてその後平穏な人生を送った

彼らの底にある「本当の事」――その正義感や覚悟を、蜜三郎はつねに軽薄なものと捉えていました。

鷹四が先祖のヒロイズムに固執していたのと同じように、蜜三郎は人々の弱さ、平凡さを信じ込もうとしていました。

それは、蜜三郎が幼い頃から曽祖父の弟や鷹四などとは逆の「穏やかな生き方に意味をもたせようと努めてきた」からです。

自分の人生に「自分があたかも冒険的な日常をおくる者のごとく」思われる出来事は必要なく、失明や障害児の息子、友人の自死といったなどの出来事は、なるべく自身の外部に追いやろうとしていました。

その歪みが躰の鈍い痛みとして現れ、肉体に「連続性の感じられない」感覚を生んでいたのです。

再構築を目指す「期待」の感覚

では、痛みに耐えながら蜜三郎が探し求めていた熱い「期待」の感覚とは何だったのでしょうか。

それは、自身を再構築したいと望む思いでした。

冒頭の描写から順にみていきます。

 夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。(中略)それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思いだすことを、あきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじまげて僕は眠っていたのである。
眼ざめるたびに、うしなわれた熱い「期待」の感覚をさがしもとめる。欠落感ではなく、それ自体が積極的な実体たる熱い「期待」の感覚。(後略)

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,7-8

「期待」とは「欠落感」ではないと語られていることから、それは蜜三郎がいまだ手にしたことのない、新たに発見すべき類のものであることがわかります。

しかし中盤、谷間で指導力を発揮し始めた鷹四を見るにつれ、蜜三郎の中の「期待」は失われてきます。

「蜜は、いまや他人および自分に何も期待しない!」と鷹四は不愛想な僕を嘲弄した。

 僕は鷹四が僕の内なる「期待」の感覚の欠落を的確にかぎつけているのを感じた。すでに僕から「期待」の感覚が失われていることを語る兆候は、僕の肉体を見る誰の眼にもあきらかであるのかもしれない。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,144

さらに、妻に「私たちが結婚して以来この数箇月ほどにも、蜜三郎が穏やかな人間だったことはないもの」と指摘された時、蜜三郎は「期待」を追い求めることをついに放棄しようとします。

(前略)終始酔っぱらって自分に閉じこもっている妻の眼にすらそれがあきらかであるとすれば、僕が「期待」の感情に再びめぐりあうことはますます困難だ。新生活、草の家? それらはおそらく絶対に訪れてくることがないのだろう。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,184

ここで出てきた「草の家」とは、帰国直後の鷹四の台詞から引いた言葉です。

鷹四は幼い頃、次男のS次が殴り殺された直後に幼い妹と一緒に「草の家」を作り、そこで暮らすことで死の匂いから遠ざかり、新生活をしようとしていたのだと語りました。

このことから「草の家」とは、今までの生活の汚点を払拭し再出発するための拠点のような存在と捉えられます。

「草の家」を見つけることが「期待」につながるということは、蜜三郎の「期待」とは人生の再出発への希望と言い換えることができそうです。

ここで、冒頭の段落で言及されている「姿勢」について考えてみたいと思います。

この「どのようなときの姿勢であるか思いだすこと」を望まないという姿勢については、中盤、妻と離れて眠った最初の朝の場面で言及されています。

(前略)現に僕は自分がひとりきりで眠る時つねにそうであるように、いかなる他者の眼も気にかけない、ありとある脆弱さをまるだしにした恰好で眠っていたのだ。かつて僕は、それがどのような記憶にもとづいて造りあげられた姿勢であるかを確かめることを回避していた。しかし今では僕も、それが養護施設にあずけた赤んぼうをとりかえしに行った僕と妻とが茫然と見おろす、木枠のベッドの中に存在していた、徹底的に打ちのめされた奇怪なるものの恰好にほかならないことを認めている。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,202

冒頭で蜜三郎が熱い「期待」をもとめていた時の姿勢とは、瘤を摘出された赤んぼうの姿だったのです。

この体勢について、冒頭では「胎児のように」とも表されていました。

蜜三郎は、生まれたての赤んぼうのような姿勢をとり、人生を再構築したいという熱い「期待」を探っていたのでした。

そして、その「期待」を果たすために必要だったのは、躰の痛みを治すこと――つまり、これまでに排除してきたヒロイズム、言い換えれば「鷹的なもの」を受け入れ、自己矛盾を解消していくことでした。

曽祖父の弟が、実は逃げ延びたのではなく後の一揆の指導者をもつとめたという新事実を知った蜜三郎は、ようやく彼らが「自分の内部の地獄に耐えている人間」であったこと、そして自分がこれまで彼らに対する想像力を保とうともしなかったことに気づき、自己反省を経て、ヒロイズムへの嫌悪感を克服しようと決意します。

養護施設から取り戻した息子と、妻がみごもった鷹四の子どもを養う決意を固め、動物収集隊の通訳責任者としてアフリカ生活をスタートさせた蜜三郎は、かすかに新生活の気配を感じていました。

(前略)草原で待ち伏せする動物収集隊の通訳責任者たる僕の眼の前に、巨大な鼠色の腹へ「期待」とペンキで書いた象がのしのし歩み出て来ると思っているわけではないが、いったんこの仕事を引きうけてみると、ともかくそれは僕にとってひとつの新生活のはじまりだと思える瞬間がある。すくなくともそこで草の家をたてることは容易だ。

大江健三郎『万延元年のフットボール』,講談社文芸文庫,448

『「期待」とペンキで書いた象がのしのし歩み出て来ると思っているわけではない』が、「すくなくともそこで草の家をたてることは容易」――つまり、再構築を確実に成し遂げられる自信はないけれども、再出発の覚悟はできたのだということが示されています。

自身の殻に閉じこもり一人で苦しみを抱え込んできた蜜三郎が、ようやく掴んだ希望の垣間見えるラストシーンといえるでしょう。

感想

人間の根底にある普遍的なものを描いた小説

『万永元年のフットボール』は、とてもグロテスクな小説だと感じます。

赤んぼうの瘤や、蜜三郎の友人、村の娘、鷹四の死にざまなど肉体的なグロテスクさはもちろんのこと、精神的にも重苦しく心に食い込んでくるグロテスクさがあります。

主人公・蜜三郎は幼くして兄2人を戦争と暴力のために喪くしたうえ、妹と唯一の友人(最終的には弟の鷹四も)を自死によって喪くし、さらに夫婦に授かった赤んぼうは精神障害をかかえているというあまりにも劇的な生い立ちを背負っていますが、それでいて感情の浮き沈みを過度に抑制された不自然な心理状態にあります。

これだけを見れば、多くの人々がその苦しみに共感できるとは言いがたいでしょう。

しかし、本作を読み進めていくにつれ、私はいつの間にか蜜三郎の苦しみを自分のもののように受け止め、妻と鷹四の姦淫から鷹四の自死にいたるまでの展開には吐き気すらもよおすほどでした。

なぜこれほどまでに蜜三郎へ思い入れてしまったのかを考えてみると、それは、彼の「穏やかな生き方に意味をもたせよう」とする姿勢に親しみをいだいてしまったからだと思われます。

自分に苛烈な現実が押し寄せたとき、蜜三郎ほどの頑なさでなくとも、それをなるべく避けたい、忘れたいとする心理は、おそらく多くの人が共感できるものではないでしょうか。

こうした抑圧を秘めた自己矛盾の苦しみは、蜜三郎以外の人物にも丁寧に描写されています。

「なんでもいいから、陽気にしていようじゃないか!」という言葉を胸にいだきながら、苦しみに耐えかねて自死にいたった蜜の友人。

過去のあやまちを正当化したい欲求と自己処罰したい欲求とに引き裂かれ、自死を遂げた鷹四。

自らが死に向かっていること、家族や谷間の人々に負担をかけていることを理解しつつも、ものを食べ続けずにはいられないジン。

朝鮮人の経済的支配に屈服する「恥」の感情を見ぬふりして、その恩恵にあやかり続けようとする谷間の人々。

すべて劇的ではあるものの、実は誰しもが抱いたことのある自己矛盾の究極を描いているように思われます。

本作の登場人物のうち、蜜の友人や鷹四は自己統一の方法として自死を選びました。

大食病を患うジンもまた、もうまもなく死ぬことを覚悟したうえで食べ続けることを選択しています。

その中で、もっとも私の心に切実に食い込んできた蜜三郎が、生まれ変わりによる再出発を選択したことは、この小説のただひとつの救いであるように感じます。

時代の大きな転換点となった1860年と1960年という2つの年号のうちに連続性を見出したこの小説は、その発表から半世紀以上たった現代にもなお通じる、普遍的な人間の苦難と希望が描かれているのだと思います。

以上、『万延元年のフットボール』のあらすじ、考察と感想でした。

【参考】

※1 日本の神さまと神社「サルタヒコはどんな神様?描かれる姿とご利益・神社紹介

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
アバター画像

キノウコヨミ

早稲田大学 文化構想学部 文芸・ジャーナリズム専攻 卒業。 主に近現代の純文学・現代詩が好きです。好きな作家は、太宰治・岡本かの子・中原中也・吉本ばなな・山田詠美・伊藤比呂美・川上未映子・金原ひとみ・宇佐美りんなど。 読者の方に、何か1つでも驚きや発見を与えられるような記事を提供していきたいと思います。