『西方の人』の紹介
『西方の人』は芥川龍之介の作品です。
この作品はキリストと芥川の姿が重ねられて描かれているといわれています。
また、芥川が『西方の人』を描いたのは自殺を前にした時期であることから、作者自身の「死」とも深く関係しています。
ここでは、『西方の人』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『西方の人』-あらすじ
わたしは彼是10年ばかり前に芸術的にカトリック教を愛していました。
それからクリスト教のために殉じたクリスト教徒たちにある興味を感じていました。
わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのです。
マリアは唯の女人でした。しかし、ある夜聖霊に感じて忽ちクリストを生み落としました。
マリアは唯「永遠に守らんとするもの」です。
聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではありません。唯「永遠に超えんとするもの」です。
クリストの父、大工のヨセフは実はマリア自身でした。
マリアはエリザベツの友人でした。ヨハネを生んだものはこのエリザベツです。
マリアが孕んだことは、羊飼いたちを騒がせるほど醜聞でした。
クリストの星に気付いた博士の中のひとりは、はるかにクリストを憐れんでいました。
ヘデロはある大きい機械でした。ヘロデの兩手はベツレヘムの幼児の血で赤く染まっていました。
この兩手に感じる不快は、ギロテインに対する不快です。
クリストのボヘミア的精神は彼自身の性格の前に、境遇にも潜んでいたかもしれません。
クリストはナザレに住んだ後、ヨセフの子供でないことを知ったのでしょう。
「人の子」クリストはこの時からまさに二度目の誕生をしました。
ヨハネはロマン主義を理解できないクリストでした。
彼の最後の慟哭は、クリストのようにいつも我々を動かします。「クリストはお前だったか、わたしだったか?」
クリストは40日間の断食のうち悪魔と問答しました。
彼は、彼の一生のうちに何度も「サタンよ、退け」といいました。
クリストは12歳で天才を示しましたが、洗礼をうけたのちも弟子をもちませんでした。
ついに弟子になった4人の漁師を、クリストは一生愛しました。
クリストは古代のジャアナリストになりました。同時に又古代のボヘミアンになりました。
大勢の女人たち、特にマリアはクリストを愛しました。クリストもまた、大勢の女人たちを、特にマリアを愛しました。
クリストが奇蹟を行うのは、ひとつの比喩をつくるのよりも簡単でした。彼の「子羊たち」はいつも奇蹟を望んでいました。
クリストの母、美しいマリアは、必ずしもクリストの母ではありませんでした。
クリスト教はクリスト自身も実行できなかった逆説の多い詩的宗教です。
我々は我々自身に近いものの外は見ることが出来ません。
少なくとも我々に迫ってくるのは我々自身に近いものだけなのです。
クリストがたびたび説いたのは天上の神です。「我々を造ったものは神ではない、神こそ我々の造ったものである。」
「預言者は故郷に入れられず。」勿論又あらゆるクリストは故郷に入れられなかったに違いありません。
「凡そ外より人に入るものの人を汚し能はざる事を知らざる乎。そは心に入らず、腹に入りて厠に遺す。すなはち食ふ所のもの潔れり。」
クリストはラザロの死を聞いたとき、今までにない涙を流しました。
クリストは女人を愛したものの、女人と交わることを顧みませんでした。
クリストは高い山の上でモオゼやエリヤと話しました。それは悪魔と闘ったことよりもさらに意味のあることでしょう。
「幼児の如くあること」は幼稚園時代にかえることです。
クリストは預言者になりましたが、彼を生んだ聖霊はおのずからかれを翻弄し始めました。
クリストはイエルサレムへはいったのちに、最後の闘いをしました。
後代はいつかユダの上にも悪の円光を輝かせています。
ピラトはクリストの一生には唯偶然に現れたものです。
クリストよりもバラバを―それは今日も同じ事です。バラバは反逆を企てたでしょう。
十字架の上のクリストは「人の子」に外ならなかったのです。
年を取ったマリアはクリストの死体の前で歎いています。
クリストには12人の弟子がいましたが、友達はいませんでした。もしいたとするならば、それはヨセフです。
クリストがルナンに想像の飛躍を与えたことで、彼女はクリストの復活をみました。
勿論クリストの一生は、あらゆる天才の一生のように情熱に燃えた一生です。
クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れど人の子は枕するところなし」といいました。「東方の人」たちもこの例にあてはまります。
『西方の人』概要
主人公 | クリスト |
重要人物 | マリア、ヨセフ、ヨハネ、ニイチエ |
主な舞台 | 福音書 |
時代背景 | 近代 |
作者 | 芥川龍之介 |
『西方の人』―解説(考察)
・『西方の人』前提
キリスト教になじみがない人にとって『西方の人』の読解は、難しいことかもしれません。
作中に登場する人物名を追うのに必死になってしまって作品に入り込めなかった方のために、まず『西方の人』を整理していきたいと思います。
『西方の人』の全体像を掴むために、この章では「1 この人を見よ」について解説したいと思います。
「1 この人を見よ」には、芥川自身がキリストやキリスト教に対して抱いている感情が描かれています。
「わたし」つまり芥川龍之介は、10年ほど前にキリスト教やキリスト教徒に興味を持っていました。
そして、4人の伝記作者によって伝えられたキリストという人を愛しだしたとも書かれています。
ここでいう4人の伝記とは、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネによって書かれた福音書のことで、キリストのことばや行いを記録したものです。
「クリストは今日のわたしには行路の人のように見ることは出来ない。」といっていることから、芥川はキリストに親近感を持っていたようです。
キリストがガリラヤの湖を眺めたように、長崎の入り江も見ているのだと書かれています。
この時点で「西方」=ヨーロッパを、「東方」=アジア(日本)と対照的に描いてることがわかります。
芥川は歴史的事実や地理的事実と関係なく、「わたしの感じた通りに『わたしのクリスト』を記すのである。」としています。
芥川が記した「わたしのクリスト」とは、いったいどのような意味を持つのでしょうか。
先述した通り、芥川龍之介は西方と東方の対照を描き出そうとしています。
ヨーロッパとアジア(日本)の対照は、キリストと芥川龍之介自身にまで飛躍していると考えられるのです。
両者の対照関係について、次の章で詳しく述べていきたいと思います。
・芥川龍之介とキリストを重ねて
『西方の人』を読み解くにあたって特に議論が活発になっているのは、作中でのキリストと芥川龍之介の関係性です。
考察のポイントとなるのは、芥川が自身をキリストと近い存在として描き出したのか、遠い存在として描き出したのかという点です。
芥川がキリストをどのように捉えていたのかについて読み解くために、作中の「2 マリア」と「3 聖霊」を見てみましょう。
「2 マリア」
マリアは唯の女人だつた。が、或夜聖霊に感じて忽クリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。
「3 聖霊」
我々は風や旗の中にも多少の聖霊を感じるであらう。聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。唯「永遠に超こえんとするもの」である。ゲエテはいつも聖霊に Daemon の名を与へてゐた。のみならずいつもこの聖霊に捉はれないやうに警戒してゐた。が、聖霊の子供たちは――あらゆるクリストたちは聖霊の為にいつか捉はれる危険を持つてゐる。聖霊は悪魔や天使ではない。勿論、神とも異るものである。我我は時々善悪の彼岸に聖霊の歩いてゐるのを見るであらう。善悪の彼岸に、――しかしロムブロゾオは幸か不幸か精神病者の脳髄の上に聖霊の歩いてゐるのを発見してゐた。
芥川はマリアを「永遠に守らんとするもの」と定義し、同時に聖霊を「永遠に超えんとするもの」と定義づけました。
作中では、マリアが聖霊によって孕んだことでキリストの誕生が実現したわけですが、この「永遠に守らんとするもの」と「永遠に超えんとするもの」という相反する存在によって誕生したキリストやキリスト教を、芥川はどう捉えたのでしょう。
「2 マリア」においてマリアは、芥川から見れば「唯の女人」でした。
そしてマリアは、身の回りのものにも多少感じることが出来ると書かれています。
キリスト教において特別な存在として扱われているマリアも、芥川にとってはなんら特別ではない「永遠に守らんとするもの」なのです。
「3 聖霊」で書かれている「Daemon」の名は、キリスト教において「悪魔」を意味します。しかし、芥川は聖霊は悪魔や天使ではないと断言しています。
また、イタリアの精神科医であるローンブロゾーが、善悪の彼岸に聖霊が歩いているのを発見したと書かれています。
あらゆるクリストたちが聖霊にとらわれる危険を孕んでいるという考えと、精神病者の脳に聖霊が存在するという発見を並べる芥川龍之介。
「1 この人を見よ」で、芥川は殉教者の心理に、狂信者の心理のような興味を持っています。
彼にとってキリスト教徒たちは、一種の精神病者にみえたのかもしれません。
「2 マリア」と「3 聖霊」を読むと、芥川龍之介からみたキリストやキリスト教は、理解しがたい遠い存在でありながら強く惹かれるものとして描かれていることがわかりますね。
・最終章「37 東方の人」
『西方の人』は短い37つの章で構成されています。
福音書を基礎として、37の項目について芥川龍之介の解釈が書かれていますが、最終章である「37 東方の人」には何が描かれているのでしょうか。
「37 東方の人」の全文は以下の通りです。
ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。「東方の人」はこの「衛生学」を大抵涅槃の上に立てようとした。老子は時々無何有の郷に仏陀と挨拶をかはせてゐる。しかし我々は皮膚の色のやうにはつきりと東西を分わかつてゐない。クリストの、――或はクリストたちの一生の我々を動かすのはこの為である。「古来英雄の士、悉山阿に帰す」の歌はいつも我々に伝はりつづけた。が、「天国は近づけり」の声もやはり我々を立たせずにはゐない。老子はそこに年少の孔子と、――或は支那のクリストと問答してゐる。野蛮な人生はクリストたちをいつも多少は苦しませるであらう。太平の艸木となることを願つた「東方の人」たちもこの例に洩れない。クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言つた。彼の言葉は恐らくは彼自身も意識しなかつた、恐しい事実を孕はらんでゐる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではない。
「我々は皮膚の色のやうにはつきりと東西を分わかつてゐない。」とあることから、「西方の人」も「東方の人」も、キリスト教や仏教などの独自の宗教をもちながら、その根本は全く違っているわけではない、と芥川は感じていることがわかります。
キリストが発した「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」という言葉には、人間の精神の姿が現れています。
狐であることや鳥であること自体が安眠の保証となることとは逆に、人間であるだけで安眠の保証はなくなってしまうのです。
安眠の地を求めて生み出された宗教というものは、西や東など場所は違えど、人間の苦しみを乗り越える手段として共通の思想である、と芥川は感じていたのでしょう。
芥川は『西方の人』の最終章「37 東方の人」で、宗教というものの普遍性を描きだしました。
東方の人にとって理解しがたいキリスト教も、西方の人になじみがない仏教も、人間の精神を救おうとしてうまれたものであるということに変わりはないのです。
『西方の人』の感想
・”断食”が示す意味
「12 悪魔」の章で記されている”断食”ということばには、辞書通りの意味のほかに「なんらかのものを断つ」という意味が込められています。
悪魔と問答するために、わたしたちはなんらかの”断食”をしなければいけないという部分には、妙に納得してしまいました。
たしかに、自らの中に生まれる悪魔とは欲望に打ち勝とうとする際に闘うべきものであり、その欲望を手っ取り早く生じさせるには”断食”がいちばんでしょう。
普段は嫌だと思っていたことでも、いざ遠ざけられると恋しくなったりするものです。
逆に言えば、”断食”をやってみてその存在を完全に忘れてしまうようなものは、自分には不要なものだったという判断基準にもなるかもしれませんね。
・クリストの天才的利己主義
「23 ラザロ」で言及されている芥川の発見を、みなさんは理解できたでしょうか?
わたし自身、芥川の厳しい指摘に驚かされました。
ここでは「23 ラザロ」で明かされているクリスト教の矛盾について説明したいと思います。
まずは「23 ラザロ」の内容を確認しましょう。
クリストはラザロの死を聞いた時、今までにない涙を流した。今までにない――或は今まで見せずにゐた涙を。ラザロの死から生き返つたのはかう云ふ彼の感傷主義の為である。母のマリアを顧なかつた彼はなぜラザロの姉妹たち、――マルタやマリアの前に涙を流したのであらう? この矛盾を理解するものはクリストの、――或はあらゆるクリストの天才的利已主義を理解するものである。
ラザロという人物はイエス・キリストの友人で、キリストによって死から蘇らされたといわれています。
そんなラザロの死について書かれた23章で、芥川はキリスト教と結びつかないことばを登場させます。
キリスト教徒といえば、他の利益のためなら自己の犠牲を厭わない「利他主義」ということばがあてはまりますが、23章には「天才的利己主義」ということばが登場しています。
これはいったいどのような意味を持つのでしょうか。
「天才的利己主義」の解釈のためには、キリストの流した涙に注目する必要があります。
福音書によると、キリストがラザロを生き返らせることができたのは、キリストの愛の力であるとされています。
ラザロは己に正直な人物で、キリストはそんな彼の人間性に強く惹かれていたそうです。
聖母マリアには冷たく接していたキリストが友人の死で涙を流す姿は、よくある人間の振るまいにほかなりません。
自分が肯定する人物には深い愛を与え、そうでないものには冷徹な態度を取る。
キリストは他に「利他主義」を説きながらも、自らの行いは完全なる「利己主義」になってしまっています。
芥川はこの矛盾に気付き、キリストの行いを「天才的利己主義」と表現したのです。芥川の鋭い感性にはいつも驚かされますね。
以上、『西方の人』のあらすじと考察と感想でした。