『葉桜と魔笛』老夫人が語る「あの日」とはいつか?

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『葉桜と魔笛』老夫人が語る「あの日」とはいつか?

『葉桜と魔笛』の紹介

『葉桜と魔笛』は太宰治(1909⁻1948)の短編小説です。

雑誌『若草』(1939年6月号)で掲載され、単行本『女性』(博文館、1942年6月30日)に収録されました。

太宰治の妻、美知子はこの作品について「私の母が松江で日本海海戦の大砲の轟きを聞いたのがヒントになっている」(津島美知子、『回想の太宰治』、講談社、 2008年)と述べています。

『葉桜と魔笛』のあらすじ・解説・感想をまとめました。

『葉桜と魔笛』ーあらすじ

葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。―――と、その老夫人は物語る。

今から35年前、当時20歳だった「私」は、島根県で中学校の校長を勤めていた父と、妹と3人で暮らしていました。

「私」には結婚の話もいくつかありましたが、学者堅気で世間に疎い父と、病気の妹が心配で家を離れられず、当時としては遅い24歳で結婚しました。

母は「私」が13歳の頃に病死し、妹もまた腎臓結核を患い、医者から後100日の命だと告げられています。

5月の半ば頃、「私」は、突然「どおん、どおん」というまるで地獄の底から大きな太鼓を打ち鳴らしているような恐ろしい物音を聞きます。

その場に立ち尽くした「私」は本当に自分が気が狂ってしまったのではないかと思い、わあっ!と草原に座って泣き崩れてしまいました。

それは日本海海戦の軍艦の砲声でしたが、当時の「私」は知る由もありません。

「私」は妹のことで頭がいっぱいで、その大砲の音が不吉な地獄の太鼓のような気がしたのです。

日が暮れてきた頃、やっと立ちあがった「私」が帰宅すると妹が「姉さん。」と呼びかけます。

「この手紙、いつ来たの?おかしいわ。あたしの知らない人なのよ」という妹でしたが、「私」は「知らないことがあるものか」と心の中で呟きます。

それはM・Tという男性からの手紙でした。

5、6日前に妹の箪笥を整理していた「私」は、引き出しの奥底に緑のリボンで結ばれて隠されている手紙の束を発見します。

およそ30通ほどの手紙すべてがそのM・Tからの手紙でした。

妹の友人の名を借りて、二人は厳格な父の目を盗んで文通していたのです。

父に知られたらどんなことになるだろうと身震いしながらも、まだ20歳になったばかりの若い女だった「私」は読んでいく内になんだか楽しくなってしまって、手紙を読み進めていきました。

しかし、最後の一通を読みかけて「私」は雷に打たれたようにぎょっとして、手紙を一通残らず焼いてしまいます。

二人には身体の関係があり、更に妹の病気を知った「私」はもうお互い忘れてしまいましょう、などと言って妹を捨てていたのです。

自分さえ黙っていれば、妹は綺麗な少女のままで死んでいける。そう考えていた「私」は、自分が辛い目にあったかのようにひとりで苦しんでいました。

そんな姉の胸中を知らずに「姉さん、読んでごらんなさい。なんのことやら、あたしにはちっともわからない」という妹を「私」は心から憎く思います。

「読んでいいの?」と小声で尋ねた「私」は、手紙をろくに見ずに音読しはじめました。

きょうは、あなたにおわびを申し上げます。僕がきょうまで、がまんしてあなたにお手紙差し上げなかったわけは、すべて僕の自信の無さからであります。
けれども、それは、僕のまちがい。僕は、はっきり間違って居りました。
僕は、もう逃げません。僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、口笛吹いて、お聞かせしましょう。あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。
元気でいて下さい。神さまは、きっとどこかで見ています。
(「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房)

「私」が読み終えると、妹は「ありがとう、これ、姉さんが書いたのね」と澄んだ声で呟きました。

実は妹の苦しみを見かねた「私」が、M・Tの筆跡を真似て書いた手紙だったのです。

「私」は、妹が死ぬ日まで毎日手紙を書き、短歌を作り、毎晩6時にはこっそり塀の外に出て口笛を吹こうと決心していました。

恥ずかしさから返事ができない「私」に妹は「心配しなくてもいいのよ」と崇高なくらい美しく微笑みます。

あの手紙は、あまりの寂しさに耐えかねた妹が、自分で書いて投函したのだというのです。

「姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。
ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧りこうすぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」
(「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房)

「私」は胸がいっぱいになり、妹を抱き寄せました。

すると、庭の葉桜の奥から軍艦マーチの口笛が聞こえてきたのです。

時計を見ると、時刻はぴったり6時でした。

妹はその3日後に亡くなります。

妹が余りに早く静かに息を引き取ったことに医者は驚いていましたが「私」は何もかもが神様のおぼしめしだと信じていました。

しかしあれから35年が経ち、信仰心が薄らいできた今、あの口笛は父の仕業ではなかっただろうかと老夫人は語ります。

隣の部屋で姉妹の話を立ち聞きしていた厳格な父が、我が子のために一世一代の狂言をしたのではなかろうか、いややっぱり神様のお恵みでございましょう。

年をとってくると、信仰心も薄らいでしまっていけない。と老夫人は呟き、物語は幕を閉じるのです。

『葉桜と魔笛』ー概要

主人公 老婦人(私)
重要人物 妹、父
主な舞台 島根県の人口2万余りの城下町
時代背景 1905年の日本海海戦中(過去)、1940年(現在)
作者 太宰治

『葉桜と魔笛』―解説(考察)

『葉桜と魔笛』が発表された雑誌『若草』は、文学好きの若者向けの文芸誌でした。

それまで賛否両論が別れていた太宰治の作風とは一変して、概ね高評価を得た作品だったそうです。

考察にあたり『葉桜と魔笛』で語られている時代背景を確認します。

『葉桜と魔笛』の時代背景

老夫人が語る「あの日」とは

桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。――と、その老夫人は物語る。

(「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房)

老夫人が語る「あの日」とは、「5月のなかば」の「日本海隊海戦の最中」のことですから、日本海海戦のあった1905年5月頃の話だといえます。

「あの日」が「いまから35年前」なので、老夫人は1940年5月の視点から1905年5月のことを振り返り、語っています。

「私」と妹の生きた1905年とはどんな時代だったのでしょうか。

それは「私」がM・Tからの手紙を「一通のこらず」焼いてしまったことから推察できます。

「私」が手紙を焼いた理由

「私」にとって妹は「私に似ないで、たいへん美しく、髪も長く、とてもよくできる、可愛い子」でした。

その妹がM・Tという男性と、心だけでなく「もっと醜くすすんだ恋愛」をしていたことに「のけぞるほどに、ぎょっと」した「私」は、手紙を一通残らず焼いてしまいます。

それは「私さえ黙って一生ひとに語らなければ、妹は、きれいな少女のままで死んでゆける。」と考えたからでした。

このように「私」と妹は、未婚の女性が男性と自由に関係を持つことが「醜い」とされる時代に生きていました。

「私」の父は厳格な性格の中学校の校長ですから、男女関係においては特に抑圧された環境下だったと思われます。

『葉桜と魔笛』は、恋愛が厳しく制限された環境において、死を目前にして爆発する女性の欲望を描いています。

抑圧された女性の欲望

「美しい結婚」と「醜くすすんだ」恋愛

「私」はM・Tに捨てられた妹のために、M・Tになりすまし手紙を書きます。

「私」が書いた手紙の内容から、「私」の理想の恋愛を垣間見ることができます。

僕たち、さびしく無力なのだから、他になんにもできないのだから、せめて言葉だけでも、誠実こめてお贈りするのが、まことの、謙譲の美しい生きかたである、と僕はいまでは信じています。つねに、自身にできる限りの範囲で、それを為し遂げるように努力すべきだと思います。どんなに小さいことでもよい。タンポポの花一輪の贈りものでも、決して恥じずに差し出すのが、最も勇気ある、男らしい態度であると信じます。僕は、もう逃げません。僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、口笛吹いて、お聞かせしましょう。あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。僕の口笛は、うまいですよ。いまのところ、それだけが、僕の力で、わけなくできる奉仕です。お笑いになっては、いけません。いや、お笑いになって下さい。元気でいて下さい。神さまは、きっとどこかで見ています。僕は、それを信じています。あなたも、僕も、ともに神の寵児ちょうじです。きっと、美しい結婚できます。

(「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房)

「私」は、貧しくても自身にできる範囲で、それを成し遂げるように努力」をし、毎日妹へ短歌を送り、毎晩庭の塀の外で口笛を吹いて聞かせるような誠実な男性を、理想のM・T像として作り上げました。

そして「美しい結婚」を希望しています。

これはまさに当時の女性が世間に求められるような「正しい女性像」そのものです。

対して妹は、未婚のまま身体の関係を持ち、妹が病気だと知ると去ってしまうような男との「きれいな少女では」ない恋を夢想していました。

ここに姉妹間の理想の恋愛の差が垣間見えます。

しかしこの姉妹間の差異は、2人が共通して持つ異性への欲望を確認しあうのに充分なものであり、妹は更に抑圧されていた感情を吐き出すのです。

『葉桜と魔笛』ー感想

・魔笛の正体とは

M・Tとは「私」と妹の抑圧された異性への欲望の象徴です。

存在しないはずのM・Tの軍艦マアチの口笛が聞こえたのは、姉妹の抑圧された異性への欲望が許され、認められたと考えられます。

口笛を吹いたのが父にしろ、「神様のおぼしめし」にしろ、欲望の象徴であるM・Tが実現したことで、妹は自身の内包していた思いが認められたことに安堵し、安らかな死を迎えられたのではないでしょうか。

また、35年が経ち信仰心が揺らいできた老夫人が、「神様のおぼしめし」だと信じてやまなかった魔笛の正体を、実は父の狂言ではないか、と考えるようになったのは、父や世間が定義する常識に囚われ、抑圧された欲望に苦しんできた「私」が、時を経て解放された証ともいえるのでしょう。

以上、『葉桜と魔笛』の考察、感想でした。