魯迅『孔乙己』について|孔乙己の死が意味するものとは?

  1. HOME >
  2. 海外文学 >

魯迅『孔乙己』について|孔乙己の死が意味するものとは?

『孔乙己』の紹介

『孔乙己』は魯迅の短編小説で、雑誌『新青年』第6巻第4号に掲載されました。

執筆は1918年末、刊行は1919年9月1日と推定されています(後述「解説(考察)」)。

かつて魯鎮の居酒屋に客として訪れていた没落読書人・孔乙己の悲しい末路を、当時12歳の燗番小僧だった「わたし」が回想します。

『孔乙己』―あらすじ

20年ほど前(1890年代終わりごろ)、「わたし」は魯鎮の居酒屋で小僧として働いていました。

仕事は面白くありませんでしたが、孔乙己が来店したときだけは愉快になることができました。

孔乙己は長衣(長衫)の客です。

長衣といえば普通、官僚や知識人など比較的裕福な人たちの着るもので、彼らは立ち飲みをしている労働者たちを素通りし、奥でゆっくり腰を据えて、酒の料理のと注文するのが通例でした。

けれども孔乙己は、長衣とはいっても、試験に落ち続け、乞食寸前にまで落ちぶれて、筆写請負業でやっと一杯の椀にありついている没落読書人だったので、労働者に交じって唯一人、みすぼらしい長衣姿で立ち飲みしていたのでした。

その顔は青白く、顎にはばさばさの胡麻塩髭が生やしてありました。

彼は仕事中によく失踪し、しかも盗み癖まであったので、雇い主からよく殴られ、店に来るたびに顔に新しい傷をつくっていました。

その傷痕をみて労働者たちがからかうと、孔乙己はもともと学問をしていた者としての矜持からか、顔を真っ赤にし、額に青筋を立て、わけのわからない文語をひねりまわして弁解を始めるので、普段はこわい顔をしている店の主人も、ケチな労働者連中も面白がって大笑いし、そんなときは「わたし」が一緒になって笑っても誰も咎めませんでした。

孔乙己は子供と関わろうとし、「わたし」に字を教えようとしてきたり、集まってきた子供たちに茴香豆を「一人に一粒ずつ」与えたりしましたが、「わたし」は乞食同然の彼から字など教えてもらいたくなかったし、子供たちも豆をそれ以上もらえないとわかると、笑いながらどこかへ走って行ってしまうのでした。

中秋の2、3日前(中秋節は旧暦8月15日。1890年の中秋節は、今の暦に変換すると9月28日)、帳尻合わせをやっていた主人が、ふとぼやきました。

「孔乙己が長いこと来ないな。まだ十九文貸しがある」

孔乙己は、ほかの客とは違って支払いを滞らせることが少なかったので、ツケが長くたまった状態は珍しかったのです。

すると、それを聞いていた客の一人が言いました。

「あいつが来られるわけはない。あいつは丁挙人のところで盗みをして脚を折られたんだ」

中秋がすぎて、秋風は日一日と冷たくなり、一日中火のそばにいる「わたし」でさえ綿入れの上着を着ずにはいられなくなりました。

ある日の午後、客が一人もいなかったので、目をつぶってカウンターの後ろに坐っていると、

「燗酒を一杯」

ごく低いけれども、聞き馴染みのある声がしました。

目をあけても誰もいなかったので、立ち上がって身を乗り出してみてみると、すぐ下、まさに今「わたし」が立っているカウンターを背にして入り口の敷居に向かって、孔乙己が坐っていました。

顔は黒く、痩せて、すでに見る影もなく、ぼろぼろの袷を着て、両脚を組みあわせ、下に蒲のかますを敷き、縄で肩から吊していたが、

彼は「わたし」を見るとまた「燗酒を一杯」と言いました。

主人が出てきて十九文の貸しのことを言うと、孔乙己はひどくしょんぼりして、「この次に返すよ。今日は現金だから、いい酒をくれ」と答えました。

主人がいつものように、「孔乙己、おまえまた盗みをしたな?」とからかっても、彼はもうあれこれ弁解せず「冗談いうな」と言っただけでした。

「冗談だと?盗まないんなら、どうして脚を折られたりする?」

「つまずいて折ったんだ、つまずいて、つまずいて……」

彼の眼は、もういわないでくれと、主人に懇願しているようでした。

そのときには既に何人かの者が集まっていて、主人といっしょになって笑っていましたが、「わたし」は酒の燗をして、持っていき、入り口の敷居の上に置いてあげました。

彼は破れたかくし(ポケット)の中から四文の銅貨をさぐり出し、私の手の上にのせたのですが、その手は泥だらけで、店まで手で這ってきたことが察せられました。

酒を飲み終わると、彼は傍の人たちの笑い声のなかを、のろのろと這って行ってしまいました。

それから、主人は数か月ごとの帳尻合わせのたびに「孔乙己にはまだ十九文の貸しがあるわい」とぼやきましたが、翌年の中秋にはもう言いませんでした。

『わたし』は20年経った今に至るまで、彼の姿をついぞ見かけません。

――たぶん孔乙己は死んでしまったのでしょう

『孔乙己』―概要

主人公 孔乙己
主要な登場人物 主人、客(労働者)、子供たち
語り手 わたし(小僧)
舞台 魯鎮の居酒屋(咸亨酒店)
時代背景 1890年代の終わりごろ(執筆年から20年あまり昔)
作者 魯迅

『孔乙己』―解説(考察)

・孔乙己の長衣はどこへいったのか

物語は、あと10年もしないうちに科挙制度が廃され、儒学が過去の学問になってしまう、という時代に設定されています。

髭に白髪が混じり、食うに困って盗みを余儀なくされても、決して手放すことのなかった読書人としての最後の矜持――あのボロボロの長衣も、最後に『わたし』がみた孔乙己の姿からは失われていました。

あの長衣はどうなってしまったのでしょう。

同作者の他作品『阿Q正伝』では、阿Qが趙家の女中にちょっかいを出した罰として、ぼろの上着を没収されるのですが、その上着は後ほど、趙家の赤ん坊のおむつや女中の靴底に作り変えられてしまっています。

これを参考にすると、もしかすると、孔乙己の長衣も丁挙人(挙人は地方試験合格者)によって取り上げられ、ハサミを入られ、粗略に扱われた可能性が、無きにしも非ずです。

・そもそも長衣(中国語で長衫)とは何か?

清朝は、漢民族の王朝ではなく満州族の王朝でした。

長衫は、満州族の「剃髪易服」という政策によって、辮髪とともに、漢民族の男性が着用を強いられていた長袍(満州族の民族衣装)を起源としています。

1912年、清朝崩壊に伴い、この政策は廃止されましたが、縫製のしやすさ、着やすさの面から、中華民国政府は引き続きこれを常礼服としました。

長袍を簡略化したものを長衫といい、労働者たちが動きやすい短衣を着ているのに対して、官僚や知識人の男性たちは、気品を感じさせるこの長い丈の長衫を愛用しました。

・孔乙己の死が意味するものとは

魯迅は新文化運動の中心人物として、誰もが容易に理解できる白話(話し言葉)を通して儒教批判を実践しました。

それは、彼の前の世代の啓蒙者たちが、表面的には西洋や日本の新技術を取り入れても、悪弊の根源となっている伝統思想(特に儒学)にメスを入れることを避け続けたことで、中国の主権が喪失し、王朝が崩壊し、辛亥革命を経てもなお、人々の精神が本質的に何も成長しなかったからです。

孔乙己の「ボロボロの長衣」は、形骸化した思想や知識層そのものを象徴しており、ひとたび剥ぎ取ってしまえば、新しい時代では乞食になるよりほかにない人間が入っているだけ。

そして彼の「折られた脚」には、「もう彼らは先へ進めない。そのようにしてしまったのは他でもない、同じ長衣を着ている人間だ」という痛烈すぎるメッセージが込められているのかもしれません。

「たぶん孔乙己は死んでしまったのだろう」という回想の締め括りは、「旧い時代の死」を意味しているのでしょう。

・執筆および発表の時期

『吶喊』(1923年に出版された小説集)収録時の編末には「1919年3月」と記されていますが、『新青年』発表時(1919年)の編末には「この拙い小説は、去年の冬に書き上げたものである」と記されているため、1918年末執筆の可能性が高いとされています(出典2)。

・魯鎮とはどこか?

魯鎮は架空の農村で(出典3)、『孔乙己』のほか、『祝福』など魯迅作品数篇の舞台になっています。

・科挙について

科挙の歴史は隋代にまで遡ります。

それまでの中国では郷挙里選、九品中正などの官吏任用制度が採られていましたが、いずれも地方豪族による上級官吏独占と世襲化が避けられなかったため、真に優秀な人材を広く登用し、中央集権化をはかるために、587年(異説あり)から、科目試験による同制度が開始されました。

宋の時代に科挙の形式はあらかたの完成を見、3年に1回、州試、省試、殿試の三段階制を基本に、その後も若干の変化を伴いながら、1905年に廃止されるまで実施されました。

科挙の難易度と競争率はすさまじいもので、最終合格者の平均年齢は36歳、最も高いときの倍率は3000倍もあったといい、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由により受験を断念する人、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれ、中には失意のあまり自殺する人も少なくなかったといいます。

『孔乙己』―感想

魯迅が治そうとした「病」

魯迅はもともと日本の専門学校で近代医学を学んでいた人物です(在学期間1904.9-1906.1)。

ところがある日の授業中、教師によって視聴させられた日露戦争の幻灯(スライド映像)をきっかけに、彼は医学の道を捨て、代わりにペンを執ることを決意します。

暗い教室に浮かび上がる映像のなかに、ロシアのためにスパイ行為を働き日本軍に銃殺される中国人、それを取り囲んで面白がり野次を飛ばしている中国人、そしてそれを異国の教室から為す術もなく見つめている自分自身という中国人を発見したからです。

あのことがあってから、わたしは、医学というものは決してそれほど大切なものではない、およそ愚弱な国民であるかぎり体格がいくらりっぱでも、いくら頑強でも、せいぜい無意味な見せしめの材料とその見物人になれるだけのことで、病気になろうと死のうと必ずしも不幸だといえない、と考えるようになった。だからわたしたちが先ずやらなければならないことは、彼らの精神を改造することである。そして精神の改造に役立つものとしては、わたしはそのとき当然、文芸をあげるべきだと思った。

魯迅 駒田信二訳『阿Q正伝・藤野先生』

魯迅は、中国人の本当の「病」は精神に巣食っており、その精神を改造するためには、「中体西用」的啓蒙者たちが手を付けることを避けてきた伝統思想に、メスを入れる必要があると考えたのです。

彼の篤い信念に基づく構想は、白話文学(口語、話し言葉による文学)という手段によって実践されました。

いっぽう彼の作品群には、その信念の激しさと同等か、あるいはそれ以上の優しさと悲哀が含まれていることが多く、それが読む人の心を一層とらえるのではないかと私は考えます。

『孔乙己』もそのような作品の一つで、旧制度の「病」の象徴であり、しかも失踪癖や盗み癖などのかばいきれない悪徳まで具わっている孔乙己の破滅は、少なくとも魯迅の立場からすればバッドエンドではないはず。

にも関わらず、この作品に終始漂っているのは、同情を禁じ得ない世知辛さと悲哀です。

〈儒学経験者の病〉

科挙はもともと、真に優秀な人材を家柄や身分に関係なく広い対象から集めるために開始された制度でしたが、注意しなければならないのは、学びの目的が、国からすれば中央集権化(皇帝の権力を強固にすること)のため、学習者からすれば立身出世のための学習でしかなかったという点です。

科挙制度下の儒学は、思想の学問でありながら、学習者独自の発想や精神性は重視されず、学習者もまた、試験合格だけに価値を置くという、本来の学びの姿からかけ離れ、倒錯を孕んだものでした。

長年学問に取り組んできた孔乙己も、労働者たちから盗みのことをからかわれたときに、「本を盗むのは盗みとはいえぬ……本を盗むのはだ……読書人のことだ」と弁解し「君子固より窮す」という論語を、あろうことか盗みを正当化するために持ち出しています。

また彼らの会話の中に名前だけ登場する何家や丁挙人は、儒学経験者でありながら、孔乙己の悪事を責め立てて折檻し、しまいには脚を折ったりなどしていて、とうてい高い徳や知恵を具えた人物とはいえません。

儒学はもはや人の心を育てず、それに伴って価値を失くした科挙という制度を、皇帝、役人、そして受験者たちは自らの利益のためだけに保持してきた。

孔乙己はその制度の支持者でありながら犠牲者であったともいえ、二重の意味で「わずらって」いたといえるでしょう。

〈民衆の病〉

とはいえ孔乙己は、おそらく人生で最後の一杯となった大好きなお酒を、折られた脚の代わりに地を這ってやってきた泥だらけの手で、寒空の下、嘲笑を浴びせられながら啜らねばならないほどの悪人だったでしょうか。

現代社会でさえ、形骸化した制度や価値観に固執し、自らがその犠牲者になるといった事態は往々にして起こり得ます。

私たちが『孔乙己』を読んで感じる世知辛さや悲哀、同情心は、このあたりからおこるものなのかもしれません。

そして、同時に浮き彫りになるのが、彼を笑い続けた酒屋の主人や労働者たちの精神に巣食う病です。

魯迅の小説には、「誰かを笑い者にするために集まってくる民衆」が繰り返し登場します。

『狂人日記』もそうですし、『阿Q正伝』も『祝福』もそうです。

彼が留学時代に日本の専門学校の教室で視聴することになった、幻灯に映っていた中国人――銃殺される同胞を嬉々として見物していた中国人が、作中にたびたび描かれています。

『孔乙己』の物語では、当時12歳の子供が、そのわずらえる大人たちの目撃者、記録者として据えられました。

子供の存在

『狂人日記』『薬』『故郷』『祝福』『酒楼にて』『孤独者』など、魯迅の小説には子供が頻繁に登場します。

『孔乙己』には「わたし」のほかに、彼から茴香豆をもらう子供たちが登場します。

作中の大人たちは、疲れきって不健康な印象を与えることが多いのですが、共通しているのは、(手段を間違えることはあっても)子供を慈しもう、あるいは子供を救おうとする者が多いということです。

大人が子供をかわいがる場面が積極的に描かれています。

清末、価値観の崩壊、主権喪失、革命、国の崩壊などを一挙に経験し、それでも明るい夜明けを見ることのできなかったこの時代の大人たちは、思想の差異から互いを排斥し合うことはあっても、愛すべき子供という共通認識を持っていたのだとしたら、魯迅はここに希望を見出していたのかもしれません。

同作者の他作品『孤独者』のなかで魏連殳は「子供というのはいいものだ。大人の悪癖は子供たちにはない。中国に希望がもてるとすれば、この点だけだろう」

と語っています。

『孔乙己』にも、魯迅がよせた希望の片鱗が見える部分があります。

  • 孔乙己が最後に姿をみせたとき、「わたし」はもう大人たちに交じって彼を笑わなかったこと
  • お金を支払う彼の手についた泥を見落とさなかったこと
  • そしてそれを20年経った今でも覚えていること

 

「わたし」は少なくとも、当時の大人たちが罹患していた病――儒学経験者たちのように形骸化した学問にとらわれて身を滅ぼす病と、主人や労働者たちのように他人を嘲笑う病を、もう引き継がないでしょう。

子供のまなざしは、いま、守られているでしょうか。

もし、今どこかの社会で、子供の眼が早くから先入観や固定観念に曇らされ、独自の発想が挫かれるようなことが起こっているとすれば、それは、科挙制度に眼を曇らされた儒学経験者や、脚を折られた孔乙己が存在していた「わずらえる社会」に、近づきつつある証拠なのかもしれません。

以上、『孔乙己』のあらすじ・考察・感想でした。


出典

  1. 全国歴史教育研究協議会『世界史用語集』山川出版社
  2. 藤井省三『魯迅事典』三省堂
  3. 大野陽介『魯迅の描く大衆像 キャラとしての阿Q : 「風波」「阿Q正伝」を読む』大阪市立大学
  4. 李 郁惠『長衫から旗袍へ : 1940年代の台湾文学におけるチャイナドレスの表象』アジア社会文化研究会
  5. 許 暁萃『中国の「応試教育」についての研究』広島大学
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

sakura

執筆にあたり沢山の書籍などを参考にさせていただいております。お時間がありましたら、ぜひ出典のほうもご確認ください。 【好きな本のジャンル】短編小説、伝記、レシピ本、図鑑など 【趣味】〈音楽鑑賞〉尊敬する歌手は、ちあきなおみさん、宮本浩次さん(エレカシの皆さん)、研ナオコさん、吉田拓郎さん、桑田佳祐さん、多数!〈詩作〉『詩と思想』という雑誌に投稿し、時々掲載して頂いています〈お菓子さがし〉素朴でカラフルなドロップス、お祭り屋台のメロンクレープ、青いソーダを常に探しています。