『戯作三昧』の紹介
この作品の主人公は、誰もが一度は耳にしたことがある読本作者「滝澤馬琴」。
芥川龍之介は、江戸時代を代表する読本作者を描くことで、なにを伝えようとしたのでしょうか?
ここでは、『戯作三昧』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『戯作三昧』のあらすじ
滝澤馬琴は、神田の銭湯で朝風呂に入っていました。
すると、近江屋平吉が声をかけてきて、馬琴が描いた『八犬伝』を褒め称えましたが、馬琴は平吉が詠むような「歌」というものに一種の軽蔑を示していたのでした。
平吉と分かれて湯船に浸かっていると、馬琴の耳に『八犬伝』の批評が入ってきました。
馬琴は、批評によって自分の作風が変わってしまうことを恐れていました。
気分が沈んだまま家に帰ると、和泉屋市兵衛が書斎で馬琴の帰りを待っていました。
市兵衛に無理なお願いをされたことや、ほかの作家と比べられたことで機嫌を悪くした馬琴は、市兵衛を家から追い出してしまいます。
その後、親友の崋山渡辺登が家を訪ねてきました。
崋山と芸術について語り合った後、その興奮のまま『八犬伝』の続きを書いてみましたが、やはり調子が出ません。
すると、留守にしていた家族が帰宅しました。
孫の太郎がいうには、観音様に「御勉強なさい。癇癪を起こしちゃいけません。辛抱おしなさい。」と言われたそうなのです。
馬琴はその夜筆をとり、不思議な悦びのなかで執筆を続けました。
その間茶の間では、嫁と姑があきれたように馬琴の話をしていました。
『戯作三昧』ー概要
物語の主人公 | 滝澤馬琴 |
物語の重要人物 | 近江屋平吉、和泉屋市兵衛、崋山渡辺登 |
主な舞台 | 神田 |
時代背景 | 天保2年(1831年)の9月 |
作者 | 芥川龍之介 |
『戯作三昧』の解説
・読本の価値=自分の価値
馬琴は作中で、「何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れてゐる。」と言っています。
そればかりでなく、彼はその苦しみの先に「死」の影を感じていました。
『戯作三昧』では、馬琴が3人の芸術家との関わりを経ることで、揺れ動いていく内情が描写されています。
ここでは、馬琴が作中で最初に出会う芸術家、近江屋市兵衛について解説していきます。
近江屋市兵衛は、銭湯で馬琴を見かけると声をかけてきました。
そして、馬琴の作品に肯定的な感情を持っており、それを彼に伝えています。
しかし、馬琴がその言葉で素直に喜ぶような描写はありません。
馬琴は、平吉のような『愛読者』に対してある程度の好意を持ってはいますが、それによって「愛読者」に優しく接するなどということはありませんでした。
そして、平吉が創作するような歌や発句というものに対して、一種の軽蔑を持っており、歌や発句を「第二流の芸術」と皮肉ります。
平吉が登場する場面は少ないですが、そのなかでも裏表のない人物像が窺えます。
彼は、馬琴の軽蔑がこもった「(歌や発句は)性に合わない」という発言に対して素直に反応したため、馬琴はますます自分のペースを乱されてしまいます。
そして、平吉に対抗してしまった自分の子供らしさを恥ずかしく思いました。
馬琴は自身の作品を褒められても、その悦びに溺れることのないように自分を制御しています。
歌や発句に軽蔑をもっていることから、自分が創作している読本を特別視していることも窺えます。
ここで馬琴は、読本の価値、つまり自分の価値を守っているのです。
読本が一流の芸術で、その読本に向き合っている今の自分こそが、一流の芸術家であると自負しているのです。
しかし、その自負は焦りの裏返しでもあります。
『戯作三昧』を読み解く上で、馬琴の軽蔑は創作への焦りによって形成された感情であることを忘れてはいけません。
・創作活動の”むなしさ”と”誇り”
第12章では、馬琴が親友である崋山渡辺登と芸術について語る場面が登場します。
その中で「作品と一緒に討死する」という言葉に「寂しさと一種の力強い興奮」を感じたと描写されています。
それでは、この「寂しさと一種の力強い興奮」とは一体何なのでしょうか。
結論から言うと、
- 「寂しさ」=”芸術に振り回される人生を歩んでいるむなしさ”
- 「一種の力強い興奮」=”人生をかけて創作活動に向き合っているという誇り”
だと考えられます。
2人は現在創作に苦しんでいることから、古人の作家や絵師たちに思いを馳せます。
馬琴の「古人は後生恐るべしと云いましたがな。」という発言に対して、登は「それは後生も恐ろしい。」と答えます。
芸術家は、時代の流れに沿って否が応でも前に進まなければいけません。
今自分たちが到底敵わないと思っている古人に、いずれ自分たちもなるときがくる。
2人はそれぞれ読本と絵画という別々の芸術にフォーカスしていますが、焦る気持ちは共通していたのでしょう。
古人の芸術家・自らの創作活動・後生の評価という多方面から、芸術というものに囲まれた人生を歩んでいることに改めて気付かされたのだと思います。
・芥川龍之介の投影
『戯作三昧』を通して芥川龍之介が伝えようとしたのは、「滝澤馬琴」という人物についてではないはずです。
芥川龍之介が「滝澤馬琴」という芸術家を主人公にした理由は、馬琴に芥川龍之介自身の姿を投影したからではないでしょうか。
あらゆる苦しみから抜け出した馬琴が筆を走らせる最終章は、このような文章で締められています。
この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳おごそかな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
芥川龍之介『戯作三昧』
つまり、「今自分の置かれた状況を経験しないことには、いかなる人も自分の書く作品が理解できるはずがない。」という事でしょう。
そして、「あらゆるその残滓(残りかす)」というのは、芥川龍之介の人生に存在する芥川龍之介以外の人間のことを指しているのではないでしょうか。
人に褒められても批判されても、作風を変えまいと努力した馬琴の様子は、自分をいちばん信用しているように見えました。
芥川は最後に、「自分の理解者は自分しかいない」と伝えたかったのだと考えられます。
『戯作三昧』の感想
・創作の孤独
第15章の終わりでは、創作の苦しみに溺れていた馬琴が、孫のことばによって自分の進む道を取り戻し、創作活動に意欲を示す描写で終わっています。
第1章で『死』の影を感じていた彼の心情とは大きな変化が見られ、読者である私たちの心もなんだか晴れやかになったのではないでしょうか。
しかし、作者がここで作品を終わらせることはありませんでした。
第15章のおわり、❇︎のあとには、茶の間で交わされる馬琴の家族の会話が描かれています。
この短い文章の中には、芥川龍之介が創作活動をするうえで感じていたもう一つの苦しみが描かれていると考えられます。
息子の宗伯が「お父様はまだ寝ないかねえ。」と問いかけると、馬琴の妻であるお百は「きっとお書き物で、夢中になっていらっしゃるのでせう。」と不服そうに呟きました。
続いて嫁のお路は、「困り者だよ。碌なお金にもならないのにさ。」と返事をしました。
これらの姑と嫁の冷たい返事に、宗伯は聞こえないふりをしてしまいます。
書斎で一生懸命仕事をする父親に対して、宗伯はある程度の理解を示しています。
同じ男性として、一つの道を究める姿に尊敬の念を抱いていたのでしょう。
しかし、お百とお路は違いました。大してお金にもならない「芸術」に没頭している馬琴のことが、不思議でたまらなかったのだと思います。
わたしは、ここにも芥川龍之介の創作の苦しみが描かれていると考えました。
先述したように、芸術において「自分の理解者は自分しかいない」のです。
たとえ家族であっても、馬琴のことを理解することはできません。
芥川は、馬琴が苦しみから抜けだした後でこの場面を描くことで、わたしたち読者に客観的な視点を提供してくれています。
「自分の理解者は自分しかいない」ということは、つまり「孤独である」ということなのです。
・芸術と遠い存在にある「太郎」
作中で常に創作の苦しみの中にいた馬琴が、孫の登場で突然救われることに疑問を抱いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
一般的にも「孫」という存在は、祖父母にとって生きる活力になり得るような特別な存在です。
しかし、『戯作三昧』での「孫」の存在は、それ以上の意味を持っていると考えられます。
ここでは、作中での「孫」の存在についてより深く見ていきたいと思います。
作中の第14章で、苦しみながらも原稿と向き合っていた馬琴のもとに、外出していた家族が帰ってきました。
そこで馬琴は、孫の太郎から不思議な話を聞きます。
太郎が言うには、浅草の観音様からお告げをもらったというのです。
その内容は、
というものでした。
それを聞くと馬琴の唇には幸福な微笑が浮かび、目は涙で1杯になりました。
ここで馬琴は、創作の苦しみから解放されることになるのです。
重かった馬琴の筆は走り出し、それを戒めなければならないほどの勢いを持ち始めます。
孫の言葉がどのように馬琴に影響を与えたのでしょうか。
作中で馬琴が出会う人々は、芸術に精通している人物たちです。
先述しましたが、馬琴は読本以外の芸術を軽蔑することで、自分の価値を守っています。
つまり、作中で馬琴が出会った人物たちの言葉が、馬琴の心に響くことはありません。
彼の自尊心の強さが、彼を創作の苦しみに誘っていたのです。
芸術の苦しみに浸かってしまった馬琴にとって、芸術とは無関係な「孫」という存在が特別だったのでしょう。
純粋無垢な太郎の口から、自分を救うためとも思われる言葉がでてきたことに、運命的な悦びを感じたのだと思います。
そして、その悦びは創作活動のみならず、人生までも豊かにしました。
太郎は、作中では貴重な「芸術とはほど遠い存在」として、重要な役割を担っているのだと思います。
以上、『戯作三昧』のあらすじと解説と感想でした。