『ダブリン市民』の紹介
『ダブリン市民』は1914年にアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスによって書かれました。
ジェイムズ・ジョイスはマルセル・プルーストやフランツ・カフカと並んで20世紀文学を代表する作家のひとりです。
代表作として、アイルランドの首都ダブリンの一日を書いた長編小説『ユリシーズ』などがあります。
初期短編集である『ダブリン市民』は14編の短編小説と、1編の中編小説から構成されています。
ここでは、『ダブリン市民』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『ダブリン市民』―あらすじ
老司祭が亡くなり、彼と仲の良かった「僕」は叔母とお悔やみに行く。
そこでは皆が司祭の生前について語り合う。(「姉妹」)
父親や仕事から逃れふたりで暮らすべく、エヴリンと恋人は駆け落ちを計画するが、いざ町を出ていく瞬間彼女の心に迷いが生じ、駆け落ちを断念してしまう。(「エヴリン」)
歳を取った姉妹の家でダンスパーティーが催され、招待された人々が集い、踊り、話す。(「死者たち」)
少年期から壮年期へ、人生の順を追いながら、ダブリンの人々が生きていく様子をこまかに描いた15の小説集。
『ダブリン市民』―概要
時代 | 20世紀初頭 |
舞台 | アイルランドのダブリン |
登場人物 | ダブリンで生活する人々 (学校に通う子供、恋人と駆け落ちをしようとする女、下宿屋の女将、既婚者の女性と逢引きする男など) |
著者 | ジェイムズ・ジョイス |
『ダブリン市民』―解説(考察)
何も起きない小説
この『ダブリン市民』では、全編においてなにか特別な出来事が起きるわけではありません。
たとえば最初の短編「姉妹」では、仲の良かった司祭が亡くなったため少年がお悔やみに行くと、親戚の姉妹が司祭の生前の様子について話しだし、少年はそれをただ聞いている、というところで物語が終わってしまいます。
また、「アラビー」では、友達の姉に心惹かれる少年が、彼女のために何かプレゼントをしようと一人バザーへ行きますが、結局何も買えずに引き返してしまうところで終わり、何か大きな事件が起こるわけではありません。
その他もみな起伏のない物語ばかりです。
むしろ何も起きないということがこの短編集の特徴と言っても良いでしょう。
これには、『ダブリン市民』のテーマのひとつ「麻痺」が関わっていると言えます。
ダブリンの「麻痺」
ジョイスは、ダブリンを「麻痺の中心」(the center of paralysis)と呼びました。
20世紀初頭のアイルランドといえば、1845年以降の大飢饉に見舞われた後で、社会は荒れ、教会は腐敗し、人々の生活はまだ立て直されていない状態でした。
そのような中で生まれ育ったジョイスは、ダブリンを宗教や政治、社会などさまざまな面において停滞、腐敗していると考え、この呼び名を使うようになりました。
そして、この「麻痺の中心」では無気力と挫折に溢れ、鬱屈とした魂を抱える人々がさまよっています。
その様子を描いたのが『ダブリン市民』です。
「麻痺の中心」から逃れられない人々
『エヴリン』でダブリンから逃れられない主人公
この短編集では、ダブリンを出て新たな人生をひらこうとする人が多く描かれていますが、結局誰も街から抜け出すことができません。
例えば『エヴリン』の主人公エヴリンは、家族や仕事に縛られた人生から自由になろうと恋人と駆け落ちの計画をしますが、いよいよ出発の時になって、彼女の心に急に迷いが生じます。
――行こう!
世界中の海が彼女の心に流れ込んだ。フランクは彼女を海中に引き込もうとしている。溺れさせようとしている。彼女は両手で鉄の手摺をつかんだ。
――来るんだ!
だめ! だめ! だめ! 行けない。彼女は鉄の手摺をつかんでいた。海のただ中で苦痛の叫び声を上げていた。
――エヴリン! エヴィ!
(中略)彼女は、無力な動物のように、感情なく、蒼白な顔を彼に向けた。その目は彼に、愛のしるしも、別れを惜しむしるしも、別れを告げるしるしも送らなかった。(ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳, 新潮社, p64)
エヴリンが恋人を振り払ってダブリンに留まろうとした背景には、家を出る前に彼女が思い出した、亡き母の存在があります。
エヴリンは父に脅され職場でいじめられ、さまざまな圧力に耐えながら過ごしていましたが、駆け落ちの前に家を見回しそれらの日々を思い返していた時、突然ふと亡くなる前の母親の姿を思い出します。
彼女がもの思いに耽っていると、母の一生の哀れな姿が、彼女の心の奥底にとりついた。狂気のうちに終ったありふれた犠牲ずくめの一生の姿が。正気を失い、しつこく繰り返される母の声がまた聞えてきて、ぞっとした。
――デレヴォーン、セローン! デレヴォーン、セローン!
彼女は恐怖に襲われ、思わず立ち上った。逃げよう! 逃げなければ!(ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳, 新潮社, pp62-63)
家庭に縛られ、最後はその家で正気を失った母親の姿を、このままではそうなるかもしれない将来の自分の姿に重ね合わせていると言えるでしょう。
エヴリンはそのような人生に恐怖を覚え、恋人と街を出ていく決心を固くします。
しかし、この時彼女は母との「できるかぎりの間は家の面倒を見る」という約束をも思い出します。
エヴリンは最終的にダブリンを抜け出せませんでした。
無意識に重ね合わせた自分と母の姿、そして二人の約束が、彼女の心を家に、そしてダブリンに繋ぎとめてしまいました。
その後の彼女は、今まで通り家と仕事に縛られ、母のように老いてダブリンの街で死んでいくことが予想できます。
狂気、死、挫折、そして麻痺の中心に取り込まれていく主人公の姿が見て取れる短編になっています。
『小さな雲』でダブリンから逃れられない主人公
『小さな雲』という短編集にも、ダブリンから抜け出せない人物が出てきます。
ダブリンで生まれ育ったリトル・チャンドラーは、同じくダブリンで育ったけれど出世し今はロンドンで暮らす旧友ガラハーと再会するのを、心待ちにしています。
仕事中も、ガラハーの大都会での活躍や豪奢な生活を想像しては「自分も彼のようになれないだろうか」と考えます。
ここで、彼の考えるダブリンとロンドンの差が明確に描き分けられています。
キングズ・インズで机に向いながら、この八年間のもたらした変遷を考えた。みすぼらしい貧民の風采だったあの友が、ロンドンの新聞界の輝かしき人物になったのだ。退屈な書き物から幾度も目を転じては、事務所の窓の外を見やった。晩秋の夕陽の輝きが芝生や歩道にあふれる。それが投げかける情け深い金粉を浴びながら、だらしない身なりの子守女やひからびかけた老人があちこちのベンチで居眠りをしている。(中略)悲しくなった。いささか憂鬱な気分が彼をとらえた。
(ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳, 新潮社, pp113-114)
ダブリンにいては何もできやしない。(中略)もしかするとガラハーがロンドンの新聞に載せてくれるかもしれない。(中略)どんな着想を表現したいかはよく分からなかったが、詩的瞬間が自分に訪れたという思いが彼の内で希望の赤子みたいに命を得た。彼は勇ましく歩を進めた。
一歩ごとにロンドンへ近づき、自身の陶酔無き非芸術の生活から遠ざかる。心の地平線で一条の光がゆらめき始めた。(ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳, 新潮社, p117)
まとめてみるとこのようになります。
ダブリン | ロンドン |
・みすぼらしい貧民の風采
・退屈な書き物 ・だらしない身なりの子守女 ・ひからびかけた老人 ・陶酔無き非芸術の生活 ・晩秋の夕陽(一年の終わり、一日の終わり。衰えのイメ―ジ。) ↓ 「悲しくなった。いささか憂鬱な気分が彼をとらえた。」 →絶望。無気力。 |
・新聞界の輝かしき人物 ・心の地平線で一条の光(朝日のイメージ。「晩秋の夕陽」と対に考えることができる。) ↓ 「詩的瞬間が自分に訪れたという思いが彼の内で希望の赤子みたいに命を得た。彼は勇ましく歩を進めた。」 →希望。明るい未来。 |
絶望に満ちたダブリンから抜け出せないリトル・チャンドラーは、ガラハーを通してダブリンを飛び出し明るい未来のひらけたロンドンを夢想します。
そして、自分も詩を書いてロンドンで成功できないかと考えます。(ただ、この時点で「どんな着想を表現したいかはよく分か」っておらず、またロンドンに行けばなんとかなるという考えを持っている時点で彼が成功しないのは予想できるのですが。)
しかし、いよいよ八年ぶりにダブリンでガラハーと再会したリトル・チャンドラーは、彼の様子が想像とかけはなれていることに気がつき、がっかりします。
昔はツイードのスーツを着こなし、酒を飲んでどんなに羽目を外したあとでも涼しい顔をしていた粋なガラハーは、八年経つとすっかり顔がたるみ、大口を叩くばかり、ただ派手なだけのみすぼらしい中年男になり果てていました。
ロンドンで大成功をおさめ、キラキラとした人生を送っていると思われたガラハーも、実際はそのような生活からほど遠く、大都会に比べたらダブリンは退屈だろうと聞くリトル・チャンドラーにも、実際はダブリンにいるのが落ち着くなどといった発言をします。
ガラハー自身、ダブリンを脱出はしたものの、その発言や様子から、本当の意味でダブリンから抜け出せたとは言い難く、ダブリンの麻痺の深刻さがうかがえます。
ひと通り飲んで話し、ガラハーと別れたリトル・チャンドラーは家に着くと、ぱっとしない地味な生活に嫌気がさし、こんな生活から出ていけないかとふたたび詩作意欲に駆られます。
しかし、妻や泣き叫ぶ赤ん坊により一瞬で現実に引き戻され、決意はすぐに挫かれてしまいます。
ダブリンでの絶望とロンドンへの希望を交互に胸に浮かべ、今の生活からの脱却を夢見ても結局挫折してしまう、どうあがいても抜け出せない麻痺したダブリンは、蟻地獄のようでもあります。
暴力のはびこる街
暴力も、麻痺したダブリンの中で何度も登場します。
「出会い」では、学校をさぼった少年たちが、草むらをステッキで叩きながらやって来る風変わりな老人に出会います。
はじめ老人は退屈な世間話をしていたのですが、徐々に、悪い男の子には鞭打ちを思いきり食らわせるべきだなどという奇妙な話に変わっていきます。
熱のこもった口調で男の子に鞭打ちするのが好きだという発言を何度も繰り返す老人には、異常な性癖があるのだと考えることができます。(実はその前に、老人が「へんなことをしている」ところを少年の一人が目撃しています。はっきりとは言及されていませんが、自慰行為だったのではと考えることもでき、その場合はその行為を少年に見せる時点で一種の暴力と言えるでしょう。)
「写し」では、職場で上司に怒られパブで金を使い果たしむしゃくしゃした男が、帰宅後自分の子どもをステッキで殴ってしまいます。
また「エヴリン」でも、エヴリンは昔父に暴力を振るわれていたことがあり、今でもトラウマになっているという描写があります。
このように、作中のあらゆるところに暴力のモチーフが見られます。
腐敗した家庭、社会が浮き彫りにされ、ダブリンの麻痺がさらに強調されていると言えるでしょう。
『ダブリン市民』―感想
ジョイスの描く「ダブリン」
『ダブリン市民』の面白さは、物語のあちらこちらに散りばめられたこまかな仕掛けを発見し、そのうえで物語全体を俯瞰することによって、ジョイスの描く「ダブリン」が見えてくるところだと思います。
この本は連作短編集ではありません。しかし、どの物語にも似たようなモチーフや似たような状況が登場し、物語の間に自然と繋がりを感じることができます。
例えば、「写し」で自分の子どもをステッキで殴る男は、「出会い」で草むらをステッキで叩いて歩く老人をどこか連想させます。
物語自体は繋がっていませんし、男と老人が同一人物とは書いていません。
ただ、二人ともステッキで何かを叩くという動作だけが被っています。読んでいるとなんとなく「あれ、さっきの短編でも似たようなものが出てきたな」と思いだせる程度の繋がりですが、そのような繋がりが『ダブリン市民』にはいくつもあるのです。
(「小さな雲」のリトル・チャンドラーは、最後泣きわめく自分の赤ん坊に向かって怒鳴りつけますが、それも自分の子どもをステッキで叩く男と重ねることができます。ステッキで殴る男はリトル・チャンドラーの数年後の姿、鞭打ちの老人はさらにその数十年後の姿、と考えてみても面白いでしょう。)
また、死というモチーフも、さりげなく短編集全体に織り込まれており、この本全体に暗い影を落としています。
司祭が亡くなったところから話が始まる「姉妹」や、駆け落ち直前に母の死の場面を思い出す「エヴリン」などはもちろんのこと、直接死について言及がなくとも、ハロウィーンが舞台である「土くれ」にも死のモチーフがたくさん組み込まれています。
また死のモチーフについて考える際は、この本の最後の物語「死せるものたち」もとても興味深いので、ぜひ一緒に読んでみてください。
これらをひとつひとつ拾い集めながら、繋がりを見つけていくことで、ジョイスの言う「麻痺の中心ダブリン」の姿がより鮮明に浮かび上がってきます。
市民の個人的な「無気力」や「挫折」などといった出来事を仔細に、そして俯瞰的に眺めることで、街全体の「麻痺」の正体が見えてくるところが、この本の面白いところだと思います。
(実はこの繋がりは『ダブリン市民』の中のみならず、『ユリシーズ』などジョイスのほかの作品にまで伸びていきます。気になった方はぜひ彼のほかの作品も読んでみると良いでしょう。)
『ダブリン市民』は一度読むだけでも面白いですが、読めば読むほど新たな仕掛けに気づくことができ、興味深い本です。
以上、『ダブリン市民』のあらすじと解説と感想でした。