川端康成『抒情歌』「死」に真正面から向かい合った作品

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川端康成『抒情歌』「死」に真正面から向かい合った作品

『抒情歌』の紹介

『抒情歌』は川端康成の短編小説で、昭和7年に中央公論に掲載されました。

三島由紀夫も川端作品の解説の中で、『抒情歌』が(川端)氏の全作品の重要な象徴の位置を受け持つ作品であり、『抒情歌』は川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品であると論じています。

恋人に捨てられた予知能力の強い女性が、死んだ元恋人に向かって一人で語り掛ける、独白体の形式をとっております。

以下、『抒情歌』のあらすじ、解説、感想をまとめました。

『抒情歌』―あらすじ

主人公の「私」は、幼少の頃から予知能力が強く、「神童」と呼ばれていました。

きっかけは4歳か5歳の頃のかるた会で、字も読めない幼子でありながら、母や客人の前で次々にかるたを取ったのがきっかけでした。

母はそれを大変誇りに思い、家に招いた客の前や、招かれた家々で、またそのような「神童」を見てみたい、と呼ばれた学校の校長の前でも「晴れがましい神童の奇蹟」を現すようになります。

この遊戯は母と「私」の「愛のあかし」でもありました。

「私」は温泉町の小路で、飛行服のようなものを着て、革手袋をはめた眉の濃い青年に出会う夢を見ます。

その2、3年後に夢とそっくりの同じ風景の小路で、夢とそっくりの「あなた」と出会い恋に落ちます。

「私」と「あなた」の間にも、同様に多くの「愛のあかし」がありました。

母が亡くなった時に「私」は母の幻を見ますが、その時にも「あなた」は「お母さんのことを考えているのかい」と尋ねます

。家を棄てて親の許しなしに「あなた」と一緒になった「私」は、母の病気のこともその時は知りませんでした。

また2人は同じ時に、同じ内容の手紙をお互いに書いたりもしました。

そのように1つとなった2人ゆえ、どんな力も2人を引き離すことができるはずがない、と「私」はすっかり安心して母の葬儀のため実家に帰り、しばらくの間、父の世話をするために実家にいたのでした。

しかし「私」の知らない間に、「あなた」は身の回りの世話をお願いしていた知人の綾子と一緒になり、結婚してしまいます。

「あなた」への恨みと、綾子への妬みとで、日夜責めさいなまれた「私」は、哀れな女人でいるよりは、いっそアネモネのような草花になってしまいたいと思います。

4年前に「私」は風呂場で突然はげしい香りに襲われ、気を失いそうになります。

それは「あなた」が綾子との新婚旅行の初夜に、新床に花嫁の香水を撒いたのと「時」を同じくしていました。

その時に「私」の魂は、1つの扉を閉ざしてしまったのでした。2人の間の心の糸も切れてしまったのでした。

弟が海で溺死するのを予知して未然に防いだ「私」ですが、「あなた」の死んだのさえ、知ることができませんでした。

「あなた」の死を知った時、「私」は呪いの一念から人を祈り殺した生霊死霊の話を思い出し、ぞっとします。

そしてなおさら草花になりたいと思います。

仏法の「輪廻転生」の教えを、人間がつくった最も美しい「抒情詩」だと思う「私」は、死人の「あなた」があの世でもこの世と同じ姿をしているのではなく、目の前の「紅梅」に生まれ変わっていると思って、話しかける方が美しいと思います。

そして冥土や来世で「あなた」の恋人となるよりも、2人とも紅梅や夾竹桃の花となって、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらいたいと思います。

最後に「私」はこう思います。

「そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに。」

『抒情歌』―概要

主人公 私 (竜枝)
重要人物 あなた(元恋人)/ 綾子/ 母
主な舞台 自分の部屋での回想形式、独白形式
時代背景 大正~昭和初期頃(詳細は不明)
作者 川端康成

『抒情歌』― 解説(考察)

『抒情歌』ですが、紹介にも書きましたが、主人公の「私」による、死んでしまった元恋人へ向かって語りかける独白体であり、また合わせて幼少時代から現在までを振り返った回想形式をとっています。

主人公は「竜枝」という女性ですが、独白形式をとっているのでここでは「私」として書かせてもらいます。

人は死んだ後、あの世でどのような姿をしているのか。また死んだ後、魂はどのようになるのであろうか。霊魂は不滅であろうか。人はどのように生まれ変わるのであろうか。

誰しもが一度は考えたことがあると思いますが、さまざまな宗教や哲学がこの人類最大の問いかけを、太古の昔より探求しております。

この『抒情歌』は、まさにその人間にとって最大の問題である「死」に、真正面から向かい合った作品であると言えます。

ここでは下記の順に沿って『抒情歌』の考察をすすめていきたいと思います。

  • 人間の死後の世界の姿とは
  • 霊魂は不滅か
  • 輪廻転生と因果応報
  • 「愛のあかし」は何を象徴しているのか

 

1.人間の死後の世界の姿とは

私自身もそうですが、亡くなった人を思い浮かべるとき、この世にいた頃の姿をそのまま思い浮かべる人が大半だと思います。

故人に向かって話しかけるときも、故人の写真に向かって話しかけても、花や木に向かって話しかける人は、あまり多くはいないのではないでしょうか。

でもあくまでこれは私の推測にすぎず、国や文化や宗教や時代によっても、いろいろな違いがあるかもしれません。

この作品は下の書き出しから始まります。

死人にものいいかけるとは、なんという悲しい人間の習わしでありましょう。
けれども、人間は死後の世界にまで、生前の世界の人間の姿で生きていなければならないということは、もっと悲しい人間の習わしと、私には思われてなりません。

「抒情歌」 新潮文庫 96頁

冒頭で「私」は、死人にものを語りかけることは「悲しい人間の習わし」であり、人間は死後の世界にまで現世の姿のままでいることを、「もっと悲しい人間の習わし」と語っています。

亡くなった「あなた」が、生前の現世の姿のままでいるよりも、目の前の早咲きの蕾を持つ紅梅や、フランスのような遠い国の見知らぬ山の、見知らぬ花に生まれ変わっていると思って、話しかけるほうが「私」は嬉しいのです。

「私」はレイモンド・ロッジの「香のおとぎ話」についても語ります。

それは、霊の国の物質はみんな地上から立ち上る香りで出来るというものです。

地上で死んだものにはそれぞれの香りがあり、その香りが昇天して、香りとなる元のものが、つまり死ぬ前の姿がつくられる、というのです。

人が死ねば死体から香りの糸のようなものがそろそろと立ち昇って、それが天上で纏まって、地上に残した肉体の写しをとるようにその人の霊の体を造り上げます。

父のサア・オリヴァ・ロッジは、亡くなった息子のレイモンド・ロッジのこのような霊界通信の話を通じて「魂は不滅」であり、亡くなった家族はあの世でも現世と同じ姿でいると、戦争で愛する家族を失った幾十万の母や恋人に希望を与えたのでした。

しかし「私」は西洋の、この「おとぎ話」を幼く、好ましいとしながらも下のように言います。

いったい西洋人のあの世の幻想は、仏典の仏達の住む世界の幻想にくらべますとなんと現実的で、そうして弱小で卑俗なことでありましょう。(中略)仏教の経文の前世と来世の幻想曲をたぐいなくありがたい抒情詩だと思う今日この頃の私であります。

「抒情歌」 新潮文庫 105頁

西洋のあの世の幻想は、東方の仏典の幻想に比べて、現実的で弱小であり、「仏典の教えるあの世の豊かな幻想」こそが、たぐいなくありがたい「抒情詩」であると語っています。

人間の死後の姿は、「生前の現世のままの姿である」というのは、「人間の死者への愛着」であり「悲しい人間の習わしである」と筆者は最初に強調したかったのでしょう。

2.霊魂は不滅か

では、霊魂は不滅かどうか。これも個人によって様々な見解があるかもしれません。

私自身は「人の魂は不滅」であると信じています。

しかし、主人公の「私」は「魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではないか」と言います。

人間の霊魂を語る際に、あの世の魂もこの世と同じ人格を持ち、この世の愛や憎しみも持っていき、さらに冥土も現世の社会に似ている、と西洋の死霊が語るのを聞いて「私」は、かえって人間のみが尊いという、「生の執着の習わし」を寂しく思うのでした。

人間の霊魂のことを考えました人達は、たいてい人間の魂ばかりを尊んで、ほかの動物や植物をさげすんでおります。人間は何千年もかかって、人間と自然界の万物とをいろいろな意味で区別しようとする方へばかり、盲滅法に歩いてきたのであります。そのひとりよがりの空しい歩みが、今になって人間の魂をこんなに寂しくしたのではありませんでしょうか。

「抒情歌」 新潮文庫 109頁

自然界と人間を分け隔て、人間の魂のみが尊い、という「人間の生命への執着や愛着」が、「霊魂が不滅である」という考えや「あの世の魂がこの世の人格を持つ」という考えを生み出していると考えています。

3.輪廻転生と因果応報

先ほどにも述べましたが、「私」は「東方の仏典の教えるあの世の豊かな幻想」こそが、 ありがたい「抒情詩」であると語ります。

西洋の幼いあの世の幻想に比べて、仏教の経文こそが「抒情詩」であるとしています。

そして仏教の中の「輪廻転生」と「因果応報」の教えについて語りますが、それを簡単にまとめると下記のようになります。

  • 輪廻転生=ありがたい「抒情詩」
  • 因果応報=ありがたい「抒情詩」のけがれ

 

「輪廻転生」とは人が何度も生死を繰り返しながら、新しい生命に生まれ変わることです。

輪廻は車輪が回る様子を意味し、転生は新しく生まれ変わることを意味します。

「因果応報」とは過去の善悪の行いが因となり、その報いとして善悪の結果が返ってくることを意味します。

「抒情詩」とは主観的な感情や思想などを表現して、個人の内面的世界を表現する詩のことですが、ここでは人間の内面世界を表現するものとして使われています。

では輪廻転生が、なぜありがたい「抒情詩」なのでしょうか。

ギリシャ神話の「アネモネの転生」から、アネモネの花の心を知った「私」はこう思います。
白い幽霊世界の住人になんかなるよりも、私は死ねば一羽の白鳩か一茎のアネモネの花になりたいのであります。そう思う方が生きている時の心の愛がどんなに広々とのびやかなことでありましょう。

「抒情歌」 新潮文庫 110頁

そして自分を棄てた「あなた」への恨みと、「あなた」を奪った綾子への妬みに責めさいなまれた「私」は、アネモネの女神と同じように、哀れな女人でいるよりも、アネモネの花のように美しい草花になってしまったほうが、どんなに幸せかと思います。

「あなた」に棄てられてから、天地万物と「私」の通い路は断たれてしまいます。

今まで幸せな女らしい愛を通わせていた花の色や小鳥のさえずりさえも、あじけなく空しいものになり、「私」は失った恋人以上に失った愛の心を悲しみます。

しかしこの輪廻転生の教えにより、「私」は禽獣草木のうちに「あなた」や自分を見つけることによって、また徐々に以前のように天地万物をおおらかに愛する心を取り戻していったのでした。

輪廻転生の教えこそが、「私」にとっては、天地万物を愛する心を再び取り戻してくれた、ありがたい「抒情詩」であり、人間がつくった一番美しい愛の「抒情詩」なのでした。

次になぜ「因果応報」が、ありがたい「抒情詩」のけがれ なのでしょうか。

仏法の世界では三世を説きます。前世、現世、来世の三世です。前世は過去世とも言います。

過去世で悪い因を積めば現世で悪い結果となって現れます。

逆に過去世で善い因を積めば現世で善い結果となって現れます。

因を積む行いを業とも言います。これを仏法では「因果の法則」とも言います。

しかし「私」は輪廻転生の教えに救われて、ありがたい「抒情詩」と感謝しながらも、この因果の法則は、ありがたくない「抒情詩のけがれ」であるとしています。

仏法の輪廻転生の説もこの世の倫理の象徴のようであります。前生の鷹が今生の人となるも、現世の人が来世の蝶となるも仏となるも、みなこの世の行の因果応報と教えてあります。これはありがたい抒情詩のけがれであります。

「抒情歌」 新潮文庫 111頁

「私」の求める輪廻転生の教えは、因果応報といった厳しい仏法の因果律に基づいたものではなく、ギリシャ神話に出てくる動物や植物への転生に似た、明るいおとぎ話のような輪廻転生を求めているのです。

それ故に人間は死んだ後も、生前と同じ姿で、同じ人格を持ち、あの世でもこの世と同じように生き続けるとする考えを、人間の魂のみを尊いとし、天地万物と人間を分断するものであると、筆者である川端康成は伝えたいのだと思われます。

4.「愛のあかし」は何を象徴しているのか

幼年の頃から「神童」と呼ばれ、霊感、予知能力といった不思議な力をもった「私」が、 なぜ恋人であった「あなた」の死さえ知ることができなかったのでしょうか。

また母や「あなた」との間に満ちていた「愛のあかし」は何を象徴していたのでしょうか。

これについて考察を述べていきたいと思います。

まず「神童の力」について書かれている箇所があります。

けれどもそういう神童の力は、母が傍についてないと決して現れないのでありました。

「抒情歌」 新潮文庫 118頁

つまり幼い頃の「私」は、母が傍にいないときはこの「神童の力=予知能力」は全く発揮されないのでした。

またこの予知能力は、成長して幼児のあどけなさを失うにつれて、徐々に減ってゆき、年頃の娘になった時には、ただ気まぐれな天使のように時々訪れてくるのでした。

その時々訪れてくる予知能力で、海で溺れてしまう弟の命を未然に助け、「あなた」と見知らぬ温泉場で出会う夢を見て、それが現実となります。

しかし、その気まぐれな天使の翼も、「あなた」が綾子と結婚した夜に、新床に撒いた香水の香りを遠く離れた風呂場で嗅いだ時に、折れてしまったのでした。

「私」の予知能力の翼もそこで折れてしまい、「あなた」との心の糸も切れてしまい、魂の扉を閉じてしまったのです。

そして「私」は「あなた」の死んだのさえ悟ることができなかったのでした。

では母との間や「あなた」との間に満ち足りていた「愛のあかし」とは何を象徴していたのでしょうか。

「私」と「あなた」との生活は「愛のあかし」に満ちておりました。2人で同じ内容の手紙を同じタイミングで出したりします。

「あなた」が今日の夕食に食べたいと思ったものが何かも分かり、聞かずに料理して喜ばれることも度々でした。2人の間には、そのような「愛のあかし」が満ち足りすぎていました。

先程、母が近くにいないと予知能力は現れなかった、と書きました。

予知能力が発揮されているのは、母との間に「愛のあかし」がたくさんあり、「あなた」との間に「愛のあかし」が満ち溢れていた時に、大いに発揮されています。

そして「あなた」が「私」を棄てて綾子と結婚して、新床に香水を撒いた時に、「愛のあかし」も消え、予知能力も消えてしまっています。

つまり「愛のあかし」とは「私」の予知能力にとって絶対不可欠なものであり、その「愛のあかし」がなくなった時、翼も折れて、予知能力も失われてしまったのです。

「愛のあかし」=「予知能力の翼」とも言えるでしょう。

それ故に「あなた」の死の知らせも、翼の折れた「私」のところには届かなかったのです。

『抒情歌』― 感想

『抒情歌』は短編小説なので作品としては短いですが、仏法に基づく死生観も大変奥深く、難解な小説であると思います。

川端康成自身も、幼少の頃は霊感が強く、心霊学にも興味があったそうです。

伊藤初代という女性と恋愛し婚約破棄されるという大失恋もしており、そのような自身の経験もこの作品に影響を及ぼしていると思われます。

また川端康成は、東方の古典の中でもとりわけ仏典を、「世界最大の文学」と信じており、経典を宗教的教訓としてではなく、「文学的幻想」として尊んでいる、とも語っております。

仏教を単に宗教的なものとしてだけでなく、文学的なものとしても捉えていたのでした。

三島由紀夫も川端康成との往復書簡の中で『抒情歌』についてこのように語っております。

「抒情歌」ははじめて日本の自然の美と愛を契機として、白昼の幻想、いひかへれば真の「東洋のギリシヤ」を打建て、目覚めさせてくれたやうに思はれます。その高さ、けがれのなさ、琴にふと触れた時のあの天界の音のやうな気高い妙音―しかもそれら凡てが抽象化されたり徒らに壮大なものになつたりせず、微風のやうな悲しみに包まれて、いはば肉体の翳にひつそりと息づいてゐるのです。霊と肉との一致をしみじみと覚えさせる御作です。

「川端康成・三島由紀夫 往復書簡」新潮文庫 32-33頁

『抒情歌』のような真昼の幻想は我が国でも稀有である、とも語っております。

冒頭の紹介でも述べたように『抒情歌』は三島由紀夫の言うように、再読三読すべき作品であると思います。読み返すたびに感じ方も変わってくるかもしれません。

信頼していた「あなた」と綾子に裏切られ、2人を日夜恨み続けた「私」は、「あなた」の死を知った時、自分が呪い殺したのではないかとぞっとします。

そしてその救いを仏教の輪廻転生の教えに求め、「あなた」も「私」も紅梅か夾竹桃の花になって胡蝶に結婚させてもらいたいと思います。

「魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではありますまいか」

天地万物と人間を区別するのではなく、人間も天地万物の1つであり、人間のみを尊しとする考えは「悲しい人間の習わし」であると筆者はこの作品を通して伝えたかったのでしょう。

以上、『抒情歌』のあらすじ、考察、感想でした。

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yukio

学生時代から本が好きで、日本文学、海外文学問わず幅広く読みます。好きな作家は三島由紀夫です。趣味は読書のほかに、釣り、国内旅行。いまは仕事してますが、定年後は本を片手に作家ゆかりの地を巡りたいです。