『狂人日記』あらすじ&解説!「食人」の意味から「おれ」の正体まで

  1. HOME >
  2. 海外文学 >

『狂人日記』あらすじ&解説!「食人」の意味から「おれ」の正体まで

『狂人日記』の紹介

『狂人日記』は魯迅の短編小説で、1918年4月(あるいは5月)、雑誌『新青年』にて初めて発表されました。

「被害妄想のたぐい」をわずらっていた中学時代の友人の日記を、「余」が抄録した一篇です。

ここではそんな『狂人日記』のあらすじ・解説をまとめました。

『狂人日記』―あらすじ

「余」が中学時代からの友人である某君兄弟を見舞った際、兄の方から二冊のノートを譲り受けました。

病気をしていたのは弟の方で、ノートは彼が病中につけていた日記だと言います。「余」が日記を持ち帰って読んだところ、

病っていたのは「被害妄想」のたぐいらしかった。

言葉はすこぶる錯雑していて秩序なく、荒唐無稽の語も多い。

『狂人日記』――今では全快し、某地で任官を待っているという本人によって与えられた、これが二冊のノートの名前でした。

弟(以下「おれ」)が、三十年ぶりに月を見て、爽快な気分になったところから『狂人日記』は始まります。

その晩にしるされた「超家の犬」に対する疑念は、間もなく老人や子供を含む周囲のすべての人々に拡大し、日を追うごとに猜疑と恐怖を深めていきます。

やがて「おれ」は、一連の恐怖の原因が、古くから現代(当時1910年代)にまで続く「食人」にあるということに思い至りました。

周囲の人々の行動はすべて「『おれ』を食う」ことに結びついている、という観念に囚われた「おれ」は、診察中に大声で笑ってみせたり、若い男に「人を食うことは正しいか」と執拗に問いかけたりなどして、周囲に「勇気と正義」のこもった働きかけをしていきます。

「まずは兄から改心させよう」と心に誓った「おれ」は、朝早くにでかけていき、外で空を眺めていた兄に説教を始めます。

「兄さん一人では、どうするわけにもいかないだろう。しかし仲間にはいらなくたっていいじゃないか。ぼくたちは今日からでも格別によくなろうとして、それはいけない!といえばいいのだ。兄さん、ぼくは兄さんはそういえると信じている。先日小作人が年貢をまけてくれといったとき、兄さんはいけないといったんだから」

騒ぎを聞きつけてやってきた近隣住人たちが忍び笑いをしていると、兄は突然、

「みんな出ていけ!気違い(瘋人)をみて、なにがおもしろいのか!」と怒鳴りました。

「おれ」が兄のみならず、今度は集まってきた人々に向けて説教をしていると、陳老五がやってきて人々をみんな追っ払ってしまい、「おれ」も部屋に連れ戻されてしまいました。

真っ暗な部屋でほぼ軟禁状態となった「おれ」は、妹が五歳で死んだときに泣き続けていた母親のことを思い出して胸を痛めます。

しかしその母でさえ兄が「おれ」に、「父母が病気になったら、子たる者は肉を一切れ切りさいて、よく煮て食べてもらってこそ立派な人間といえるのだ」という孝行説話をしたときに、それを否定しなかったのを思い出します。

さらに、四千年「人を食ってきた場所」で暮らしてきた「おれ」自身、例えば兄が料理に混ぜた妹の肉を一切れでも食べなかったとは言い切れず、自分を含めて「ほんとうの人間にはめったに会えない」という絶望に陥ります。

そして最後に次の言葉を書き残します。

人を食ったことのない子供なら、まだいるかもしれないではないか!

子供を救え……。

『狂人日記』―概要

主人公  弟(おれ)
主要な登場人物  "兄、趙貴翁、趙家の犬、陳老五、何先生、若い男、
小作人、子供たち、母、妹"
語り手(序章のみ)
舞台 狼子村
時代背景 1910年代
作者 魯迅
訳者 駒田信二

『狂人日記』―解説(考察)

「七年四月二日しるす」とはいつか?

「七年四月二日しるす」とは、『狂人日記』の序章の終わりに記されている日付です。

七年というのは(中華)民国七年のことで、西暦でいえば1918年です(ちなみに1918年=民国七年=大正七年)。

ちなみに「四月二日しるす」とありますが、当時の『新青年』(『狂人日記』が初めて掲載された雑誌)は発行が一か月遅れており、執筆も五月であった可能性があるそうです(出典2)。

「中体西用」から「民主と科学」へ

魯迅(1881~1936)よりも上の世代の啓蒙者たちは、西洋や日本の技術を部分的に取り入れることに関しては前向きであっても、旧体制の思想や政治のありかたを根本的に変えることに対しては必ずしも積極的ではありませんでした。

例えば、「科挙の廃止と近代学校教育導入により国民の意識を徹底的に変えなければ、国が富強になることができない」と主張していた厳復(1854~1921)は、武昌蜂起の際に、帝政廃止に反対し、辛亥革命後には孔子崇拝を提唱、袁世凱の帝政運動にも参加しました(出典3)。

また、早い段階でヨーロッパの文学作品を翻訳し、それによって啓蒙的役割を果たしていた林紓(1852~1924)も、「五・四運動」の際、白話文運動に反対しました(出典3)。

彼らにとって伝統的な中華文明こそが本体であり、西洋文明は利用すべき技術・手段でしかなかったのです(出典1)。

旧い思想やそれに基づく政治(帝政)との決別に遅れた中国では、1900年、「扶清滅洋」のスローガンのもと、日本とドイツの外交官を殺害する義和団事件が起こり、列強8か国の出兵を招き、結果的に列国への従属を強めてしまいます(出典1)。

中国の主権がどんどん失われていく中、1905年に孫文が三民主義を提唱、1911年に四川と武昌で武装蜂起が勃発、華中・華北に革命が波及するなか、1912年、清朝は滅亡します。辛亥革命です。

『狂人日記』が執筆されたのは、こうして中国の人々が主権を取り戻す、あるいは獲得していく動きの中でアジア初の共和国になって七年目のことでしたが、そのわずか数年の間にも、大総統袁世凱が帝政を復活させ皇帝に即位(1915年末~1916年3月)したり、袁の死後は軍閥が割拠して民衆を搾取したりするなど、本質的には旧時代と変わらない抑圧的な雰囲気が世の中を覆いつづけていました(出典1)。

そんな閉塞感のなかから産声をあげたのが「新文化運動」です。

陳独秀が雑誌『新青年』(1915~1922)を創刊、スローガンには「民主と科学」を掲げて、この運動を指導しました。

『新青年』では胡適、魯迅、李大釗らが中心となって、西欧文化を紹介し、前時代の啓蒙者たちが触れてこなかった旧弊の打破をめざしました。

この流れの中で提唱されたのが先述の白話文学(「白」は、「白ス(まふす=申す)」の意味)、すなわち口語による文学で、その最初の実践作となったのが、魯迅による『狂人日記』だったのです(出典1)。

『狂人日記』というタイトル

容易に読める常用漢字4文字ですが、中国語の「狂人」と日本語のそれとでは、意味合いが異なっています。日本語の「狂人」は「精神障害者」とほぼ同義ですが、中国語に於いては「生意気、傲慢」という意味合いが強く、精神障害者を表す言葉には「瘋人(瘋子)」という別の言葉が存在します(出典3)。

「生意気、傲慢」。

目上や格上の人への恭順をむねとする儒教の教えとは真逆の態度です。

けれども、その「狂人」という言葉をタイトルに冠したのが、他でもない、日記を書いた張本人であるという点も、見落とせないポイントの一つです。

「全快後」の「おれ」にとって、「病って」いた頃の自分は「生意気で驕った」、つまり儒教的に間違った人間だった、と言っているのと同じだからです。

余=魯迅か

伝統的「食人文化」への恐怖と、それへの強い拒絶に貫かれた二冊の日記に対し、「余」は、「被害妄想」「錯雑していて秩序なく」「荒唐無稽」など、冷淡な感想をいだいています。

その態度は兄に近いものと思われます。

先述の通り、魯迅は旧弊を打破する運動の中心メンバーとして活躍していました。

「食人」は日記本文においても、古い慣習の一つであったことが強調されており、儒教によって正当化されていた側面をもつ文化でもあったため、魯迅はむしろ「病って」いた時点の「おれ」と立場を同じくしている筈です。

・「おれ」=魯迅か

では、「おれ」は魯迅なのかといえば、これも「否」と思われます。

確かに、「病って」いた時点の「おれ」は、一貫して「食人」への拒絶を示しているのですが、最終的には役人として社会復帰する道を選び、かつての自分を「狂人」、つまり儒教的に間違った「生意気で驕った」人間であったとしています。

つまり「おれ」の社会復帰は、兄たちと同じ旧い思想、旧い社会への復帰を象徴的に表しているといえるのです。

魯迅はむしろ、旧い時代との決別のために『狂人日記』を執筆しました。

ですから、「おれ」を通して魯迅が描いたのは、古い慣習を部分的に批判する一方で、根底に根付いた旧い思想や政治に斬りこむことを避け、改革に対して反動的であった前時代の、「中体西用」的啓蒙者であった、と考えることができます。

儒教(儒学、礼教)と「食人」

春秋時代末期にあらわれた孔子(前551~前479)によって始まった、家族道徳を社会や政治に当てはめて実践し、秩序を保とうとする考え方のことです。

秦の始皇帝の時代に焚書・坑儒(前213・214)によって一時中断しましたが、漢の武帝の時代に董仲舒(前176頃~前104)の献言によって官学化されて以降、1905年に科挙が廃止されるまで中国の皇帝制度を支えました(出典1)。

『狂人日記』は、旧体制、旧弊、具体的にはそれを支えてきた儒教思想との決別をめざす潮流の中でうまれた作品ですが、実は、儒教への明確な批判が読み取りづらい作品でもあるのです。

『狂人日記』での恐怖と拒絶の対象は、ほとんど一貫して「食人」に対して向けられており、それに対して儒教への言及はわずかです。

儒教は確かに「人肉食」を正当化する一面を持ち合わせてはいますが、それが儒教の全体像かといえばそうではありません。

このことについて、目白大学非常勤講師である張瓊華氏は、「現実の人食いと象徴的な意味の人食いが内在している」と述べています(出典3)。

例えば日記本文・第9章の、

自分は人を食おうとしながら、人に食われることをおそれている。だからみんな疑心暗鬼の眼で、お互いにうかがいあうのだ……。
そんな考えを捨て去り、安心して仕事をし、道を歩き、飯を食い、眠ったなら、どんなに気楽だろう。これは一つの門、一つの関所にすぎないのだ。彼らはしかし、父子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵から見知らぬ者同士まで、みんな一味になって、互いにはげましあい、互いに牽制しあって、死んでもこの一歩を踏み越えようとはしないのだ。

この部分について氏は、「互いに騙し合い、互いに排斥し合い、互いに陥れ合い、互いに利用し合い、互いに搾取し合い、互いに殺し合いなどの人間関係のメタファーとして用いられている」とし、

「我(おれ)」は、人食いの社会に対して深い認識があっても、日記本文から決して「反封建」、「反礼教」といった強いメッセージが中心となっているとは読み取れない。つまり、「我」は人食いの社会に対する憎悪の念を抱いても、封建社会や礼教に対して同等の気持ちを持っているとは言えない。それ故に、結局、「病気が癒え」、役人の世界に入っていったのであろう。そこで魯迅は、この「狂人日記」を通して、一部の先駆的な啓蒙者の「病」を暴露し、治療の喚起をしたかったのであろう。またこの意味で、はじめて「家族制度と礼教の弊害を暴露する」として捉えられるのであろう。

と述べています。

つまり『狂人日記』の儒教批判の方法は、「儒教を批判しないこと」なのです。

社会への強い憎しみを抱きながら、結局は社会へ復帰していった「おれ」を、魯迅は彼の前の世代の啓蒙者と、とことん重ね合わせて、その「病」を抉り出しているのです。

『狂人日記』―感想

『狂人日記』の難しさ

『狂人日記』を初めて読んだのは高校入学を控えた春休みのことでした。

魯迅特有のあの陰鬱な雰囲気と、「食人」という誰もがゾクゾクさせられるテーマとの調和に、「すごい作品を知ってしまった」と思ったのが最初の感想でした。

以来これまで長い間、折に触れて読み返してきた『狂人日記』は、自分にとって既に読み慣れた作品だと思っていました。

けれども本作を改めて精読し、歴史的背景を掘り下げていくうちに、初めて本作の難しさに気づかされたように思います。

日本で義務教育を受けた人は皆、必ず国語の授業で「魯迅は清末民国初期に活躍した作家で、儒教を批判した」という大前提を学習します。

けれども、彼の作品をより立体的に読み解くためには、やはりその大前提と個々の作品とが、どのように結びつき、どのような表現をとって発露しているのか、ということを地道に追いかけてみる作業が、どうしても必要なようです。

  • 「食人」という言葉が、実際の「人肉食」文化として意味と、社会病理の比喩としての意味の、ふたつを含み持っていること
  • かつて「食人」を批判した者が、自らを「狂人(生意気で傲慢な者)」と呼んでいること
  • 「食人」が依然として存在する社会に、批判者自身が復帰していること

『狂人日記』においては、上記3つのような点の着眼が鍵となると言えるでしょう。

現代人と『狂人日記』

さて、ここまで、魯迅がどのような時代に身を置き、どのような創作動機に駆られて『狂人日記』を発表したかについてを中心に述べてきましたが、本作は、近代中国という限定的な時間と場所を現代に伝えているだけではないと私は感じています。

『狂人日記』における「食人」が、「人肉食」だけではなく、治療すべき旧弊の一つを表すメタファーとして用いられているということは先述の通りです。

この物語に登場する人物は、「おれ」が「食人」を恐怖するさまを、忍び笑いしたり、「気違い(瘋人)」と決めつけたり、「被害妄想」「荒唐無稽」といった冷淡な言葉で表したりしています。

私にはこの描写が、現代日本人と無関係であるとはどうしても思えないのです。

ここで殊更に現代の諸問題を例示することはしませんが、社会病理に気がついて最初の声を上げる人が、笑われたり、叩かれたり、あるいは冷淡な無関心に晒されるという宿命は、現代でも、否、もしかしたら現代だからこそ、免れ得ないことであるとはいえないでしょうか。

一方、最初の一声を上げる人も、「おれ」と同様、他の不健全や根本的な問題を見落として、気づかぬうちに彼ら(「余」や「兄」や「小作人」)と同じ側に回っている、といった事態も往々にして起こり得ます。

私たちの身の回りには依然として「食人」と、それを惰性で許してしまう現実が存在します。

『狂人日記』は人間社会普遍の病を、それが本当に癒える時まで、厳しく活写し続けるのです。

以上、『狂人日記』のあらすじ・考察・感想でした。


出典
全国歴史教育研究協議会『世界史用語集』山川出版社
藤井省三『魯迅事典』三省堂
張 瓊華『目白大学人文学研究』「狂人日記」の構造に秘められた意味とその主題」目白大学

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

sakura

執筆にあたり沢山の書籍などを参考にさせていただいております。お時間がありましたら、ぜひ出典のほうもご確認ください。 【好きな本のジャンル】短編小説、伝記、レシピ本、図鑑など 【趣味】〈音楽鑑賞〉尊敬する歌手は、ちあきなおみさん、宮本浩次さん(エレカシの皆さん)、研ナオコさん、吉田拓郎さん、桑田佳祐さん、多数!〈詩作〉『詩と思想』という雑誌に投稿し、時々掲載して頂いています〈お菓子さがし〉素朴でカラフルなドロップス、お祭り屋台のメロンクレープ、青いソーダを常に探しています。