『われらの時代』紹介
『われらの時代』は大江健三郎著の小説で、1959年7月、中央公論社より書き下ろしで刊行されました。
本作は、著者の作家デビューの翌年に、2作目の長編小説として執筆されました。
著者本人が「ぼくはこの小説から、反・牧歌的な現実生活の作家になることを望んだのだった」と語るように、性や暴力的な思想を克明に描き出す大江健三郎の新たな作風を見出した作品です。
ここでは、『われらの時代』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『われらの時代』あらすじ
南靖男は情人の頼子と自堕落な生活を送るなかで、戦争のあった英雄的時代に存在した希望を見出せない現代への虚無感に苛まれていましたが、フランス留学を決めたことで、虚無的な日々からの脱出のチャンスを得ます。
一方、弟・滋を含むジャズバンド《不幸な若者たち》の3人は、ファシズムへの憧憬から《静かなる男》に成り果てた天皇を驚かせてやろうと手榴弾での襲撃を計画しますが、それが失敗に終わるとかれらの友情は破綻、手榴弾を使ってどちらが卑怯者かを試すゲームを行った末、高と康二は爆死してしまいます。
靖男は頼子を見捨てアラブ人と連帯することで行動的な人生に踏み出そうとしていましたが、爆死事件で混乱している弟・滋を保護したことから、事情聴取を受けたのちアラブ人との関係を問い詰められます。
靖男は反・フランスを掲げるアラブの政治運動を支持していると答え、留学は白紙となりました。
再び虚無の日々にかえった靖男は自殺こそ猶予から免れる唯一の行動と考えますが、その勇気さえ奮い起こすことができず、偏在する自殺の機会に見張られながらも実行できないまま生きてゆくのが「おれたちの時代」なのだと悟るのでした。
『われらの時代』概要
主人公 |
南靖男:フランス文学の研究室に属する大学3年生。中年の娼婦・頼子と同棲していたが、論文がコンペを通過しフランス行きを決める。 |
重要人物 |
頼子:外国人相手に娼婦をしている中年の女。靖男の情人。 |
主な舞台 |
東京 |
時代背景 |
1950年代 |
作者 |
大江健三郎 |
『われらの時代』解説(考察)
本作の特徴としてまず一番に挙げられるのは、性的描写の多さでしょう。
著者は本作の文庫版あとがきにおいて、「性的なもの」の表現を「老人文学」的なものとは逆方向に運動させたかったのだと記しています。
A ぼく自身は、性的なるものを表現するにあたって、直接的、具体的な性用語を頻発する、むしろ濫用するくらいだ。ぼくは性的なるものを暗示するかわりにそれを暴露し、読者に性的なものへの反撥心を喚起しようとさえする。B ぼく自身にとって性的なるものは、外にむかってひらき、外の段階へ発展する、ひとつの突破口であって、それはそれ自体としては美的価値をもつ《存在》ではない。別の《存在》へいたるためのパイプとしての《反・存在》として小説の要素となっているものであって、ぼくはぼく自身の目的へ到るためにそれをつうじて出発する。
大江健三郎『われらの時代』,新潮文庫,272頁
「性的なるもの」はあくまで手がかり、手段でしかなく、それらのモチーフを使って「読者を荒あらしく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたて」ることで、「平穏な日常生活のなかで生きる人間の奥底の異常へとみちびきたい」と語るのです。
ここでは、この「性的なるもの」のモチーフに着目し、それらが象徴するものやそれらによって喚起されたものを考察することで、大江が描こうとした「われらの時代」とは何だったのか、読み解いていきたいと思います。
停滞の汚辱の象徴「女陰的な世界」
まずは、主人公・靖男にまつわる「性的なるもの」についてみていきたいと思います。
靖男を取り巻く性的イメージといえば、いうまでもなく頼子の存在が挙げられます。
彼女を中心として広がる「女陰的な世界」が象徴するものは、“猶予”と“汚辱”です。
そして、この2つのイメージは総じて、戦後日本の停滞感への絶望、劣等感へと結びついてゆきます。
中年の娼婦に消費される“猶予”の時間
靖男にとって、頼子を中心とした「女陰的な世界」は「猶予の時間」そのものでした。
それは、靖男と頼子の関係性において未来へのベクトルが存在していなかったためです。
靖男は、戦争の時代と現代とを次のように比較して考えています。
- 戦争の時代=英雄的な時代、若者が希望をみなぎらせていた時代
- 現代=未来に矢印のむくベクトルが若者の精神に存在しない時代
靖男は、将来への希望を失った若者たちが過ごす虚無の日々を「猶予の時間」と称し、自身にとってのそれは「頼子の性器の匂いのこびりついた体で、げんに今やっている状態のことだ」と語ります。
頼子が娼婦を続け他の男に抱かれることを容認している靖男は、結婚や家庭を見据えたような男女関係を築こうとは考えていません。
彼女の妊娠が発覚すると「中絶してくれ」と懇願し、のちに彼女がウィルソン氏と結婚したことにも嫉妬や後悔といったものは見せませんでした。
靖男と頼子のあいだに恋人としての関係性を深めたり、将来は家庭を築いたり、といった未来へむいたベクトルは存在せず、互いに刹那的な快楽や安寧だけを求めているように思われます。
靖男にとって頼子と過ごす時間はまさに「猶予の時間」の消費以外のなにものでもなかったのです。
グロテスクな妊娠の危険をはらんだ“汚辱”的行為
「女陰的な世界」が象徴するもうひとつの要素は“汚辱”です。
これには、本作における妊娠の否定的イメージが深く関わっています。
靖男が頼子との性交渉を“汚辱”だと感じさせられたのは、八木沢とアラブ人の鍛え上げられた体を見たことでした。
(前略)不意に、激怒をともなって、頼子との性交渉の汚辱にまみれたイメージがかれの頭を占領した。かれは嫌悪にふるえあがらんばかりの思いで、頼子の性器のねっとりした触感や酸っぱく濃厚な匂いについて思い出した。頼子の性器の陰湿な毒、それにおかされているのがおれの肉体だ。(中略)おれは体をきたえあげるかわりにあの汚ならしい膣にかかずりあうことで消耗しつくしていたのだ、欲望、そういうものはずっと昔になくなってしまっている。おれが頼子と性交渉をもつのは、今や憐憫とあのねっとりした内壁の触感が日常生活の一部分になりきっているという事実のみにもとづくのだ。(後略)
大江健三郎『われらの時代』,新潮文庫,150頁
かれはアラブ人の体を見て、「女陰的な世界とはまったく無縁の、すばらしく徹底して男性的な人間が男らしい、じつに男らしい方法で自己を誇示するのを見たのである」と語ります。
ここでいう「男らしい」とは「生きるか死ぬかの荒あらしい戦いの場」にふさわしい肉体のこと、つまり、男性性は死のイメージに結びついているということができます。
対照的に女性性は妊娠・出産といった生のイメージと結びつけることができますが、ここで着目したいのは、本作における妊娠が常に否定的ニュアンスで語られることです。
靖男は妊娠について「細心に妨害したにもかかわらず、心ならずも失敗してしまった、という形でしかおこなわれなくなる」ものと語り、ここ五十年間に日本で生まれてくる子供は「純粋に絶望的な状況に生れてきて、そこで育ち、そこで死ぬ」のだと主張します。
靖男がそれほどまでに妊娠・出産を嫌悪するのは、希望の存在しない「猶予の時間」を生きるしかない現代で、新たに生命を誕生させることが何よりも残酷な行為だと考えているからです。
そうしたグロテスクな行為を、欲望すら抱かずただ生活の一部として惰性で行なっていることに対し、靖男は強い恥じらいを感じたのではないでしょうか。
停滞した日本人としての劣等感
“猶予”を消費させ自身を“汚辱”にみちびく頼子の存在は、靖男にとって自身の停滞を実感させられるものであるとともに、個人的な尺度を超えた、日本人としての民族的な劣等感にみちびくものでもありました。
それは、冒頭、靖男が頼子の体を観察する場面から読み取ることができます。
外国人相手に十年のあいだ娼婦をしてきた女にとって性器はすでに内密のひそやかな部分、女らしく猥らな部分ではなくなってしまっている。それは頑丈で事務的でひねこびており荒あらしい。おれは、あの《男性的》な部分が外国人に所有されることに嫉妬を感じたことはない、と靖男は考えた。しかしおれは他人の眼や指が、膝のうらがわや尻のくぼみ、ふくらはぎなどをつうじて頼子にふれることには平静でいられない。それは内部がおかされているような動揺をひきおこす。頼子の性器は武装してたちむかうが、膝のうらがわや尻のくぼみはふいうちをおそれてふるえている。それは内部とつながっている。頼子の感情や精神とふかくつながっている。そして結局、日本人のひそやかな内部にかかわってくるというわけだ。それはがまんできることではない。
大江健三郎『われらの時代』,新潮文庫,24-25頁
頼子の《男性的》な部分とはいわば商品として提供されている部分であり、たとえ客がそれに触れたとしても、頼子と客とは対等な立場を保つことができると靖男は考えています。
一方で、「膝のうらがわや尻のくぼみ、ふくらはぎ」などといった「武装」されていない部分に外国人の指が触れることはある種の「支配」であり、そこに靖男は強い嫌悪を感じるのです。
当時の日本はGHQ統治からの独立後もアメリカの強大な影響力から完全に逃れることはできておらず、靖男たちの世代の若者たちは、生まれながらにして“支配される側”の劣等感を抱いていたと考えることができます。
実際、作中で靖男は「日本の若い青年の生れつきの後悔、皮膚が黄色いということへの後悔」「日本は心をふるわせるアジアでない」と語っており、日本人であることに国際的劣等感を抱いていました。
“猶予”や“汚辱”の感覚を生む「精神的なインポテンツ」は、強く植え付けられたこの民族的な劣等感が根底にあったのではないでしょうか。
だからこそ、生まれながらにして優位に立つ外国人の手が「日本人のひそやかな内部」を象徴する頼子の無防備な部位に触れることは、靖男の劣等感を強く刺激し、はげしい嫌悪を引き起こすのです。
靖男にとって頼子の存在とは“猶予”と“汚辱”を象徴するものであり、さらには外国人相手の娼婦という職業柄、日本人としての劣等感を刺激する要素も兼ね備えていたのでした。
「性的な倒錯」がもたらした超越の可能性
本作で、靖男と同じく「性的なるもの」の描写が多いのは《不幸な若者たち》の高でしょう。
かれにとっての「性的なるもの」とは、“権力”を象徴するものといえます。
そのモチーフは、太平洋戦争下の日本における絶対的な天皇制への懐古に結びつき、あるいは朝鮮人、東洋人という立場を超越する手段として用いられるためです。
黄金時代である天皇制への懐古
作中において、高が天皇を惹起する際には必ず性的モチーフが用いられています。
これは、かれがファシズムに抱く憧憬の強さを表すためのモチーフといえるでしょう。
たとえば、母から「おまえが寝小便をやめられないなら天皇陛下におまえのチンポコを切りとってもらう!」といわれたことから、夜尿症は「一種の反国民的な自瀆のごときもの」になったと表現され、幼少期にはズボンの前開きを「奉安殿」と称していたことも語られます。
また、天皇襲撃計画の際はかつて自瀆に専念していたころに行った「性器をゴムベルトでぐるぐるまきにしての自瀆」のことを思い出し、襲撃計画にあたって、そのときの「眼もくらむ灼熱感」と同じものを感じています。
高にとって天皇という存在は幼少期の幸福を思い起こさせるものであり、その強い熱情が、自瀆やセックスという身体的刺激による強い興奮に重ねられているのではないでしょうか。
高がこれほど強く太平洋戦争下の天皇制を懐古するのは、かれにとって民族的アイデンティティを満たすことができた唯一の時間だったから、と考えることができます。
太平洋戦争のころ、日本国民であり「陛下の赤子」であった高は、天皇崇拝の教育を受け、日本国民としての強烈な連帯感を植え付けられていたことでしょう。
しかし、戦争が終わるとかれは日本国民ではなくなり、民族的アイデンティティを失います。
それを取り戻すべく向かった《祖国》朝鮮での戦争においては、記憶を「深い忘却の淵」へ落とすほどのトラウマを植え付けられ、結局、再び日本へ逃げ延びることとなりました。
朝鮮戦争における高のトラウマの原因は、ただ戦地で死を間近に見たから、という説明では足りません。
かれが朝鮮戦争で目の当たりにしたのは、朝鮮人と米兵との圧倒的な格差でした。
米兵が皆、屈強な身体をもっていたのに対して、殺戮された朝鮮人たちは「栄養失調で青黒く張れあがった汚ない腹」をもっていました。
さらに、そうした格差のなかで高は米兵の男娼にされています。
今でこそ同性愛者として男性との行為を好む高ですが、当時はされるがまま「汚辱にみちたふるまい」を強いられたのではないでしょうか。
《祖国》朝鮮では民族的劣等感を植え付けられ、帰ってきた日本では疎外感を味わうこととなった高にとって、天皇という絶対的な為政者があり、日本人たることに誇りをもつことができた太平洋戦争下の日本での日々が人生でもっとも幸福な時代だったのかもしれません。
だからこそ、《静かなる男》に成り下がってしまった天皇に対し、失望を抱かずにはいられませんでした。
独裁者の熱望は、日本で生まれ育った朝鮮人という複雑な立場にいる自身のアイデンティティを模索したいとする思いにつうじていたのではないでしょうか。
かれにとって独裁者を求める思いは、性的欲求と同じくらい熱烈で本能的なものだったのです。
民族的な支配関係をくつがえす手段
高がもつ性的要素の大きな特徴として、「性的な倒錯」とも表現される同性愛の要素が挙げられます。
かれは同性愛者としての性行為を「民族的な序列を一挙にひっくりかえし挽回するための息苦しい儀式」と語り、それが単なる身体的な快楽を超えた、精神的な充足をもたらすものであることがわかります。
ファシズムへの憧憬が性的エネルギーと同化している、というここまでの考察からもわかるように、高にとって性的なものは“権力”の象徴でした。
つまり、性的に相手を満足させるということは、高にとってその相手を支配したということに等しい価値を持つのです。
朝鮮人・東洋人という支配される側の人間であっても、国や民族という障壁を超えて、いわば支配する側にいたアメリカ人・白人を制することができると高は考えていました。
朝鮮にいても、日本にいても、民族的コンプレックスから抜け出すことができない高にとって、白人男性との性行為は劣等感から脱するための唯一の手段だったのです。
本作において、生きる活力をもち権力をもつ人間とは、戦争という場で死に対峙したことのある英雄に限られており、必然的に女性はそこに当てはまりません。
高は力をもった男性を抱ける同性愛者だからこそ、性行為に“汚辱”を見出す靖男と対照的に、立場の超越というある種のチャンスを見出すことができたのです。
若者たちが抱えた「奥底の異常」とは?
「性的なるもの」を“猶予”の消費と考え“汚辱”を見出している靖男と、「性的なるもの」に“権力”を見出し、ファシズムへの熱情や民族性超越の可能性を見出している高、それぞれ対照的な役割をもっていますが、最終的に「性的なるもの」はかれらにどういった作用をおよぼしたのでしょうか。
「精神的インポテンツ」を明瞭にした「脱出」
靖男は「女陰的な世界」への嫌悪をあらわにし頼子との決別を果たした結果、さらなる絶望を突きつけられる結果となりました。
自殺しか選択肢が残されていないこと、その自殺すら行う勇気がないことを自覚した末の絶望です。
靖男はフランス留学という選択肢を得たことで、うっすらと抱いていた「女陰的な世界」への嫌悪を意識しはじめ、「出発」への熱望を高めてついに妊娠した頼子を無慈悲に切り捨てます。
かれは反・フランスの政治運動を行うアラブ人と連帯することで、「行動」するものとしての新たな人生を歩みはじめようとしていましたが、弟・滋の爆死事故に巻き込まれたことをきっかけにアラブ人との連帯を疑われ、結果、留学の権利を破棄する選択をしました。
その後の靖男は、頼子の「女陰的な世界」こそ脱したものの、ほかは元の無気力な生活に戻ってしまったように思われます。
留学の権利を捨ててまでアラブ人との連帯を貫いた靖男は、なぜ八木沢からの民学同への勧誘を拒絶したのでしょうか。
アラブ人と八木沢は「行動」する者として連帯していました。
アラブ人との連帯が、八木沢との連帯には結び付かなかったのはなぜなのでしょうか。
靖男にとってのふたりのちがいは、まさに生まれた時代と場所、その民族性にありました。
アラブ人にとって政治運動は「生きるか死ぬかの荒あらしい戦い」といってよいものであり、対して日本人の若者である八木沢の政治運動は、「絶望あそび」の延長にしか思えないものでした。
天皇は《静かなる男》となり戦争のない国となった日本で、「生きるか死ぬかの荒あらしい戦い」はどうあがいても虚構に過ぎないと靖男は考えているのです。
かれは戦後日本における唯一の英雄的行為は自殺と考えますが、その気力すら湧いてこず、自殺の機会が偏在する世界で自殺せずに生き続ける「われらの時代」の虚しさが語られて、物語は、幕を閉じます。
作品全体をとおして、頼子を中心とした「女陰的な世界」は靖男を“猶予”や“汚辱”にみちびき、停滞した戦後日本に押しこめる存在として、その陰湿さを強調されてきました。
しかし、最終的に靖男が悟ったのは、いざ頼子ひとりと決別したところでこの時代のこの国に生まれた以上、“猶予”や“汚辱”の感覚からは逃れることができないという現実でした。
本作における「女陰的な世界」は、それを突破した先に残された虚無を際立たせ、若者らの失われた希望をあらためて明るみにする役割を果たしていたといえるでしょう。
性的エネルギーの暴露が引き起こした侮蔑と爆死
一方、「性的なるもの」にある種の希望を見出していた高は、その希望が都合のよい自己弁解に過ぎなかったことを突きつけられた結果、爆死という悲劇的な方法で自己統一を遂げることになりました。
《不幸な若者たち》のなかにいた高は、滋から「男らしい」とみなされていました。
それは、かれが《不幸な若者たち》の前で「性的なるもの」、つまり同性愛者の気質を隠していたからです。
しかし、朝鮮戦線でともに戦ったジミーとの再会を果たし、かれにそのエネルギーを発散させたことをきっかけに、「自分で選んだつもりで実は哀れな東洋人の男娼だった」こと、「同胞から超越することを選ぶ、それらは勝手な自己弁解に過ぎなかった」ことを突きつけられ、絶望します。
天皇制も同性愛も意味をなさないことを悟った高は、滋を連れて《祖国》朝鮮へ逃げ延びようとしました。
しかし、ここでも仲間外れにされたと気づいた康二によって「朝鮮人こそ生まれつきの卑怯者」と民族的差別を受けることになります。
アメリカ人からも日本人からも差別的視線を浴びせられた高は、手榴弾を使った度胸試しのゲームによって爆死を遂げました。
唯一の希望を断たれアイデンティティを見失っていた高にとって、死から逃げない度胸を示すことが、性的エネルギーに変わって民族的超越をもたらす最後の方法に思われたのでしょう。
高と同様に、手榴弾から逃れず爆死した康二も根底にある思いは同じだったものだったと思われます。
天皇襲撃計画の失敗から、戦争を知らない日本の若者であることへの劣等感を増幅させられていた康二は、卑怯者、臆病者であることをもっとも恐れていました。
度胸試しの末の爆死は、逃れられない宿命的な劣等感を超越する唯一の手段といえます。
これはまさに、靖男が見出していた唯一の英雄的行為としての自殺だったといえるでしょう。
「性的なるもの」に対して靖男とは対照的に希望を託していた高でしたが、その根底にあるのは同じように逃れられない民族的劣等感であり、かれが見出していた希望も幻想に過ぎないことが明るみになりました。
靖男、高をはじめとした若者たちは性行為によっても、友情や連帯によっても、最後まで民族的、世代的劣等感を克服することは叶いませんでした。
唯一、超越を成し遂げたのが高と康二の爆死であることは、はてしなく救いのない結末のように思われます。
大江が示した「われらの時代」とは、一筋の光も見出すことのできない、あまりにも暗く虚しい時代だったといえるでしょう。
感想
嫌悪を引き起こす名作
本作は全体に嫌悪感を引き起こす小説ですが、そのひとつの要素としてあるのが強烈な男尊女卑の思想です。
作中の男性たちは、女性の卑しさ、弱さ、汚さをこれでもかというほど主張します。
頼子の「女陰的な世界」を執拗に陰湿でグロテスクなものとして描いているのはいうまでもなく、輪姦された娘は「猿の手のように醜い手」をもつと記し、中絶したら死ぬと宣告されている頼子自身に、自分には中絶を拒む力などない、と語らせています。
現代ほど男女平等の叫ばれる時代でないことは考慮した上で、それでもなお過剰に思われる女性嫌悪の描写は、おそらく戦争・ファシズムへの憧憬と同じく意図的に描かれたもののように思われます。
解説でも触れたように、作中の男性に蔓延する女性への嫌悪は、すなわち妊娠への嫌悪であり、この時代に生まれ落ちる生命そのものへの嫌悪につうじています。
作中の妊娠はジブラルタルの流産、頼子の中絶など、常に死のイメージと結びついており、生命そのものに対する絶望を示すことで戦争という名目を失った若者たちの虚無をさらに引き立てているといえるでしょう。
大江自身が文庫版のあとがきに「この小説は村八分のふしだら娘のように、ほとんどあらゆる批評家から嫌悪されていた」と記しているとおり、発表当時、本作への評価は非常に厳しいものだったようです。
たしかに、若者たちによる戦争への憧憬や強烈な女性蔑視、それらはあまりにも危険で、批判されて然るべきモチーフといえます。
さらに、この小説には救いがありません。
政治活動に希望をもっていたはずの八木沢ですら、最後には靖男に無意味を突きつけられています。
作中に蔓延する絶望は絶望のまま取り残され、苛烈な思想に基づく青年たちの虚無は終わりを迎えることがありませんでした。
こうした若者たちの暴走や過剰な絶望感を受け入れられない読者、かれらの思想を憎む読者がいてもおかしくありません。
しかし、大江が本作にかけた思いは、あとがきの「読者を荒あらしく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたてたい」という一文に集約されていると感じます。
かれは思想を主張するのでも答えを示すのでもなく、「現実生活の二十世紀後半タイプの平穏なうわずみ」を「撹拌」することのみを考えていたのです。
だからこそ、中途半端に絶望を美化したり、希望を示したりすることはありませんでした。
デビューまもない新人作家にしてこれほどまでに過激な表現を打ち出した裏には、批判覚悟で、必ず牧歌的な作家からの「脱出」を遂げるのだという作家の強い決心があったように思われます。
若者の政治離れが叫ばれてひさしい現代、出版から六十年以上が経った令和の時代にも、靖男らの抱いた「われらの時代」の感覚はつづいている――むしろ、加速の一途をたどっているように思われます。
私たちは「現実生活の二十世紀後半タイプの平穏なうわずみ」に今もなお身を浸しているのかもしれません。
1950年代を生きた若者たちの苛烈な絶望を突きつけられることで、令和を生きる私にもたしかに、現代の平和とはなんなのか、希望とはなんなのか、それらは本当に虚無であるのか、模索する思いが生まれました。
かれらに「反撥心」を抱いた私は、大江の術中に見事にはめられているのでしょう。
以上、『われらの時代』のあらすじ、考察と感想でした。