『高丘親王航海記』の紹介
独自の視点で物事を見つめ、幻想的かつエロティックな筆致で物語を描き出す澁澤龍彦。
『高丘親王航海記』は、そんな彼の遺作にあたる作品です。本作はあまりメジャーなものではありませんが、澁澤龍彦の魅力が詰まっています。
今回は、そんな『高丘親王航海記』の解説や感想を書いていきます。
『高丘親王航海記』のあらすじ
時は貞観7年(西暦865年)、67歳の高丘親王は中国の広州から天竺に向けて出発しました。
彼と共に旅をするのは、安展と円覚、さらに脱走した奴隷と思しき少年・秋丸です。
親王は子供の時から天竺に憧れを抱き、はるばる日本から旅をしてきたのです。
旅の途中、一行は不可思議な生物や植物、事態に出会います。
言葉をしゃべるジュゴンにオオアリクイ、下半身が鳥の女、上に座った女をミイラにするというラフレシア。
旅が進むにつれ現実と夢の境は曖昧になり、親王の心すら、夢とうつつの間をさ迷っていきます。
物語の終盤、親王一行は師子国(セイロン)を目指して船旅をしていました。
しかし、この船は盗賊達によって襲われ、親王は宝物である美しい真珠を、取られまいとして飲み込んでしまいました。
その真珠は親王の命をむしばみ、彼は生きたまま天竺に辿り着くのは不可能だと悟ります。
親王は以前関わりのあった少女から、「故郷である天竺に戻る虎」の話を聞き、虎に食われて天竺に行くことを決意します。
その決意は遂げられ、安展と円覚は泣きながら彼の骨を拾ったのでした。
『高丘親王航海記』ー概要
物語の主人公 | 高丘親王 |
物語の重要人物 | 高丘親王、秋丸(春丸)、藤原薬子、パタリヤ・パタタ姫 |
主な舞台 | 中国、ベトナムやカンボジアなど東南アジア |
時代背景 | 平安時代 |
作者 | 澁澤龍彦 |
『高丘親王航海記』の解説
・澁澤龍彦の死生観
どう生きて、どう死んでいくか。どんな生きざまを、どんな死にざまを理想とするか。
そうした観念を「死生観」と呼びます。こう書くと難しく感じるかもしれませんが、おそらく多くの人が、おぼろげながらも考えたことがあるに違いありません。
本作『高丘親王航海記』は、一読しただけではいまいち内容を掴みきることができません。
「高丘親王が天竺を目指し、様々な土地を訪れる旅行記のようなもの」
ということは理解できても、次々に訪れる理不尽な描写の数々に気おされてしまうのです。
では、本作を読み取るヒントはどこにあるのでしょう。私は、作者である澁澤龍彦の死生観にあると考えています。
元々、本作は澁澤龍彦の遺作だけあって、物語の始まりから「死」が匂い立っています。
老年ながら元気のある親王ですら、その周囲に満ちた死の気配を振り払うことができません。
物語の第一章には、言葉を話すジュゴンが登場します。
最初はただのジュゴンだったものが、秋丸の尽力により、どうやら人語を解せるようになったのです。
しかし、ジュゴンはしっかりと言葉を話すと共に、命をおとしてしまいます。
とても楽しかった。でも、ようやくそれがいえたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ。たとえいのち尽きるとも、儒艮の魂気が絶えるということはない。いずれ近き将来、南の海で再びお目にかかろう。
澁澤龍彦『高丘親王航海記』文藝春秋,1987年,p30,7~9行目
この言葉からは、主に2つのメッセージを読み取ることができます。
- 澁澤龍彦の言葉に対する信頼感や愛情
- 澁澤龍彦の輪廻転生の考えかた
です。
澁澤龍彦は、作家として「言葉」を心底愛していたのでしょう。
それはもう、言葉と心中しても良いと思える程に。
そして、自分の言葉は自分の物として、共に死後の世界に赴きたかったのだと思います。
そして、もう一つのメッセージの輪廻転生。
これは決して、仏教的な輪廻転生の考え方では無いでしょう。
澁澤龍彦も、そして、その化身として考えられる高丘親王自身も、解脱を望んでいるようには感じ取れないからです(仏教では、輪廻転生を繰り返すことにより、最終的な解脱を目指すとしています)。
特に、高丘親王は僧であり、仏教の本拠地である天竺を目指してはいるものの、世俗人的な一面を強く描かれています。
澁澤龍彦が思う輪廻転生。その細かな部分は、本人にしか分かりません。
しかし、ジュゴンの言葉から僅かなヒントを得ることができます。
作家は、自分の創作物に魂を乗せることができます。
その魂は著作物が残る限り不滅であり、読み続けられる限り、何度でも復活できます。
つまり、本作『高丘親王航海記』は、澁澤龍彦流「死者の書」として読むことができるのではないでしょうか。
「自分の肉体は滅ぶけれども、魂は常に『ここ』にある」
そうしたメッセージを、彼は本作に込めたのでしょう。
一読しただけでは、分かりにくい『高丘親王航海記』の世界。
一度、ここに書いた死生観を当てはめて全てのエピソードを読み通せば、新しいものが見えるかもしれません。
・「人ならざるもの」と「獣ならざるもの」
人は通常、獣の姿をしていませんし、獣は通常、人語を話すことができません。
しかし、この理を覆すような「人ならざるもの」や「獣ならざるもの」が、『高丘親王航海記』には数多く登場します。先に挙げたジュゴンも、その一例でしょう。
では、人と獣の境はどこにあるのでしょうか。
まず、動物は話すことができません。(ここで言う「話す」とは、言葉を理解して、自分の意思を持って、言葉を発することを指します。つまり、オウムなどは当てはまりません。)
また、犬などは人の言葉をある程度理解しているとされていますが、自分から言葉を話すことはできません。
人間の特徴は、火を使えること。そして何より、複雑な言葉を話せるということ。
こう考えると、言葉とは「人間性」の一つの現れと言えるでしょう。
本作の第二章には、上半身が人間の女で、下半身が鳥という不思議な生物が複数登場します。
これらの生物たちはとある王国の国王に寵愛され、後宮に閉じ込められているとされています。
彼女達の見た目は人間に近いものの、身動きは一切取りません。勿論、親王に対し話しかけることもありません。
ただ寝台に寝そべり、裸の体をさらしているだけなのです。
彼女達には、意思があるように思えません。目は開いたままで、恥じらいも無いようです。生きているのかどうかすら妖しい体で、後宮を訪れる男たちを受け入れているのです。
元々、性行為とは本能に基づいた、大切ではあるものの動物的な行為です。その行為を受け入れる半人間・半動物の女性たちは、「どちらの側」にあるのでしょう。
死の間際とはいえ、人間性を発露して言葉を話したジュゴン。
ジュゴンよりも人間に近い見た目をしながらも、話しもせず、意思を表現しない女たち。
理性と動物性を兼ね備えているのが、人間の本質です。この2種類の生物たちは、こうした相反する事実を端的に表現しているのでしょう。
『高丘親王航海記』の感想
・濃密な死のにおいに、眩暈がする
私が『高丘親王航海記』を初めて読んだのは大学生の時です。
当時の私は三島由紀夫を好んで読んでおり、その繋がりから澁澤龍彦に手を出しました。
そのときの感想はいまや遠いものとなってしまいましたが、心の奥の何かに触れるような、むずがゆさを感じたことを覚えています。
そしてこのたび、また『高丘親王航海記』に手を伸ばし、幾度目かの再読を終えました。
今回感じたのは、むずがゆさでは無く眩暈です。
本作は、作品を通して濃密な死の匂いを放っています。それは勿論、この作品が澁澤龍彦の遺作であることが関係しているのでしょう。
特に、主人公である高丘親王の病に関しては、作者本人の体験をそのまま投影しているのだと分かります。
では、この物語が悲しいものかと言えば、決してそうではありません。死の匂いは強くとも、底の抜けたような明るさがあるのです。
明るい死の匂い。それは、不思議に美しいものです。じっと見つめていると、飲み込まれるような気分になります。
それを肺の奥に吸い込むと、眩暈が起こってしまう。私が、今回感じた眩暈は、死の匂いを感じ取り過ぎたのでしょう。
もっともっと、それこそ死期が近くなってから、本作を読むとどうなるのでしょう。私はいつか、澁澤龍彦の境地に辿り着けるのでしょうか。今から気になって仕方ありません。
以上、澁澤龍彦『高丘親王航海記』のあらすじ・解説・感想でした。