三島由紀夫『仮面の告白』「私」が園子に抱いた感情とは?

『仮面の告白』について

秀逸な作品群とセンセーショナルな行動で、その名を広く知られる三島由紀夫。

『仮面の告白』は、そんな三島由紀夫の自伝的小説とされている作品です。

今作には、女性に性的興奮を感じず、「死」に惹かれる主人公が登場しています。

当時としても、現代でも異質な作品ではありますが、それだけに三島特有の匂いを感じ取れる作品と言えるでしょう。

『仮面の告白』のあらすじ

病弱で青白い肌を持つ「私」は、生まれてすぐに父母から離され、祖母の手によって育てられました。

祖母は「私」を溺愛しており、あてがわれる遊び相手も、危険がないよう女の子だけという偏ったものでした。

そんな生活の中、「私」は自身の中に芽生える感情に気が付きます。

兵士から放たれる汗の匂い、美しい糞尿汲み取り人の青年に「なり替わりたい」という願い、死に行く王子への気持ち。

これらは「私」の心をざわつかせるもので、彼にとっての官能の始まりでした。

そんな環境で成長した「私」は、自身が女性ではなく同性である男性に性的な感情を抱くことに気が付きます。

それは、周囲の同級生とは大きくかけ離れた感情でした。

ある日、「私」は友人の妹である園子に、新しい気持ちを見出しました。

それは肉欲の介しない純粋な愛情とでも言うべきものであり、「私」は園子を心から愛そうと努力します。

しかし、その試みは失敗しました。園子にキスをした「私」は、なんの感情も抱けないことに気が付いたのです。

「私」と別れた園子は、後に別の男性と結婚しました。2人は密会を重ねますが、「私」の気持ちが園子に向くことはありませんでした。

『仮面の告白』ー概要

主人公
重要人物 私/園子/近江
主な舞台 東京
時代背景 昭和(戦前から戦後にかけて)
作者 三島由紀夫

『仮面の告白』の解説

・作品から考える「作家そのもの」

「こんな作品を書くんだから、この作家は〇〇なはず」

「この作家は✕✕だから、この人の本を読みたいor読みたくない」

意識しているかどうかは別にして、世の中の比較的多くの人がこうした考え方(固定概念)を持っていることでしょう。

そしてその考え方は、決して間違いとは言えません。作品には作家の人となりが表れるものですし、逆もまた真理だからです。

それを踏まえた上で、私は作品と作家をはっきり区別するようにしています。

それは、良い作品を見逃さないようにするためであり、物語を書く人間としてのプライドでもあります。

三島由紀夫という作家は、素晴らしい作品を残した人物であるにも関わらず、その人物像から作品に手を出しにくい作家の一人です。

しかし、今作『仮面の告白』ではあえて、作家と作品に繋がりを持たせて読み解いていきましょう。

その主な理由は以下の2つです。

  • 『仮面の告白』が三島由紀夫の自伝的作品だとされていること
  • 後の三島作品に頻繁に登場するイメージが、彼の初期作品である今作でも描写されていること

「自伝的作品」という言葉を、そのまま真実として受け取ることは危険です。

自伝的作品はエッセイではなく、あくまでも小説。どれくらいのフィクションが含まれているかは、それを書いた作家しか知らないからです。

しかし、作品内にある程度の真実が含まれていることも確かなはずです。

その観点で『仮面の告白』を読んでみると、「三島由紀夫」という鎧に隠された芯の部分が垣間見えます。

その芯とは、例えば「私」の祖母のこと。

古い家柄の出の祖母は、祖父を憎み蔑んでいた。彼女は狷介不屈な、或る狂おしい私的な魂だった。痼疾の脳神経痛が、遠まわしに、着実に、彼女の神経を蝕んでいた。同時に無益な明晰さをそれが彼女の理知に増した。死にいたるまでつづいたこの狂燥の発作が、祖父の壮年時代の罪の形見であることを誰が知っていたか?

三島由紀夫「仮面の告白」新潮社、昭和25年、P8.10~13行目

三島由紀夫は、祖母に溺愛されて育ちました。

また、祖母がキツイ性格(昔風に言うならばヒステリー状態)であったことも確かなようで、作中の「私」と同様に、祖母の存在が現実の三島由紀夫に影響を及ぼしたと考えることができます。

また「私」が、病弱で青白い顔をした子供だったことも、三島由紀夫の成育歴に一致しています。

作家の芯を知ることは、その人物の原風景を知るということ。

原風景が見えれば、作品の裏に何があったのかを想像することができます。

これは物語を読む上で、一つの答えに近づくために役立つでしょう。

三島由紀夫は、自身を飾り立てた作家です。ひ弱なもやしっ子から筋骨隆々の体へ。美しく健全な肉体(だと考えていたもの)へ。

それは2番目の理由である「作品に登場するイメージ」に繋がっており、ギリシャ神話の神・アポローンの様な若々しく力強い肉体です。

もし、三島由紀夫が体だけでなく、内面(行動)も飾り立てていたとしたら?例えば、「強く美しい男はこうあるべき」というような。

仮面をかぶっていたのは「私」では無く、三島由紀夫その人なのかもしれません。

・「死」と「性」

今作に登場する概念のうち、特徴的なものが2つあります。その概念とは、「死」と「性」というもの。

この概念が小説作品に用いられることは決して珍しいことではありません。

むしろ、今現在「名作」と呼ばれるような作品については、多かれ少なかれ、こうした概念のどちらかが含まれていることでしょう。

場合によっては、2つがささやかに絡み合いながら登場しているかもしれません。

今作『仮面の告白』で特筆すべきなのは、「死」と「性」という2つの概念が頻繁に、かつ、密接に関係しあいながら登場している、という点にあります。

一般的に今作は、「私」の性的欲望・衝動は同性に向けられる、と語られることが多いもの。

しかしよく読んでみれば、「死」への思いもまた、同性への思いと同等に強く表れています。その傾向は、特に冒頭部分で顕著です。

「子供に手のとどくかぎりの御伽噺を渉猟しながら、私は王女たちを愛さなかった。王子だけを愛した。殺される王子たち、死の運命にある王子たちは一層愛した。殺される若者たちを凡て愛した

三島由紀夫「仮面の告白」新潮社、昭和25年、P23.9~11行目」

上記に引用した部分は、同性への気持ちと死への気持ちが分かりやすく表現されている部分です。

引用した部分から考えてみましょう。文中に、「愛」という言葉が見受けられます。

この愛を感じたのは、幼少の頃の「私」です。これは、子供が感じる純粋な「好き」という気持ちでしょう。

しかし、ただ好きな訳ではありません。偏愛に近いもの、やがては、性愛に繋がるものです。

そしてその感情は同性である王子だけに留まらず、「死」に対して向けられていることが分かります。

「死」と「性」もしくは「性愛」。これを結び付けて考えることは、なかなか難しいかもしれません。

特に「死」そのものや、それに関わる事象に対して性的衝動を抱くと言う感情に対し、嫌悪感に近いものを抱く人もいることでしょう。

しかし本来、「死」と「性」は縁が深いものなのです。

怖いもの見たさ、という感情を抱いたことはありますか?

「怖い」と感じる気持ちは、本来、生物の生存本能に基づいています。

怖いから避ける、怖いものを遠ざけるという気持ちは、死を直接的に遠ざけることができるからです。

刃物を突きつけられたら、その先を想像してしまい、逃げたいと思いますよね。生存本能とは、正にそんな感情です。

しかし、人間は(猿にもあるようですが)「怖いもの見たさ」という感情も持っています。

これは、自身が恐怖に陥ることを分かっていながらも、その事象を望んで受け入れる、というものです。

ホラー映画やスプラッター映画好きが、その分かりやすい事例でしょう。

これは、生存本能からすると不思議な感情です。なぜ、怖いものを自分から望んで受け入れるのでしょうか。

それは、怖いものを受け入れた先に、何らかの「快感」が待ち構えているからです。

有名な心理学者であるフロイト博士が、こんな概念を提唱しました。

その概念とは、「タナトスの欲求」というもの。タナトスとは、ギリシャ神話に登場する死の神です。

この概念を分かりやすく説明すると、「死を求める感情」ということができるでしょう。

さらに、性的倒錯の世界には「タナトフィリア」というものが存在します。

これは、「死そのものや、死に類するもの」に性的感情を抱くものであり、いわば、「死へのフェチ(フェティシズムは本来別のものですが)」と言うことができます。

フロイト博士の考えが全て正しいと、私は言うつもりはありません。

しかし、この欲求が本当にあるのだとすると、「怖いものみたさ」の感情を言葉として考えることができ、『仮面の告白』の理解に繋がるのではないでしょうか。

・「私」が園子に抱いた感情は?

今作の主人公である「私」が性的な感情を抱くのは、同性の男性に限られます。

しかし作中には、そんな「私」が他と違うと感じた女性が登場しています。

その女性とは、友人の妹である園子。

園子はまだ私に気づいていない様子であった。私のほうからはありありとみえた。生まれてこのかた私は女性にこれほど心をうごかす美しさをおぼえたことがなかった。私の胸は高鳴り、私は清らかな気持ちになった。

三島由紀夫「仮面の告白」新潮社、昭和25年、P131.16~P132.2行目

「私」は自分自身が園子に向ける気持ちを、愛や恋といった言葉で表現できるものだと思い込もうとしていました。

しかし、それは叶いません。園子の唇に、なんの快感も感じることができなかったからです。

それでも「私」にとって、園子は他の女性と違ったことは確かです。

では、「私」が園子に抱いた感情とは一体何だったのでしょう。

例えば、美しい人を見たとき。美しいものを見たとき。どんな気持ちになるでしょうか。

例外はあるかもしれませんが、心愉しい、素敵な気分になるはずです。もっと見ていたい気分になります。それは嫉妬に結びつかない、限りなく明るい「陽」の気持ちです。

それに対して、性的な気持ちは「陰」に当たります。皆が持っていて当たり前の感情でありながら、人に言うのは少し恥ずかしい。そんな気持ちです。

美しいものを見て沸き起こる気持ちは、性的なものとは全く異なります。

しいて言うならば、強い憧れのようなものと言えるでしょう。そしてこの気持ちは、異性も同性も関係ありません。全ての性別に対し、抱くことができる感情です。

「私」が園子に抱いた気持ちも、この「憧れ」だと考えると納得できます。

「私」は「(性的な感情の伴わない)憧れ」という気持ちを、「(性的な関係が付随する)愛または恋」と考え、そう思い込もうとしてしまいました。

そのため、キスで何の快感も得られず、ショックを受けてしまったのでしょう。

もし「私」が最初から自分の気持ちを分析していたら、物語の結末も変わっていたかもしれません。

『仮面の告白』の感想

・読書の醍醐味

読書の醍醐味とは、一体何だと思いますか?

この答えは、おそらく人によって違うのでしょう。ストーリーを追いかける楽しさは多くの人が感じていると思いますが、読書の何に重きを置くかは、人それぞれなのですから。

私もまた、他の読書好きと同じように、自分なりの読書の楽しみ方・醍醐味を持っています。

私のそれは「主人公の中に入り込んで、物語を追体験していくこと」です。

そして、今作『仮面の告白』は、私に読書の醍醐味を強く感じさせた作品です。

多くの(特に明治から昭和にかけての)名作とされる作品の主人公は、なんだか常に難しいことを考えていて、確かに人間心理を突くものではあるにしても、主人公の中に入り込めないことが多々あります。

私は中高生のときに夏目漱石などを読んで、この現象に悩まされました。

私が『仮面の告白』を手に取ったのは、正に中高生の時。高校2年生の夏でした。本屋で偶然見かけて、なぜだか無性に心惹かれて手に取りました。

そして、その直感は正解でした。私は物語の中に、主人公の中に、すんなりと入ることができたのです。

『仮面の告白』の主人公である「私」が、決して分かりやすい言葉を使っている訳ではありません。

先に引用した一部だけで分かる通り、その言葉遣いはむしろ難解です。

それでも、主人公の中に入れた理由。それを私は、長い間考えました。そして、一つ出た答えが「三島由紀夫の文章が私にとって心地良いものだった」というものです。

二つの手袋が私の記憶の電話で混線するのだった。この革の手袋と、次に述べる式日の白手袋と、どちらかが記憶の真実で、どちらかが記憶の嘘だと思われた。彼の粗野な顔かたちには、革の手袋のほうがふさわしいかもしれなかった。またしかし、彼の粗野な顔かたちゆえに、白手袋のほうが似合いのものかもしれなかった。

三島由紀夫「仮面の告白」新潮社、昭和25年、P59.7行目~10行目

上記に引用したものは、「私」が近江という少年に抱いた恋心を、手袋の記憶に乗せて回想したものです。

ここで描かれるのは、具体的な事象というよりもイメージの奔流です。

そして、一度その流れに乗ってしまえば、言葉遣いが難しくとも、書かれている絵面は的確に浮かんできます。

私が、三島由紀夫の文章に感じた快さは、このイメージの流れにあるのでしょう。三島由紀夫の文章は(多少装飾的であるにせよ)美しく、詩的なリズムを持っています。

そしてその美しいリズム感は、(特に当時は)一般的に「恥」と受け取られかねないような内容を、二度とは現れないような文学的名作に仕上げているのです。

予期せぬ形で触れる、文学の素晴らしさ。こうしたものに触れられるのもまた、読書の醍醐味なのかもしれません。

以上、『仮面の告白』のあらすじ・解説・感想でした。

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オオノギガリ

子供のときから文を読み、書くことが大好きでした。高校生の時に近代の日本文学にのめりこみ、本格的に作家への道を志しました。現在は小説家を目指しながら、ひっそりとウェブライターとして活動しています。好きな作家は澁澤龍彦・三島由紀夫など。ジャンル問わず読む雑食性です。