梶井基次郎『檸檬』「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?

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梶井基次郎『檸檬』「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?

『檸檬』について

『檸檬』は梶井基次郎のデビュー作であり、代表作と評される短編小説です。

教科書頻出の作品である一方で、主題が曖昧で、読解が容易ではない作品とも言われています。

ここでは、そんな『檸檬』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『檸檬』ーあらすじ

えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始おさえつけていた。

不吉な塊は私を居たたまらずさせ、終始私は街から街を浮浪し続けていた。

その頃の私は見すぼらしくて美しいものに強く引きつけられた。

以前好んだ丸善も、その頃の私にとっては重苦しい場所に過ぎなかった。

友人の下宿を転々としていたある朝、私は街を彷徨い歩き、一軒の果物屋で足を留めた。

その店には珍しく檸檬が出ていた。私はそれを一つだけ買った。

不吉な塊が檸檬を握った瞬間からいくらか弛んで来て、私は非常に幸福であった。

幸福だった私は、平常あんなに避けていた丸善にずかずか入って行った。

しかし、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げて行き、画本を棚から取り出すのさえ常に増して力が要った。

私は憂鬱になって、積み重ねた本の群を眺めていた。

その時私は袂の中の檸檬を思い出した。
私は手当たり次第に画本を積み上げ、できあがった頂に檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

不意に第二のアイディアが起こった。それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出て行った。

檸檬を爆弾に見立てた私は、丸善が大爆発をする愉快な想像をしながら、京極を下って行った。

『檸檬』ー概要

物語の主人公
物語の重要なもの 檸檬
主な舞台 京都(丸善 京都本店)
時代背景 大正時代
作者 梶井基次郎

『檸檬』―解説(考察)

・『檸檬』の成立背景

『檸檬』は、作者の学生時代の経験と心理を背景として執筆された作品です。

すなわち、「私」=作者として捉えることができます。

『檸檬』が発表されるまでの作者略年譜を下記にまとめました。

明治34年(1歳) 大阪で、父宗太郎、母ひさの次男として誕生。
大正4年(15歳) 大阪府立北野中学校三年級に進むも退学。自家の向かいにあったメリヤス問屋岩橋商店の丁稚となり、奉公する。
大正5年(16歳) 母の説得により、北野中学校三年級に再入学。
大正8年(19歳) 北野中学校卒業。京都の第三高等学校入学。
大正9年(20歳) 5月、肋膜炎にかかり帰阪、休学。落第して原級に止まる。
9月、軽微の肺結核と診断される。
大正11年(22歳) 特別及第で三年級に進むが、十二月、退廃的生活が甚だしくなり、自宅にて謹慎。この年、文学に立とうとする志を堅くする。
大正12年(23歳) 『瀬山の話』草稿に着手。
大正13年(24歳) 三高卒業。東京帝国大学文学部英文科に入学。『檸檬』を脱稿。
大正14年(25歳) 『檸檬』発表。

具体的には、略年譜記載の第三高等学校時代、京都に下宿していた頃を背景としています。

そして、『檸檬』冒頭で「私」が肺尖カタル(肺結核の初期症状)を患っていることが示されていますが、実際に三高時代に、作者は肺結核を診断されています。

作者は肺結核のため31歳の若さでこの世を去りますが、『檸檬』執筆当時はそれほど重症化していたわけではありません。

ですから、『檸檬』の作品全体を通して存在する憂鬱感は、あくまで「えたいの知れない不吉な塊」によるもので、病に対する恐怖心などと同一視することはできません。

では、「私」=作者を苦しめた「えたいの知れない不吉な塊」とは一体何なのでしょうか。

・「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?

結論から言うと、「えたいの知れない不吉な塊」とは、

〈諸々の問題によって立ち行かなくなり、自暴自棄を起こしている自分自身に対する焦燥・嫌悪など、マイナス感情が複雑に交じり合ったもの〉

であると考えます。

この理由を説明するために、習作『瀬山の話』について検討をします。

※習作『瀬山の話』とは

『瀬山の話』は大正12年頃に書かれた梶井基次郎の未完の小説です。

作品構成として、

  1. 語り手の「私」による瀬山という男についての語り
  2. 「檸檬」の挿話
  3. 「感覚器の惑乱」に関する数々の挿話
  4. 深夜の彷徨い歩き
  5. 瀬山の手紙の抄録

という流れで展開されますが、⑤は実現されず、未完となっています。

『瀬山の話』に登場する「瀬山」は、作者梶井基次郎を投影しています。

また、『檸檬』は、『瀬山の話』における②「檸檬」の挿話が、短編小説として独立した作品であり、両作品の内容は大筋で一致しています。

『檸檬』が『瀬山の話』から1~2年以内に執筆されていることや、表現に細かな差異はあれど同じエピソードを扱っていることから、両作品の根底にある作者の思考は共通していると考えられます。

『瀬山の話』で、語り手から見た「瀬山」はかなりの変人として描かれています。

自堕落な生活を送り、母親に迷惑をかけ、進級もままならず、借金をする男というのが、語られる「瀬山」の人物像です。

前述の略年譜と重なる部分もあり、やはり「瀬山」=作者であると考えてよいでしょう。

そして、語り手である「私」は、作中で「瀬山」に対して次のような感情を向けています。

その瞬間、私は何故か肉体的な憎悪がその男に対して燃えあがるのを感じた。
何故か、何故か、訳のわからない昂奮が私を捕らえた。

梶井基次郎『梶井基次郎全集 全一巻』(瀬山の話),筑摩書房,382ページ

作者が自分自身を客観視した時、憎悪というマイナスな感情を抱いていたことが分かります。

また、『瀬山の話』の中で、「瀬山」が、次のように自分を捉えています。

ちょうど木に実った林檎の一つで私はあった。
虫が私を蝕んでゆくので他の林檎のように真紅な実りを待つ望みはなくなってしまった。
早晩私は腐っておちなければならない。
しかしおちるにはまだ腐りがまわっていない、それまで私はだんだん苦しみを酷くうけながら待たなければならない。(中略)
借金がかさんで直接に債権者が母を仰天さすまで、また試験が済んで確実に試験がうけられなくなったことを得心するまで——私は自分の感情に放火をして、自分の乗っている自暴自棄の馬車の先曳きを勤め、一直線に破滅の中へ突進して摧けて見よう。

梶井基次郎『梶井基次郎全集 全一巻』(瀬山の話),筑摩書房,403ページ

「瀬山」=作者は、借金や母親への贖罪、進級など諸々の問題によって追い詰められ、自暴自棄で破滅的な思考をしていたことが分かります。

まとめると、作者は諸々の問題によって立ち行かなくなり、自暴自棄で破滅の道を進んでいる自覚がある一方で、そのような自分を憎悪するマイナスの感情を持っていたということです。

借金、母親、進級、あるいは病気など、単純な一つ一つの問題によって憂鬱が生み出されていたわけではなく、それらが重なり合い、対する自分自身のマイナス感情も複雑に合わさって生み出された憂鬱であったからこそ、簡単に説明ができない「えたいの知れない不吉な塊」という表現に落ち着いたのでしょう。

また、余談になりますが、『檸檬』と『瀬山の話』における「檸檬」の挿話を比較検討した時、いくつかの違いが浮かびあがります。

一つ目に、『瀬山の話』ではお金の話など現実的な内容が書かれていますが、『檸檬』ではカットされています。

二つ目に、『瀬山の話』では、「私」が丸善を出た後に続きがありますが、これも『檸檬』ではカットされています。

カットされた続きの一部を以下に抜粋します。

しかしあの時、秘密な歓喜に充たされて街を彷徨いていた私に、
——君、面白くもないじゃないか——と不意に云った人があったとしたまえ。
私は慌てて抗弁したに違いない。
——君、馬鹿を云ってくれて困る。
——俺が書いた狂人芝居を俺が演じているのだ、しかし正直なところあれほど馬鹿気た気持に全然なるには俺はまだ正気すぎるのだ。

梶井基次郎『梶井基次郎全集 全一巻』(瀬山の話),筑摩書房,390ページ

現実的な話や、「私」を冷静に客観視した表現がカットされることにより、『檸檬』の「私」は空漠たる存在になり、小説でありながら詩的な印象が強い作品になっています。

これによって、「えたいの知れない不吉な塊」は、より一層その正体を曖昧とさせ、もやのようになって作品全体にかかり、得体の知れなさを増しているのです。

・レモンが象徴するもの

『檸檬』の解釈が難しい理由の一つとして、「レモンが何を象徴するのか分からない」という点があります。

尚、ここでは作品名との混同を避けるため、単に果物としての意味を指す場合、レモンと表記します。

結論から言うと、レモンは、

現実からの離脱、逃避

のモチーフだと考えられます。

前提として、作者は作品中において、現実から離れたいという希望を示しています。

時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか——そのような市へ今自分が来ているのだ——という錯覚を起そうと努める。
私は、出来ることなら京都から逃出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。(中略)
希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。
——錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。
何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。
そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

井基次郎『梶井基次郎全集 全一巻』(檸檬),筑摩書房,14ページ

そして、現実の「私」は、前述の「えたいの知れない不吉な塊」に終始心を抑えつけられ、憂鬱を感じているのです。

「私」はレモンを握った瞬間から、「えたいの知れない不吉な塊」から解放されます。

レモンに関しては、色、紡錘形、冷たさ、匂い、産地(カリフォルニア)が描写されています。

つまり、独特の冷たさや、爽やかな香りを放つ異国の果物レモンが、非現実的・非日常的なアイテムとなって、現実を忘れさせてくれるのです。

爆弾に見立てたレモンが、「私」が嫌う丸善を大爆発させる想像は、まさしく現実の破壊=現実からの離脱を象徴していると言えるでしょう。

『檸檬』ー感想

・なぜレモンであったのか?

学生の頃、国語の授業の中で、「なぜ作者はこの作品にレモンを選んだのか?」という問いがありました。

当時の自分の解答を覚えてはいませんが、今この問題を考えるならば、作品の世界観に最適な果物こそレモンであったから、というシンプルな答えに辿りつきます。

果物屋の中で一際鮮やかな見た目、鬱屈とした現実に刺し込むキリッとした爽やかな匂い、こっそりと隠し持つのにちょうどいいサイズ感、遠く離れた外国産の果物。

どれをとっても、レモンだからこそしっくりきたのだと思います。

大正時代に流通していたかという問題はさておき、極端はありますが、外国の果物という点で、例えばバナナやマンゴーで同じ情景を想像してみたとします。

それらの果物では何やら大いに方向性が違う作品になってしまう気がしますし、どこか陰のある梶井基次郎の作品としては非常に浮いたものになっていたような気がします。

南国感という非現実性・非日常性はあるかもしれませんが。

・『檸檬』における作者のメッセージ

同じく、国語の授業を思い返した時に、「作者はこの作品を通して、読者に何を伝えたかったのか」という問いがよくあった記憶があります。

しかし、『檸檬』においては、読者へのメッセージや教訓のようなものは含まれていないように感じます。

『檸檬』とは、作者が純粋に美しいと感じた情景それだけを、ありのままに描写しようとした作品なのだと思います。

強いて言うならば、この美しさを伝えようとしたところをメッセージと受け取るべきなのでしょう。

だからこそ、情景を伝える上で余計な情報となる表現を、『瀬山の話』から『檸檬』を独立させる過程で省いていったのではないでしょうか。

初めてこの作品を読んだ時、意味不明に感じる一方で、丸善の棚の上のレモンがリアルに想像され、そしてなぜか印象深く心に残った思い出があります。

結局はこの「よくわからないけれど、印象に残った」と思わせることこそ、作者が『檸檬』で意図するところであったのではないでしょうか。

一遍のごく短い小説でありながら、詩的な美しさを読者に印象づける言語センスと表現力こそ、『檸檬』の真骨頂なのだと思います。

以上、梶井基次郎『檸檬』のあらすじと考察と感想でした。

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。