太宰治『人間失格』文体から紐解く太宰作品の魅力

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太宰治『人間失格』文体から紐解く太宰作品の魅力

『人間失格』紹介

『人間失格』は、太宰治著の中編小説で、雑誌『展望』に昭和23年6月号から8月号にかけて掲載されました。

太宰がこの作品の脱稿から1か月後に入水自殺をしていることから、「遺書」として考察されることも多い作品です。

物語は、主に主人公・大葉葉蔵が書き綴ったものとされる「三つの手記」によって構成されており、「はしがき」「あとがき」だけが第三者視点で描かれています。

ここでは、『人間失格』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『人間失格』あらすじ

主人公・葉蔵は、幼少期から人間の普通の感覚がわからないと感じ、他者と関わることに恐怖を抱いていた。

その本性を隠すため必死に「道化」を演じるが、周囲にそれを見抜かれないか怯え苦悩し続ける日々を送る。

高校生になると酒・煙草・淫売婦・左翼思想に浸るようになり、ついにはゆきずりの女と心中事件を起こすも、葉蔵のみ生き残り自殺幇助罪に問われることとなる。

執行猶予となった葉蔵は身元引受人の家に居候するものの、いたたまれなくなり家出。

女の家に居候し酒に溺れる日々を送っていたが、ヨシ子という女と出会い、その純粋さに心癒され、結婚し束の間の幸福を味わう。

しかし、純潔だった彼女が強姦されているを目撃、あまりの絶望から睡眠薬で自殺を図る。

一命は取り留めたものの酒浸りの日々に逆戻りし、さらにはモルヒネ中毒に。

ツケ払いで多額の借金を抱えた葉蔵は、ついに父へ手紙を書き金を無心した。

家族からの連絡を受けた友人らに保護され、脳病院へ連れて行かれた葉蔵は、ついに自身を「人間、失格。」と確信する。

故郷に引き戻された後は、廃人となり、ただ茫然と日々を送るのだった。

『人間失格』概要

主人公 大庭葉蔵(自分)
重要人物 父、竹一、堀木、ヒラメ、シヅ子、京橋のマダム、ヨシ子、薬屋の奥さん
主な舞台 東北、東京
時代背景 19001930年代
作者 太宰治

『人間失格』解説(考察)

文体の特徴

「人間失格」は、日本で最も愛されている文学作品の一つと言っても過言ではありません。

しかし、実際のストーリーを追うと、とても多くの人の共感を得られるとは思えないエピソードばかりが綴られています。

それにも関わらず、多くの人の心をつかむことができる所以は、語りの妙にあると感じます。

まずは、『人間失格』の主軸となる「手記」で用いられている文体を紐解いていきます。

1、です・ます調

書き言葉の文体は、「です・ます調」と「だ・である調」の大きく二つに分類されます。

『人間失格』では、それら二つをうまく取り入れています。

  • 「はしがき」「あとがき」→ 「だ・である調」
  • 「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」 → 「です・ます調」

「だ・である調」の箇所は、主人公・葉蔵ではない第三者視点で語られる場面です。

対して、有名な書き出し「恥の多い生涯を送って来ました。」に代表されるように。

葉蔵自身が書き綴った「手記」の部分は一貫して「です・ます調」が用いられています。

「です・ます調」は本来、受け取り手に配慮した丁寧語です。

つまり、他者、それも少し距離のある相手に語りかけるための文体と言えます。

例えば、自分しか読まない日記では「です・ます調」を選択することは少ないように思いますが、学校課題の絵日記などでは、自然と「です・ます調」を選択したのではないでしょうか。

それは、読者を先生と想定しているからに他なりません。

つまり、この「手記」は、「手記」でありながら、もともと他者に読まれるのを想定していたかのように書き綴られているのです。

2、語りかけ

『人間失格』の「手記」における文体の特徴、二つ目は「語りかけ」です。

例として、「第一の手記」からの引用を見ていきましょう。

また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

太宰治『人間失格』

「さっぱりわからなかったのです。」「気がつかないのです。」「わかっていやしなかったのです。」などのように、語尾に「〜なのです」という言い回しが多用されているのが分かります。

「〜なのです」という言い回しは「強調構文」、つまり、相手に何事かを伝えたいという強い意志を感じさせる表現です。

これもまた、「です・ます調」と同様、受け取り手を強く意識した文体の特徴と言えます。

ここで、夏目漱石の『こころ』後半部、先生の手紙の書き出しを見てみます。

……私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたところなのです。

夏目漱石の『こころ』

「思ったのです。」「しなかったのです。」「ないのです。」「ところなのです。」と、まさに、この「語りかけ」の文体を多用しています。これは、「手紙」の文体として非常に自然な言い回しと言えます。

つまり、『人間失格』の「手記」は、明らかに「手紙」的な文体を意識して書き綴られているのです。

3、読点の多用

「手記」の文体の特徴、三つ目は「読点の多用」です。

まずは例として、「第一の手記」の冒頭からの引用を見ていきましょう。

自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。

太宰治『人間失格』

句読点を少なくし、下記のように直してみるとどうでしょうか。

自分には人間の生活というものが見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのはよほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを上って降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ設備せられてあるものだとばかり思っていました。

全く問題なく、スムーズに読み進めることができるのではないでしょうか。取り除いても問題ない程度の読点が、頻繁に使用されているのが分かります。

句読点には、文章のリズムを生み出す効果があります。読点の多い「手記」の文体は、主人公・葉蔵の語りの焦燥感を演出し、臨場感を感じさせます。文字を追っているはずなのに、書き手の呼吸が直に伝わってくるような、まるで目の前で演説されているかのような生々しさがあるのです。

「です・ます調」「語りかけ」「読点の多用」という三つの特徴から、『人間失格』の「手記」においては、受け取り手を強く意識した文体が用いられていることが分かります。

受け取り手、つまり私たち読者へ強く訴えるような表現によって、サイコパス的悩みを抱える主人公のひどい放蕩ぶりにも、読者は無意識に強い同情を寄せ、さらには共感までも覚えてしまうのです。

文体の構造化

ここまでで「手記」の文体が、いかに読者を引き込む力を持っているかについて解説してきました。

先ほども触れたように、この文体は「手紙」的な表現と言えます。

であれば、この文体を用いるにあたって、そもそも「手記」ではなく「手紙」として小説に組み込んだほうが自然だったのではないか、という疑問が生まれます。

しかし、この文体での記述を「手記」として描いたからこそ、この小説の深みが増しているとも考えられるのです。

主人公の葉蔵は、「人間がわからない」ことにひどい恐怖を覚えており、それを隠し通すため「道化」に徹しています。

他者の視線に過敏に反応し、他者との対話を拒絶し、「道化」という分厚い殻を破り捨てることができなかったために、破滅への道を歩むことになるのです。

例えば、もしこの「手記」がマダムへの「手紙」として書かれたものならば、それは彼の一世一代の「告白」と言えるでしょう。

すると、小説の結末に希望のような明るさが垣間見えるようになります。

「手紙」を送ったということは、「道化」をかなぐり捨てたことになるからです。

しかし、これが「手記」であるという事実が、その希望を断ち切っています。

自身の不幸は誰にもわかってもらえない、という内に秘めているはずの思いを書き綴らずにはいられない、さらにそれを記録的であるはずの「手記」に綴っていることが、主人公の「自己陶酔感」を演出しています。

さらに、その「手記」を最終的にマダムに送っている、という事実もまた、主人公の格好悪さ、どうしようもなさを強調していると言えるでしょう。

語りかけるような文体を「手記」として書き綴ることによって、構造的にも主人公の性質がうまく表現されているように感じます。

『人間失格』感想

著者・太宰治の死の直前に書かれた『人間失格』は、彼の自叙伝として語られることも多い作品です。

それもあってか、太宰が思いのままに筆を進めたような印象を受ける読者も多いのではないでしょうか。

そのような解釈もありますが、一方で、文体や作品の構造には緻密さも感じさせます。

例えば、この作品の最後の一文、「あとがき」でのマダムのセリフはとても痛烈なもので、非常に印象的です。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

太宰治『人間失格』

「あとがき」では、「私」と語る男の視点で「手記」について書かれています。葉蔵に過剰な同情を寄せない、冷たい第三者的視点での語りに読者はここで一息つくことでしょう。

その最後に、未だ葉蔵に陶酔したようなマダムのセリフを聞かされた読者は、ひどくギョッとさせられます。

この緊張と緩和のバランスも、とても巧みだと感じます。

『人間失格』の生々しさが、勢いで書かれたゆえではなく計算だとしたら、それもまた、新たな太宰治の魅力に他ならないと思います。

以上、『人間失格』のあらすじ、考察と感想でした。

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キノウコヨミ

早稲田大学 文化構想学部 文芸・ジャーナリズム専攻 卒業。 主に近現代の純文学・現代詩が好きです。好きな作家は、太宰治・岡本かの子・中原中也・吉本ばなな・山田詠美・伊藤比呂美・川上未映子・金原ひとみ・宇佐美りんなど。 読者の方に、何か1つでも驚きや発見を与えられるような記事を提供していきたいと思います。