モーパッサン『メヌエット』のあらすじ&作品の時代背景を解説!

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モーパッサン『メヌエット』のあらすじ&作品の時代背景を解説!

『メヌエット』の紹介

『メヌエット』はモーパッサンの短編小説で、1882年11月20日「ゴーロワ」紙に掲載されました。

「しごく冷静な男」として通っている50歳のジャン・ブリデルが、30年ほど前に目の当たりにした悲しくも神秘的な光景を回想します。

『メヌエット』―あらすじ

「きみたち」へ、しごく冷静な男ジャン・ブリデルが語るのは、彼がパリの学生だったころに遭遇した老夫婦の話です。

「戦争を目の当たりにし、死体をまたいで通ったこともあるが、気の毒という気持すら起こらなかった」と語るジャンですが、老夫婦との邂逅によって引き起こされる心の痛みは、ほかのどのような悲しみとも異なる「複雑で、癒しがたいもの」でした。

30年ほど前、ジャンはパリで法学を学ぶ、やや陰気で夢想癖のある学生でした。

彼は、うるさい喫茶店や騒々しい級友、頭の悪い娼婦などよりも、朝早くに起きてリュクサンブール公園の苗床を散歩することに楽しみを見出していました。

「年取った女のやさしい微笑のように」美しいその庭園で、ジャンは奇妙ななりをした小柄な老人に遭遇します。

老人は18世紀風の服装を身に着けていて、金の握りのついたすばらしいステッキを手にしていました。

ジャンはそれからというもの、散歩のたびにこの老人を気にかけるようになり、毎朝遠くから様子をうかがっていたところ、老人が「奇妙な仕草」を繰り返していることに気が付きます。

思い切って老人に話しかけたジャンは、老人がルイ15世の時代に、オペラ座のバレエの総監督をしていた人物で、例のステッキもクレルモン伯爵からの贈り物であることを知りました。

「私は、ラ・カストリと結婚しましてね」

ある日、老人がジャンにそう打ち明け、午後にやってくるという妻エリーズ――かつての舞姫ラ・カストリを紹介してくれることになりました。花の香りが漂う五月の庭園で、彼女の黒いドレスは光に濡れそぼっているように見えるのでした。

「メヌエットとはどういう踊りだったか説明して下さいませんか」

というジャンの頼みにこたえて、老人は言葉を紡ぎ始めます。

「メヌエットは、舞踏のなかの女王です。また女王たちの舞踏でもあります。王様というものがいなくなってから、メヌエットも消えました」

老人はメヌエットのすばらしさを懸命に伝えようとするのですが、言葉と身振りだけでは追い付かず、自分の無力さに苛立ちを隠せない様子でした。

そして唐突に妻のほうに顔を向けて、「メヌエットとはどんなものか、この方にお見せしよう」と提案したのです。

そしてジャンは、生涯忘れられない情景を目の当たりにします。

老夫婦は、昔の名工によって作られた古い人形、古い機械のように踊り始めました。

流行遅れになった前世紀の幽霊のような二人の姿を、ジャンは笑いたいような、泣きだしたいような感情に駆られながら見つめていました。

やがて二人は舞踏の型を踊り終えて、抱き合ってさめざめと涙を流しました。

ジャンはその三日後、田舎に向けて発ち、二年後に再びリュクサンブール公園を訪れましたが、苗床はすでに壊されており、老夫婦と会うことも二度とありませんでした。

『メヌエット』―概要

主人公  ジャン・ブリデル(ぼく)
主要な登場人物  "老人、老人の妻(名はエリーズ。源氏名はラ・カストリ)、
きみたち"
舞台 パリ、リュクサンブール公園の苗床
時代背景 "現在:1830年頃(推定)、回想シーン:1800年頃(推定)
または現在:1881年頃(推定)、回想シーン:1851年頃(推定)"
作者(訳者) モーパッサン(高山鉄男)
献辞先 ポール・ブールジェ

『メヌエット』―解説(考察)

・時代背景

「概要」の表に示した時代背景の年代は、当時のフランスの政体や登場人物の年齢などを考慮に入れて、おおまかに推測を立てたものです。

以下にその推測の根拠を解説させていただきます。

〈ルイ15世の治世〉

ルイ15世は1715~1774年に在位していたフランス王です。

ただし親政を開始したのは1743年でした(出典1)。

物語に登場する老人は、若いころオペラ座バレエの総監督を務めていました。

当時の老人の年齢を推測するうえで、前王ルイ14世(在位1643~1715年、親政開始1661年)の寵愛を受けていたジャン=バティスト=リュリという実在人物の経歴を参考にすると、ルイ14世が親政を開始した年に29歳で宮廷音楽監督に任命されているので、便宜上、老人もリュリと同様、ルイ15世の親政開始頃から30歳前後でオペラ座バレエの総監督に就任した、と考えることにします。

〈フランス革命以降の国体混乱〉

ルイ15世の治世は、フランス絶対王政を衰退に向かわせた時代でもありました。

対外戦争で多くの植民地を失い、寵愛する女性たちの政治干渉を許したことが原因で、国政は混乱、国庫の財政難も深刻化してしまったのです(出典1)。

そして、次王ルイ16世とマリ=アントワネットの治世、アメリカ独立戦争(1775~1783)参戦によって財政は決定的に破綻、テュルゴーやネッケルらが財政改革を試みるものの、既得権益喪失を恐れる貴族らの反発によって失敗、時代はフランス革命へと突き進みます。

そして1792年からはフランス初の共和政(第一共和政)が開始され、翌年に国王夫妻は処刑、王政は「いったん」廃止されることになりました(出典1)。

「いったん」というのも、第一共和政は長く続かず、王が処刑された11年後の1804年からは、フランスは皇帝ナポレオン1世の治める国となりました。

彼が最終的にライプツィヒの戦いに敗れ、1814年にエルバ島に流されると、復古王政(1814~1830)、更にそれが倒されると今度は七月王政(1830~48)が開始されます。

ちなみに、絶対王政と復古王政の時はブルボン家から王が即位しましたが、七月王政はオルレアン家のルイ=フィリップが王位につきました。

オルレアン家はルイ14世の弟を祖とする公爵家ですが、フランス革命時の当主はルイ16世の処刑に賛成票を投じました(出典1)。

〈物語に於いて言及されている時代〉

語り手であるジャン・ブリデルは現在50歳で、彼が舞踏家の老夫婦と出会ったのは大学生のときです。

この時の彼の年齢を、一般的に考えて20歳前後であるとすれば、回想シーンは約30年前のことです。

当時のフランスが王様の存在しない政体、すなわち共和政期であったことはジャンと老人の会話から明らかです。

仮にこの頃を第一共和政半ばの1800年頃とすると、先述のとおり、ルイ15世の親政開始(1743)頃、30歳前後であった老人の年齢は、ジャンと出会ったときに87歳くらいであったと考えられ、妥当といえます。

上記のような根拠から、ジャンの回想シーンを1800年頃とし、現在の年代をその30年後の1830年頃と推測ました。

ただし、ここまでの考察は、苗床が実際に破壊された可能性の高い時期(1853~70年、パリ改造)を無視したうえでのものです。

そこでもう一つの推測(回想シーンを1851年頃とし、作中の現在を1881年頃とする推測)を、後述の「感想」にて試みていますので、よろしければご覧ください。

いずれにしても、本作に広がっている実際の視界は、「概要」に示した1800年から1830年(あるいは1851から1881年)の、ジャンの青年期から中年期の視界に収まりきるものではなく、宮廷文化隆盛期、絶対王政衰退期、フランス革命、共和政期までをカバーする老人の視界と併せて合計100年か、それ以上の視界が広がっていることにご留意いただければと思います。

クレルモン伯はルイ・ド・ブルボン=コンデか

物語の中で、老人に見事な杖を贈ったとされるクレルモン伯は、ルイ・ド・ブルボン=コンデ、ルイ15世の摂政の弟と思われます(出典3)。

北フランスのクレルモン周辺を所領していました。

ポール・ブールジェとは誰か?

『メヌエット』の冒頭には「ポール・ブールジェに捧ぐ」という献辞が付されています。

ポール・ブールジェ(1852~1935)は、モーパッサン(1850~1893)と同時代に活躍していたフランスの作家・批評家です。

『メヌエット』が発表されたのは1882年なので、32歳のモーパッサンが、亡くなる11年前に、二つ年下のブールジェにこの作品を捧げたということになります。

彼らの活躍した19世紀は、文学や芸術において、様々な潮流が生まれた時代でした。その中の一つが、自然主義です。

自然主義とは、写実主義(リアリズム)と実証主義(知識の対象を、観察できる経験的な事実だけに限定する哲学)の流れをくむ文芸理論のことで、歴史や民族文化の伝統を重んじるロマン主義への反動として台頭しました(出典1)。

ゾラを筆頭に、モーパッサンも一時期はこの潮流に属していましたし、ブールジェも、カトリックに疑問を抱いて一時期棄教していた頃は、実証主義者として活動していました。

しかし、モーパッサンは『メヌエット』から五年後に長編小説『ピエールとジャン』(1887~1888)を執筆以降、「各個人がそれぞれ固有の現実を持っており、芸術家の使命は『個人的世界観』を提示することにある」と主張するようになります(出典6)。

ブールジェも『弟子』(1889)を発表したころ、カトリックに回心(出典7)、それからはカトリシズムの擁護、フランス革命の否定、民主主義批判など、伝統主義に転じ、その思想は国境を越えて日本の皇国史観を代表する歴史家・平泉澄にも影響を与えたほどでした(出典8、9)。

このように、彼らは自然主義からそれを批判する立場へ、そして個々人の心理分析を深める方向へと進んでいった、という思想的共通点があり、彼らの関係の良好さは、交友の記録や、モーパッサンの死去に際してブールジェが寄稿した追悼文などからも窺い知ることができます(出典10、11)。

『メヌエット』はモーパッサンからブールジェへと、友情をもって贈られた作品といえるでしょう。

リュクサンブール公園

リュクサンブール公園の歴史は、イタリアのフィレンツェ(トスカーナの州都)からアンリ4世に嫁いできたマリ・ド・メディシスのために、故郷を彷彿とさせるような住まい、リュクサンブール宮殿とそれに付随する庭園がつくられた17世紀に遡ります(出典12)。

19世紀フランスの小説家たちはこの場所を物語の舞台に取り入れることを好みました。

「第二帝政期のパリ大改造に際して一部のペピニエール(苗木の養生地)が姿を消し、現在の公園に至る」(出典12)とあり、作中の苗床のことを考えました。

しかし物語(回想シーン)の時代背景は、現実的に考えれば、ルイ15世(1715~1774)の治世を生きていた推定90歳前後の老人が存命中の第一共和政期(1792~1804)であるため、ジャンが老人と出会った二年後に破壊されていた苗床と、第二帝政期のパリ改造(1853~70)によって破壊されたペピニエールが同一のものであるとは考えにくいのです。

ですが、このペピニエールが物語に登場する苗床と同一のものであると解釈する方法が一つ存在します。

後述の「感想」にて考察を試みています。

『メヌエット』―感想

時代に関するもう一つの考察

先述の「解説(考察)」では、ジャンと老人との出会いの時期(1800年頃)と、パリ改造によってペピニエール(苗床)が破壊された時期(1853~70)とでは隔たりが大きすぎるため、本作の舞台となった苗床と同一視するには無理があると述べました。

ここでは、作中の苗床とパリ改造によって破壊されたペピニエールとを同一のものとみる考えについて述べてみたいと思います。

まず、ジャンが老人と出会った時期を1851年とします。

この年は、ちょうどルイ=ナポレオン(ナポレオン1世の甥。ナポレオン3世)が年末にクーデタを起こす年で、翌年から第二帝政を開始(在位1852~70)させ、更にその翌年からパリ改造を開始させます(出典1)。

50歳のジャンが昔語りをするのは、1851年から30年経った1881年のことで、奇しくも『メヌエット』が発表される前年の年にあたります。

ここで老人の年齢について考えてみます。

前述で設定した仮の経歴のとおり、ルイ15世の親政開始(1743)頃に、30歳前後でバレエ総監督に就任したとすると、1851年時点における老人の年齢は、138歳ということになり、登場人物としてはかなり不自然な年齢と言わざるを得ません。

ましてやこの老人は、毎朝散歩に出かけ、老いた足取りとはいえ、妻と共にメヌエットを踊ることもできます。

これら一連の不自然を、自然に受け入れることのできる方法が一つ、あるとすれば、それは老人および老人の妻が、ジャンと出会った時点で既にこの世の存在ではなかった、と解釈することです。

そういえば、ジャンは作中で、空想、亡霊、幽霊、まぼろしという言葉を何度も発しています。

冒頭では、自分にはかつて夢想癖があったとも語っています。そして、聞き手である「きみたち」が、自分の話に理解を示さないであろうことを前提とした話しぶり(「わからんかもしれないなあ」「滑稽に聞こえるかもしれないなあ」など)が目立ちます。

これは語り手であるジャン自身が、過去に体験したエピソードを、説明のつかない不可解な出来事として認めているからではないでしょうか。

ナポレオン3世の支配下で、リュクサンブール公園は市の子ども達に贈られました。

かつてきらびやかな人たちのものであったその場所は、不可逆的に市民たちに明け渡されたのでした。

老人の妻の源氏名「ラ・カストリ」

モーパッサン短篇選(高山鉄男訳編)では、老人の妻の源氏名「ラ・カストリ」の登場直後に、「この名のバレリーナは実在しないようである」と注釈が入っています。

著者が何かを意図して彼女にこの名を与えたかどうかは不明ですが、一つの事実として、カストリという言葉は、ラテン語のカストラムから来ていて、カストラムは、英語のキャッスル、フランス語のカステル、シャトーに通じています(出典13、14)。

つまり彼女の源氏名は「お城」という意味を持つ名前なのです。

私は、ラ・カストリと結婚しましてね
それがラ・カストリだった。大貴族たちに愛され、国王に愛され、この世に恋の香りを残して過ぎ去った、あのみやびな時代のすべての人々に愛された舞姫だったのだ

前述で試みた、老夫妻が「この世の存在ではない」とみる解釈を併せると、老夫妻の存在は「お城と幽霊」ひいては「お城が象徴した過去の時代、そのなかで踊り続ける亡霊」の象徴である、と発展的に解釈することも可能かもしれません。

旧時代との出会い

モーパッサン短篇選(高山鉄男訳編)の巻末の解説には、次のように記されています。

モーパッサンは、「女たち」と題された時評(「ジル・ブラース」紙、1881年10月29日号)のなかで、十八世紀について「色事と恋の時代、遠い過去となってさえ人々を酔わせる時代、わが国にかなう国のなかった唯一の偉大な、感嘆すべきフランスの世紀(……)」と書いている。

ジャンの目の前で妻と二人メヌエットを踊ってくれた老人は、ルイ15世という、語弊を恐れずに言えば、フランスの青春時代末期の王様と、精神的に生涯の大半を共にした人物です。

オペラ座バレエ総監督を務めていた老人にとってメヌエット、すなわち「舞踏のなかの女王、女王たちの舞踏」は人生そのものだったと言っても過言ではなく、クレルモン伯から頂いたステッキは栄誉そのものだったことでしょう。

しかし、舞踏という職業を通して常に老人の心と共にあった輝かしい時代は、老人を残して過ぎ去りました。老人は言います。

「この庭は、私らにとっては楽しみのもとであり、人生そのものですな。昔のもので残っているところといえばここだけですから。この庭がなくなれば、生きていけないような気さえしますよ」

その庭の最も美しい場所の一つであった苗床も、ジャンと老人が別れた二年後には取り壊されていました。

「二人は死んでしまっただろうか、墓石の並ぶ小道の上を、滑稽な幽霊となり、二人はまぼろしめいたメヌエットを踊り続けているのだろうか」

「しごく冷静な男」として通っている50歳のジャンが、当時でさえかなり高齢であった老夫妻の死の明言を、こんな言い回しで避けてしまうのは、何より彼自身の心のなかだけでは、老夫妻のメヌエットが「癒しがたい痛み」となって生き続けているからかもしれません。

30年前の彼は周りの学生とはちがって、騒々しいものや短絡的な楽しみに興味をもたない「やや陰気で、夢想癖がある」学生でした。

でも、もし彼がそんなふうでなかったなら、リュクサンブール公園の苗床に足を運ぶことも、老人と出会うこともなかったかもしれませんし、また、出会っていたとしても、老人に「メヌエットとはどういう踊りだったか説明してくださいませんか」と頼むようなことは、永遠に無かったかもしれません。

破壊された苗床はまさに、旧時代と新時代との最後の邂逅の場所だったと言って、差し支えないでしょう。

そして、その体験さえ「きみたち」に語られることによって「昔語り」となります。

ジャンは「きみたちにはわからんかもしれないなあ」「こんな話は、きみたちには滑稽に聞こえるかもしれないなあ」と繰り返します。

永遠に確認することのできない昔と、存在を証明できない幽霊とは、実は似た者同士で、まさに、モーパッサンやブールジェが、袂をわかち批判するようになった思想、「実証主義」が否定する世界観です。

ジャンの話を聞いた「きみたち」のなかにも、その話を滑稽と思った人、なんの関心も持たなかった人がいたことでしょう。

けれどもあるいは、かつてのジャンが「滑稽」と感じつつ、同時に泣き出したくなったのと同じように、「癒しがたい痛み」を心に受け継いだ人もあるかもしれません。

旧時代の記憶というものは、このように出会うべき人とのみ強烈な印象を伴って出会い、その人の胸のうちに痛みにも似た悲しみ、感動を、もたらしていくものなのだろうと思います。

以上、『メヌエット』のあらすじ・考察・感想でした。


出典

全国歴史教育研究協議会『世界史用語集』山川出版社
ウェブサイト「モーパッサンを巡って モーパッサン『小説論』」
http://maupassant.info/chronique/leroman1888.html
Alleanza Cattolica『Paul Bourget』

田中琢三『近代日本におけるポール・ブールジェとフランス伝統主義の受容』https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-25770124/25770124seika.pdf
田中琢三『ポール・ブールジェ「死」と二つの世界大戦――戦時下の日本における仏文学』お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター
ウェブサイト「モーパッサンを巡って モーパッサン年表」
http://maupassant.info/chronologie.html
ウェブサイト「モーパッサンを巡って ブールジェ『個人的な思い出』」
http://maupassant.info/autres/necrologie/souvenirs.de.bourget.html

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sakura

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