井上ひさし『吉里吉里人』本作品が追求した社会病理から現代からみた解釈まで

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井上ひさし『吉里吉里人』本作品が追求した社会病理から現代からみた解釈まで

『吉里吉里人』の紹介

『吉里吉里人』は、1978(昭和53)年5月から1980(昭和55)年9月までに『小説新潮』に発表され、1981(昭和56)年に新潮社で出版された作品です。

本作は、先に雑誌『終末から』(筑摩書房)で1973(昭和48)年5月に連載を開始していましたが、同書の終刊(1974(昭和49)年10月)により未完となっていました。

また、この作品のもととなるラジオドラマ「吉里吉里独立す」が1964(昭和39)年に執筆されています。

1981(昭和56)年に第2回日本SF大賞、1982(昭和57)年に第33回読売文学賞、第13回星雲賞を受賞しています。

井上ひさしの代表作となる大長編小説で、大ヒット作となりました。ここでは、『吉里吉里人』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『吉里吉里人』――あらすじ

小説家の古橋健二は、編集者の佐藤久夫とともに、月刊誌『旅と歴史』の取材のため、急行「十和田3号」で岩手県にある安家洞へむかっていましたが、途中、一ノ関近くで、電車が急停止してしまいます。

これは、当日の朝6時に独立宣言した人口四千百八十七人の村、『吉里吉里国』の住民の仕業で、古橋と佐藤は、不法密入国に問われ、他の乗客とともに連行されることになりました。

それから1日半、吉里吉里国が抵抗むなしく日本国に制圧されるまでの間、古橋は、密入国者、来賓、外国人犯罪者、吉里吉里の一国民、大文学者(仮)と身分が変わり、最後は吉里吉里国二代目大統領として就任するという、破天荒な人生を送ることになりました。

『吉里吉里人』――概要

主人公

古橋健二

重要人物

佐藤久夫、ベルゴ・セブンティーン、イサム安部、ユーイチ小松、アベ・マリア、カツゾー小笠原、ゴンタザエモン沼袋、タロー吉里吉里、タヘ湊、アカヒゲ先生、ヒロコ佐久間、岳先生、ケイコ木下、ゼンタザエモン沼袋、記録係(わたし/吉里吉里善兵衛)

舞台

吉里吉里国(宮城県と岩手県の県境にある村)

時代背景

昭和後期

作者

井上ひさし

『吉里吉里人』――解説

『吉里吉里人』は、単行本で二段組、843頁の厚さとなった大作で、大ベストセラーとなった作品です。数々の賞にも輝き、「ミニ独立国ブーム」が起きるなど社会的影響も及ぼしました。

内容は、東北のとある村が独立国家として日本国へ宣言するという荒唐無稽な話で、多くの猥雑な表現がみられます。ブラックコメディという形容がふさわしく、グロテスクな描写も満載です。

しかし実は、本作は井上ひさし作品のなかでも特に、政治・経済の問題において、真っ向から批判を展開している、ジャーナリズム色の強いものです。井上文学の基本である「笑い」に、さらにエログロがより強く上塗りされていることで、娯楽として読みやすくなっていますが、それにより根底にあるジャーナリスティックなテーマが見えにくくなってしまった嫌いもありました。

『吉里吉里人』が世の多くの人に読まれ、その名が社会運動として、読書家以外にも知れ渡ったのは、その根底のテーマの力によるところも大きいはずです。

そこで、この解説では、作者の技巧からむしろ外れて、「笑い」とエログロを極力さけ、本作品が追求した社会病理について焦点を絞って取り上げていきます。

そして、次の感想では、更なる「読み」をご紹介して、『吉里吉里人』の現代からみた解釈と「虚構におけるジャーナリズム」として井上文学のもつ魅力を説明します。

日本農政に対する異議申し立て――「百姓」たちの叫びとは

いきなり差別用語とされている「百姓」という言葉がでてきますが、本作品はこうしたことに留意していると何も語れなくなってしまいますので、不適切ながらご容赦ください。特に「百姓」は、井上ひさしが象徴的に使っているものなので(後ほど触れますが)、このままの表現でいきます。

『吉里吉里人』のレビューでは、この農政批判を大きなテーマの一つに挙げる方が数多くいます。それは、井上ひさしが米問題を主として深く農業にかかわっていたという事実があるからかもしれません。

吉里吉里国は、食料自給率40%の日本国に対して、100%であることを主張します。特に日本政府のコメ作りに対する二転三転した政策に振り回された「百姓」が、怒りの声をあげて独立したという流れもありました。

本編第13章、「吉里吉里国立病院」で行われたテレビ放送で、「百姓」たちのスピーチや歌が映されますが、このテーマにおける一番の山場となっています。

その中で、

 「百姓は百の作物ば作る、それだがらこそ、

  んだ、百ショーほど素敵な商売は無い(ねー)。」

井上ひさし, 前掲書, pp330

というくだりがあり、

後に、吉里吉里人が努力して成功させた木イチゴ、ネギ、枝豆など、十種類の作物の品種改良が5頁にかけて細かく説明されます。

本筋から外れて、そこまでやる必要があるのか、くどいといえばくどいのですが、井上ひさしがフィクションでありながら、どれだけ現実問題と対峙していたかを証明する一例です。

ただし、何よりも忘れてはならない話があります。吉里吉里人たちが日本国から独立したかったのは、農政問題の先につきつめたところがあるということです。

 (独立をすることで)「その土地に住む人間の生命と健康は、先ず同じ所に住む人間が互いに守り合うこと、それが出来てはじめて他所(よそ)の人間の生命と健康を守ることが可能になる。」

井上ひさし『吉里吉里人』(下), 新潮文庫, 1985, pp23

つまり、「地域の連帯」という個々のつながりが大切な要因であったのです。これは農業以外の問題を取り組むにあたっても同じことです。農政に振り回されて、自ら絆を失った「百姓」たちの戒めでもありました。

国際法にもとづく独立――荒唐無稽な話なのか

村が国から独立する、もちろん、現実的にはありえない話です。けれども、「虚構」の中に社会的な現実をひたすら埋め込む本作では、法律論が随所に展開されます。

この問題において、注目のシーンとなるのは、NHKの番組でした。『緊急報道特集 吉里吉里集団発狂事件について語る』というタイトルのもと、国際法の専門家、平沢太郎東京大学法学部教授と吉里吉里国側の国際法の権威、老人のゴンタザエモン沼袋のオンライン討論が行われました。

沼袋は、「1929年のドイッチェ・コンチネンタル=ゲゼルシャフト事件におけるドイツ=ポーランド仲裁裁判所の判決」「第二次世界大戦中の自由フランス国民運動」などを例に論戦を挑みます。その知識量と勢いに平沢教授は圧倒され、沼袋の出身大学を聞いたり、年齢に比しての記憶力をほめたりとかわしていくのが精いっぱいでした。

そして、本作最後の論戦となった、『国際法の神様』小原事務官とゴンタザエモン沼袋との勝負の行方は、沼袋の知識が小原事務官より1枚も2枚、上手で、小原理事官が自らタオルを投げて降参し、吉里吉里国の勝利。内外のトラブルを処理した吉里吉里国は、独立国家としての法的権利を証明したのでした。

植民地が独立を勝ち取る例は、世界史においても枚挙にいとまはありません。ただし、井上ひさしは、どんなにおかしな設定でも、独立がいかに可能であるかを、積極的に何度も議論を重ね、そのたびに相手を論破することによって作品に説得力を植えつけたのでした。

愛する国語――なまって悪いか、恥ずかしいか

「ズーズー弁は肥溜(こえだめ)に捨てるんだな」「肥臭い言葉を肥臭いといっちゃ悪いのか」と東北弁(ズーズー弁)に対する酷い言葉が、話の序盤、密入国者として連行された編集者佐藤から発せられます。彼は、東京下町、東両国出身で田舎を差別する者として、物語の役割を担っています。

しかし、このような言葉など気にもせず、本作『吉里吉里人』では、東北弁が「吉里吉里語」として公用語になり、吉里吉里国民はみんな対外的にも胸を張ってそれを使います。

『吉里吉里文芸家協会・吉里吉里ペンクラブ共同責任編集・アジアアフリカ文学全集・第一回配本』として書棚に並んだ5冊の本を、古橋は目にします。日本語から吉里吉里語へ翻訳した企画で、ラインナップは、川端康成『雪国』、夏目漱石『坊ちゃ』(「ん」は入っていない)、太宰治『斜陽』、小林秀雄『モジアルド』(『モオツァルト』のこと)、宇能鴻一郎『名場面集』です。官能小説家の宇野を入れたのは、井上ひさしのユーモア感覚でしょう。

それから延々と言葉に関する講義が始まります。メルヴィルの『白鯨』を彷彿とさせる脱線ですが、今後これは『吉里吉里人』に毎度出てくるパターンとなります。今回は、25頁ほどにわたって辞典、ユーイチ小松教授の吉里吉里語の学び方講座が続きます。

こうした本筋から外れて読者の目を狂わせるものは、他にも奇書として有名な夢野久作の『ドグラ・マグラ』があります。しかし、この国語論は、読み始めてから最初にぶつかる大きな「脱線」ということもあり、ここで本を閉じて脱落してしまった方もいたかもしれません。そのリスクを冒してまで、井上ひさしは、虚構の中に「本気の」現実を投入したかったのです。

方言は吉里吉里国において、愛国心の鏡として国民に使われました。本作では、ルビを多用することで、読者の便宜をはかっていますが、全編とおして東北弁が満載です。東京に出てきて、東京弁と己の郷土の言葉との間で悩み、吃音がひどくなった井上ひさしの思いがここにあります。

経済立国「吉里吉里国」の戦略――小国でも世界に発信できる

「経済」は、次の「医療」問題と並ぶ、『吉里吉里人』で取り上げられることの多かったテーマでした。これは、吉里吉里国が小さな村であるのにもかかわらず、強気に交渉できた、根拠につながるからです。

もともと、古橋と佐藤は、藤原清衡が隠したとされている金の財宝伝説を探るために、東北へ向かった最中で、今回の吉里吉里国独立騒動に巻き込まれたのですが、実はその金は吉里吉里国が所有しており、これを武器に経済立国として国内外に多大なる影響を及ぼそうとしていたのです。

例えば、「イエン」高。イエンは吉里吉里国の通貨の単位で、日本でいう「円」です。独立当初は、1イエン=1円だったのが、吉里吉里国が潰える日を迎える、わずか1日半の間で、1イエン=5円93銭5厘まで急激に価値を高めました。

これにはもちろん訳があって、吉里吉里国が「無税」政策をとったこと、金と交換できる兌換銀行券を発行したこと、結果、世界有数の多国籍企業が五百社以上も吉里吉里国に支社や支店を設けたことが挙げられます。

金の財宝がある、というフィクション色の強い話が前提なので、経済に関しては、話にリアリティをつけるのに苦労しそうですが、小説では「労働銭(じえ)ン(実際の表記は小さいン)コ制」という吉里吉里国独自の給料体系も設計して議論を進めます。

この労働貨幣は陶貨で買い物には使えず、銀行などで吉里吉里イエン貨と交換が必要で、一時間労働銭ン(小さいン)コ=三千イエンの交換レートと説明がありました。

吉里吉里国立病院で、その説明を三等医療秘書のトシコ村瀬から聞いた主人公古橋は、この制度に何度もつっこみをいれます。

これは「無駄な二重貨幣制」という古橋に、「不平等をなくす」ために見出された制度だ、と答えるトシコ。しかし、時間労働の価値というのは専門能力等で相対的に違ってくるものだから、一律の平等は実は不平等であるとする古橋に、「吉里吉里式精密平等労働銭ンコ制」によって交換レートに調整が生じ「平等的」格差がつく、とトシコが補足します。しかし、古橋は、同じ業種の仕事でも各々の熟練度などによって、やはり不平等が生じると、更なる追求を加えると、子どもであるトシコが泣きだして話はうやむやになりました。

さすがに、この経済問題を前にしてユートピアを創造するのは骨が折れそうですが、井上ひさしは、吉里吉里国に置かれた架空の国内外の支社・支店(「三菱銀行吉里吉里支店」「住友銀行吉里吉里支店」などなど)を99社、列記して説得の材料とします。

普遍的な医療テーマ――作中、屈指の重たい展開に

『吉里吉里人』でおそらく、一番問題の深部をえぐったといえるのは「医療」の話ではないでしょうか。政治経済は、いわゆる国家論的な視点から語られる部分もありますが、医療については常に「大衆」との距離が近い、なまなましい話となります。

ここで、井上ひさしは、まず設備面に言及します。日本国は、医療と福祉の問題を混在化させている、福祉で対応するものに医療を絡めるから金銭的なやりくりがおかしくなるとし、吉里吉里国では、医療施設と別に「ナーシング・ホーム」という福祉用の設備を併設し対処しています。

また、「日本の三大病巣」として、①日本の医療が一部の人びと(日本医師会、医療産業、保険業界など)に乗っ取られている、②医療機関のあいだに好ましい調和や協力がない、③治療中心で、予防予後の医療の開発がまったくおくれている、ことを挙げています。

そして、本作では「アカヒゲ先生」が登場します。その名のとおり、山本周五郎作の人物を模していますが、後に「ニセ医者」、無免許問題が発覚します。ところが、「吉里吉里国医師法」では問題ないとされるのです。日本国の医師法との違いは、大学の医学部や医学校を出ていなくても、医師国家試験を受けられ、合格すれば医師の資格を与えるというものでした。

この医療問題を考えるのに、本作では文庫版で37頁が割かれた、医学哲学者ゼンタザエモン沼袋(国際法の権威ゴンタザエモンの双子の弟)と日本医師会会長のパワフルタローとのオンライン討論において、圧巻の舞台を私たちに提供してくれます。

ここでは、医療とは「人間学」である、患者に寄り添うのが本来の姿だというゼンタザエモンに対し、パワフルタローは彼を「在郷の理想主義者」「東北の夢見男」「田吾作のドン・キホーテ」とののしります。果ては脳死問題へと話は続き、パワフルタローはゼンタザエモンのあだ名を「インチキハムレット」と変更して罵倒します。

この議論では、最終的にパワフルタローが歩み寄りをみせようかとした矢先、悲劇が訪れ、何とも後味の悪い結末となりました。

終章の一つ前、第27章では、「吉里吉里チェーン・アナダルコ綜合病院」として、建設予定地から必要スタッフ、附属施設等々、こと細かに夢の建設プランが提示されていました。これもまた、単なる思いつきではない、井上ひさしの創作姿勢がよくわかる文章です。吉里吉里国は壊滅するので、このプランが達成することはありませんでしたが。

井上ひさしは、大学受験で医学部を志したが失敗しています。それをバネに、こうしたテーマを追い続けた側面もあるのでしょう。

交渉を武器とした軍事と外交――「自衛」とは何か

自衛隊を中心とした軍事問題です。これについては、昭和から平成にうつりPKO法や憲法第9条の改正などの議論から、現実の私たちはこの内容を深めています。

吉里吉里国の独立により、日本国の自衛隊が介入するのですが、まずは吉里吉里人を二・二六事件や連合赤軍事件の当事者に見立てての説得が行われます。しかし、効果はありません。

そこで、実力行使とばかりに吉里吉里国へ武力侵攻したものの、ゴンタザエモン沼袋の弁論の前では太刀打ちできず、そもそもの「自衛隊」の存在意義まで逆に問いつめられ、制圧相手である吉里吉里国へ脱走を試みる隊員が出る始末です。

結局、吉里吉里国は、自衛隊ではなく、大国の意図を受けた工作員によって最後を迎えることになりました。国自体には、イサム安部のような少年警官を配しているくらいで、なかには左腕にマグナム砲を仕込んだりしたサイボーグまがいの人間も何人かはいますが、軍隊といえるレベルはもっていませんでした。

これは、憲法9条にこだわった井上ひさしの思想が色濃く表れています。

また、外交に目を向けると、他国の「承認」が大切であった吉里吉里国は、卓球ワールドカップを開くことで活路を見出します。最初の参加国(団体)は、吉里吉里、ボツワナ、台湾、ケベック州の4つです。

この選出には理由があって、後に水上飛行機で、アメリカ合衆国アイダホ州のインディアン居留地にいるクーテナイ族、スコットランド、スイスのベルン州ジュラ地方、デンマークのコペンハーゲンのクリスチアニア地区、スペインのバスク、ロンドンのフレストニア地区、エチオピアのエリトリア地区、アメリカ合衆国ウンデットニーのスー族、という各代表が吉里吉里国へ卓球大会のためやってきました。

おそらく、1971(昭和46)年、日本で行われた世界卓球選手権に中国が出場し、中国とアメリカ合衆国との緊張緩和、日中国交正常化へとつながった「ピンポン外交」を意識しての設定でしょう。

ただし、今回の相手は大国ではなくて、ともに独立を目指している相手としての連帯を含めた外交です。あくまで、独立の獲得は交渉によるというのが吉里吉里国のとった選択でした。

子どもと女性、リーダーの力――価値を反転させていく

昭和後期という本作の執筆時期と比較すれば、現代はコンプライアンスの時代でもあり、歴史的にみて被害を受けやすかった子どもと女性に対して、彼らの人権を社会として守ろうという意識が根づいています。

本作では、子どもは少年法があるから、それを利用して盾となるよう、あえて警官の役職を与えられたり、女性であるタヘ湊看護婦長は、嫌がる古橋を「湊式口うつし人口呼吸法」で蘇生させたり、他にも「笑い」を誘導する上で人権蔑視ともとれる扱いを受けています。

そもそもブラックユーモアは、弱いものいじめと紙一重のところを綱渡りしているわけですから、現代の眼でみると受け入れの判断が難しいところです。

ただ、井上ひさし作品で登場する子どもや女性は、負けず嫌いで、主張もしっかりするタイプの者が多く、主人公たちを振り回してコメディ・リリーフとしての役割を担うこともあります。

例えば、警官として古橋と佐藤の連行を任とした、少年イサム安部は、大人であり巨漢の佐藤から暴力に出られますが、掌にかくしていた砂を佐藤の目にすりこませて、逆に彼を刑務所行きにすると追い込み、大人の佐藤が子どものイサムに降参するという図式が描かれます。

また、古橋に吉里吉里国の労働状況を説明した前述の少女、トシコ村瀬三等医療秘書は、議論でやりこめられると、彼に平手打ちをして泣きながら「小さい男だ」と抗議します。

大人の女性である、古橋を罵倒し続けたタヘ湊、彼と相思相愛となったケイコ木下にしても、プライドは一人前だがけち臭く小心者で臆病な主人公を、最後は舞台の中央にあげる大切な存在でした。

物語の終盤、(妊娠もしていた)ベルゴ・セブンティーンの体に、自分の脳が移植された「何者ともいえない」存在となった、「古橋+ベルゴ」が二代目吉里吉里国大統領となります。見た目は女性大統領の誕生したのです。

また、一方で、吉里吉里国において、権力を握ることになる大統領は、高貴な身分にあるものはそれ相応に果たさなければならない社会的義務が課せられているとする「ノーブレス・オブリージュ」をもたなくてはならない、つまり、命を賭してでも、弱き者を助けることがリーダーに義務づけられます。

本作では社会的に虐げられることが多い「子どもと女性」が力をもつ一方、権威をもつ大統領には、精神的には大衆のために自分を犠牲にするという、「弱い」⇔「強い」を逆転させた展開が、ユートピア吉里吉里国を創るのでした。

さて、これでジャーナリズム的な主要テーマを洗い流すことができました。

以上で『吉里吉里品人』の解説は終わりです。

今回、極力、「笑い」の要素を減らして、取り上げられている社会問題に焦点を絞って分析しましたが、こうしてみると、国家論として必要な問題は網羅されていることがわかるでしょう。もちろん、「農業(農政)」や「医療」は、井上ひさしのなかで重要視していた個人的な思い入れがあったテーマですが、現代からしても、この議論が色あせることはありません。

では、次の感想から「虚構におけるジャーナリズム」に着目して、井上ひさしの文学を見ていきましょう。

『吉里吉里人』――感想

実は、これまでの解説のなかで、あえて分析を避けていた部分がありました。それは、古橋に関する記述です。

これは、次の2つの点から「感想」で考察することにしていました。

まずは、一つ目は、「笑い」を切り離してみる作業ですが、解説に取り上げたものは比較的容易にできたものの、古橋自身に関しては難しかったことです。

彼の造形には、作者井上ひさしの笑いによる試みがべったり塗りたくられています。

作品の構造として、日本国民に一見馬鹿にされた吉里吉里人たちが、実はまともなことを言っているのだ、という反転があるのですが、古橋自身はずっと道化者を演じ続けることを強いられました。従って、彼を知るには「笑い」を無視するわけにはいかなかったのです。

二つ目は、今回の大きな目的が、井上文学における「虚構におけるジャーナリズム」を探るというものがあり、負の要素が満載の、それ自体が「笑われる」存在である古橋は、本作における強力な「虚構」の役割を背負っています。ブラックユーモアの対象は、徹底的に戯画化される必要があるからです。ですので、ジャーナリズムの観点から追求を重ねた解説とは別建てで考える必要がありました。

では、これから古橋の言動を辿りながら、井上ひさしが、いかに巧みに「虚構」を構築していったかについて考えていきましょう。

主人公古橋健二は「井上ひさし」なのか?

日本の文学では、作家の内面や体験を表出する「私小説」が、自然主義として、文学界の一つの大きな流れを作ってきました。また、作家久米正雄は「私小説と心境小説」という随筆で、私小説こそが文学の芸術たる基本のスタイルとなるものであり、物語であるトルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『罪と罰』などは、暴言にあたるかもしれないが「通俗小説」であると指摘しています。

まず、『吉里吉里人』を「純文学」という人はいないでしょう。そもそも、井上ひさし自身が、自分は娯楽小説(エンターテインメント)を書いていると割り切っています。

しかし、『吉里吉里人』の古橋健二に、井上ひさし自身が投影されており、その言動に彼の思想が託されているとすれば、「私小説」ではないにしても、古橋の「私」とは何か、再考する余地が残されています。

では、まず古橋の人物造形について確認していきます。

古橋と井上ひさしの類似点では、「文学賞を取るまでは、放送の台本書きをしていた」(作者、大学卒業の仕事は放送作家)、「筆が遅い」(作者、「遅筆堂」で有名)、「新人を対象にしたある文学賞を36歳で受賞」(作者、『手鎖心中』で直木賞を受賞)などがあげられます。

けれども、古橋は「宿帳の職業欄で『作家』と書くには知名度がなく、恥ずかしいので、『自由業』」と書いたり、福沢諭吉の言葉を吉田松陰のものと勘違いして、それを指摘されると、有名人の言葉に頼るのは権威主義だとごまかしたり、講演会では要領を得ないことを話して観衆をあきれさせたりと、井上ひさし本人とは到底思えない描写があります。

また、古橋が「井上某なる人物が英語もできないくせに英語圏の国立大学の客員教授になった」といって非難しているくだりもあります。井上ひさしは、実際、オーストラリア国立大学で客員教授になったことがあるので、「井上某」は「井上ひさし」とみて間違いありません。作者が実名で出て自分自身を登場人物にけなさせる、メタ的な展開です(近しい例で、『坊ちゃん』の漱石と赤シャツの関係があります)。

また、以下のとおり、古橋は気弱で、言い訳ばかりする底の浅い、打算的で、見栄っ張りな人間という、マイナス要素が非常に多いキャラクターです。

「原稿の値上げを聞いて、嬉しさのあまり失神」、「国宝的なガニ股」、「ピアノ曲を耳にするとみなショパンという」、「ストイックをストライクと言い間違える」、「漢字を知らない」、「小説はむやみやたらと会話が多く、頁を無駄にかせぐので、編集者から原稿料は枚数ではなく文字数で計算するといわれる」、「新聞やテレビから求められたコメントは、考えもなしにいつも『非人道的な制度だな』と入れる」、「NHKの特別インタビュアーと考えただけでも誇らしい」、「二年前から売れなくて自分の名前が消えているので、三年前の文藝手帖を使っている」、「自分の作品フェアがあるかもしれないので、使ってもらえるよう、惹句『期待の中年 古橋健二』をメモ」、「自分の思想的な立場は「思想がない」ことだと胸をはる」。

ここまでではないのですが、変なプライドをもったせせこましい作家像は、井上ひさしが1975年に『週刊新潮』で連載された「四捨五入殺人事件」にも創られていますし、この「四捨五入殺人事件」は主人公の職業であったり、舞台が農村であったりと『吉里吉里人』の設定と似ている部分が多く、作品テーマも重なるところがありますので、こちらを先に読むと本作の理解が深まるかもしれません。

結論からして、著者の井上ひさしが百パーセント投影されているわけではありませんが、古橋は、職業作家としてありがちな人間の嫌な側面を代表していることに間違いはないでしょう。そして、井上ひさし自身にもどこかこの指摘に思いあたる節があるのではないか、と勘繰らせるほど、全編をとおしてしつこく古橋の評価を下げています。

ジャーナリズムの根本に必要なもの

ここで、また一度、「私小説」の話に戻りましょう。

井上ひさしは、菊池寛について語った戯曲講座で、私小説について自分の見解を示しています。私小説自体を否定しているわけではないのですが、彼は、「自分の体験ではなく自分の頭でしっかりとつくり出すというタイプ」だと明言しています(ちなみに菊池寛も同じタイプだそうです)。

もちろん、そうだとしても、登場人物が誰かしらのモデルになっている可能性までは否定できないので、先に「古橋=井上ひさし」説を検討したわけです。

また、英文学者の由良君美は、『吉里吉里人』を〈日本型私小説的メタフィクション〉として、伝統的な「私小説」のパターンを正面から抵抗することなく、しかし、わざとずらして描写する手法をとっていると読解しています。

そもそも、本作の最初のところで古橋は、「娯楽小説と純文学との間に第三の道がかならずやあるはずで」とインタビューに答えており、「新しい文学」を模索している姿勢があることをうかがわせました。

一方で、

「活(い)き活(い)きした娯楽小説を創(つく)るほどの才もなく、さりとて純文学を賭(か)けるだけの能もなく、仕方なしに〈第三の道〉などといってお茶を濁している」

井上ひさし『吉里吉里人』(上), 新潮文庫, 1985, pp19

と、その古橋の作家としての「才能」は否定されています。

しかし、この否定が井上ひさしの逆説の技法で、古橋はだめでも『吉里吉里人』という作品は、問題を提起した時点で、第三の道を拓けた、少なくても真摯に追究することができたといっているのではないでしょうか。

由良君美のいう〈日本型私小説的メタフィクション〉の手法で、「第三の道」を築けたとすれば、「古橋」が井上ひさしでもあり、そうでもない、という、一見理屈がつかない解釈ができますが、現代風に言葉を置き換えると、このようにまとめることができるでしょう。

『吉里吉里人』の古橋は、作家井上ひさしのアバター(分身)であり、この作品世界がメタバース(仮想空間)となっている、と。

冒頭でも説明しましたが、本作品は、日本SF界の大賞を受賞しています。井上ひさしは、SF作家とは認識されていないのですが、『吉里吉里人』で無限のメタバースを設定することで、文芸、ミステリ、SFといったジャンルの壁を軽く超え、彼は自分の「分身」を技巧を凝らして(彼の場合は「笑い」で)創造することで、小説における「私小説」の概念を打ち砕いてしまったとも考えられます。

もはや市民権を得ている、異世界転生ものが主流を極めた「なろう」系小説をみるに、アバターとメタバースの関係をみれば、『吉里吉里人』からその嚆矢ともいえるアイディアがあったと読み取るのは許されているはずです。ちなみに、異世界転生のもの(といっても数多ある「なろう」系全てと同列するのはよくないのですが)の古典ともいる、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』も、本作と同時代に出版されました。

一方で、本作で対象としているのは、現実にあるシビアな社会問題で、吉里吉里国はこれを分析し、しっかり「代替案」を出すという批判だけではない、質の高いジャーナリズムの精神が全編を通して貫かれています。

この流れのなかで井上ひさしの文学をみると、「虚構におけるジャーナリズム」という観点が光を帯びてくるのです。

つまり、これほどまでに深い現実問題の意識をもっている井上ひさしが、「虚構」をもちいて解決しようとしたのは、「社会病理の奥底には常に人間の意識が宿っている」、そこまでたどり着くには、「実学だけでは限界があり、人の心を媒介する、アバターを配置できるファンタジーとも、SF的世界ともいえる『文学の力』こそが必要なのだ」、それが「虚構におけるジャーナリズム」であると解釈したのでしょう。

ただし、井上ひさしは「笑い」に殉じた人です。ですから、そのアバターは「戯画化」された者でなくてはならない、本作でいう「古橋」となります。『手鎖心中』という井上ひさしの初期作品、第67回直木賞受賞作では、「戯作者」たちが主人公でした。彼にとっては、「笑いの戯れ」に素直に、あるいは真剣に生きられる人を招いた世界こそが、最高のメタバースなのでしょう。

最後に、『吉里吉里人』のなかで、今回の結論に通ずる文章を紹介します。話者は古橋で、これまでさんざん卑下されてきたのに、ここではまさにジャーナリストといえる言葉を吐露します。

 「長い間の作家生活が育(はぐく)んでくれた使命感だ。別にいえば業(ごう)だろうな。自分が生きた時代の事件、人間、思潮、雰囲気、なにかとても大切なあるもの(「あるもの」に傍点)、ちっぽけな、とるたらない人間だと思われている奴(やつ)のすばらしさ、偉大な人間だと信じられている奴のみにくさ、自分たちの時代にはなにがおもしろいとされていたか、その時代の人びとはなにを考えていたのか。並べたてれば際限(きり)はないが、とにかく作家は書かねばならぬと思ったことをそれぞれの流儀で書きつづり、同じ時代の人びとに示し、後世へ残す。」

井上ひさし『吉里吉里人』(中), 新潮文庫, 1985, pp584

この十字架を背負った「虚構の創造」という文学の力によって、「個」を通して社会病理と対峙できるならば、それはまた、新たなる「ジャーナリズム」の息吹という角度からも語られることになるのでしょう。

★参考文献

笹沢信『ひさし伝』、新潮社、2012
井上ひさし『芝居の面白さ、教えます 日本編』、作品社、2023
井上ひさし『四捨五入殺人事件』、中公文庫、2020
井上ひさし『十二人の手紙』、中公文庫、2009
井上ひさし著、井上ユリ編『井上ひさしベスト・エッセイ』、筑摩書房、2019
小森陽一、成田龍一編著『「井上ひさし」を読む』、集英社新書、2020
KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 井上ひさし』、河出書房新社、2013
第9回 吉里吉里忌 第1部 鼎談 井上ひさしとジャーナリズム 金平茂紀×吉岡忍×小森陽一『すばる』11月号、集英社、2023
対談 小説家は嘘をつく 小川哲+高瀬隼子『新潮』20242月号、新潮社、2024
久米正雄『久米正雄作品集』、岩波文庫、2019
小谷野敦『久米正雄伝』、中央公論新社、2011

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BOOKTIMES

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