『舞姫』の紹介
『舞姫』は1890年(明治23年)に発表された森鷗外の短編小説です。
文語体で書かれた鷗外初期の代表作で、現代でも国語の定番教材として広く知られています。
ここでは、そんな『舞姫』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『舞姫』—あらすじ
ドイツ留学を終えた豊太郎は、帰国途上の船中で、留学中の出来事を回想し、概略を文に綴っていきます。
五年前、大学を卒業し官僚となった豊太郎は、ドイツ留学の命を受け、ベルリンにやって来ました。
ある日、豊太郎は寺院の前で泣いていた少女・エリスと出会います。
豊太郎とエリスは交際を始めますが、それを知った同郷人が官長に告げ口し、豊太郎は免官されます。
新聞社の通信員の職を得た豊太郎は、免官後もドイツに留まり、エリスとの同棲を選びますが、自分の学問が荒んでいくのを感じていました。
やがてエリスの妊娠が判明した頃、豊太郎は相沢の紹介で大臣との面会を果たします。
能力を示して大臣の信頼を得ること、エリスとの関係を断つことを相沢から助言された豊太郎は、悩みながらもそれを受け入れ、日本への帰国を約束します。
エリスに真実を告げられず、罪の意識に苦しむ豊太郎は人事不省に陥り昏睡。
その間に、相沢から真実を知らされたエリスは発狂し、治癒の見込みがない状態となっていました。
生ける屍となったエリスに後ろ髪を引かれつつ、帰国の途についた豊太郎は、相沢をまたとない良友であると思う一方で、彼を憎む心が今も残ると考えるのでした。
『舞姫』—概要
物語の主人公 | 太田豊太郎:官僚。五年前にドイツのベルリンへ留学した。 |
"物語の重要人物" | "エリス:ヴィクトリア座の踊り子。 相沢謙吉:豊太郎の友人。大臣の秘書官。" |
主な舞台 | ドイツ(ベルリン) |
時代背景 | 明治中期 |
作者 | 森鷗外 |
『舞姫』―解説(考察)
・ドイツ三部作が出来るまで
『舞姫』、『うたかたの記』(明治23年発表)、『文づかひ』(明治24年発表)の三作品は、森鷗外のドイツ三部作と呼ばれています。
その呼び名の通り、いずれもドイツが舞台の短編作品です。
明治・大正期の小説家として有名な鷗外ですが、実は小説家以外にも、様々な肩書で知られており、その一つに陸軍軍医としての顔があります。
19歳で陸軍省に入省した鷗外は、22歳の時に陸軍衛生制度等研究のためドイツ留学を命じられ、26歳で帰国するまでドイツに滞在していた経歴があります。
『舞姫』は、鷗外がドイツ留学から帰国した翌々年に発表された作品で、当作及び『うたかたの記』『文づかひ』は、作者・森鷗外自身のドイツでの経験を元に生み出された作品だと考えることができるでしょう。
整理するために、ドイツ三部作が出来るまでの作者略年譜を以下にまとめてみました。
文久2年 | 0歳 | 現在の島根県鹿足郡津和野町町田で森家の長男として誕生。本名・森林太郎。森家は代々津和野藩主に仕えた典医であった。 |
慶応3年~明治4年 | 5歳~9歳 | 藩医家の嫡男として、論語、孟子、四書、五経、オランダ文典などを学ぶ。 |
明治5年 | 10歳 | 父と上京し、現在の墨田区東向島に移る。 |
明治7年 | 12歳 | 学齢不足のため、14歳と年齢を偽り、第一大学区医学校予科(現・東京大学医学部)に入学。 |
明治10年 | 15歳 | 同校本科生となる。 |
明治14年 | 19歳 | 7月、東京大学医学部卒業。12月、陸軍軍医副に任じられ、東京陸軍病院で勤務。 |
明治15年 | 20歳 | 5月、陸軍軍医本部課僚になる。 |
明治17年 | 22歳 | 陸軍衛生制度と軍陣衛生学研究のため、ドイツ留学を命じられる。翌年10月までドイツ・ライプツィヒに滞在。 |
明治18年 | 23歳 | 10月、ドレスデンに移る。 |
明治19年 | 24歳 | 3月、ミュンヘンに移る。 |
明治20年 | 25歳 | 4月、ベルリンに移る。北里柴三郎とともにコッホを訪ねて、コッホの衛生試験所に入る。 |
明治21年 | 26歳 | 9月、帰国。 |
明治22年 | 27歳 | 1月、『医学の説より出でたる小説論』を発表し、文学活動を開始する。8月、新声社訳として訳詩集『於母影』を発表。10月、評論中心の専門誌「しがらみ草紙」創刊。この年、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。 |
明治23年 | 28歳 | 1月、『舞姫』発表(初出「国民之友」)。8月『うたかたの記』発表(初出「しがらみ草紙」)。9月、長男誕生するも、まもなく登志子と離婚。 |
明治24年 | 29歳 | 『文づかひ』発表。9月、坪内逍遥と没理想論争を繰り広げる。 |
鷗外が体感した異国の風景が落とし込まれたドイツ三部作は、どれもロマンの香気漂うものとなっており、当時の一般的な日本人読者にとって非常に新しい感じのする作品であっただろうと想像されます。
・主人公のモデル
『舞姫』が、作者自身の経験を元に生み出された作品だと解説を行いましたが、では、『舞姫』の主人公・太田豊太郎のモデルが誰なのかという疑問が生じます。
後述するエリス来日騒動を踏まえて明らかなように、鷗外自身も豊太郎のモデルの一人であると考えられますが、鷗外以外にも豊太郎のモデルになったと考えられる人物が存在します。
太田豊太郎のモデルの一人=武島務
武島務は、秩父郡太田村(現・埼玉県秩父市)出身の陸軍軍医です。
明治19年に、私費でのドイツ留学が認められた武島は、明治20年からベルリンに滞在していました。
鷗外がドイツ滞在中の日々を記録した『独逸日記』の中では、武島の名前が六度登場しており、二人の間に交流があったことが窺えます。
ベルリンのフンボルト大学医学部で梅毒などの研究を行っていた武島ですが、実家から学費の送金を依頼されていた義兄がこれを着服し、仕送りが途絶えてしまいます。
下宿費の遅延等が生じて帰国命令が下りますが、武島は留学続行を選び、免官処分となりました。
その後、日本の医学雑誌への寄稿や、他の日本人留学生からの支援で何とか学業を続けようとした武島ですが、学業不熱心として学籍を喪失。
ドレスデンの貿易会社に就職しますが、その後すぐ肺結核を患い、27歳という若さでこの世を去りました。
免官と、その後のドイツ滞在続行という経緯は、『舞姫』の主人公と一致します。
太田豊太郎のモデルは、作者・森鷗外をベースにしながらも、人物設定の一部には武島務など、作者以外の人物が反映されていたと考えられるでしょう。
・エリスは実在するか
豊太郎にモデルが存在したとするならば、ヒロイン・エリスのモデルも存在していたのか?
結論を言うと、
とまとめることができます。
先にも軽く触れましたが、明治21年9月、帰国直後の鷗外のもとに、一人のドイツ人女性が訪ねてくるという出来事が起こりました。
鷗外は女性と直接会うことはなく、鷗外の実弟と義弟が女性に会って説得にあたり、来日の一月後には何とか帰国させたようです(余談ですが、明治43年に鷗外が発表した小説『普請中』は、この来日騒動が題材になったものと考えられます)。
このドイツ人女性とは何者か?すなわち、エリスのモデルの正体とは誰か?
長年様々な説が挙げられてきたようですが、現在は六原いちかの説による、エリスのモデル=エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトとする見方で落ち着いているようです。
エリスのモデルの実存を示すきっかけになったエリス来日騒動は、「本当にドイツに恋人を残してきたんだ、うわあ」という気持ちを引き起こす一方で、その行動力とバイタリティを見るに、「発狂してしまった女性はいなかったのね、よかった」という謎の安堵感を呼び起こします。
『舞姫』―感想
・舞姫論争について
『舞姫』は国語の定番教材の一つであり、私も高校生の時に授業で習った記憶がありますが、今改めて作品を読むと、果たして教材として適しているのかと疑問に感じます。
短編で、ストーリーはシンプルと言えばシンプルですが、考えれば考えるほど、解釈が難しく、高校国語の範疇を超えているんじゃないかと思えてくるからです。
まず、何を主題にした作品なのか、私は未だはっきりと掴むことができません。
西欧文化や思想への接近で、目覚めつつあった近代的自我とその崩壊を描いたのか?
あるいは封建的な日本社会に帰属していく様を描いた明治の官僚小説か?
はたまた単純に悲しい恋の行方を描こうとしたメロドラマ??
文学研究の観点から見ても、『舞姫』研究の方向性は時代とともに大きく変遷しており、どう決着をつければいいのかさっぱり分かりません。
『舞姫』をどう読むか?
この論争の歴史は長く、『舞姫』発表の明治23年には、「舞姫論争」と言われる文学論争が起こっており、なんと鷗外本人がこれに参戦しています。
発端は、文芸評論家・石橋忍月が、気取半之丞というペンネームで『舞姫』を批評したことで、石橋は、恋愛と功名が両立しない場面で、豊太郎が恋愛より功名を取ったことは、豊太郎の性格等から見て不自然であり、豊太郎は恋愛を取るべきであったなどと意見しています。
抑太田なるものは恋愛と功名と両立せざる場合に際して断然恋愛を捨て功名を採るの勇気あるものなるや。曰く否な。彼は小心的臆病的の人物なり。彼の性質は寧ろ謹直慈悲の傾向あり。理に於て彼は恩愛の情に切なる者あり。「処女たる事」を重ずべきものなり。(中略)
果して然らば「真心の行為は性質の反照なり」と云へる確言を虚妄となすにあらざる以上は太田の行為――即ちエリスを棄てて帰東するの一事は人物と境遇と行為との関係支離滅裂なるものと謂はざる可からず。石橋忍月,「舞姫」,青空文庫
この意見に対して、鷗外は次のように反論しています。
處女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委托し、存活の資を殘して去る心とは、何故に兩立すべからざるか。若太田がエリスを棄てたるは、エリスが狂する前に在りて、其處女を敬したる昔の心に負きしはこゝなりといはゞ、是れ弱性の人の境遇に驅らるゝ状を解せざる言のみ。太田は弱し。其大臣に諾したるは事實なれど、彼にして家に歸りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を發することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は歸東の念を断ちしも又知る可らず。
森鷗外,「舞姫に就きて氣取半之丞に與ふる書」,『鷗外全集 第二十二巻』,岩波書店,1973年,163頁
豊太郎が人事不省に陥ることなく、また、エリスが発狂することもなく、二人が語り合う機会があったならば、豊太郎は帰国しなかったかもしれない。
よって、恋愛と功名が両立できないという前提が誤っているので、石橋の論の方が支離滅裂だというようなことを鷗外は述べているのです。
屁理屈みたいで段々頭が痛くなるような内容ですが、兎にも角にも、このように初っ端から大論争が巻き起こっていた『舞姫』ですから、主題など含め、諸々の理解が追いつかないのも仕方がないと、半ば諦めの気持ちでこの感想を書いている次第です。
誰の悲劇を描いた物語?
『舞姫』の主題が未だに掴めない私は、この物語が誰の悲劇を描いているのかという答えも持ち合わせていません。
高校生の頃は、『舞姫』はエリスに起こった悲劇の物語だと思っていました。
しかし、仮に主題を近代的自我の目覚めとその崩壊と考えた場合、『舞姫』は豊太郎に起こった悲劇の話ということになります。
また、アラサー子持ち主婦になった今、趣味として読書するならば、生まれる前から父も母もいなくなってしまった子どもの悲劇だろうとも思えてくるのです。
国語の教材としての印象が強い『舞姫』ですが、読み方の視点をどこに置くか(教育的or文学研究的or趣味の読書etc…)、あるいは読む人の年齢や立場によって、様々な捉え方ができる作品だと感じます。
文語体で読みづらいイメージもありますが、現代語訳も多く出版されているようなので、それらも活用しつつ、自分なりの解釈を探すのも『舞姫』の面白さに繋がるかもしれません。
以上、『舞姫』のあらすじと解説と感想でした。