『グッド・バイ』紹介
『グッド・バイ』は太宰治著の小説で、未完のまま絶筆となった作品です。
太宰の死から8日後、1948年6月21日の『朝日新聞』に第1回が掲載され、翌月の『朝日評論』にて第13回までの原稿と、作者の言葉がまとめて掲載されました。
主人公・田島が、かつぎ屋・キヌ子に振り回されつつ、十人ほどの愛人一人ひとりに別れを告げてまわる様子をコメディ調で描いた作品です。
ここでは、『グッド・バイ』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『グッド・バイ』あらすじ
田島周二は、終戦後、妻子と離れて単身東京で暮らしています。
雑誌編集のかたわら闇商売で稼ぎながら愛人を十人ちかく抱えていましたが、そろそろ足を洗おうと考えており、知り合いの文士から「すごい美人に女房のふりをしてもらい、それを連れて女たちを訪ねてみては」という提案を受けます。
田島が目をつけたのは、闇商売で知り合ったかつぎ屋・永井キヌ子でした。
普段は不潔な身なりをしていますが、着飾ると高貴な美人に化けたのです。
早速、一人目の愛人・美容師の青木さんとの別れに成功しますが、田島の金を際限なく浪費するキヌ子に悩まされます。
まずはキヌ子を手玉に取ってやろうと部屋に押しかけますが、逆に高価なカラスミを買わされた挙句、決死の誘惑も易々とかわされ、情けない格好で部屋を逃げ出すことになりました。
そこで田島は、二人目の愛人・水原ケイ子に電話をかけます。
ケイ子には乱暴者の兄がいるため、怪力のキヌ子を用心棒として利用してやろうと考えたのです。
キヌ子には「もし彼が乱暴したら軽く取りおさえて下さい。弱いやつらしいんですがね。」とだけ伝え、ケイ子たちの住むアパートを訪ねるのでした。
(未完)
『グッド・バイ』概要
主人公 | 田島周二 |
重要人物 | 文士、永井キヌ子、青木さん、水原ケイ子、ケイ子の兄 |
主な舞台 | 東京郊外 |
時代背景 | 1948年 |
作者 | 太宰治 |
『グッド・バイ』解説(考察)
著者・太宰治の自死の直前に執筆され、絶筆となった『グッド・バイ』は、非常に軽快なコメディタッチで描かれています。
同年に執筆された『桜桃』『人間失格』のような重々しい悲劇を想像していた読者は、やや拍子抜けするのではないでしょうか。
なぜ太宰は死の直前に喜劇を描こうとしたのでしょうか。
そもそも、本作は本当に喜劇として完結する予定だったのでしょうか。
太宰が真に描きたかったものに迫るため、本作を「喜劇的要素」「悲劇的要素」の両面から紐解いていきます。
『グッド・バイ』の喜劇的要素
本作が喜劇的に描かれていることは展開や筆致からも明らかですが、喜劇的要素として挙げられるキーワードは冒頭の描写にあります。
文壇の、或る老大家が亡くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
その帰り、二人の男が相合傘で歩いている。いずれも、その逝去した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就いての、極めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡、縞ズボンの好男子は、編集者。
太宰治『グッド・バイ』,新潮文庫,350頁
この場面の構図は田島と文士が語らいながら歩くのみで、「相合傘」である必然性は特にありません。
あえて「相合傘」という一言を入れているのは、「告別式の帰りに不きんしんな話をしながら歩く大男二人」という滑稽な構図に、よりおかしみを強調する演出だと考えられます。
「ロイド眼鏡」とは、当時一般的だった丸ぶち眼鏡のことで、1920年代にアメリカで活躍したコメディアン、ハロルド・ロイドの名にちなんで、そう呼ばれました。
ハロルド・ロイドはチャールズ・チャップリンと並ぶ、サイレント映画のスーパースターです。
その当時、喜劇俳優の服装といえばホームレススタイルのボロ服が定番でしたが、ロイドはフランネルスーツにストローハット、そして丸ぶち眼鏡という都会的な出立ちで一世を風靡したのでした。
「縞ズボン」というのも、告別式の帰りですから、礼服であるモーニングコートのストライプ柄スラックスと思われます。
パリッとしたスーツに丸ぶち眼鏡、本作の田島の出立ちは、まさにハロルド・ロイドそのものと言えます。
この冒頭のわずか数行のうちに、「これからコメディを始めます」「この主人公は喜劇俳優です」と宣言しているかのようです。
『グッド・バイ』の悲劇的要素
ここまでの考察も含め、太宰が本作を喜劇的に描こうとしていたのは、ほぼ間違いないでしょう。
一方で、本作には悲劇的要素も数多く含まれていると言えます。
田島は妻子持ちですが、今の細君は後妻であり、先妻は肺炎で亡くしています。
この先妻との間にもうけたのが、白痴の女児です。
白痴という設定について、本作ではそれ以上の言及はありません。
しかし、同時期に描かれた『桜桃』では、次のような描写が見られます。
父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、唖、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたく思う。
「唖の次男を斬殺す。×日正午すぎ×区×町×番地×商、何某(五三)さんは自宅六畳間で次男何某(一八)君の頭を薪割で一撃して殺害、自分はハサミで喉を突いたが死に切れず附近の医院に収容したが危篤、同家では最近二女某(二二)さんに養子を迎えたが、次男が唖の上に少し頭が悪いので娘可愛さから思い余ったもの」
こんな新聞の記事もまた、私にヤケ酒を飲ませるのである。
ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら!この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら! 夫婦は親戚にも友人にも誰にも告げず、ひそかに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。
太宰治『ヴィヨンの妻』(桜桃),新潮文庫,194~195頁
次男が白痴であることに心煩わせ、心中をも頭をよぎるというのです。
この『桜桃』は、「太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。」という一節があり、私小説的側面が強いと言えます。
実際に太宰の長男はダウン症で、知的障害・行動障害があったそうです。
本作の物語の主軸として、先妻や白痴の女児の存在はあまり重要ではないように思われます。
後の展開で鍵を握る存在だったかもしれない、という推測もできますが、太宰が、田島を自身の分身として描いていたとも捉えることができます。
先妻・白痴の女児の存在は、田島に自身と同じ「悲劇」を背負わせるためのキーワードだったと考えられるのです。
元禄時代以降、傘が歌舞伎の小道具として用いられるようになりますが、相合傘は、主に心中物の演出として多用されました。
相合傘は、心中の象徴と言えます。
まさか田島と文士が心中する展開は考えにくいですが、心中や悲恋を想起させる、悲劇的モチーフであることは確かです。
喜劇/悲劇の表裏一体性
ここまでで、「喜劇的要素」「悲劇的要素」について取り上げてきましたが、ここで太宰作品における、喜劇/悲劇の捉え方について見ていきたいと思います。
喜劇/悲劇のキーワードから想起されるのは、『人間失格』の一節です。
自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。
太宰治『人間失格』,新潮文庫,120頁
葉蔵と堀木は、世の中の言葉を「喜劇名詞」「悲劇名詞」の二つに分類する遊びをするのです。場面は、次のように続きます。
「(中略)死は?」
「コメ。牧師も和尚も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。(中略)」
太宰治『人間失格』,新潮文庫,120~121頁
「コメ」とは喜劇(コメディ)の略、「トラ」とは悲劇(トラジディ)の略です。
葉蔵は、死が喜劇名詞、生は悲劇名詞と語っています。
太宰は『人間失格』の中で、生きることこそ悲劇だと書いているのです。
さらに、本作でも文士のセリフとして「死=喜劇」ということが語られています。
「(中略)まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女に惚れられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽の極だね。(中略)」
太宰治『グッド・バイ』,新潮文庫,354頁
このように晩年の太宰は、生/死の概念を倒錯的に描いていました。
本作を最高の喜劇として描こうとしていたならば、そして、もし本作にも「生=悲劇名詞」「死=喜劇名詞」という法則を当てはめるのであれば、田島は「喜劇的な死」を遂げる運命にあったのかもしれません。
『グッド・バイ』感想
グッドバイの結末は?
考察にて言及した喜劇俳優、ハロルド・ロイドは、実は『人間失格』にも登場しています。
主人公・葉蔵は少女たちから無理に丸ぶち眼鏡をかけさせられ、「ロイドにそっくり」とからかわれるのです。
少女らの期待にこたえるようにロイドの真似事をして、笑い者に徹する自らを、葉蔵自身は空虚あるいは悲惨な人間と捉えています。
ロイドに重ねられた『人間失格』の葉蔵は、物語の最後まで女から逃れることができず、酒に溺れ、薬物中毒のすえ廃人となります。
しかし、壊れてしまった葉蔵は「ただ、一さいは過ぎて行きます。」と語り、幸福も不幸もない世界で生き続けています。
『人間失格』は、太宰にとって、最高の悲劇と呼べる作品だったのではないでしょうか。
一方、直後に書いた本作でも、太宰は主人公にロイドを重ねています。
「コメディ調」で「女に別れを告げる話」と、『人間失格』とは対照的に描かれていることを考えると、『グッド・バイ』では最高の喜劇を描くつもりだったのかもしれません。
とすると、田島が喜劇的な死を遂げる結末もあったのではないでしょうか。
『グッド・バイ』の連載を依頼した朝日新聞社の末常卓郎は、本作が依頼後に構想された物ではなく、元から太宰の中で練られていたものだったと語っています。
末常が聞いていた本作の結末は、次のようなものでした。
「彼が描こうとしたものは逆のドン・ファンであつた。十人ほどの女にほれられているみめ麗しき男。これが次々と女に別れて行くのである。グッド・バイ、グッド・バイと。そして最後にはあわれグッド・バイしようなど、露思わなかつた自分の女房に、逆にグッド・バイされてしまうのだ」
太宰治『太宰治全集 第9巻』,筑摩書房,514-515頁
この結末は、実に喜劇らしい喜劇と言えます。
しかし、太宰はまだ物語の序盤で自ら死を選び、本作を絶筆としました。
奇しくも、作者自身がこの物語の結末を体現してしまったかのようなタイミングにも思えます。
叶うなら、太宰の言葉で、この最高の喜劇の完結を見たかったと思わずにはいられません。
以上、『グッド・バイ』のあらすじ、考察と感想でした。