『母子叙情』紹介
『母子叙情』は岡本かの子著の小説で、1937年3月『文学界』に掲載されました。
本作は、著者・岡本かの子の出世作ともいわれている作品です。
主人公・かの女は岡本かの子自身、その家族は岡本家がモデルとなっており、実話に基づいた創作となっています。
パリに留学中の息子への悶えるほどの恋しさ、一郎に後ろ姿の似た青年へ抱いてしまった愛情などをめぐって、主人公の心の揺れ動きが繊細に描写された作品です。
ここでは、『母子叙情』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『母子叙情』あらすじ
一家で渡欧していたかの女たちは、1年ほど前、画学生のむす子・一郎を巴里に残し帰国しました。
以来、寂しさにもだえる日々を送っていたかの女は、後ろ姿が一郎に似ていたことをきっかけに春日規矩男という青年と知りあいます。
2人はすぐに打ち解け、年の差を感じさせないほど仲を深めるものの、かの女は若い男女のように並んで歩いていることに恥じらいを覚えます。
やがて、規矩男への思いがあふれ身体に触れてしまったその瞬間、かの女は彼のもとを逃げ出し「もう逢わない」と心に誓いました。
数年後、一郎の絵が日本で展示された際、それを買っていく青年がありました。
名前を確認すると春日規矩男とあり、かの女はあわてて後を追いますが言葉を交わすことはできませんでした。
後日、連絡の途絶えていた規矩男から手紙が届きます。
そこには、『世の中には奇蹟的に幸福なむす子もあればあるものだ。そういうむす子の描いた絵が珍しいから僕の部屋へ掛けて眺めよう』という思いで、絵を買ったのだと記されていました。
かの女は、長く心にしまっていた規矩男の面影に思いを馳せるのでした。
『母子叙情』概要
主人公 | かの女(O・K夫人) |
重要人物 | 逸作:かの女の夫。一郎の父。 一郎:かの女のむす子。画学生として巴里へ留学中。 春日規矩男:高校を卒業したばかりの青年。後ろ姿が一郎に似ていたことから、かの女と知りあう。 |
主な舞台 | 巴里、東京 |
時代背景 | 昭和時代(1430年代) |
作者 | 岡本かの子 |
『母子叙情』解説(考察)
本作に描かれるかの女の心情の揺らぎは、むす子・一郎と銀座で知りあった青年・規矩男、主にこの2人が起因しています。
彼らへの愛感は単純な母性愛にとどまらず、さまざまな思いが入り乱れた複雑な愛情です。
前半部では、それらを母性愛・情愛・性愛の3つに分け、かの女の心の揺れ動きを丁寧に追っていきたいと思います。
さらに後半部では、かの女ら家族と切っても切り離せない“芸術”に着目し、ラストシーンが物語るもの、そして本作が『母子叙情』たる所以を紐解いていきます。
むす子・一郎への愛情
まずは、むす子・一郎への愛情についてみていきたいと思います。
一郎への愛情は、大きく2つに分けられます。
- 母性愛:片時も離れたくないという独善的な愛情。
- 情愛:母でなく1人の人間として一郎を尊敬する思い。倒錯した母性愛。
ひとつずつみていきたいと思います。
母性愛
かの女が抱いている一郎への母性愛は、ただ“片時も離れたくない”という独善的な願望です。
それゆえに、彼が立派な男性に成長していくさまを恨めしくも思っています。
冒頭、かの女は庭先の蔦をみて「芽というものが持つ小さい逞しいいのち」から一郎を連想しました。
かの女にとって、一郎はいまだ生まれたばかりの小さな命のように感じられていることがわかります。
さらに、「笑う眉がちょっぴり下ると親の身としては何かこの子に足らぬ性分があるのではないかと、不憫で可愛ゆさが増す」という描写からは、親としての“庇護欲”がよく現れています。
これらの“庇護欲”は、むす子と“片時も離れたくない”という強い願望がもとになっています。
(前略)それほど近く感じられる雰囲気の中に、いべきはずのむす子がいない。眼つきらしいもの、微笑らしいもの、癖、声、青年らしい手、きれぎれにかの女の胸に閃きはするが、かの女の愛感に馴染まれたそれらのものが、全部として触れられず、抱え取れない、その口惜しさや悲しさが身悶えさせる。
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,108頁
かの女は一郎と“片時も離れたくない”がゆえに「お願いだから、もっと子供になりなさいよ」と、いつまでも守られる存在であることを彼に求めます。
その母性愛は非常に独善的ですが、もっとも強大な愛情ともいえるでしょう。
情愛
一方で、かの女は一郎が幼い頃から母子の関係性を抜きにした情愛を抱いています。
この情愛は、倒錯した母性愛とも捉えることができます。
たとえば、かの女が一郎に連れられていったモンパルナスのカフェでのやりとりに、それがよく現れています。
「あんたには、そういう順序を立てた考え深いところもあるのね。そういうところは、あたし敵わないと思うわ」
かの女は言葉どおり尊敬の意を態度にも現わし、居住いを直すようにしていった。しかし、こういう母親を見るのはむす子には可哀そうな気がした。(中略)
けれども、いったんむす子へ萌した尊敬の念は、あとから湧き起るさまざまの感傷をも混えて、昇り詰めるところまで昇り詰めなければ承知できなかった。かの女は感心に耐えかねた瞳を、黒く盛り上がらせてつくづくいった。
「なるほど一郎さんは男だったのねえ。男ってものは辛いものねえ。しかし、男ってものはやはり偉いのねえ」
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,114頁
かの女が抱く尊敬の念には、独善的な母性愛をもとにした“庇護欲”は感じられません。
むしろ積極的に一郎を頼もしがっているようにも思われます。
それは、かの女のなかに倒錯した母性愛が存在しているためです。
着目したいのは、「こういう母親を見るのはむす子には可哀そう」という一節です。
かの女は、母は子を守る立場であり、本来は子に頼られる母であるべきと考えているのです。
実際、この少し前には「おかあさんの方ばかり気にしないで、ご自分が幸福になるよう、しっかりなさいよ」という台詞の後、「こういって、はじめてかの女は母親の位を取り戻した」という描写があります。
かの女は、自身が本質的な幼稚性をもっているからこそ、意識的に「母親の位」を示してきたのではないでしょうか。
しかし、かの女はそれを反省しつつ、やはりむす子への尊敬を表現せずにはいられません。
かの女のこの性質は、一郎が幼い頃から存在していました。
かの女は、むす子が頑是ない時分から、かの女のあり剰る、担いきれぬ悩みも、嘆きも、悲しみも、恥さえも、たった一人のむす子に注ぎ入れた。判っても、判らなくても、ついほかの誰にも言えない女性の嘆きを、いつかむす子に注ぎ入れた。頑是ない時分のむす子は、怪訝な顔をして「うん、うん」と頷いていた。そしてかの女の泣くのを見て、いっしょに泣いた。途中で欠伸をして、また、かの女と泣き続けた。
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,117頁
かの女は、“むす子を守りたい”“手放したくない”という通俗的な母性愛を抱きつつも、同時に“自分を守ってほしい”と望み、一郎をその存在ごと頼みにしてきたのです。
「一番むす子を手放したくない」かの女が一郎を巴里へ残したのはむす子だけのためでなく、巴里とのつながりを失いたくない自分のためでもありました。
一郎は守るべき存在でありながら、自らを守ってくれる頼もしい存在でもあったのです。
この倒錯した母性愛こそが、かの女と一郎の特殊な母子関係を生んだ所以といえるでしょう。
規矩男への愛
一方、規矩男への愛情は母性愛・情愛・性愛の3つが入り乱れています。
- 母性愛:擬似的な親子関係をもとにした慈愛。
- 情愛:歳の差を忘れ、恋人や夫婦間で抱くのに近い愛情。
- 性愛:肉体に触れたことによって起こった愛感。
それぞれが複雑に入り乱れたことで、かの女は規矩男との関係を保つことができなくなりました。
ひとつずつ、くわしくみていきます。
母性愛
規矩男に抱いていた母性愛は、いうまでもなく擬似的な親子関係をもとにしています。
「後姿だけを、むす子と思いなつかしんでいくことだ。美青年に用はない」とはっきり語られているとおり、当初、かの女にとって規矩男の性質はどうでもよく、一郎を投影する媒体としてのみ存在価値を見出していました。
しかし、規矩男からの手紙を読むにつれ、次第に一郎の面影とは切り離されてゆきます。
そのうえで「青年期へ入ったばかりの年齢の現代の若ものにありがちな、漢字に対する無頓着さ」「憐れに幼稚なところ」など、青年の幼稚性に心惹かれていくのです。
これは規矩男という人間に対する愛情というよりも、若者に対する漠然とした慈しみのように感じられます。
「対談のうちに婦人は時々母性型となり、青年はいくらかその婦人のむす子型となり」と記されているとおり、はじめにかの女が規矩男に抱いていたのは、擬似的親子関係をもとにした通俗的な母性愛だったことがわかります。
情愛
当初の漠然とした慈しみは、規矩男の人間性を知るにつれ次第に変化してゆきます。
一郎の面影や若者というラベルを排除し、規矩男という人物そのものに情愛を抱き始めるのです。
年齢差や互いの社会的・家庭的立場が意識されなくなり、対等な関係性が築かれたことで擬似的な親子関係は崩壊しました。
結果として生まれたのが、恋人や夫婦に近い愛感です。
しかし、この情愛は後から生まれたものではありません。
規矩男に会うことを決めた日、すでにかの女は「母性の陰からかの女の女性の顔が覗きでたようではっと」しています。
はじめから存在していた情愛の種が、関係性が深まるにしたがって立ち現れてきたということでしょう。
この情愛が恋人や夫婦に近いものといえるのは、逸作についての描写からわかります。
「規矩男と若い男女のように並んで歩いている自分」に気づき、「つぎ穂のないような恥しさ」に襲われたかの女は、そのすぐ後、目を閉じて「何もかも取りなすような逸作のもの分りの好い笑顔」を思い浮かべています。
規矩男への愛情が母性愛に近いものであれば、ここで逸作の顔を浮かべるのは不自然でしょう。
擬似的な親子関係が崩壊したのち、恋愛感情ともいえる情愛が明らかになりました。
かの女はそのことに自分でも動揺し、気まずさを感じ始めたのでした。
性愛
情愛が深まった結果、かの女が行き着いたのは性愛でした。
規矩男の「精神から見放しにされたまま物足りなさに啜り泣いていた豊饒な肉体」を感じた途端、恋愛的な情愛から性的な愛情を誘発しそうになったのです。
その罪悪感に耐えかねて、かの女は突発的に規矩男と決別するのでした。
かの女はこの性愛に対し、規矩男の許嫁や逸作よりも一郎に申し訳なさを感じています。
規矩男の許嫁や逸作に対しては「たんなる道徳上のすまなさ」と語る一方、一郎に対しての申し訳なさは「子を瀆したくなかった母の本能、しかく潔癖に、しかく敏感に、しかく本能的にも、より本能的なる母の本能」によるものであり、「何物の汚瀆も許さぬ母性の激怒」と表現しています。
かの女は1人の女性から母にもどり、むす子に性愛を結びつけることを本能的に拒絶したのです。
いくら規矩男が擬似的な親子関係からは脱却し対等な関係性を築けている相手だとしても、もともとは「むす子の存在の仲介によって発展した事情」である以上、一郎の面影を拭い去ることができませんでした。
かの女は規矩男の幼稚性に母性愛を感じ、彼の不憫な身の上に情愛を感じています。
これは一郎に対して抱いている愛感ともよく似ているのです。
結局のところ、規矩男に抱く愛情には、一郎への思いも存分に投影されていたのでしょう。
親子の夢である文壇デビュー
最後に、かの女ら一家にとって切っても切り離せない“芸術”に焦点を当ててみていきたいと思います。
本作の主題である母子愛には、彼らの“芸術”に対する思いが密接に関係しています。
この『母子叙情』とは、かの女らの母子愛によって結実したひとつの“芸術”であり、一郎との離別や規矩男との邂逅はそのためにあったといっても過言ではありませんでした。
この“芸術”を軸にみていくと、ラストシーンが物語るものについて新たな解釈が生まれてくるのです。
一郎からの鼓舞
前半部で触れたとおり、かの女と一郎のあいだには倒錯した親子関係が存在します。
ゆえに、かの女が一郎の成功を祈るように一郎もまた母の成功を祈っていました。
かの女の成功とはつまり、小説家として文壇デビューを果たすことです。
かの女のモデルである著者・岡本かの子は、小説を自分の「初恋」だと語っていました。
歌人・仏教研究家として地位を築いていた彼女は、渡欧の直前に小説への転向を決意し、4年間の外遊、帰国後5年の歳月を経て文壇デビューを果たします。
帰国から約1年後という本作の時間軸はちょうど、かの子が本格的に小説にとりかかった時期にあたります。
本作に登場する一郎の手紙には、子が母に宛てたものとは思えないほど厳しい叱咤の言葉が並んでいました。
そこには、かの女に“よい母”でなく“よい芸術家”になってほしいという強い思いが感じられます。
(前略)自分の中にある汗、垢、膿、等を喜んで恥とせずに出していくことができれば万々です。僕の書いた意味は、それによって受ける反動が、お母さんを苦しめて、ますます苦境に陥れることを心配したので、今となって超然とした、はっきりした態度を持っているお母さんなら心配しません。(中略)
すべての自己満足を殺さねばなりません。まだまだお母さんは弱い。うちの者の愛に頼りすぎるということは自己満足です。(後略)
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,159-160頁
(前略)お母さんの一方はあまりに偉すぎます。一方はあまり偉くなさすぎます。あいにくなことに偉くない方がお母さん自身にも他にも多く働きかけるのです。両方がよく調和した時がお母さんの本当の完成をみる時なのです。(後略)
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,162頁
一郎がいう “偉すぎるところ”とは、大乗仏教への深い造詣、歌人としての流麗な表現のことでしょう。
一方の”偉くなさすぎるところ”は、幼稚性、愚鈍性を指すと思われます。
今のかの女は、幼稚性・愚鈍性、つまり「白痴的な部分」に偏りがちであるため、それらを調和させれば「お母さんの本当の完成」――小説家としての大成が叶うと助言しているのです。
かの女の小説家という夢は、一郎にとっての夢でもあったのでしょう。
その思いは、まさに子の成功を祈る親の心そのものです。
2人の特殊な関係性は、ここにもよく現れています。
見遺した夢の名残り
この小説への愛という視点を取り入れると、ラストシーンに対する解釈にも幅が広がります。
決別から数年後、久しぶりの規矩男からの手紙を読んで、かの女は当時の熱い思いを呼び覚まされます。
かの女もこの手紙へ今さら返事を書こうとはしなかった。しかし規矩男。規矩男。訣れても忘れている規矩男ではなかった。厳格清澄なかの女の母性の中核の外囲に、匂うように、滲むように、傷むように、規矩男の俤はかの女のうちにいた。
今あらためてかの女はかの女の中核へ規矩男の俤を連れだしてみようか――今やかの女のむす子を十分な成育へ送り届け、苦労も諸別もしつくしたかの女の母性は、むしろ和やかに手を差し延べてそれを迎え、かの女の夫の逸作のごとく、
「君も若いうちに苦労したのだ。見遺した夢の名残りを逐うのもよかろう」
こうもかの女の母性はかの女にもの分りよく言うであろうか。
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,173-174頁
規矩男への想いだけに焦点を当てて考えると、「かの女の中核へ規矩男の俤を連れだしてみようか」とは規矩男と再び関係を築きなおすことであり、「見遺した夢」とは貧困からも育児からも解放された今、素直に自身の心にしたがう――つまり、規矩男への情愛にしたがうこと、と解釈できます。
しかし、「見遺した夢の名残り」を小説として読むと、印象が変わってきます。
「かの女の中核へ規矩男の俤を連れだしてみようか」とは、押し殺してしまった規矩男への情愛を掘り起こし、そのすべてを小説として書き起こしてやろうという、芸術家としての決意にも読めるのです。
このラストシーンに描かれているのは、むす子ほど歳の離れた男への情愛、一時は汚辱とも感じられたその感情を、自身の「初恋」たる小説に落とし込む覚悟を決めた芸術家としての覚悟だったのではないでしょうか。
それは、一郎からの助言どおり、かの女の知性と白痴性を調和させ「自分の中にある汗、垢、膿、等を喜んで恥とせずに出していく」ということにほかなりません。
そして、そんな覚悟を持って描かれた作品こそ、この『母子叙情』なのではないでしょうか。
本作は、寂しさに身悶えるばかりだったかの女が、青年との出会いや小説に対峙する時間を通じて一郎への執着から逸脱し、小説家としての「出発」を遂げるまでの物語なのです。
心血注いで育て上げた最愛のむす子、一郎からの叱咤激励あってこその結実だというのも、本作が『母子叙情』たる所以なのではないでしょうか。
感想
立場にとらわれない愛し方・愛され方
本作はしばしば、著者・岡本かの子のナルシシズムが色濃く現れた作品として語られます。
たしかに、自身をモデルとしたかの女について「お若くて、まるでモダン・ガールのようだのに「年上の情感を美しく湛えた知識婦人」などの描写があり、そこには一切の謙遜が感じられません。
しかし、このナルシシズムは決して、かの子が主観におぼれていることを示すものではありません。
本作にはともすれば欠点ともなりうる自身の特異性についての自覚と、それにともなう悲しみや苦悩についても繊細に描写されています。
「自分たちを親に持ったむす子の赤児の時のみじめさ」「お嬢さん育ちの甘味の去らない母親」という一節からは、とても自己愛におぼれた愚かさは感じられません。
かの子がこうして自身の美点も欠点も屈託なく描写できたのには、夫・一平と息子・太郎の存在が欠かせなかったのではないかと思われます。
作中の一郎の手紙にも記されていたように、かの女の美しさはもちろん、愚かさもまた芸術家として重要な要素のひとつでした。
そうした芸術家としての尊敬を示してくれる存在がいたからこそ、かの子は自尊心を奪われたり肥大化させたりせず、自然体のまま自身を描写できたのではないでしょうか。
作中には、かの女の芸術性にむける逸作の思いが描かれています。
逸作には、人間の好みとか意志とかいうもの以上に、一族に流れている無形な逞しいものが、かの女を一族の最後の堡塁として、支えているとしか思えなかった。それはすでに本能化したものである。盲目の偉大な力である。今や、はね散って、むす子の上に烽火を揚げている。逸作はじつに心中讃嘆したいような気持もありながら、口ではふだんからかの女に「芸術餓鬼」などとあだ名をつけてからかっている。
岡本かの子『日本文学全集74 岡本かの子集』(母子叙情),集英社,157-158頁
逸作の放蕩による家庭崩壊や、かの女の「感情上の大失敗」、ままならない育児を経てもなお、逸作と一郎は、1人の芸術家としてかの女の美しさを認めていました。
いつ散り散りになってもおかしくなかった家庭が、世にも珍しいほど強い絆で結ばれた家庭への変貌を遂げたのは、互いを親や子といった家族の役割だけでみるのではなく、1人の人間、1人の芸術家としてみようとしていたからでしょう。
そこには、子は親に守られ、親は子を守るべきだとか、夫婦は互いしか求めてはならないだとか、世間の固定観念にとらわれない情愛がありました。
岡本一家にはたまたま芸術という媒体がありましたが、家族を伴侶、親、子ども、といった見方のみでなく、1人の人間として尊重する姿勢は私たちにも見習うべきところがあるように思います。
近年、LGBTQ+という言葉が広まり、男女間の性愛に限らない性的マイノリティへの理解を深めようといった動きが強まっていますが、岡本一家のあり方はこうした多様性への受容にもつながるような気がします。
たとえばLGBTQ+の中には、恋愛感情の有無にかかわらず性的欲求を感じないアセクシャルという趣向がありますが、パートナーへの情愛が必ず性愛に結びつくわけではないという認識がなければ、「まだ本気で愛せる相手に出逢ってないだけだ」といった価値観の押し付けで、そうした人々を苦しめてしまう可能性があります。
本作に描かれているように性愛と情愛・母性愛を同化させてしまわず、しかし過剰に区別するのでもなく、そこにある一つひとつの愛情の形をありのまま受容していくさまは、現代の私たちにこそ必要な思考のようにも感じられました。
母子の愛情ですら、母子の数だけあるのです。
世の中に定義される見本的な母子愛にとらわれない、かの女の愛し方・愛され方を私たちも見習っていきたいと強く感じます。
以上、『母子叙情』のあらすじ、考察と感想でした。