井上ひさし『手鎖心中』あらすじ!戯作者とはどうあるべきか?

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井上ひさし『手鎖心中』あらすじ!戯作者とはどうあるべきか?

『手鎖心中』の紹介

『手鎖心中』は、1972(昭和47)年3月刊行『別冊文藝春秋』119特別号に発表された井上ひさしの小説です。

同年7月に第67回直木賞(上半期)を受賞しています。

既に劇作家として認められていた井上ひさしの3作目の小説で、井上笑劇のエッセンスがつまった初期の作品となります。

ここでは、『手鎖心中』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『手鎖心中』――あらすじ

大坂(大阪)から江戸へ戯作者になるべくやってきた与七(後の十返舎一九)。

彼は居候先の版元(出版社)蔦屋重三郎の紹介で、元戯作者の山東京伝が商う店を訪れ、清右衛門(後の曲亭馬琴)、太助(後の式亭三馬)、そして材木問屋の若主人で戯作者志望の栄次郎と出会います。

栄次郎から「文才がないので、力を貸してほしい」と乞われ、奢りに奢られた三人は酔いに乗じ、桃太郎のパロディ話を作りました。

しかし、栄次郎の戯名義で出版した本の売れ行きは惨憺たる結果。

そこで栄次郎は、自ら親に勘当を願い、夫を亡くした女性の家に婿養子に入り、無理に吉原に通ったり、わざと養子先から追い出されたり、破天荒な人生こそが戯作者への道と、三人を巻き込んでの大騒動をおこします。

次に彼はカチカチ山を元ネタに幕府を風刺する戯作を出し、自ら罪人になることで「戯作者の箔」をつけようとしますが、肝心のお上からは全く相手にされません。

そこで栄次郎は与七に口利きを頼み、やっと念願の(わずか3日の)刑手鎖を受けます。

そして、手鎖をつけたまま遊女と心中する芝居をして耳目を引こうとしますが、勘違いした女の恋人に刺され、栄次郎は死んでしまうのでした。

『手鎖心中』――概要

主人公 栄次郎
重要人物 近松与七(十返舎一九)、会田清右衛門(曲亭馬琴)、西宮太助(式亭三馬)
舞台 江戸(日本橋、京橋、柳島、浅草、深川、鳥越、亀戸、向島)
時代背景 江戸時代(老中松平定信が失脚した後の1794年ころ)
作者 井上ひさし

『手鎖心中』――解説

『手鎖心中』は、同時受賞した綱淵謙錠の『斬』に比べ、直木賞選考委員の評価が分かれた作品です。

否定的な意見の中に、「重みにかける」というものがありましたが、こうした批判を受けることは、常に「笑い」を作品に織り込む井上ひさしの作品の宿命ともなったのです。

確かに本作は、(井上本人もそれを狙っていたとはいえ)ともすれば井上節の飄々たる笑いに飲まれて、立ち止まることなくあっという間に読了できてしまいます。

しかし、文章を読みほぐせば、「戯作者とは、あるいは戯作とはどうあるべきか」という問いに葛藤する人々の姿が「笑い」のなかでも随所に見受けられます。

それは、当時37歳であった井上ひさしが抱いていた、「戯作」文学の中で彷徨する己の姿と置き換えられることもできるでしょう。

ここではまず井上ひさしの「笑い」に対する思考をたどることを目的に、「戯作者とは、戯作とはどうあるべきか」――このテーマを受け、井上ひさしが与えた3つの苦難から登場人物の言動を分析し、次項の「感想」で、彼の成した文学の「功罪」と宿命を、テクスト論を交えて述べることにしましょう。

権力による表現規制――反抗できない

 『手鎖心中』は、時の権力者の意向に逆らった本を出すと罰せられた江戸時代の話です。表題の「手鎖」とは、戯作者だった山東京伝の場合は、世を乱したとして50日間両手首につけられた、江戸時代の罰則を意味しています。

そして、版元(出版社)であり、罰金刑を受けて痛い目に遭っていた蔦屋重三郎は、その後悔から最初に持ち込まれた与七の作品にダメ出しをします。

「泥くさい色事と悪どい笑いが多すぎます。とくにいけないのはお上の御政道を茶にしすぎていることだ。ドジや野暮は戯作(げさく)には禁物、くどくなく執拗(しつこ)くない垢(あか)ぬけのしたところが戯作の妙だと、わたしは思いますよ」

井上ひさし『手鎖心中』, 文藝春秋, 1972, pp12

また、与七が栄次郎の頼みを聞いて、彼を罪に問うてもらえるよう役人に口をきいたことで、清右衛門は次のように与七を諌めました。

 「(前略)なによりもあの京伝がいい手本ではないか。あの大才人がお咎めひとつで筆を折ったのだぞ。それを、あんたは、つてを求めてお上に、お咎めを逆に願い出たそうだが、全くどうかしている」

井上ひさし, 前掲書, pp86

世の風紀を乱すもの、それは戯作=「笑い」。

故に、「笑い」への弾圧が長い歴史をもってあったのは、多くの人に知られた話です。

主たる弾圧者であった国家権力は、第二次世界大戦後、日本において「検閲をしてはならない」と法律で厳しい制限が課されることになりました。笑いを含めた表現の自由は、法的な担保は獲得しています。

しかし、いまや「笑い」の自主規制時代です。「コンプライアンス」「ハラスメント」の名のもと、軽々しい冗談もいえない世の中になりました。

NHK総合テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」で脚本を手がけ、テレビ業界に関わっていた井上ひさしは、テレビの自主規制・保守化については80年代から、警鐘を鳴らしていました。

また、本作品で、版元である蔦屋重太郎が「笑い」の表現に弱腰となっているという描写から、権威に屈する出版メディアへの批判をメッセージとして残しています。

そして、国家機関という権力から、国民を支えるはずだったメディアが、今度は逆にSNSを中心とした国民世論から叩かれるという現象もおきています。

言論の力を託されたメディアが、肥大化して攻撃対象たりうる存在となったこと、一般の人でも意見を容易に発せられる環境が整い、市井の言葉が実効力を得たことなどが要因として挙げられるでしょう。

2010(平成22)年に亡くなった井上ひさしに、この対立構造のみえない混沌とした状況について意見を求めるのは無理ですが、「笑い」を最強の武器とする彼の厳しい視線の先には、常に表現の自由を侵すもの――現代でいえば肥大化したメディアなのか、ネット民なのか――にあったことは間違いありません。

「笑い」を迫害するものは「笑い」をもって制す、抑圧されればされるほど「笑い」は息を吹き返す、井上ひさしは、『手鎖心中』で与七に

「茶気が本気に勝てる道をさがしてやる」

井上ひさし, 前掲書, pp87

と言わせています。

この「権威に対する笑いを武器にした闘争」は、井上ひさしの文学を語る上での重要なテーマとなるのです。

上がることのない世間の評価食べていけない

 「戯作では食べてはいけませんよ」

井上ひさし, 前掲書, pp25

与七は、戯作者としてすでに成功していた山東京伝に初対面でこう諭されます。

また、栄次郎の「戯作者とは何者か」の問いに答える形で、清右衛門も

「戯作だけでは喰っていくことのできない人間さ」

井上ひさし, 前掲書, pp38

と京伝同様に開き直ります。

実際、清右衛門は、食うために下駄屋へ婿養子に入っています。相手は年上の未亡人で、その家には商いのお金があります。

忙しくない商売をしている家に婿にいけば生活が保障され、その上、戯作に割ける時間が確保できます。そして、年上の女房は、そんな戯作に精を出している男をあまやかしてくれる、こうした理屈です。

先輩の京伝にしても戯作者希望の者には、そうした生活を勧めているのです。与七、太助もこの考えに一も二もなく同意しています。

ここで注目すべきポイントは、彼らは、世間的には大きな評価は望めない「戯作者」志望であることです。

普通ならば「くだらないことをやってないで、普通に働けよ」と怒られるところを、何とか逃げ道をみつけて体裁を保っているわけです。

清右衛門の次のセリフが、彼らのおかれた立場を端的に物語っています。

 「しょせん、戯作は戯作、戯れにする作だ。戯れにすべきことを本業にし、生業にし、正業にしては、全く理屈に合わない」

井上ひさし, 前掲書, pp40

この「食うため」=「お金を得る」という点を鑑み人物を類型化すると、この作品には重要な設計がされていることがわかります。

まずは、金銭も含め、戯作の世界と折り合いをつけられた者です。

①山東京伝、蔦屋重太郎(彼は戯作者ではありませんが、ここにおきます)

次に、後ろめたさがありながら金銭は他者へ依存し、その上、戯作者としても成立していない者です。

②与七(居候)、清右衛門(下駄屋の婿養子)、太助(奉公人。彼は金銭的に依存している描写が明確ではないのでここにおくべきかわかりませんが、先の二人の連れということで同列としておきます)

最後に、お金に何ら不自由はしないものの、戯作者として成立していない者です。

③栄次郎(若主人)

本来、世間的に一番厳しい評価が下るのは、2番目のグループである与七たちです。彼らは、夏目漱石の小説に代表される「高等遊民」のように学識はあっても正業を持たず、ブラブラと暮らしている人物に似ていますが、そこまでの余裕はなく、少々世間的な手垢はついていて、出自もどうあれ「高等」ではなく「中等」レベルの「半遊民」ではないでしょうか。

一方でむしろ、いまでいう資本家の跡継ぎである栄次郎の方が、世間的序列においては優位に立っています。

しかし、本作では、生活弱者である与七たちが、上位の栄次郎に説教ができ、栄次郎の方も彼らの指導を素直に受け入れるという逆転された構成をとり、これが話の妙にもなっています。

また、主人公のはずの与七が狂言回しになり、栄次郎を話の主軸にすることで、戯作者希望で世間の周辺に立つべきであった与七たちが、社会的には保証されている栄次郎に対して、その行動をたしなめながらもひきずられるという、むしろ常識人的な役割を与えられます。これも「笑い」をよぶ逆転です。

こうした逆転の関係をもつ設計は、戯曲家として立体的な視点をもつ井上ひさしの小説におけるユニークな優れた技術だといえます。

富める者(栄次郎)と貧しき者(与七たち)が「笑い」で逆転される、けれどもセミプロで貧しき与七たちは、ゴールした京伝らのグループにいくまで「食えていない」し、世間的認知も得られていません。しかも、アマである栄次郎には戯作者の本質的な部分でどこか遅れをとってしまっています。

ここに「笑い」を志す者たちに対する、現実的な厳しさと矛盾も明かされるのです。

『手鎖心中』における井上ひさしの文学の巧さを証明しています。

表現の追求を阻む絶望――本物の志(覚悟)がない

京伝は与七へ

「もう、江戸の読者の質は落ちている。だから、作る方も彼らに合わせなくてはならない」「確かにかつての平賀源内の戯作には本物の志があったが、それは共感できる相手(読者)がいるからこそ成立することで、いまの時代ではどうしようもない」

井上ひさし, 前掲書, pp17

と嘆きます。

現代に置き換えると、エンターテイメントの作り手の嘆きといえましょうか。

芸術家は、相手に合わせる必要は原則的にありません。彼らの作品にむしろ、受け手の方が積極的、能動的に呼応していきます。

しかし、「戯作」=「笑い」を売りにし、そこから収入を得ようとするならば、芸術に比べて世間的な評価は低く薄利な世界でもありますから、受動的な対象(大衆)をより多く取り込む努力をしなくてはいけません。

例えば、本でいえば、大ベストセラーは「ふだん本を読まない人が買うから」生まれるという皮肉な構造があるわけです。パトロンを持たない、ビジネスとしてのエンターテイメントをつくる――そうなると大衆のレベルに合わせることに関心が強くなるのは道理です。

多くの共感を得ようとすれば、自然と味は薄くなる、一方で、浅い「笑い」を排除して、その奥深さを追求し、「本物の志」をもって創作すれば逆に相手を選ぶことになり、大衆から背を向けられる可能性が大きくなります。

先の戯作者予備軍である第2グループ、与七たちは、第1グループの成功者京伝がいうように、そして蔦屋があきらめているように「単に権威と時代に迎合するだけでよいのか」、と葛藤します。

少し長くなりますが、清右衛門が栄次郎にあてた言葉を引用します。

……戯作をやっていては喰えない、生業に励もう。しかし、戯作をやりたい。しかし、家の者がいい顔をしない。やはり生業に精を出そう。……しかし、なんとなくつまらん。やはり、戯作だ。……しかし、しかし、しかし……この〈しかし〉の間からなにか生れてくる。心が、正と負、本気と茶気、しかめっ面と笑い顔の間を往来する――、そこから、いや、そこからだけ、戯作の味わいみたいなものが湧(わ)いてくるんじゃないか。ところが、栄次郎、おまえさんには〈しかし〉がない、心の両極を往来する正のものと負のものがない。つまりさ、おまえさんは仕合せすぎるのさ」

井上ひさし, 前掲書, pp40

この発言、捉えようによっては、清右衛門の独りよがりな愚痴、押しつけとも受け取りかねない内容ですが、言われた当の栄次郎はあっさり自分の指摘された欠点を認め(仕合せすぎるといわれて謝るのも妙ですが)、彼は戯作者の資格を得る(破天荒な生き方で心の両極をつかむ)ために大暴走を始めます。

後に清右衛門は、栄次郎の死について太助、与七を責めましたが、実はこの言葉が、彼の不幸につながる、本当のきっかけを作ったのです。

清右衛門自身は、この時点では、単に自問自答したにとどまります。

同席していた与七、太助もその発言に触れることはありません。

酒の席では戯作者の矜持が語れても、崩せない日常が翌日から訪れます。結果、彼らは、「覚悟の先延ばし」をして生きることになるのです。

最終的に三人が戯作者の道を進む覚悟を宣言できたのは、栄次郎の死を待たなくてはならないのでした。

なぜならば、戯作者になりたくて一番覚悟があったのは、世間の嘲笑を浴びようが持てるものを一切捨て去ってきた栄次郎であり、彼の死という対価を得て、初めて三者三様であるものの、皆にその覚悟が生まれたからです。

確かに栄次郎は仕合せすぎました。

「幼い頃、自分に事故があって、それ以来、父親から咎められたことがない」

井上ひさし, 前掲書, pp41

と、父親の愛情を屈託なく話しますし(作中では語られませんでしたが、跡継ぎにもかかわらず、栄「次郎」という名であることから、兄がいたがもう亡くなっている可能性があり、それもあって親の寵愛を一身に受けていたのではないでしょうか)、店の番頭も甲斐甲斐しく彼に接します。

身内だけではありません。あれだけ面倒かけられているのに、与七たちもしかり、なぜか人は寄ってきます。栄次郎は、やさしい天然な仕合せに満ちた人です。

そんな子どものようにあり続ける彼だからこそ、「覚悟」を仰々しいものではなく自然に体得しているからこそ、戯作の「大人の」創造者たちからすれば、うらやましく、いとおしかったのです。

三人のなかでは、与七がいち早くそれを感じていました。栄次郎をわざわざ罰するように知人に頼み込むシーンでも、同じ「笑い」に魅せられた者として、世間の理屈が合わないのは重々承知の上、必死になって彼の立場をかばい、説明することになるのです。

井上ひさし, 前掲書, pp68-70

後年の井上ひさしの活躍を知ることができる我々からすれば、彼の創造物である与七たちの思いは本物であり、井上自身の「覚悟」として受け取られることでしょう。

しかし、発表された当時は、井上ひさしも一定の評価は得ていたとはいえ、これからの人でした。ですから、『手鎖心中』における井上ひさしのその覚悟が、熟達した読み手(直木賞選者)でさえ伝わったかどうか、あるいは、同時代において一般読者として本作品を手にしていたらこのような考察ができたかどうか、それは大いに疑問です。

 一つの文学作品から、作家の未来を占えても、将来の姿を確定させるまでには至りません。読者にとって一つの作品を読むという行為は、その作家と次に付き合うか別れるかという、常に緊張をはらんだ関係をもっていることになります。

 以上、「戯作者とは、戯作とはどうあるべきか」というテーマから『手鎖心中』を解説してきました。これは冒頭で述べたとおり、井上ひさしの創造活動、井上ひさしの文学に対する「笑い」の視点を知るための探究です。

では、本作品の感想とともに、彼の文学の功罪とその宿命について深堀していきましょう。

『手鎖心中』――感想

これまで、『手鎖心中』における作者の意図を考察しましたが、実験として別の読み方をご紹介いたします。

伝統的な作品論とは違い、「書かれている」ことのみ、つまりその「テクスト」自体に目を凝らし、作者の思惑などの創作背景はいったん捨てて、読者優位に読解を進める「テクスト論」に基づいたものです。

結果として、この試論は『手鎖心中』に対して批判的な読み方になってしまうかもしれませんが、感想を語る上で大切なアプローチなのでお付き合いください。

「笑い」の残酷さ――テクスト論

「笑い」には、笑われる対象が不可欠です。『手鎖心中』でその対象となる一番手は、栄次郎でしょう。

金持ちの道楽息子で、何かというとすべて金で解決してしまう人物です。

しかし、「人たらし」で、なんだかんだ憎めないキャラクターですから、周囲に人は絶えません。

やがて栄次郎は、自ら「心中」芝居をうち、誤って殺されることになります。

笑うに笑えもしない、感情移入もしがたい、滑稽で哀れとしかいいようがない人生の最後です。

清右衛門はくだらない「笑い」のせいで栄次郎が死んだのだ、と(栄次郎も含め)太助と与七を責め、自己弁護に走りますが、彼も栄次郎の犠牲を得て、戯作者となる覚悟をもつことになります。

本当に彼の死を悔やむのであれば、その世界からすっぱり足を洗うべきなのに。

結局、物語の構造からすれば、栄次郎は、この三人が戯作者として覚醒する生贄になったといえます。

つまり、『手鎖心中』は、「笑い」の生贄を登場させることで、残された人間のカタルシスを成立させる悲喜劇の手法をとっているのです。

もともと「笑い」は残酷です。

愚かであればあるほど、劣っていればいるほど、人は「笑い」、そして、その「笑い」の対象者の結末がハッピーであれ、アンハッピーであれ、笑った自分たちは対象者から一線引いた向こう側にいることで、己の独善的な感動をビタミンに安全な毎日を送るのです。

これは「笑い」の効用の一つであります。

読後、多くの人おいては、栄次郎の死という残酷な一点の哀しみよりも、残された三人の未来を祝福する情感の方が勝ることでしょう。

しかし、中にはどこかに砂が口にまとわりついたような、ぬぐいきれない後味の悪さ、話の暗さに不安を抱く人もいるはずです。

栄次郎がただ「やさしい」奴だった、の一言だけで、生贄としてあっさり不幸な形でお役御免としたのは、読者にとって正しい選択だったのでしょうか。

死ぬにしても他に選択肢があったのではないか、悲喜劇におけるプロットの「オチ」として技巧に走りすぎてはいないか、そういった疑念が後味の悪さとして残るのでしょう。

もちろん、物語には「生贄」はつきものです。それこそ、大衆に向けた時代劇では、善良な市民が殺されて、初めて主人公が悪党を成敗する、あるいは、娯楽作品の最たるジャンルであるミステリにおいては、人が次々に死なないと解決に至らないという典型的な筋書きがあります。

フィクション内で人を殺めて、そのたびに生贄だ、なんだのと文句をいわれては作り手の身がもちません。

けれども、文学が現実を写しだす合わせ鏡であろうとするならば、どの世代の中にも何かを残そうとしたいならば、この生贄問題は注視されなくてはいけません。こと喜劇における人の死の描写は「軽く」みられてしまう残酷な宿命を帯びているのですから。

 『手鎖心中』には、「笑い」の怖さ、恐ろしさを改めて認識させる作品なのです。

『手鎖心中』にみる「笑い」の「天才」と「凡人」論

さて、これまで『手鎖心中』のテクスト論を試論として紹介しました。

井上ひさしの文学を知っている人からすれば、的外れとも浅いとも指摘されそうな解釈でありますが、あえて読者が『手鎖心中』だけに接し、井上ひさしのバックボーンを知らない、作者の意図を読み取るというよりは、読み手自身のもてる文脈から判断すると仮定して作成しています。

今回のテクスト論で指摘した「笑い」の危うさは、「笑い」を含んだ文学全体に常に内包されるものです。

意図しようがしまいが、読者を不快にさせれば、もうそれは受け手目線にとっての創造物の「罪」であり、その批判を、作り手が受けるのは仕方のないことで、あらゆる表現者、文学のもつ宿命といえます。

もちろん、作家がいまでいう「コンプライアンス」ばかり気にするようになったら、表現の自由を奪う制約となりえますが、一方で、本を読み、自分の価値観に従って評価を下すのもまた、読者の与えられた自由です。

しかも、研究者ならばともかく、一般読者は作家、作品の背景まで強制的に学ぶ義務をもっていません。

「いやなら読むな」という指摘もできますが、そうやって表現者が開き直ってしまえば、少なくても大衆のために提供する娯楽としての戯作文学は否定されることになります。

では、この対立構造を踏まえたうえで、本作の感想の整理とまとめに入ります。

井上ひさしの文学の根幹たる「笑い」において、『手鎖心中』は、権威、世間、そして己に対して葛藤を重ねた上で、人が「戯作者=笑いの創造者」として覚悟をもち、その決意の輝きを見せることに成功しました。これは大いなる功績です。

けれども、話でいう「オチ」の部分、主人公の死に方については賛否が残るという指摘をしました。

否でいえば、今回のテクスト論で取り上げた、死んだ栄次郎が、「笑い」、あるいは物語のプロットの「オチ」の哀れな犠牲者とされたという考えです。

一方で、栄次郎の「笑い」への覚悟の尊さは、「笑い」をとことん愛する彼に滑稽な死が訪れたからこそ初めて光るのだ、彼は単なる「笑い」の犠牲者ではなく、本人の意図を超えて「笑い」の深層にせまった殉教者として道を貫いたのだという、肯定的な解釈もできます。

読みを複眼的にすることで、こうした議論ができ、解釈が深められるのは素晴らしいことですし、その意味も兼ねて今回「作品論」「テクスト論」を取り上げてきました。

最後にここで『手鎖心中』について、いままでの議論から一歩話を進めた、一つの感想の決着例をおみせいたします。

本作は、「弱者が『尊き』強者である天才に出会い、覚醒する物語」です。

解説でも触れましたが、与七たちは「弱者」です。それは、世間的な評価だけではなく、「凡人としての弱者」という意味です。

誤解をしないでほしいのは、もちろん、彼らに「笑い」を創造する才能がないわけではありません。

しかし、努力をしなければ「戯作者」にはなれない、故に「凡人」なのです。

一方で、栄次郎は「笑い」の「天才」であり、「強者」です。

彼は、戯作は書けないかもしれませんが、己の欲求にひたすら素直に生きた、彼そのものが「戯作」なのです。

これまで、「笑いの覚悟」という言葉を何度も取り上げましたが、おそらく本人はそんな「覚悟」すら、「強者」であり「天才」であるが故にいらなかったことでしょう。

ですから、「笑い」において、「凡人」である与七たちがいかに栄次郎に説教をたれようが、本質的なところでかなうわけがないのです。

井上ひさしは、「笑い」について類稀なる才能をもっていますが、人一倍努力家でもあった以上、彼もまた「凡人」であり、本人もその自覚をもっていたのではないでしょうか。

彼は「天才」であり、「笑い」の質を極めるために努力を重ねたという見方はあるかもしれませんが、努力是非で判断する今回の定義では「凡人」といえるでしょう。

では、作品世界おいては神ともいえる「創造主=作家」である井上ひさしが、自分と同類である「凡人」たちを戯作者として覚醒させるのにはどうすればよかったのか――それには、「天才」を葬る必要があったのです。

それも、劇的なドラマを介入させない、喜劇でも悲劇でもないやり方で。

日常を賑わしてくれる、脚本を必要としない天才の演じ手(栄次郎)をなくす、加えて、その演じ手の笑うに笑えない死によって、その面白さが世に伝わることは決してない状況をつくり、そして、面白きなき虚無だけをまずは舞台に残したのです。

天才がいなければ、自分たちが脚本を作り、世に残さなくてはならない、その思いが「凡人」を覚醒させるキーとなり、「笑い」の黒子、才能ある「凡人」である「戯作者」の誕生につながりました。

こうしてみると、確かに「笑い」は必然的に罪をつくり出しますが、常に贖罪する覚悟を自覚して「笑い」を創造すれば、その行為を続けることは許されるのではないでしょうか。

与七たちは、単に栄次郎の死を糧として「戯作者」になるのではない、彼への贖罪を、彼の命を奪った「笑い」で行うというアイロニーを一生背負い続ける、そして二律背反を超える力として「笑い」と永遠に付き合う、才能ある「凡人」に課せられた生き様を『手鎖心中』は語っているのです。

★参考文献
笹沢信『ひさし伝』、新潮社、2012
井上ひさし『芝居の面白さ、教えます 日本編』、作品社、2023
井上ひさし著、井上ユリ編『井上ひさしベスト・エッセイ』、筑摩書房、2019
小森陽一、成田龍一編著『「井上ひさし」を読む』、集英社新書、2020
KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 井上ひさし』、河出書房新社、2013
第9回 吉里吉里忌 第1部 鼎談 井上ひさしとジャーナリズム 金平茂紀×吉岡忍×小森陽一『すばる』11月号、集英社、2023
沢木耕太郎『作家との遭遇』、新潮文庫、2022
テリー・イーグルトン『文学とは何か』、大橋洋一訳、岩波書店、1985
ロラン・バルト『物語の構造分析』、花輪光訳、みすず書房、1979

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