『刺青』について
妖艶な作品を多く描いた谷崎潤一郎。
『刺青』は、そんな谷崎潤一郎の処女作とされている作品です。
『刺青』は彫物師と少女の関係を描いたもので、数ページ程度の短編です。
しかし、その内容は決して薄いものではなく、かなり濃密な谷崎潤一郎の世界を感じることができます。
『刺青』のあらすじ
争いが無くのどかで、笑いの種を提供する仕事の幇間などが充分にやっていけた時代。
人は皆「美」を大切にし、追及していました。
その結果、人々の体には彩り豊かな刺青が彫られていました。
清吉は奇怪で妖艶な刺青を得意とする彫物師です。
清吉の腕は確かなものですが、彼には人に言えない癖がありました。
刺青を彫る際の苦痛に呻く声が、彼にとっては愉楽の元だったのです。
ある日清吉は、彼にとって理想の肌を持つ女の足と出会いました。
彼は日々、その足を持つ女を思います。それは恋心とも言えるものでした。
初めて女の足を見てから5年。清吉の元に、なじみの芸妓からの使いが訪れました。
その使いは美しい少女であり、かつて彼が憧れた足の持ち主でもありました。
清吉は少女に絵を見せるなどして彼女を引き止めます。
清吉は少女に麻酔薬を嗅がせ、彼女の背中に蜘蛛の刺青を彫りました。
やがて麻酔から覚めた少女は、まるで生まれ変わったかのように変貌していました。
少女は妖艶な魔性の女となり、清吉は最初の獲物となったのです。
『刺青』ー概要
主人公 | 清吉 |
重要人物 | 娘(女) |
主な舞台 | 江戸 |
時代背景 | 江戸時代 |
作者 | 谷崎潤一郎 |
『刺青』の解説
・サディズムとマゾヒズムの揺らぎ
今回書いて行くのは、一般的に交わされる「S」と「M」の話ではありません。
本格的な、性的倒錯の世界で使われるサディズムとマゾヒズムの話です。
では、まずはサディズムとマゾヒズムの定義から見ていきましょう。
サディズムとは通常、相手の体に苦痛を与えることで性的な快楽を得る性的嗜好を指します。
そして、マゾヒズムとはその逆で、肉体的に痛めつけられることで性的な快楽を得る性的嗜好です。
この両者は読んで分かる通り、表裏一体の性質を持っています。
つまり、サディズム傾向にある人にも、マゾヒズム的な心理が潜んでいる可能性があるのです。
サディズムからマゾヒズムに。もしくはその反対に。この状態を、仮に「揺らぎ」とでも呼びましょう。
そして、今作『刺青』を読んでいると、そんな揺らぎを見て取ることができます。
この物語の主人公である清吉をみてみましょう。
彼は、痛みに呻く人を見るのが楽しみという趣味を持つ人物です。
そのため、わざと痛みが強い技法を使って刺青を彫ることがあるほどです。
清吉に刺青を彫ってもらう人は、極上の美しさと引き換えに、尋常ではない痛みを我慢しなければなりません。
こうした癖は、サディズムの表れです。第一、美女の背中に刺青を彫りこみたいという願望自体、いかにもサド的です。
しかし、少し視点を変えてみると、まったく違う清吉が見えてきます。
拇指から起って小指に終わる繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった。
谷崎潤一郎「刺青・秘密」新潮社、昭和44年、P11.4~7行目
上で引用したのが、清吉の理想とする女性です。
足の造形にこだわるというフェティシズムも見え隠れしますが、何より注目すべきなのは、引用最後の一文です。
この一文を読んでみると、女性に「踏みつけにされたい」、「搾取されたい」といった願望を読み取ることができます。
作中には、有名な悪女で傾国の美女とされる妲己(作中では末喜と妲己が混同されています)のエピソードもあり、こうした過激な女性を好むということは、マゾヒズム的な一面があることを裏付けているということができるでしょう。
サディズム的な行動を行いながらも、本心にマゾヒズムが潜んでいる。清吉は正に、二つの癖に揺らいでいる状態なのです。
少女は清吉の刺青により生まれ変わりました。最初は臆病な儚げな存在だったものが、まるで妲己のように、妖艶で人を踏みつけられるような女性になったのです。
清吉は、少女の背中に彫った刺青に魂を込めたといいます。
少女は元々、嗜虐的な一面があるとはいえ、その傾向は清吉によって目覚めさせられました。
清吉の魂が少女に入り、彼にとっての理想の女性が生まれたのでしょう。
・「蜘蛛」の絵である理由
針の痕は次第々々に巨大な女郎蜘蛛の形象を具え始めて、再び夜がしらしらと白み初めた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本の肢を伸ばしつつ、背一面に蟠った。
谷崎潤一郎「刺青・秘密」新潮社、昭和44年、P16.16~P17.2行目
清吉は腕の立つ彫物師です。客を選ぶようなプライドも持っており、描く意匠にもこだわりがありました。
そんな清吉ですから、少女の背中に彫った刺青の絵にも、何らかの意味があったと考えられます。
この項では、少女の背中に彫られたのが「蜘蛛」であった理由を考察していきます。
蜘蛛を知らない人はいない。そう言えるほど、蜘蛛とはメジャーな虫です。
家にも外にも出没します。そんな虫なので、苦手としている人も多いことでしょう。
そしてそれは、昔の人も同じだったようです。
その証拠に、古来から蜘蛛の形を取る妖怪が多く語り継がれてきました。
代表的なものは土蜘蛛や大蜘蛛などで、いずれも人を取って食います。
土蜘蛛にいたっては、天災と同一視されるほどです。
そして、そんな蜘蛛妖怪の中でひときわ存在感を放つのが「女郎蜘蛛」です。
女郎蜘蛛(絡新婦とも)は美しい女性に化ける妖怪であり、男を誘惑するなどして食べるとされています。
そして、清吉が少女の背中に彫ったのがこの女郎蜘蛛です。
虫としての女郎蜘蛛も存在していますが、物語のテーマから考えても、妖怪を刺青の意匠として選んだと考える方が自然でしょう。
女郎蜘蛛は先に書いたとおり、人を糸で操ったり、男を好んで食べたりする妖怪です。
美しい女性が男を捕らえて食べる。この構図は、先の項で書いた清吉の思い描く女性像と似通っています。
清吉は、少女の背中に彫り込んだ刺青に魂を込めました。そしてその刺青は、少女を生まれ変わらせました。
もし、ここで他の意匠を選んでいたならばどうでしょう。
例えば、「がしゃどくろ」といった妖怪を選んでいたら、少女は清吉の思う「女」として生まれ変わることができたのでしょか。
おそらくそうではありません。清吉が少女に彫り込むのは、女郎蜘蛛でなければならなかったのです。
男を食らう女郎蜘蛛だからこそ、清吉は魂を込めることができたのです。
そして、少女もその思いに呼応することができたのでしょう。
・娘から女へ
言葉とは大切なもの。使い方一つで、印象は大きく変わります。
そしてその影響は、言葉の使い手が巧みであればあるほど大きく強くなっていきます。
『刺青』は非常に短い短編小説ではありますが、読み応えはたっぷりある作品です。
その読み応えの一つとして、少女を指す言葉の変化が挙げられます。
少女は最初、「娘」と表現されています。しかし、清吉が少女を眠らせてから先は、「女」と書かれているのです。
これは、少女の変貌を端的に表現したものでしょう。文章にこだわることで有名な谷崎潤一郎らしさを感じます。
清吉は、確かに少女に恋焦がれていました。
しかし彼が求めているのは「娘」ではなく、自身が理想とする「女」です。
そして、その「女」が完成するためには、清吉が少女の背中に女郎蜘蛛を彫る必要がありました。
「娘」から「女」への変貌は正に脱皮。
蜘蛛が脱皮して大きくなって行くように、少女は女郎蜘蛛と共に、美しい悪女に変わっていきました
文章の変化というものは、なかなかに細かく気が付きにくいものです。
しかし時には、こうした重要な意味を秘めていることがあります。
特に谷崎潤一郎の作品はこの傾向が顕著ですので、読み込むと新しい発見が多いです。
『刺青』の感想
・深い「性的倒錯」の世界
昨今、性的マイノリティに対する理解が進んできました。
しかし、性的倒錯と呼ばれる嗜好に関しての理解は、いまだ発展途上にあります。
あくまでも一般論として、性的倒錯はあまり良くないものだと考えられがちです。
広く受け入れられている「フェチ」という概念があるにはありますが、本来の意味とは大きくかけ離れて使われていることがほとんどです
「SM」もまた同様に、元々の意味から外れて、下世話な雑談の種としてよく使われています。
『刺青』は、そんな性的倒錯の世界を、短いながらも深く描き出した作品です。
『刺青』には、解説の項で挙げた「サディズムとマゾヒズム」以外にも性的倒錯が登場しています。
それが、先に書いたフェチもとい、フェティシズムです。
清吉が少女の足を見たときの描写。
その描写からは清吉(谷崎)の抱く、足や肌に対するフェティシズム的感情を読み取ることができます。
サディズム&マゾヒズムにフェティシズム。『刺青』は、性的倒錯の宝庫です。
アングラなイメージを抱かれやすい性的倒錯は、一流の作家・谷崎潤一郎によって芸術へと昇華されました。
谷崎潤一郎が描く性的倒錯の世界。
それは、色鮮やかで美しく、非常に艶やかです。
アングラ的でありエロティックであるものの、決して不快ではありません。
むしろ、これほど美しい性の世界があるのかと、びっくりしてしまう程です。
『刺青』を含む谷崎潤一郎の作品は、性的な話や性的倒錯に抵抗がある人にはおすすめできないものばかりです。
しかし、そういった話題を受け入れることができるならば、一読しただけで、その蠱惑的な雰囲気の虜となってしまうことでしょう。
私もまた、そんな読者の一人です。
エロティックかつ神秘的な、谷崎潤一郎が描く性的倒錯の世界。あなたも、ぜひ味わってみてください。
・初めて触れた、芸術的アンダーグラウンド
私が初めて谷崎潤一郎の作品に触れたのは大学生の時。
手に取った作品は『春琴抄』で、その鮮やかながら妖艶な世界に驚きました。
そして、その流れのままに手を出したのが、今作『刺青』です。
この作品に触れることで、私は初めて、アンダーグラウンドめいた芸術的作品を知ることができました。
いわゆる「芸術的」と言われる作品。
私はそれまで、「多くの人が美しい/素敵だ」と思う作品にしか触れていませんでした。
分かりやすい例を挙げると、「モナ・リザ」やモネの「睡蓮」といったものです。しかし、『刺青』はそれらのものと大きく異なります。
『刺青』がアングラ的であり、他のものと異なる理由。それは、いくつか考えることができます。
第一に、「刺青」という一般的に受け入れがたい題材であるということ。
次に、(何度も触れているように)性的倒錯を描き出し、その上で大正時代の作品であるということ。
そしてなにより、雰囲気がじっとり湿っぽく、それでいて、一種の艶やかさを持っていることです。
刺青は日本の文化に深く根付くものでありながら、どこまでもアングラ的な存在です。
刺青そのものが禁止だった時代もあり、今も昔も受け入れられないと言う人が少なくありません。
そして、そんな刺青が絡む性的倒錯。明治時代や大正時代は現代に比べ、性的な表現に厳しい時代です。
そんな時代に、これほどの描写を描けたのが驚きです(確かに、具体的な表現はされていませんが)。
そして、私が最も言及したいのはその雰囲気。
『刺青』の雰囲気は鮮やかな文章が用いられているものの、どこまでもモノクロです。
その上、まるで梅雨の時期のような湿っぽさがあります。
じっとりとした雰囲気と、色気は良く似合うもの。日本的な艶やかさが、作品全体を覆っているのです。
それはまるで、清吉が描いた蜘蛛に抱きすくめられているよう。
私はこの、アングラ的かつ芸術的な雰囲気に侵されて以来、似た傾向の作品に惹かれるようになりました。
『刺青』は私の目に、新しい境地をもたらしてくれたのです。
以上、『刺青』のあらすじ・解説・感想でした。