『眠れる美女』の紹介
『眠れる美女』は、女の子と添い寝ができる不思議な宿を訪れた老人の姿を描いた物語です。
ここでは、そんな『眠れる美女』について、あらすじ・解説・感想までをまとめました。
『眠れる美女』のあらすじ
江口老人は、海辺の近くにある宿を訪れました。
そこでは女の子と添い寝ができると、知人の木賀老人に紹介されたのです。
女の子は薬でぐっすり眠っていて、一晩中目を覚ましません。
妖婦じみた風貌の女の子。
小さな見習いの女の子。
大柄なあたたかな女の子。
来るたびに、新たな女の子が江口老人を待っています。
江口老人は女の子の隣に横たわりながら、これまで出会った女性たちのことを思い出します。
一緒に駆け落ちをしようとした女性。
子供がいる人妻。
江口老人が十七の時に死んだ母親。
また、若い女の子たちと一緒にいると、江口老人は老いについて自然と考えてしまいます。
ある夜、江口老人が目を覚ますと、隣に寝ていた女の子が冷えていました。
死んでいたのです。
慌てふためく江口老人をよそに、宿の女は女の子をどこかに連れて行ってしまうのでした。
『眠れる美女』―概要
物語の主人公 | 江口老人 |
物語の重要人物 | 宿の女、木賀老人、女の子たち |
主な舞台 | 海辺の宿 |
時代背景 | 不明 |
作者 | 川端康成 |
『眠れる美女』の解説
「老い」と「死」の「裏切り」
『眠れる美女』は、老人がある宿で薬で眠らされた女の子と一晩を共にするという物語です。
私はこの作品は「老い」と「死」の2つの「裏切り」の物語だと読み解きました。
そうした考えに至った背景について、解説します。
まず、注目したいのは、主人公である江口老人の行動です。
江口老人は、当初、好奇心でその宿を訪れます。
江口老人は二度とふたたび「眠れる美女」の家へ来ることがあろうとは思わなかった
川端康成『眠れる美女』新潮社、37ページ
にもかかわらず、幾度となく、その宿を訪れます。
なぜ、彼は何度もその宿を訪れたのでしょうか。
老いに対して抗う気持ち
手がかりとなるのは「みにくさ」「みじめさ」という表現です。
この作品の中では、頻繁に「みにくさ」「みじめさ」という表現が使われます。
どんな場面で使われるのか、というと、老いを表現する際です。
たとえば、江口老人自身について、
もはや老いのみにくさが迫り、この家の老人の客たちのようなみじめさも遠くないと思っている
川端康成『眠れる美女』新潮社、15ページ
と記されています。
江口老人が「みにくさ」「みじめさ」を非常に意識していることが伝わってきます。
一方で、同様に老いを重ねているほかの老人に対し、江口老人が「自分は違う」と感じている場面も多くあります。
江口老人にその宿を教えたのは「もう男ではなくなってしまった老人」です。
老いを意識しつつも、それに抗う心理が透けて見えます。
・みじめさを見られない安心感
さて、宿にいる女の子たちは、薬のため、決して目を覚ましません。
老人たちは女の子たちを見ることはできても、女の子たちから見られることはないのです。
多和田葉子はエッセイ「雪の中で踊るたんぽぽ」で次のように述べています。
「女性の姿を一方的に見つめる男性の視線は、川端文学の中では例外的なものではありません。(中略)見つめ返される危険がもっと少ないのは、「眠れる美女」の主人公の江口という老人です。」
坂井セシル・紅野謙介、十重田裕一、マイケル・ボーダッシュ、和田博文編集『川端康成スタディーズ 21世紀に読み継ぐために』笠間書院、15ページ、初出は『文学』第16巻3号岩波書店
自分は他の老人とは違うと考える江口老人。
この宿では、一線を越えることはおろか、口に指を入れるといったいたずらも固く禁じられています。
そのため、江口老人は他の老人とは違うことを示すことはできません。
そのため若い女の子から見れば、同じ老人でしょう。
自分の違いを示せず「老いた人」と見られることに抵抗感を覚える江口老人にとっては、見られないという安心できる環境が用意されているとも言えます。
そのため、江口老人は何度も足を運ぶようになったのではないでしょうか。
・「老い」に考えをめぐらす
しかし、物語を読み進めていくと、不穏な雰囲気が漂い始めます。
江口老人は女の子たちを見ながら、自分の過去と老いに考えをめぐらすようになるのです。
「この家をもとめてくるあわれな老人どものみにくいおとろえが、やがてもう江口にも幾年先きかに迫っている。」(川端康成『眠れる美女』新潮社、44ページ)
「こんな娘と静かに眠るのも、過ぎ去った生のよろこびのあとを追う、はかないなぐさめであろうことは、この家に三晩目の江口にはわかっていた。」(川端康成『眠れる美女』新潮社、71ページ)
若い美しい女性と一晩を共にできる喜びよりも、老いに関する記述が増えていきます。
なぜでしょうか。
イルメラ・日地谷=キルシュネライトは「身体と実験 川端文学における不具者の美学」で次のように指摘します。
「主人公の執拗な観察を通すことで、やがて女たちは独自の性格と「物」としての力を獲得し、それが主人公の中に強烈な内省を引き起こしていく。(中略)老人の歪んだ性的妄想という表面上の印象をはるかに超えて、眠れる美女という作品は、主人公による徹底的な自己探求の場であることが理解されるからだ。」
(坂井セシル・紅野謙介、十重田裕一、マイケル・ボーダッシュ、和田博文編集『川端康成スタディーズ 21世紀に読み継ぐために』笠間書院、180ページ)
この宿は、江口老人が予想していた場とは異なる場へと変貌を遂げていくのです。
この自己探求は、江口老人にとっては不本意なものだったと私は考えます。
江口老人が執拗に女の子を観察すればするほど、自らの老いについて考えさせられるからです。
宿で過ごす時間が、江口老人の予想外の方向へと転がっていくのです。
まさに、江口老人にとっては「裏切られた展開」となったと言えるのではないでしょうか。
・女の子の死という裏切り
この「裏切り」はラストにも出てきます。
それは、一緒に寝ていた女の子の死です。
江口老人は、宿の女に対しては「老人は死の隣人さ」と言います。
しかし、夜中に目を覚まし、隣に寝ていた女の子が死んでいるのに気づくと狼狽します。
ぞっとしてふるえたり、恐怖を感じたりします。
宿を訪れる老人に対し、寝ている女の子は「生」の象徴とも言える存在でした。
若さを強調するような表現も使われています。
その女の子が死ぬ。
こうした展開からも、まさに『眠れる美女』は裏切りの物語と言えるでしょう。
『眠れる美女』の感想
性格の書き分け
『眠れる美女』は、登場人物同士の関係が生まれない物語とも言えます。
三島由紀夫は『眠れる美女』の解説で、次のように述べています。
ふつうの小説技法では、会話や動作で性格の動的な書き分けをするところを、この作品は作品の本質上、(中略)六人とも眠っていて物も言わないのであるから、さまざまな寝癖や寝言のほかは、肉体描写しか残されていないわけである。
(川端康成『眠れる美女』新潮社242ページ)
この後三島は、川端康成の描写力について言及します。
朗らか、陰気、几帳面、がさつなど、会話や動作から伝わる要素はたくさんあります。
同時に言葉の選び方や調子、相手との距離感などからは、相手との関係性が見えてきます。
『眠れる美女』では、江口老人と女の子たちの間に会話や動作がありません。
よって、江口老人と女の子たちとの関係性が見えてきません。
江口老人は女の子たちを眺めるものの、いつしか過去に関係した女性たちを思い出しています。
心ここにあらずの状態が続きます。
女の子が目を覚ましそうな場面では、やきもきします。
一旦、目を覚まさないとわかれば、過去へと心は移ります。
関係性が結べそうな瞬間に、江口老人は反応しますが、決して関係性は結べません。
一夜を共にしているのにも関わらず、一向に関係性が生まれないのです。
宿の女と江口老人の関係
物語の中で唯一関係性が生まれそうなのは、江口老人と宿の女です。
江口老人の知り合いがこの宿で死んだ際には、江口老人が死について軽口を叩く場面があります。
江口老人は、軽口を叩けるほど関係が深まったと考えたのでしょう。
しかし、ラストになって、事態は急変します。
江口老人の隣で寝ていた女の子のうち、一人が亡くなるのです。
狼狽する江口老人。
そんな江口老人に宿の女は「娘ももう一人おりますでしょう」という言葉を投げかけます。
宿の女にとって江口老人はしょせん女の子の添い寝を求める客。
「女の子さえいれば満足するだろう」という宿の女の気持ちが透けて見えます。
宿の女にとって江口老人は、気持ちをケアしなければならない相手ではないということでしょう。
多くの物語は、登場人物同士の関係性の誕生や変化、喪失を綴っています。
ラブストーリーはその典型的な例ですね。読者もそこに面白さを見出し、ページをめくっていきます。
しかし、『眠れる美女』関係性が生まれないにも関わらず、物語として成立しています。
改めて川端康成の作家としてのすごさを感じる作品だと思います。
以上、『眠れる美女』のあらすじ・解説・感想でした。