『芽むしり仔撃ち』紹介
『芽むしり仔撃ち』は大江健三郎著の長編小説で、1958年に講談社から刊行されました。
本作は、太平洋戦争末期、集団疎開した感化院の少年たちが疫病の蔓延する村に取り残され、自分たちの“自由の王国”を築こうと試みる姿と、その連帯の崩壊を描いた作品です。
著者初の長編小説であり、初期の大江文学の代表作として挙げられることも多い一作です。
ここでは、『芽むしり仔撃ち』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『芽むしり仔撃ち』あらすじ
太平洋戦争末期、「僕」を含む感化院の少年たち、そして父親に預けられた「僕」の弟は、山中の村へ集団疎開をします。
しかし、彼らが出向いた村では疫病が流行り始めており、疎開して数日のうちに村人たちは少年たちを残して隣の村へ避難してしまいます。
村人たちが作ったバリケードによって村を出る唯一の交通手段も絶たれ、少年たちは村に閉じ込められることとなりました。
少年たちは村人の家を寝床とし、家の食糧を盗んできて、たくましく生き延びます。
さらに、村に残された朝鮮人部落の少年や彼が匿っていた脱走兵、母を疫病で失った少女らと連帯し、自分たちの“自由の王国”を築こうとしていました。
しかし、やがて村人たちが帰村すると、少年たちは座敷牢に閉じ込められます。
村長は村人の留守中の悪事を感化院の教官へ伝えない代わりに、疫病のことは村の外に一切口外しないよう少年たちに迫ります。
仲間たちは次々に屈服していきますが、「僕」だけは最後まで村長への抵抗を続け、やがて村から身一つで追放されることになるのでした。
『芽むしり仔撃ち』概要
主人公 |
僕:感化院の少年 |
重要人物 |
弟:疎開先が見つからず、集団疎開に便乗するため父親から感化院に預けられる |
主な舞台 |
山村 |
時代背景 |
太平洋戦争末期(1940年代) |
作者 |
大江健三郎 |
『芽むしり仔撃ち』解説(考察)
断絶された山村、疫病、朝鮮人部落や脱走兵、少年たちの連帯、さまざまな象徴的モチーフが絡み合う本作において、ひとつの大きなテーマといえるのが“外部”と“内部”の隔たりでしょう。
そして、それを読み解くキーワードが「連帯」です。
大江文学で度々登場する象徴的な言葉であり、本作品でも主題のひとつとなっています。
今回は、村人、感化院の少年たち、「僕」、それぞれの求めた連帯のありかたに着目し、「僕」がなぜ一人、村を追われなければならなかったのか考察していきたいと思います。
「芽むしり」の徹底された村の連帯
まずは、村人たちの連帯についてみていきます。
彼らが求める連帯は“同調”を基盤とし、異物は徹底的に同化、もしくは排除しようとします。
それは村人たちが何よりも、共同体の“内部”からの崩壊を恐れているためです。
“異物”を断じて認めない同調圧力
村人の同調圧力は、作品全体を通して感じられます。
冒頭、トロッコに載せられた少年たちに村長の語りかける言葉は非常に象徴的です。
「動くな、決して動くな」と村長は谷の向う側にいるらしいトロッコの滑車の運転者へ大声で合図をしたあと、僕らへくりかえして警告するのだ。「誰か一人が身動きするだけで、お前たちみんな、墜落して死んでしまう、動くな、決して動くな」
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』,新潮文庫,30頁
この村長の言葉は、少年たちがほんの少しでも身勝手な行動をとれば村では生かしておけない、という含みも感じられ、この後の展開を暗示するような台詞です。
村人は少年たちの「作業」だけでなく、食事の様子すらも徹底的に監視していました。
自分たちの“内部”に入った“異物”が共同体を荒らすことがないよう、細心の注意を払っていることがわかります。
こうした姿勢は、朝鮮人部落の李に対してもみられます。
牢に入れられた少年たちが次々と圧力に屈していくなか、村長は残っていた李に対し「お前が俺たちにたてついたら」「お前らの部落がどうなるか考えてみたことがあるか? お前らを追いたてるのは明日にでもできるんだぞ」と声をかけます。
朝鮮人部落の人々が村の中でいかに“同調”を押し付けられているのか、そして、それを破れば彼らがどれほど簡単に排除されうるのか、村人たちの同調圧力の強大さが感じられます。
村人たちの警戒心は、決して過去に悪事を犯したことのある感化院の少年たちだから発動されたものでなく、あくまで“異端者”に対して普遍的に発動するものなのです。
疫病に象徴される内部破壊への恐怖
疫病というモチーフは、そうした村社会最大の脅威である共同体の内部破壊を具現化したものと読むことができるでしょう。
村に蔓延していた疫病は、おそらく空気感染ではなく粘膜感染のものです。
病原菌が“外部”から“内部”に入り込んで身体をおかす、まさに内部破壊を象徴しているといえます。
疫病で命を落とすのが「疎開女」「朝鮮人部落の男」「感化院の少年」、いずれも村の“外部”の人間であるのは、明確な意図を感じさせます。
こうした同調圧力、内部破壊への恐怖心は、疎開先のこの村特有のものではありません。
感化院の教官は少年たちに対し、山奥の村の百姓たちは「お前たちを疫病みたいに嫌っている」と語っています。
村社会において、感化院の少年も、朝鮮人も、疫病も、“異物”であるという点で同じように排除されるべきものなのです。
本作における村社会とは、
- “同調”を基盤とした共同体
- 内部破壊を恐れるがゆえに“異物”を同化・排除する
大きくこのふたつの性質をもっているといえます。
友情と同調をないまぜにした少年たちの連帯
一方で、感化院の少年たちの連帯には、村社会にない愛や友情による連帯が存在します。
その反面、彼らのなかにも“同調”を基盤とした連帯があるのは確かです。
「僕らの死者」を埋める少年たち
少年たちの連帯には、少なからず血の通った情の部分が存在しています。
例えば、逃げていく村人を見た南は「みんなに知らせてやる。俺たちが置きっぱなしになったことを知らせてやる」と仲間のもとに引き返しました。
村に取り残されてからは、皆で食料を調達しそれを分け合って生活します。
自分だけが逃れよう、生き延びよう、という考えでなく、自然に仲間との助け合いを行っています。
かれらが疫病で死んだ仲間を埋葬しようとする際、「僕らの死者」という言葉を使っているのは、非常に印象的です。
(前略)彼が白い塊りを横たえたすぐ傍らの草原を掘り出す前に僕らは彼の意図から激しい暗示を受けとっていた。あいつがあいつの死者を埋葬するように、僕らも僕らの死者を埋めよう。僕らは熱っぽい眼でおたがいを探りあった。
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』,新潮文庫,95-96頁
仲間が死んだとき涙を流したのは「僕」の弟だけでした。
しかし、「僕らの死者」という表現からは、少年たちの仲間へ感じている連帯の強さが感じられます。
仲間の死を、決して無機質に受け取っているわけではありませんでした。
「様ざまなことに慣れて」しまった少年たちにもいまだ純朴な部分は存在し、友情による連帯が確かに成立していたのです。
アイデンティティの共有による連帯
一方、少年たちの連帯のなかにも異端をきらう“同調”の圧力は存在しています。
例えば、悪事を働いたわけではなく、少年たちにはない純朴さをもつ「僕」の弟は、常に異質な存在として揶揄の対象になります。
また、母親の死体に寄り添う少女のことも気が狂ったのだと気味悪がり、からかっていました。
彼らが“同調”し、共有している価値観とは “攻撃性”です。
「様ざまなことに慣れて」いる少年たちは、戦争を羨んだり、村人へ「セクス」を見せつけたり、日常に刺激を求めています。
彼らは「僕」の弟や、村の少女など“攻撃性”のないものを揶揄することで、自分たちのアイデンティティを保っているのです。
少女とちがい、朝鮮人部落の李を大きな抵抗なく連帯に加えたのは、彼が“攻撃性”をもつ屈強な少年だったからでしょう。
感化院の少年たちの連帯は、
- 利害を度外視した純粋な友情による結びつき
- “攻撃性”をアイデンティティとした“同調”による結びつき
このふたつの側面があるといえます。
純朴さを捨てきれない「僕」の求めた連帯
最後に、「僕」が求めた連帯のありかたについてみていきます。
“同調”の空気もある少年たちの連帯の中で、「僕」だけは“外部”と“内部”を断絶しようとせず、純粋な友情や愛による連帯を試みています。
しかし、その連帯のありかたは本作の作品世界において成り立えないものでした。
少女が死に、弟が失踪し、「僕」のみが村を追放されたのは、「僕」がそのような実現不可能な連帯のありかたを追い求めてしまったがゆえの悲劇といえます。
夢想的な愛による連帯
「僕」は、村人だから、感化院の仲間だから、といった絶対的な連帯に執着しません。
例えば、自分たちの食料を持ち去ろうとした李にも、死体のそばを離れず皆に気味悪がられている村の少女にも、見返りを求めず手を差し伸べています。
「まったく実に様ざまなことに慣れて」しまって、「ただ眺められる存在」であることが良いと知っている少年たちの中で、それは明らかに異質な行動といえるでしょう。
「僕」が少年たちの連帯の“同調”の圧力を無視し、そのような行動に出た要因のひとつには、弟からの影響があったと考えられます。
弟を厄介に感じ苛立つ様子もみられますが、「僕」は基本的に幼い弟を愛しています。
鍛冶屋に親しみ、死んだ仲間のため涙を流し、飢えた犬を保護する弟の「天使的」な優しさを「僕」は常に受け入れ、弟を面白がってからかう仲間からもかばってきました。
そうした“攻撃性”をもたない弟との時間の中で、「様ざまなことに慣れて」しまっていた「僕」の純朴な部分が呼び覚まされたのかもしれません。
しかし、本作の作品世界には“内部”に侵入した“異物”を決して許さない姿勢があります。
「僕」の求める愛や友情の連帯を求めるやりかたは、この作品世界において、夢想といっても過言ではない、現実性のないものでした。
実際に、「僕」がかばい続けた弟は少年たちの連帯にいられなくなり失踪します。
村の少女は「僕」に好意を寄せた途端疫病で死にいたり、深い友情を感じていた李は村長の圧力に屈して朝鮮人部落へ戻ってゆきました。
本作における連帯は、一切の包容力を持ちません。
“内部”に同調しない、あるいは“外部”のものを取り込む、という行為は絶対的に破滅へ向かうのです。
「人間的で豊かな食事」への恥
終盤、感化院の仲間たちが村人に屈したさまを「食事」をモチーフとして描いた場面があります。
僕はむっと黙っていた。僕へ村の人間たちの数かずの眼がおそいかかった。村の女たちが大きい皿に盛った握り飯と鉄鍋の汁を運びこんで来た。そして僕の仲間たちは握り飯と木椀の熱い汁を配られ食べ始めた。それは確かに本物の食事、僕らが長い感化院の生活、疎開の旅行、子供らだけの暮しにおいて得ることのできなかった、人間的で豊かな食事だった。(中略)僕の仲間たちは、それをむさぼり食いながら頑なに僕へ背をむけ、明らかに僕に恥じていた。しかし僕自身は、自分に対して、自分の口腔に湧く唾、収縮する胃、そして躰の隅ずみまで血を乾かせる飢えを恥じていた。
村長が黙ったまま進みよって僕の鼻さきへ握り飯の皿と椀とを差し出した時、僕の震える腕がそれをはらい落としたのもおそらくはその胸をしめつける恥のためだったのだ。(後略)大江健三郎『芽むしり仔撃ち』,新潮文庫,205頁
少年たちが村人から与えられた食事とは、村人にとっての疫病と同じ脅威をもっています。
村にやってきてから少年たちは粗末な食事を「黙り込んで」たべ、村人が去ったあとも村の家々から食糧を強奪することに対して陰鬱としたものを感じています。
彼らが唯一「満腹」という言葉を口にしたのは、自分たちで狩った鳥を食べたときでした。
それはやせ細った鳥を焼いただけの粗末な食事でしたが、村人から与えられるのでなく自分たちの力で獲得した食糧だからこそ、腹を満たすことができたのでしょう。
村人が疫病によって身体をおかされることを恐れるように、少年たちは村人から与えられたものを取り込み健康的な生活を手に入れることを恐れていました。
それは村人に屈して彼らのアイデンティティである“攻撃性”を捨てることであり、仲間との連帯を裏切ることにもつながるためです。
だからこそ、食事をむさぼる少年たちは、一人残されてもなお仲間との連帯を固く保持しようとする「僕」に対し、自らの裏切りを深く恥じています。
そして「僕」もまた、村人の姑息な同調圧力になびいてしまう自らの本能的な空腹を恥じているのです。
「僕」が最後の一人になっても村人に屈しなかったのは、“内部”と“外部”との利害関係ではなく、愛や友情による連帯の存在を信じ続けたからでしょう。
しかし、“異物”を許さない村人は、“同調”できない「僕」を「悪い芽」としてむしりとるしかありませんでした。
「僕」が求めた純朴な連帯は、作品世界において決して実現しない夢想だったのです。
ラストシーン、彼は村人に追われながら「しかし外側でも僕はあいかわらずとじこめられているだろう」と感じています。
友愛的な世界はいとも簡単にひねりつぶされてしまうことを目の当たりにして、自分がどこまでも“内部”に属するはできず、“異物”としてしか生きられないことを予感していたのでしょう。
物語は、「僕」が村人から逃げ延びている途中で幕を閉じています。
「僕」も弟も命を落とすところは描かれていませんが、ふたりの魂は実直なまま、おそらく死に向かっているのではないでしょうか。
感想
名前のない登場人物たち
本作の登場人物のほとんどには名前がありません。
名前が登場するのは朝鮮人部落の少年「李」と、弟が面倒を見ていた犬の「レオ」のみです。
それは、本作における人々のアイデンティティが、共同体に依存しているからではないかと思われます。
はじめ「僕」や弟に友好的だった鍛冶屋は、その後すぐに感化院の少年の見張り役としてそっけない態度を示すようになり、最後は村の“異物”として「僕」を殺しにかかります。
そこに鍛冶屋という個人の意思は存在せず、あくまで村という共同体のなかの役割を全うしているように感じられます。
また、「僕」は村人への“同調”を拒み、ひとり信念を貫きましたが、それを決断した「僕」が必ずしも自立した個性をもっているともいえません。
感化院の少年たちのリーダー格として、純朴な弟の兄として、など、彼の個性もまた共同体のなかの立ち位置をもって規定されているのかもしれません。
名前のない人々が繰り広げる“内部”と“外部”のせめぎあいは、私たちが個性と呼んでいるものの実態のなさを浮き彫りにするように感じられます。
現実世界で名前をもつ私たちもまた、ひとりの「村人」であり、ひとりの「少年」であり、ひとりの「少女」といえるのではないでしょうか。
私たちが普段、見て見ぬふりをしている「共同体」と「個」との関係性を、改めて問いかけられているようです。
大江文学の起点として
本作は、大江文学の原点ともいわれる作品です。
閉鎖的な村社会、戦後日本における朝鮮人、戦争を羨む少年たち、愛や友情による連帯の脆さ、二人の兄弟――その後の大江文学に度々登場するモチーフが数多く用いられています。
印象的なのは、本作の中で最後まで連帯を諦めず愛と友情を貫こうとしたのが主人公の「僕」であることです。
二作目の長編小説『われらの時代』では、主人公こそが連帯という概念に絶望し、生きる希望を見失っているさまが描かれます。
本作も決して明るいラストとはいえませんが、以降の作品に比べると少年たちの精神的な美しさが希望となって残るような作品のように感じられます。
実際に大江自身も後年、『芽むしり仔撃ち』は「いちばん幸福な作品だった」と語っていました。
「この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う。ぼくは自分の少年期の記憶を、辛いのから甘美なものまで、率直なかたちでこの小説のイメージ群のなかへ解放することができた。それは快楽的でさえあった。いま小説を書きながら快楽をともなう解放を感じることはない」
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』,新潮文庫,205頁
彼は、初期から繰り返し同じモチーフを書き続けてきたことでも知られています。
閉鎖的な村社会、戦後日本における朝鮮人、戦争を羨む少年たち、愛や友情による連帯、二人の兄弟、そうした同一のイメージを繰り返し描き続け、時には作品世界に過去作品をとりこんでいくようなメタ構造をも取り入れながら、モチーフを重層化させてきました。
作品単体でなく、大江作品の全体図をみることで得られる発見があるのです。
大江作品の全体を通じて感じられる閉塞感と、初期作品特有の爽やかさ、そのどちらも感じられる本作は大江文学の導入として最適なのではないかと感じます。
この『芽むしり仔撃ち』を起点として、あるモチーフがどう揺らぎ、どう保持されていくのか、それを追ってゆくのも楽しみかたのひとつではないでしょうか。
以上、『芽むしり仔撃ち』のあらすじ、考察と感想でした。