芥川龍之介『羅生門』作者が伝えたかったことは何か?ニキビの象徴まで!

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芥川龍之介『羅生門』作者が伝えたかったことは何か?ニキビの象徴まで!

『羅生門』について

『羅生門』は芥川龍之介の初期小説です。中学の授業で読んだ人も多いに違いありません。

今、それを読み直した時に私たちは何を感じるのでしょうか。

この文章では『羅生門』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『羅生門』―あらすじ

平安時代のある日の暮方。

一人の下人が羅生門の下で、雨やみを待っていました。

当時の京都は衰微の一途をたどり、下人も解雇されて数日です。

どうにもならないことを、どうするか?
手段を選ばなければ、盗人になるか……。
下人の心は定まりません。

そして夕暮れが深くなってきたので、下人は羅生門の二階、風雨がしのげる所へ上がろうとします。

そこは死体捨て場になっていました。

階段を上がりかけて、下人は驚いて身をかがげます。

死体だけのはずが、生きた人間の気配がするのです。

やせた老婆が、女性の死体から髪の毛を抜いていました。

捕まえて理由を問いただすと、老婆はこれをかつらにしようとしていたこと、生きるためには仕方のないこと、この女性も嘘の商売で生き延びていたことなどを話します。

これを聞いた下人は、自分も生きるためには仕方ないという「勇気」を得ます。

そして老婆の着物を奪い、漆黒の夜の中、どこへともなく消え去ったのでした。

『羅生門』―概要

主人公 下人
小説の重要人物 老婆
主な舞台 羅生門
時代背景 平安時代
作者 芥川龍之介

『羅生門』―解説(考察)

・芥川龍之介が伝えたかったことは何か

結論から言うと、『羅生門』で芥川龍之介が伝えたかったことは、

・進退窮まったときの人間のエゴイズム

だと考えられます。

『羅生門』は『今昔物語集』の話をもとにした作品です。

そこに下人が盗人になっていく近代的心理解釈をたっぷり溶かし込み、一つの作品として成立しています。

下人の心理を追ってみましょう。

羅生門の下で盗人になるかどうか、ぼんやり考えているが、勇気が出ない

羅生門の二階に誰かいるという驚き

老婆の行為に対する六分の恐怖と四分の好奇心

許すべからざる悪への怒り・憎悪

老婆を捕らえた、安らかな得意と満足

老婆の平凡な答えへの失望と再度の憎悪

老婆の説明を聞き、ある勇気が生じる

盗人になる勇気を実行に移し、逃走する

このようになります。

老婆の答えが平凡だったことで、再び憎悪感情が出てくるところなど理性的に考えれば無茶苦茶なところです。

しかし、自分を含めた人間の心理としてよくよく考えてみると、実に納得させられるのではないでしょうか。

一言で言ってしまえば、盗人になる勇気のなかった下人が、盗人になる勇気を得た話となります。

が、それでは大切なものが指の間から水がこぼれるように無くなってしまいます。

悪に至る人間の心理。

悪を犯していた若い女の死体に対して、悪を犯していた老婆。その老婆から悪を犯す勇気をもらい、それを当の老婆に対して実行するリアル・皮肉・エゴイズム……こういうところに、この短篇の面白さがあるのでしょう。

・「面皰」(にきび)の象徴性

この短篇の中に面皰という言葉は四回出てきます。

もちろん、芥川のことですから、有効な小道具として使われています。

  • 羅生門の下にいる時、「大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた」
  • 羅生門の二階を伺うと「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。(中略)面皰のある頬である」
  • 老婆の話は「大きな面皰を気にしながら、聞いているのである」
  • そして最後の決断をした時は「不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、……」

ということになります。

こうして見てくると、面皰は下人の自己意識の象徴でしょう。

人間にとって「顔」は重要な部分というか、自分全体を象徴する「部分」であります。

しかし人間は自分で自分の顔を見ることはできません(道具を使わなければ)。だから意識に上りにくいのです。

ところが、そこに面皰があります。

そのため、下人は常に自分の顔を意識することになります。つまりは自己意識です。

その自己を捨てて、盗人になる決意をした時、下人は面皰から手を離しているのです。

良い意味であれ、悪い意味であれ、今までの自分とは違う自分になることの象徴でしょう。

・羅生門の不在?

羅生門はいつからいつまで存在したのでしょうか。

この一見無意味と思える問いかけは、意外に大きく作品の読みに影響してきます。

羅生門が建てられたのは、平安京が造営された時です。

しかし平安時代の終わりまで存在し続けたわけではありません。それよりずっと早くなくなっています。

天元三(九八〇)年七月の暴風雨で羅生門は倒壊し、その後、再建されなかったというのが事実です。

芥川がこれを知って書いていれば、時代は九五〇年前後で「旧記」とは『池亭記』ということになります。

芥川が知らずに(あるは、知っていても創作として)平安時代末期を想定していたとすれば、現実には羅生門は存在せず、「旧記」は『方丈記』の可能性もあるでしょう。

超人的博学家の芥川のことなので、あるいは平安時代中期のつもりだったのかも知れません。

ひょっとすると読者が間違えるように仕組んで、どう読むか楽しんでいたということもないとは言えない、というのは考えすぎでしょうか。

さらに言えば、作者の意図とは別に、産み落とされて作者の手を離れた作品をどう読めば、より深く味わえるのかは読者の手に預けられたと言えるのかもしれません。

大きな時代の流れの中で、半ば不可抗力のような運命の力に飲み込まれていく人間の姿なのか、もっと自由意思が多く働ける余地があったのか……。

ここでは、とにかく平安時代末期の現実ではない事だけは確認しておきましょう(平安時代末期のことだと間違った断定をしている本はたくさんあります)。

・末文の確定まで

現在、私たちが読む『羅生門』の末文は「下人の行方は、誰も知らない」です。名文ですね。

良い余韻が残り、文字としては書き得ない大きな世界を象徴しています。

冒頭の「ある日の暮方のことである」とも見事に対応しています。

ところが、末文が今のこの形に安定するまでには色々な変遷がありました。

初めて雑誌で発表された時から、単行本になる時、別な本に収録される時、芥川は手を加え続けたのです。

『羅生門』は最初、「帝国文学」という雑誌に発表されました。その時の末文は次の通りです。

「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあった。(をはり)」

下人の行動・目的が具体的に描かれていますが、ここには文字外の「余白の美」がありません。文としても冗長です。

「下人の行方は、誰も知らない」――素晴らしいですね。

何年も何年もかけて、天才芥川がたどり着いた境地です。「下人の行方は」の後に読点を付けて、一呼吸置くのも見事です。

今、何気なく、この形で読める私たちは幸せです。

・「黒洞々」は「こくどうどう」か?問題

重要度が高い方を先にしたので、順番が逆になりますが、「下人の行方は、誰も知らない」の一つ前の文は、「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである」となっています。

恐らく現在でも全ての国語教科書が「黒洞々」に「こくとうとう」とルビ(振り仮名)を付けています。

しかし、ここには問題が提起されています。

「洞々」の読みは「どうどう」ではないかというのです。多分、世の中の全ての漢和辞典でこの語の読みは「どうどう」になっています。

要するに「とうとう」という読みは間違いの可能性が非常に高いのです。これだけ人目にさらされていて、ほとんどの人が気づかなかったというのは面白いですね。

ただ、心情としては、この間違いが継承され続けたのはよくわかる気がします。

「そろそろ」と「ぞろぞろ」、「ころころ」と「ごろごろ」などを比べてみて下さい。

言葉としての違いは清音か濁音かの違いです。

清音の方が静かで軽い感じで、濁音の方が勢いがあると感じませんか。それが日本人一般の感じ方だと思います。

これを読んでいる現役高校生は、古文単語「いさ」と「いざ」の違いを思い浮かべているのではないでしょうか。

清音の方が静かな世界だとすると、無限の闇の世界(それは現実の闇であると同時に、盗人になった下人の心の闇でもあるわけです)には清音の方がふさわしく、逆に濁音は不似合いなのです。

これが、この間違いが長年気づかれなかった心理的理由だと私は思います。

近代的心理解釈が命の小説に、心理的理由のミスが長年続くというのも面白い現象だと思いませんか。

・裸の人

最後に伏線的部分を見ておきたいと思います。

下人が初めて羅生門の二階を見た場面に「ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である」と書いてあります。

文の最初の方に読点が集中し、目が暗さに段々慣れてきて、物が見えてくる様子が想像されて、巧みな読点の使い方だと思います。

が、ここで注目したいのは<裸の死骸もある>という点です。下人以前に着物を奪った人がいることを暗示しているのではないでしょうか。

それは読みすぎという人もいるかも知れませんが、少なくとも下人がこれから老婆の着物を奪う伏線になっているとは言えるのではないでしょうか。

私は、前者の立場が読みとして面白いと思うのです。

老婆は死んだ若い女から髪の毛を抜いていました。下人も盗人になると言っても死骸から着物をはぎ取ることもできたはずです。

ところが、下人は生きている老婆の着物を奪いました。死臭が付いていないからかどうかは分かりませんが、洗えばいい話です。

実は老婆がやったことと下人がやったことの間には、大きな差があるのかもしれません。

死骸は着物が無くても困りませんが、老婆は着物が無くては困ります。

ここで改めて、本小説の主題であるエゴイズムに逢着し、洞察が深まって来るのではないかと思うのです。

『羅生門』――感想

・私が、そしてあなたが下人だったら……

下人の行動を「他人事」ではなく、「自分事」として考えたらどうなるのでしょうか。

私もあなたも「生き物」です。「生き物」は本能的に生きようとします。

相手も「生き物」です。やはり生きようとしています。そこに衝突が起こったとき、私なら、あなたならどういう選択をするのでしょうか。

私は分かりません。

十年以上前かもしれませんが、どこか海外で巨大な地震がありました。母親と赤ちゃんがビルの下に生き埋めになりました。

人間、食べ物が無くても、飲み物があれば、結構生きられます。その母親は一本ずつ自分の指を食いちぎり、赤ちゃんに血を吸わせました。

そして母親は亡くなりましたが、赤ちゃんは無事救助されたのです。

私もあなたも悪魔にもなれば、天使にもなります。

分からなくても、自分の答えを探し続ける間に成長しているということもあるでしょう。

以上、『羅生門』のあらすじと考察・感想でした。

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mike

近代小説(明治から昭和まで)が大好きです。特に人生がギュッと濃縮されているような短編が好きです。読んでくださった方が、自由に想像の翼を広げられる記事を目指します。