開高健『破れた繭』作家になるまでの開高健の人生!

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開高健『破れた繭』作家になるまでの開高健の人生!

開高健『破れた繭』紹介

『破れた繭』は開高さんの自伝、「耳の物語」2部作の内の第1部です。

生まれ育った大阪郊外の豊かな自然の中で、トンボや小鮒と遊んだ子供時代から、戦前、戦中、戦後までの混乱した社会、父の死により家計のために職種を厭わず働いた経験、1女をもうけ学生結婚した、悩み多き大学生時代までが描かれています。

ここではそんな『破れた繭』のあらすじ&解説を紹介します。

『破れた繭』あらすじ

自伝を書く決心をした理由

いつの頃からか「ある光景」、多分生まれ故郷の大阪の郊外の原風景が、何かの時に浮かんでくる。

坂道の通りの両側に街並みが続いている下町の、夕焼け時の光景。じっと観察している訳ではないが、肉眼で見ているような感覚がする。

でも、眼を据えて見直しても明確な姿にならない。

坂道の頂上から、母か叔母に手を引かれて眺めた記憶がある。多分叔母であり、セーラー服姿が浮かんでくるが一瞬で消えてしまう。

年と共に衰えを自覚するようになり、「耳から過去の音を取り出して」自伝を書く決心をする。

「音」とは、ベトナム戦争の最前線での機関銃の音や、アマゾン河での釣りをしている時に聞いた猿の声などの他、夜中に原稿用紙を前にしている時に、耳をすませば浮かんでくる音とも映像ともつかぬ断片的な記憶も含まれるでしょう。

そして話は、大まかに3項目から成っています。

  1. 生まれ育った大阪、「寺町」上本町と、その後北田辺での子供の頃の生活
  2. 2.中学入学と父の死による貧困生活
  3. 友人矢沢 永一との出会い、奥様との出会い

もう少し詳しく見てゆきましょう。

1.生まれ育った大阪、「寺町」上本町、北田辺での子供の頃の生活

祖父が資産家で、父は教師、経済的な余裕があり、女中も抱えていました。7歳までは「寺町」とも呼ばれるほど寺の多い上本町で暮らしています。その間は病弱で常に何かの病気を抱えており、命の危機もあったが記憶にないようです。

子供心に覚えているのは、正月の獅子舞や、師走に祖父の田舎の人がカニやキジなどのお土産を持参し、お国言葉を交わしながらとめどなく酒を飲んでいた光景はおぼろながら残っています。

7歳の時にもう少し田舎の、北田辺へ引っ越します。ここは水田、畑、池、川など豊かな自然がありました。

開高さんは内気で、病弱で臆病者でした。

それでも自然の中での生き物との遊び、川干しやトンボとの知恵比べには無条件で夢中になり、いつも遊ぶエリアは、アリジゴクの穴の位置まで知っていました。この頃の記憶は、真夏の情景等と共にしっかりと記憶に、いわば繭にしまわれたようです。

2.中学入学と父の死による貧困生活

中学生時代は、いよいよ先の戦争の時期になりますが、最初の1年間は青春を謳歌した「青春期」でした。

勉強、スポーツ、試験、友人、性への好奇心、自慰だけ考えておれば良い束の間の平穏な時期でした。いつの時代にも共通である、青春時代の有り余る性的好奇心によるもやもやをを解消するために、狙いを定めた者を集団で襲い、下半身をむき出しにする遊びなどが流行っていたようです。

父が中学入学時に死去します。衝撃が大きく、涙も出ないほど、同居の祖父も沈黙し、新聞や本を読むのみ、母は神経症になり、寝込んでしまい叔母も同様で寝たきり状態になりました。妹二人もやはり落ちつかず、夕刻叔父が来た時だけが皆の安らぎの時間でした。

父が亡くなった後は、家族のため稼ぐことがメインになります。

まず、パン焼きの見習い工から始めて、出来る仕事は何でも手掛けています。

兼業で学習塾もやっています。多忙な毎日ながら、勉強は好きであり、数学や英語では自分なりのやり方で理解できるのを喜んでいます。

パン屋の仕事を止めると、たちまち食べるに困り昼の弁当がなくなります。

開高さんだけではないが、昼食の時間に一人外へ出て水で腹を満たすのは他にもいました。それは辛いが、そっとパンを与えてもらうのは更に辛かったようです。

この後同級生に誘われ、飲み屋の手伝いもしています。

当時の酒と言えば、エチルアルコール、ドブロクが主で、アルコールは水で薄め調整します。

酒の肴は、新鮮な豚のレバーを小分けにして新聞紙に載せて出す、大皿は焼け跡からの調達品です。

店は小屋ですが来客は夜通しあります。その大人びた友人には、酒の他に高齢女性の大人の仕事も教わります。

売春は年齢からして無理だが、暗がりで男の欲望を処理してくれる「掻き屋」という商売です。

飲み屋にはいろんな人が出入りします。戦争の間接的な被害者ともいえる例です。

ある若者が、毎夜一杯飲っては「俺は特攻隊の生き残り」と叫ぶ、周囲の者も分かっていてそれに同調しています。

飛行服とマフラーは闇市で購入した物で、元整備兵とのことでした。

そんなある意味、無茶苦茶な生活の中で開高さんは国外脱出と放浪を夢見るようになります。

そのために、工夫を凝らして英語の習得に励みます。その腕を見込まれて、米兵の書くラブレターの代筆や、英会話教師の経験もしています。

戦争で授業も学校も一変します。

戦陣訓の暗唱、軍事教練などが主になり、戦況が悪化すると若い男子には赤紙が届き、中学生は勤労動員され、校舎は兵舎となります。

代用品が増え、食料は配給制となります。不足するので農家へ直接出向き、物々交換をするのが国民の精一杯の策でした。

当然取り締まりもあり、警察間との知恵比べが常習となっています。飛行場の空き地でさつま芋を栽培し、芋から作ったアルコールを、飛行機の燃料にするという話を聴いて流石に呆れます。

突然に戦争は終わります。8月15日に先生が生徒を集め、戦争が終わったことを説明します。

先生方は皆泣くばかり、生徒はその姿を見て当惑するのみであったようです。その後は良く知られている光景です。進駐軍が来たこと、女性は強姦されると信じた者が多かったこと、教科書の都合が悪いとされる部分に各人が墨を塗ること、シラミ対策、等々。

食料の確保は当然最優先ですが、急に何とかなるものではなく代用食品の工夫、イナゴや野草、農家での物々交換が仕事にもなります。

不幸にもそれが出来ない者の中には、あちこちで亡くなるという事態になります。

また、敗戦を機に制度も変わりました。

祖父は、資産をほぼ失い、何軒かの貸家だけが残りました。

敗戦直後から闇市が出現し、そこではお金さえ出せば大抵のものは手に入るが、貧乏な大家族では、それも出来ず夕食時のふかし芋は奪い合いの様相でした。

敗戦後は学校制度の変更もあり、1年間旧制高校に通った後、新制大学を受け直します。

当時は、稼ぐことの他には、勉強というよりは、詩人佐藤春夫の戯詩のとおりであったようです。

「若き二十のころなれや、三年がほどはかよいしも、酒、歌、女、また女、外に学びしこともなし」酒の深みにはまる前には、映画に夢中になります。

勿論資金との相談になりますが、数駅分の電車賃、食事の1.2食を削ってでも通っています。

この当時、入れ替えはなかったようで、繰り返し観て夜の8時.9時になることもありました。

外国へ行きたいという願望のため外国映画が多く、音楽や単語、お気に入りのストーリ―を反復しながら数駅間を歩くのは苦にならなかったようです。

3.友人矢沢 永一との出会い、奥様との出会い

この後フランス語を習いに行った語学塾で、開高さんに大きな影響を与えた矢沢永一に出会います。

誘われるままに自宅を訪問すると、書斎の床から天井までの本があった。あらゆる分野の文学本の他、歴史、伝記、心理学、哲学、経済学他の本があり、自由に借り出しても良いということになった。

常に荒涼と孤独に悩まされているが、この蔵書のおかげで踏みこたえることができた。

矢沢の主催する同人誌「えんぴつ」に参加するが、何も浮かばず何も書けない。仲間の助言でフランス語の詩集の翻訳に取り組んでいます。

この同人誌に妻となる女性が加入してきます。

彼女は当時の言葉で言えば「才媛女子」で、女子高等師範学校の物理専攻を卒業、詩人としても名が知られており、現サントリーで研究員として働いていました。

7歳年上で、議論になれば自説を曲げず、興奮して机をたたく癖もある所から、「カルメン」のあだ名を頂戴しました。

仲間にも「自殺願望」を公言してはいるが、有能で男に対して突っ張ってはいるが感じやすく、優しさと繊細さを持ち併せていることが感じられる女性でした。

やがて二人は、男女の仲になり、彼女が妊娠してからは終始女のペースで進みます。

男の側からは、中絶を望みますが、強要は出来ず、彼女の親も巻き込んで出産、結婚と進みます。

出産の病院には学生服で駆け付け、若い看護婦達がひそひそ話をしているのに耐えきれず病院を飛び出したところで第一部は終了します。

『破れた繭』解説

人は終盤になると、自分の人生を振り返り纏めてみたくなるようです。

それは作家も同様でしょうが、作家が自伝を書くのは困難があります。

これまで多分、作家の数だけの自伝がそれぞれのスタイルで書かれているでしょう。

自分の人生のどの部分を、どの様に拾い上げるのか、どう表現するのか等、課題は多くあります。

開高さんは「耳からの音」を題材にすることを選びました。

子供の頃遊んだ夏の草叢の虫の音、ベトナムの最前線での機関銃の音、焼け跡に流れるジャズのメロデイ等、ふとしたことから思いおこす記憶を基に纏めています。

第一部『破れた繭』は、子供時代から学生結婚をして一女の父となるまでが描かれています。

物書きを目指す意思はありながら、13歳の時に父が死去したこともあり、戦前、戦中貧困で苦しみます。

また、繊細で過敏ともいえる性格故から生まれる心の葛藤が、全編にわたって繰り返されています。

第1部と2部に分冊したのは、吉行淳之介氏のアドバイスと言います。

成人までの、学生結婚までの第1部、2部は作家となって以降という分け方は、読者から見ても成程と感じます。

開高健作品に影響を与えたのは育った環境

開高さんの作品にも影響を及ぼしたのは、自身の性格の他に開高さんの育った環境も関係していると思われます。

祖父、父(開高さんが13歳の時に死去)、母。開高さん。妹2名、叔母、お手伝いさん。

父は教員で祖父は出身地に農地も所有し、貸家数軒の他株券や預金等も十分保有し女中を置けるほどであったようです。

それが父の死や、敗戦後の農地改革やインフレ等で祖父の資産も霧消し、一家の生計は開高少年の方に大きくのしかかってきた。こ

れは開高さんの人格形成や生き方に、作品に大きく影響していると思います。

学生結婚後現サントリーに入社し、金銭的に安定するまでは学校よりもアルバイトの毎日でした。

パン屋焼きの見習い工から始めて、最後は英語の個人レッスン教師まで体験しています。

お金が必要な中でも、海外へ逃げ出したいという気持ちと、自分なりのやり方で勉強したいという気持ちは強かったようです。

僅かでも資金があれば、食事を抜いてでも映画館に入り浸っています。

「類は友を呼ぶ」といっても良いでしょうが、同級生が手伝っている飲み屋の仕事に誘われます。

安酒、安酒肴で酔いしれる人々に、大人の世界を覗いています。「特攻隊帰り」を自作自演する人、そして周囲はそれを理解しながらただ見守っている例。「ウイスケ」の名前でウイスキーのまがい物を提供する例等。

開高さんは、繊細で神経質な性格からくる不安を解消するためでしょうが、終生走り回っていた人だと感じます。

その中での交流等の体験から作品が生まれています。

妻のと出会い

もう一つ、奥様との出会いも作家としての成功,大成に大きく影響していると思います。

奥様は、生まれた時代が速すぎた、ということはあると思います。

悪妻伝説もありますが、似た者同士の、この組み合わせでなければ、開高さんは育たず、戦時取材や地球規模での釣り紀行などできなかったでしょう。

難解な小説、軽妙なエッセイはそんな二人からの素敵な贈り物だと考えています。

『破れた繭』概要

主人公 私:開高健 子供の頃から相手の妊娠で学生結婚するまで。内気な性格で常に不安感がある。父の死で一家の家計がのしかかってくる。
重要人物1 妻:牧洋子 女子高等師範卒、詩人、現サントリー勤務、開高さんとは同人誌の仲間、7歳年長、自殺願望を公言している。
重要人物2 その他家族:祖父、父母、叔母、叔父 祖父は資産家だが敗戦後の農地改革で資産を失う。父は教員だが私が13歳の時に死去。母、叔母は病弱。
重要人物3 友人:矢沢永一 資産家の息子で多大な蔵書を所有、同人誌「えんぴつ」を主宰。
舞台1 大阪、寺町上本町、北田辺他 当時は野原や小川に自然が一杯で子供の遊び場。思い立って訪問するが記憶の場所には行きつけない。
舞台2 矢沢永一主催の同人誌「えんぴつ」の集い 7歳年長で「妻女」の奥様と出会う。
舞台3 同級生の親の飲み屋 元特攻隊員を名乗る者他から大人の世界を知る。

『破れた繭』感想

自伝は多くの作家が発表しています。

開高さんの経歴は、読者でなくても年輩の者なら、大方の人が承知しているはずです。

それを敢えて書く、或いは書かざるを得ないのですから、作家の苦労が偲ばれます。

開高さんも最終的に、この作品を書く決意をしたのが51歳の時といいます。

永年その思いはあったが、どうしてもイメージが明確にならず、発刊は5年後、56歳の時になっています。

開高さんがこの作品を書いた動機を考えてみます。

巻頭に記されているように、忘れられない原風景があるのが最大の理由でしょう。

作家となってからは東京での生活だが、時々大阪郊外の故郷を訪れても、幼少時の懐かしい原風景には出会えない。

夕焼け空の下で、母か叔母に手を引かれてその景色を見ていた記憶はあるが、人の姿は誰も明確に浮かんでこないようです。

復興が進んで、町並みは当然変わっていますが、戦災を免れた地区でもしっくりこないのは、心を含め見る者の変化でしょうか。

戦前、戦中、戦後の悲惨さや混乱ぶりは今までも散々書かれていますが、もう十分ということはないでしょう。

誰にもある故郷や幼少時への憧憬、その後の悲惨な戦争、これは作家として当然書くべき課題であり、巻頭の言葉「最高の書物とは、読者にわかりきっていることを語ったものだと、彼は悟ったのである」はその覚悟でしょう。

開高さんの世代、戦時中は学生であった世代には、共通項があります。戦前は束の間の青春があり、やがて軍事教練など軍国教育が始まり、戦争が負け戦になると集団疎開や勤労奉仕で授業どころでなくなる。

開高さんも操車場で、米軍機の襲撃に会うという経験もしています。都市部は米軍の空襲を受け、食料は配給になり、親は農家へ直接出向いて物々交換で食料を確保していた時代です。

禁止行為ですから、警察官との知恵比べがあったようです。

8月15日、先生方は茫然自失、子供達はそれほどでもなかったようですが、忘れられない一日になったのは間違いないでしょう。

戦後も、食料不足、貧困、授業内容の一変等、目まぐるしい変化があります。私は1952年、山間部の農家に生まれた戦後世代ですが、私の子供の時代にも貧困等、戦争の名残はありました。昼の弁当を持ってこられない者が1割近くいた事、戦災孤児の存在、医療保険が無いので受診するのが遅れて命を落とした例等。

山間部は、米がなくても代用品の山菜や川魚等は手に入るので、飢餓の恐れはないが「明日は今日よりも豊かになり、良くなる」という意識はなかったように思います。

都市部は、山間部では無料の薪も飲み水も、山菜も有料であり、一層貧困が身に染むでしょう。

私のクラスで大学まで進学した者は1割、6割は集団就職で都会へ出てゆきました。

それより厳しいであろう都会の戦中、戦後の中で、開高さんは父の死後、中学生の身でありながら、家族のためにアルバイト的な仕事を繰り返し、外国語も身に付け、大好きな読書も楽しみます。

学制の変更があり、再受験をして新制大学に入ります。この当時の国公立大学の学費は格安であったはずですが、貧困の中での知識欲は、教員であった父等家庭環境も影響しているのでしょう。

「転石苔むさず」といいます。開高さんの人生は、生涯転がり続け、回り続けた人生でした。

転がり続けているから、同じ匂いや同じ音を発する知人友人ができる、新しい体験をする、良くも悪くも社会を知ることになります。

私の子供時代の例ですが、地区の大人が薬局から麹を買い、米を蒸して混ぜ合わせ発酵させ、ドブロクを作っていました。時々地区の下手から「税務署が来たぞ」の声が聞えてきたのを覚えています。

駐在さんが巡回に来た時に、父が濁り酒を出しているのを見て驚きましたが、駐在さんもそ知らぬ顔で飲んでいました。

子供でも案外鋭いという例でしょう。開高さんは、男の原点である飲み屋での人間観察や友人の蔵書のむさぼり読み等で作家の原点を築いたのだと思います。

作家開高健が誕生するには、もう一人、奥様の存在が欠かせないでしょう。

悪妻伝説もあるようですが、普通の女性では開高健の妻は勤まらないでしょう。

開高さんは、神経質で繊細、鬱病持ちであったともいいます。転がり続ける人であり、行き詰れば酒か外国へ逃げ、訪れた国が50ケ国以上、ベトナム戦争の最前線迄取材に行き、帰国時には家族で大喧嘩をした様子も別の作品には描かれています。

奥様も所謂「才女」で当時としては規格外の人、似た者同士だから離婚せずに済んだのではないかという気がします。

このとんでもない前半第一部があってこそ、第2部の開花期、活躍期が続いているのだと思います。

また、貧困や戦争は今も世界では続いています。この作品でも、生きることの原点や子供の目の確かさ、意識のない残酷さ、人は心の安らぎが必要なことは感じ取れると思います。

安らぎは故郷の情景、親、祖父母等、各人様々でしょう。

開高さんの作品すべてに共通するのは、徹底的に現場で真実、材料を拾い上げていることでしょう。

豊かな語彙や、内外問わず先人からの引用は、生涯回り続けた開高さんの産物だと感じています。「生きるとは何か」を示唆してくれる作品です。

開高健作家としての略歴

です。1930年大阪市生れ。

現サントリー勤務時代の1958年、「裸の王様」で芥川賞を受賞。以来、「日本三文オペラ」「流亡記」など、次々に話題作を発表。

1964年新聞社の特派員としてべトナム戦争の最前線を取材、後にその経験を「ベトナム戦記」や「輝ける闇」などに纏めています。

戦争、紛争取材や、文壇、政治家、毛沢東やサルトルとの会談等で、50ケ国以上の国を訪れ、その見聞や交流を基にした作品を発表しています。

後年は、海外を舞台にした釣り紀行文もよく知られています。

開高さんは58歳で病没していますが、繊細で何事も突き詰めなければ気が済まない性格であり、かなり無理をして動いていたのだという気がします。

初対面の人とのやり取りは特に苦手だったのに、不安感以上に突き詰める意識が勝っていたのだと考えます。倒れたくないために独楽のように回り続け、身と心を削って作品を生み出した人だと考えます。なおこの作品は日本文学大賞を受賞しています。

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supamari

ポスト団塊の世代で、4人男ばかり兄弟の末っ子、親も心配するほどの引っ込み思案な子供でした。小学入学前から高学年になるまではエジソンや一休さん,源氏物語や今昔物語、グリム童話等20冊程度でしたが、繰り返し読んだので今でも覚えていることが多々あります。以降乱読の時代を経て、エッセイの時代。最近は、ノンフイクションや遺伝子関連、池上彰さんの解説本、地政学、現代の知の巨人と言われるAPU(立命館アジア太平洋大学学長)出口氏の本当が中心になっています。出口氏の「物事の判断は、縦横算数、歴史、世界、データ、で考えろ」という意見に成程と思いました。地元の新聞への投稿等もしていますが、世界の課題、テーマが重く後回しにしてきた作家(開高健)等をじっくりと読み、またまとめてみたく思います。