『友情』あらすじから武者小路実篤の結婚観まで

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『友情』あらすじから武者小路実篤の結婚観まで

『友情』の紹介

『友情』は1919年に『大阪毎日新聞』に掲載され、1920年に刊行された武者小路実篤の小説です。

武者小路実篤は、明治・大正・昭和にかけて活躍し、文芸雑誌『白樺』の創刊にも参加した、日本を代表する作家の1人です。

この記事では、そんな彼の代表作である『友情』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『友情』―あらすじ

23歳の野島は、観劇の場で友人の妹である杉子に出会います。

まだ16歳で、美しく清冽な印象を持つ杉子に対して、その日のうちに「結婚」の理想を描く野島。

杉子こそが、脚本家を志す彼を支えてくれる美しい細君になると、野島の妄想は膨らむばかり。

夏休みになり、杉子は家族と鎌倉の別荘で過ごします。同じく野島も、親友の大宮と共に鎌倉へ。

26歳の大宮は、将来を嘱望される小説家です。

野島の一番の理解者で、杉子に出会った頃から、大宮にだけは思いを打ち明けてきました。

鎌倉では、大勢の若い男が杉子の気を引こうとしますが、大宮だけは杉子を冷淡にあしらい、野島の恋を応援してくれていたのでした。

秋になり、大宮が突然、パリに洋行します。

約2年後に大宮から届いた手紙には、同人誌に発表した彼の小説を読むように書かれていました。

その小説には、杉子からの熱烈なアプローチと激しい葛藤の末に、杉子と大宮が結ばれていたことが、野島への謝罪と共に描かれていました。

大きな衝撃を受けた野島は、混乱の最中で「仕事の上で決闘しよう」という返事の手紙を書きます。

野島にできるのは、孤独と痛みを耐え抜き、必ずや文壇で大成すると固く決意することだけでした。

『友情』―概要

重要な登場人物 野島、杉子、大宮
主な舞台 東京、鎌倉
時代背景 大正時代
作者 武者小路実篤

『友情』―解説(考察)

武者小路実篤の結婚観

『友情』は失恋小説ですが、その読後感は、単なる悲恋や喪失の悲しみでは終わりません。

むしろ、野島が杉子を失い、さらに親友であった大宮の告白に大きな衝撃を受けることで、仕事への熱い決意を露わにするラストシーンには、なぜか安心感さえ覚えてしまうほどです。

作者の武者小路実篤も、失恋を安易に「悲劇」とは捉えていないようです。

現代でも手に入りやすい新潮文庫には、「自序」が収録されていますが、その一部をご紹介します。

人間にとって結婚は大事なことにはちがいない。しかし唯一のことではない。する方がいい、しない方がいい、どっちもいい。(中略)自分はここでホイットマンの真似をして、失恋するものも万歳、結婚する者も万歳と言っておこう。

作者の「失恋するものも万歳」と言い切ってしまう潔さに、驚かされてしまいます。

そして、この序文では作者自身の結婚観が垣間見えています。

本当の意味で恋し合うもの同士こそが結婚すべきで、野島のように自分に都合の良い理想の女性をでっち上げるような恋愛ならば、報われない方が幸せだと説いているのです。

本文では、杉子が大宮に宛てた手紙の中で、「野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そしてそれを賛美していらっしゃるのです(新潮文庫 p.131)」と野島の独りよがりな恋愛観が看破されています。

「新しき村」への讃歌

さらに、叢文閣版『友情』の「再版自序」にはこんな一文があります。

この小説は実は新しき村の若い人達が今後、結婚したり失恋したりすると思ふので両方を祝したく、又力を与へたく思つてかき出したのだがかいたら、こんなものになつた

ここでも同様に、結婚と失恋、両方を祝福する考え方を示す作者。

若者が必ず経験する成功も失敗も、等しく価値があると認める実篤の懐の広さが伺えます。

この「再販序文」で出てくる「新しき村」とは、武者小路実篤が1918年に開村した、精神の自立を目指す共同体です。

『友情』が刊行された1920年当時は、数十名が共に暮らし、農作や馬耕に取り組んでいました。

実篤の小説には、人間がどう生きるべきか、世界のために何をすべきか、といったことが登場人物の口からしばしば語られます。

そんな精神の理想を追求する実篤の思想に共鳴した若者たちが、宮崎県の小さな村に集まっていたのです。

この失恋小説は、そんな「新しき村」で暮らす、実篤と志を同じくする若者たちに向けられたといいます。

さらには、全ての夢を追う青年が、日々の艱難辛苦を乗り越えて自己実現の道を歩き続けることへの激励が込められていたのかもしれません。

同時代の天才たち

この物語の主人公である野島は脚本家として、親友で恋敵となった大宮は小説家として、世界の天才たちに肩を並べようとしています。

彼らの会話の中では、世界の文壇や思想、さらには人生のあり方について、大いに議論が展開されます。

そして、この議論の根底には、日本を代表する知的エリートとしての選民意識が、少なからずあるのではないでしょうか。

本文中では、野島から見た日本と世界の文壇の姿が語られています。

彼は日本の文壇の先輩を心私かに軽蔑していた。しかし自分の現在の仕事を思うと、彼等以上とは云えない気がした。
彼はイブセンや、ストリンドベルヒ、トルストイ、そんな人のことを思うと情けない気がした。自分が一体文学をやるのさえ、僭越なのではないかと思った。
世界には嵐が吹きまくっている。思想の嵐が。その真唯中に一本の大樹として自分が立ち上って、一歩もその嵐に自分を譲らない。その力がほしかった。(新潮文庫 p.21)

『人形の家』などの脚本により「近代劇の父」と言われたイブセン、小説『痴人の告白』や脚本『令嬢ジュリー』などの代表作を持つストリントベルヒ、『戦争と平和』が現代も広く読み継がれているトルストイなど、野島が名前を挙げた世界の天才たちは、いずれも19世紀〜20世紀初頭の、『友情』が発表される少し前の年代に活躍しました。

そして、まさに実篤の少年期・青年期に、当時の若者に大きな影響を与えた作家でもあります。

特に、実篤自身は学習院中等科で志賀直哉に出会い、彼の紹介で読み始めたトルストイに夢中になっています。

同時期に流行した、島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『布団』によって確立された、人間の本能の醜悪さを描く自然主義に、実篤や志賀直哉は共鳴しなかったようです。

後に、実篤や志賀直哉は、反自然主義として雑誌『白樺』を創刊し、人道主義とも言われる「白樺派」として活躍します。

芥川龍之介は、自然主義に対抗した「白樺派」の登場を、「文壇の天窓を開け放つて、爽(さわやか)な空気を入れ」たと評価しました。

実篤は、世界の作家たちの思想性の強さに影響され、日本からも彼らに比肩するほどの作品を生み出したいと思っていたのでしょう。

『友情』はフィクションではありますが、野島や大宮の文学観や人生観には、多分に実篤自身の思想が反映されています。

本文中で、大宮はこうも語っています。

日本は貧弱すぎます。私たちは出来るだけの力をもって、日本の文明を高め、思想を高め、世界的の仕事をどんどんしてゆくようにしなければ、日本人は世界的存在の価値を失います。今は大変な時です。私達がふるい立たなければならない時です。(新潮文庫 p.129)

実篤に限らず、近代文学を確立した当時の作家たちは皆んな、こんな切迫した思いを抱いていたのかもしれません。

明治維新によって翻訳文学が日本の文壇に流れ込み、「だ調」「です調」「である調」の言文一致体さえ生まれたばかりの20世紀末、世界の天才たちの作品を瞠目し、「我こそは」と彼らに肩を並べようとしたのは、ほとんどが東京帝国大学出身のエリートでした。

子爵家に生まれ、皇族や華族が通う学習院を出て帝大に進んだ実篤は、文学を通じて日本人の力を世界に知らせるという強い使命感と責任感を持っていました。

現代では、これほどに峻厳に文学や思想に臨み、切実に人間のあり方を追求している作家は少なくなっているかもしれません。

『友情』―感想

実篤が立ち上げた白樺派は、自我の尊重、正義と愛の重視、個性の全面的な伸長を目指してきました。

だからこそ、実篤の小説からは学ぶことが多く、新しい思想や観点に触れてハッとします。

登場人物たちが語る思想や人道に思いを馳せ、彼らが語る将来の理想に耳を傾けていると、自分まで将来に向けて力強く歩み出す背中を押してもらったような気がします。

こんな爽やかな読後感も、この小説が持つ魅力の一つです。

生涯未婚率が増加している現代は、「婚活」なる言葉も登場し、中には結婚しなくてはと焦っている方もいるかもしれません。

では、その結婚とは、本質的にはどのようなものなのか。結婚すれば、そこがゴールで「勝ち組」になってしまうのか。はたまた、自分の本当の思いを押し殺し、友人の歪んだ憧れを応援することだけが「友情」なのか?

そんなことまで考えさせられるような『友情』という小説には、私たちが生きていく上で、少しは考えておくべき思想のかけらが散りばめられています。

野島と大宮の会話や、大宮と杉子の書簡の交換から、小説としてデフォルメされた実篤の思想を読み取るのも一つの楽しみ方です。

考察でもご紹介した、「失恋するものも万歳、結婚する者も万歳」という「自序」の言葉は、真の意味で多様性を包含しています。

それは、失恋と結婚だけにとどまらず、どんな生き方をしようとも、それが自我の尊重と個性の伸長に繋がるのであれば、誰にも否定できないということでしょう。

もちろん、実篤の思想は「自分さえ良ければ人の邪魔になっても良い」というものではありませんから、興味のある方はぜひ「新しき村」が提唱した精神を学んでみてください。

もう一つ、「失恋するものも万歳、結婚する者も万歳」という言葉に追記させていただくと、これはいわば「ネタバレ」の技法です。

読者は、野島の恋を読み進める前から、この恋は破れ、大宮と杉子が結ばれることを知らされています。

いわば驚きの結末を「自序」、現代風にいうと「はじめに」に持ってくることが、この小説がいわゆる「恋愛小説」ではないことの何よりの証拠となっています。

恋をして、お熱になっていた女性を、親友に奪われて激昂するという、それだけの筋書きを読ませたくはないのです。

むしろ、それに付随する結婚についての思想、仕事や人生のあり方こそが、この小説の本筋となるのでしょう。

さて、新潮文庫の2004年時点の累計ベストセラーでは、『友情』は466万部で4位にランクインしています(※)。

6位の『坊っちゃん』(夏目漱石)や9位の『雪国』(川端康成)、10位の『斜陽』(太宰治)を抑えての順位ですから、いかに『友情』が多くの人に読まれてきたかが感じられます。

しかし、今や好きな作家として「武者小路実篤」を挙げる人の数は、そんなに多くはないのかもしれません。

難しく思われがちな実篤の作品も、文体は平易で明るく、登場人物の葛藤や苦悶も清々しい、明治・大正期の近代文学には珍しいほどの青春小説です。

恋や理想を追いかける若者への応援の書として、さらに広く世界の青少年に『友情』が読み継がれていくことを願って、この記事の結びといたします。

以上、『友情』のあらすじ、考察、感想でした。


(※)出典:『文庫はなぜ読まれるのか〜文庫の歴史と現在 そして近未来』(出版:メディアパル/著:岩野裕一)

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