『新ハムレット』紹介
『新ハムレット』は太宰治著の小説で、1941年、著者にとって初の書き下ろし長編小説として文藝春秋社より刊行されました。
本作は題名の通り、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を原案として創作された戯曲風のパロディ小説です。
「はしがき」の中で著者自ら、本作は「註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してない」「作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎない」と言及しており、実際に物語の展開については原作とかけ離れた部分が多々見られます。
ここでは、『新ハムレット』のあらすじ·解説·感想までをまとめました。
『新ハムレット』あらすじ
デンマーク王子のハムレットは先王である父の死後、叔父のクローヂヤスと母·ガーツルードが再婚したこと、臣下の娘であるオフィリヤを懐妊させてしまったことに悩んでいました。
そんな時、親友のホレーショーから、先王の亡霊が「自分はガーツルードに恋横暴したクローヂヤスに殺された」と語っているという噂を聞きます。
はじめこそ信じないハムレットでしたが、臣下ポローニヤスから噂に根拠があると聞き、王の真意を確かめるため朗読劇を披露することにします。
先王殺しをほのめかすような劇を見ても王は動揺を見せませんでしたが、その後ポローニヤスを呼び出すと激怒し、口論の末にポローニヤスを殺害します。
その後、クローヂヤスはノーウエーとの開戦をハムレットに伝えますが、ポローニヤスの不在について言及されると動揺を見せ、ついに噂は本当で恋横暴のため先王を殺そうと考えた一夜があったことを告白しました。
さらに取り乱したホレーショーが、王妃が自死を遂げたことを告げに来ます。
王妃の死を嘆き、王としての決意を新たにするクローヂヤスに対し、ハムレットは「僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」と宣言するのでした。
『新ハムレット』概要
主人公 | ハムレット |
重要人物 | クローヂヤス、ポローニヤス、レヤチーズ、ホレーショー、ガーツルード、オフィリヤ |
主な舞台 | デンマークの首府、エルシノ |
時代背景 | 不明(原作に基づくと8~9世紀ごろ) |
作者 | 太宰治 |
『新ハムレット』解説(考察)
本作を読み始めて最初に感じる違和感は、王·クローヂヤスの表面的な人柄の良さでしょう。
原作『ハムレット』を「絶対悪」との戦いとすれば、本作は「偽善」との戦いが描かれていると言えるのです。
クローヂヤスをはじめとした人物の描写の違いを見ていくと、本作が確かに「註釈書」でも「新解釈の書」でもなく、偽善との対峙をテーマとした「心理の実験」であることがわかります。
今回は人物描写にスポットをあてて、ラストシーンの「僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」という台詞の真意について考察していきたいと思います。
偽善者たるクローヂヤス
善悪の二面性
まずは、原作ともっともギャップの大きいクローヂヤスから見ていきましょう。
彼は「先王に劣らぬ立派な業績を挙げようとして一生懸命」「情の厚いお方だと思う」など周囲の評価からもその善人ぶりが描写されています。
ハムレットでさえ「だらしないところもあるけど、でも、そんなに悪いひとじゃない」と語っているほどです。
しかし、物語が進むにつれて徐々に彼の暗い一面が見えはじめます。
朗読劇の場面、クローヂヤスは皆の前で「ポローニヤスの花嫁は、お手柄でした」「うまいものですね」とポローニヤスを褒めちぎりおおらかな態度を見せますが、その直後、ポローニヤスの前に態度を急転させ、朗読劇の醜さを口汚く罵るのです。
王。「裏切りましたね、ポローニヤス。子供たちを、そそのかして、あんな愚にも附かぬ朗読劇なんかをはじめて、いったい、どうしたのです。気が、へんになったんじゃないですか? 自重して下さい。(中略)あんな、喙の青い、ハムレットだのホレーショーだのと一緒になって、歯の浮くような、きざな文句を読みあげて、いったい君は、どうしたのです。なにが朗読劇だ。遠い向うの、遠い向うの、とおちょぼ口して二度くりかえして読みあげた時には、わしは、全身、鳥肌になりました。ひどかったねえ。見ているほうが恥ずかしく、わしは涙が出ました。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫,311-312頁
若い二人に対して「あんな、喙の青い、ハムレットだのホレーショーだの」と蔑むような表現をしているところも印象的で、彼の二面性が強調して描かれているといえます。
また、怒りに任せてポローニヤスを刺し殺したり、レヤチーズの死をきっかけに戦争を始めたり、その行動にも利己的かつ暴力的な一面があらわれており、彼が非常にわかりやすく「偽善者」として描かれていると言えます。
偽善を生み出す気の小ささ
二面性に加え、もう一つの特徴的な性質は彼の「気の小ささ」です。
彼はほんの一瞬ハムレットに疑いの目を向けられただけで逆上して自らの罪を暴露してしまった上、王殺しを「決意した一夜があった」のみで実行には移していないと語ります。
ポローニヤス殺害後の狼狽を見ると、これは保身のための嘘ではないように思われます。
殺人に迷いのない大悪党として描かれている原作に対し、本作のクローヂヤスは罪を隠し通す胆力も、巨悪を成し遂げる勇気もない小心者として描かれているのです。
「ハムレット、腹の中では、君以上に泣いている男がいますよ。」という最後の台詞からも小心ぶりが滲み出ており、その気の小ささを丁寧に描写していることがわかります。
太宰はクローヂヤスを通じて、偽善の裏に隠された心の弱さを描こうとしていたのかもしれません。
警告者たる女性たち
本作では、女性の描写も原作とは大きく異なっています。
また、原作のオフィリヤの事故死が、ガーツルードの自死に変わっているのも印象的です。
この改変は、本作の女性が強い自我を持った存在として描かれているためだと考えられます。
正義感の強いガーツルード
まずは、王妃·ガーツルードから見ていきたいと思います。
彼女はクローヂヤスと対比的に描かれた存在であり、自分の立場を継ぐオフィリヤに対する警告者としての役割も持っているとも言えます。
彼女はハムレットらに刺々しい言葉を連発し、朗読劇にも激怒するなど気の強い人物として描かれていますが、一方でハムレットのためホレーショーを呼び寄せたり、オフィリヤのため王に「泣いて跪いて」婚姻をたのんだりと愛情深い一面も見られます。
そんな逞しさを持った彼女が自死を遂げたのは、強い正義感のためと考えられます。
彼女は死の直前、責任感を持って王妃をつとめてきた自らについて「私は馬鹿です。騙されました。」と語っています。
王妃。「(中略)どんな悲しい、つらい事があっても、デンマークのため、という事を忘れず、きょうまで生きて努めて来たのですが、私は馬鹿です。だまされました。(中略)人は、私のひそかな懸命の覚悟なぞにはお構い無しに、勝ったの負けたのと情ない、きょろきょろ細かい気遣いだけで日を送って、そうして時々、なんの目的も無しに卑劣な事件などを起して、周囲の人の運命を、どしどし変えて行くのです。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫272-273頁
さらに続けて、男性についても「がっかりしました」「ばかばかしい」と語ります。
王妃。「(中略)男のひとは、口では何のかのと、立派そうな事を言っていながら、実のところはね、可愛い奥さんの思惑ばかりを気にして、生きているものなのです。(中略)私は此の頃それに気がついて、びっくりしました。いいえ、がっかりしました。私は、男の世界を尊敬してまいりました。私たちには、とてもわからぬ高い、くるしい理想の中に住んでいるものとばかり思っていました。及ばずながら、私たちは、その背後で、せめて身のまわりのお世話でもしてあげて、わずかなお手伝いをしたいと念じていたのですが、ばかばかしい、その背後のお手伝いの女こそ、男のひとたちの生きる唯一の目当だったとは、まるで笑い話ですね。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫,276頁
強い義務感から私欲を捨てて励んできたガーツルードでしたが、頼りにしていた男性らが実は軽薄なことばかり考えていたことを知り、絶望、虚無を感じていました。
「ああ、あなたたちの為にだけでも、私は生きていなければ、ならないのに、オフィリヤ、ゆるしておくれ。」という発言から、この時点で既に自死を意識していたと考えられます。
その後、疑惑を裏付けるかのようなポローニヤスとクローヂヤスの会話を聞いてしまい、いよいよクローヂヤスに騙されたことを確信したガーツルードは、自責の念に耐えかねて自死を選んだのでしょう。
表面的な口の悪さとは裏腹な愛情深さと行動力、王妃としての強い責任感など、ガーツルードは、偽善者·クローヂヤスと対照的な存在として描かれているのが分かります。
さらに「あなたは、これからは気を附けて生きて行くのですよ。」と声をかけているところから、若いオフィリヤへの警告者としての役割も担っていると言えます。
言葉に惑わされないオフィリヤ
次は、ガーツルードに思いを託されたオフィリヤについて見ていきたいと思います。
彼女はガーツルードと物語上の立ち位置が似ており、ハムレットと対比的に描かれた存在、かつハムレットに対する警告者と考えられます。
原作のオフィリヤは周囲の言葉に振り回される従順で不憫な少女として描かれていますが、本作のオフィリヤは父から「お前には、わしの駈引きが通じない。すぐ見破ってしまう。」と評されるほど、周囲の言葉に惑わされない強さを持っています。
原作と同じ悲劇を辿らなかったのは、彼女のこの強さと聡明さゆえでしょう。
彼女の存在は物語上、重要な役割を担っています。
彼女とハムレットが愛情の表現について議論する場面は、本作の主題に関わる重要な場面と言えるからです。
愛の言葉が欲しい、言葉のない愛情なんてない、と語るハムレットに対してオフィリヤは、愛情は言葉などなくとも存在するのだと強く主張します。
オフ。「(中略)ハムレットさま、しっかりなさいませ。愛の言葉が欲しい等と、女の子のような甘い事も、これからは、おっしゃらないようにして下さい。(中略)愛している人には、愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。黙っていても、いつかは、わかってくれるだろうという、つつましい誇りを持っているものです。それを、あなたは、そのわずかな誇りを踏み躙って、無理矢理、口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。(中略)それを無理にも叫ばせようとするのは残酷です。わがままです。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫,341頁
オフ。「(中略)もし愛情が、言葉以外に無いものだとしたなら、あたしは、愛情なんかつまらないものだと思います。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫,343頁
オフィリヤがこのように主張するのは、彼女が言葉を白々しいものと捉えているからです。
ハムレットとの議論の少し前、ガーツルードとの会話の中で下記のように述べています。
オフ。「王妃さま。心から、すみませんと思って居れば、なぜだか、その言葉が口から出ないものでございます。(中略)白々しい気がするのです。ずいぶんいけない事をしていながら、ただ、すみませんと一言だけ言って、それで許してもらおうなんて考えるのは、自分の罪をそんな意識していない図々しい人のするわざです。あたしにはとても出来ません。(中略)」
太宰治『新ハムレット』,新潮文庫,287頁
彼女の態度は、「大袈裟」「芝居くさい」と評されるハムレットとは対照的です。
オフィリヤはガーツルードを引き継ぐ形で、言葉や思い込みなどの表層だけで判断し、人を安易に信用したり懐疑したりしているハムレットに対して「しっかりなさいませ」と警告を与えているのです。
彼女のこの警告は、本作のメッセージを直接的に表現しているといっても良いでしょう。
弱者たるハムレット
クローヂヤスとの共通点
最後に、主人公ハムレットについて考察していきます。
本作のハムレットについて印象的なのは、クローヂヤスに反抗しつつも実はむしろ愛着や親近感すら抱いていることです。
実際、クローヂヤスの二面性や気の小ささはそのままハムレットにも当てはまると言えます。
例えば、ポローニヤスの前で「僕は、オフィリヤを愛しています。」と断言しておきながら、その直後「あれこれと刺戟を求めて歩いて、結局は、オフィリヤなどにひっかかり、そうして、それっきりだ」と嘆く場面など、偽善的な二面性があらわれています。
また、原作と比較すると、本作のハムレットは利己的で小心者と言えるでしょう。
例えば、有名な「to be, or not to be」という台詞の登場シーンが、正義を貫きクローヂヤスを討つべきか否か葛藤する場面から、オフィリヤとの婚姻について思い悩む場面に置き換わっているのです。
婚姻についてハムレットが葛藤しているのは、愛をとるか王子としての責任を取るか、といった大義的なものではなく、クローヂヤスとの気まずさから打ち明けるのを尻込みしているという、平凡な一青年のような悩みです。
王子としての責任感はほとんど感じられません。
さらにポローニヤスに責められて頬を殴ったかと思うと、すぐに「殴ったのは、僕の失態でした」「かっとしちゃったのです」と謝罪するような小物ぶりです。
自分をよく見せたい見栄っ張り、かつ責任感が希薄で小心者のハムレットは、クローヂヤスと性質がよく似ているのです。
偽善を見破れなかった失態
自白の前からすでにクローヂヤスの「うしろ暗さ」を疑っていたハムレットでしたが、その時点ではポローニヤスと結託していたなどと的外れな推測をしていることから、真実に辿り着いたとは言えないでしょう。
クローヂヤスの不審な挙動を見た際も「案外、これは、――」とこぼしていることから、それまでの疑いもさほど確信を持っていたわけではないと思われます。
つまり、ハムレットは最後までクローヂヤスの偽善を見破ることはできませんでした。
本作では先王殺しという決定的な悪事が実際には行われていない上、仇討ちを果たす場面も描かれていないことから、決して悪を裁くことが主題ではなかったと考えられます。
本作の主題は、すぐ近くに潜む偽善を見破れるかというところにあったのです。
その闘いに敗れたハムレットは自身に刃を向け、「悪を討つ」ことでなく「疑い続ける」ことを宣言しました。
「僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」という最後の台詞は、偽善という新たな悪に立ち向かうハムレットの決意を示したものだったと言えるでしょう。
感想
自意識と全体主義の風潮への抵抗
本作のハムレットは、その自意識の強さなど著者·太宰を想起させる部分が多々あります。
例えば、ハムレットが語る「僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。」という独白は、太宰の自伝小説とも言われる『人間失格』の「隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。」という一節を想起させます。
さらに、オフィリヤがハムレットの容姿について語る場面がありますが、そこには「お鼻が長過ぎます」「お歯も、ひどく悪い」「ひどい猫脊」など太宰自身にも当てはまるような特徴がいくつか記述されているのです。
太宰が意図してハムレットに自身を重ねているのは明らかでしょう。
クローヂヤスの自白を聞いたハムレットは、振り上げた短剣で自らの頬を切りつけました。
これは「敵を刺すことのできない気の小ささ」だけを表したものではないように思います。
彼の怒りの矛先は、偽善を見破れなかった愚かな自分に向いていたのです。
さらに言えば、似た性質を持ったクローヂヤスを鏡のような存在として見ていた彼は、同じ「うしろ暗さ」を抱えた自分にもまた「裏切者」たる何かを見出していたのではないでしょうか。
執筆時の1941年の春は、太平洋戦争開戦の前夜であり全体主義の風潮が高まっていた時期と言えるでしょう。
正直に声をあげることには危険があり、「国家として」「国民として」といった体裁にしたがわねばならない圧力が、生活にも迫ってきていたのではないでしょうか。
「はしがき」では、本作について「学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。」とあえて言及されていますが、体裁と内実とをことさら切り離さなくてはいけない時代であったことは間違いありません。
こうした時代の空気感も、偽善を糾弾する『新ハムレット』という物語を構成した要素の一つであるように思われます。
本作には、ある種の「うしろ暗さ」を持つ自分がクローヂヤスと同じ悪に落ちることがないように、そして、完璧な偽善者にこそ騙されないように、そんな自戒の意味が込められているように感じます。
同時に、全体主義が叫ばれ体裁と内実が乖離していく社会において、決して表層に騙されてはならない、という人々への警告だったのかもしれません。
以上、『新ハムレット』のあらすじ、考察と感想でした。