『清貧譚』紹介
『清貧譚』は太宰治著の短編小説で、1941年1月号の雑誌『新潮』に掲載されました。
本作は、中国·清の時代の怪異短編集『聊齋志異』の中の「黄英」という作品を翻案したものです。
原作から大筋は改変されていないものの、細部の描写には太宰なりの工夫が多く見られます。
ここでは、『清貧譚』のあらすじ·解説·感想までをまとめました。
『清貧譚』あらすじ
菊を愛し、清貧を重んじる馬山才之助は、旅の帰路、菊に詳しい少年·陶本三郎とその姉·黄英に出逢い、二人を家に招きます。
三郎は枯れかけた菊をも蘇らせる不思議な力を持っており、自分が作った菊で生計を立てるよう申し出ますが、才之助は菊への凌辱だと怒り、畑の半分を貸すのと引き換えに絶交を言い渡しました。
秋、見事な菊畑を見た才之助は負けを認め三郎に弟子入りしますが、菊作りの秘密は教えてもらえません。
菊を売ることで豊かになっていく陶本家が気に食わない才之助でしたが、そんな折、三郎からの申し入れによって黄英をめとることとなりました。
黄英が裕福な陶本家から家財を運び入れるのに対し、自らの清貧を滅茶滅茶にされた、と愚痴をこぼした才之助は庭の小屋に移り住むものの、寒さに耐えかね三日で家へ戻ることとなります。
才之助は自らの狷介を深く恥じ、それからは一切を姉弟に任せるようになりました。
翌春、花見で酔い潰れた三郎が菊の姿に戻ってしまい、才之助はそこで初めて姉弟が菊の精であることを知ります。
三郎の菊は庭に植え替えられ、秋に花開き、嗅ぐと酒の匂いがしました。
黄英はというと、その後も人間の姿のままでした。
『清貧譚』概要
主人公 | 馬山才之助 |
重要人物 | 陶本三郎、陶本黄英 |
主な舞台 | 江戸、向島あたり |
時代背景 | 江戸時代 |
作者 | 太宰治 |
『清貧譚』解説(考察)
本作の原作にあたる『聊齋志異』「黄英」は、中国に古来から伝わる伝承を基にした短編です。
田中貢太郎訳の『聊齋志異』が太宰の妻·美知子の愛読書であったとされており、太宰もこの田中貢太郎訳を原作として翻案したものと思われます。
聊齋志異話の大筋は変わらないものの、原作からカットされたエピソードもあれば加筆が加えられた箇所もあり、太宰が単なる和風アレンジではなく何らかの意義を持ってこの作品の翻案に臨んだことが分かります。
本作では、原作の「黄英」から怪異譚としての要素をなるべく削り取り、才之助の変化という側面により焦点を当てて描かれています。
彼の「清貧」に対する異様なまでの執着とそこからの解放という結末に、太宰はこの物語の意義を見出していたのです。
ここでは、原作との相違点を丁寧に見ていきつつ、本作で太宰が描きたかったテーマに迫っていきたいと思います。
人間味あふれる人物描写
まずは、人物描写における原作との差異を見ていきたいと思います。
才之助をはじめとした登場人物は原作に比べ、より人間味あふれる描き方をされていると感じます。
例えば、本作において才之助と三郎は頻繁に言い争いをしています。
冒頭の出会いの場面では、才之助が三郎にひどく嫉妬し、身悶えしている様子が描かれます。
(前略)少年は、あらはに反対はしなかったが、でも、時々さしはさむ簡単な疑問の呟きの底には、並々ならぬ深い経験が感取せられるので、才之助は、躍起になって言えば言うほど、自信を失い、はては泣き声になり、
「もう、私は何も言いません。理論なんて、ばからしいですよ。実際、私の家の菊の苗を、お見せするより他はありません。」
「それは、そうです。」少年は落ちついて首肯いた。才之助は、やり切れない思いである。何とかして、この少年に、自分の庭の菊を見せてやって、あっと言わせてやりたく、むずむず身悶えしていた。太宰治『お伽草紙』(清貧譚),新潮文庫,36-37頁
原作では菊を通じて意気投合したため自宅へ招く、というごく自然な展開ですが、本作では三郎に嫉妬した才之助がなんとしても自慢の菊を見せてやりたいと意地になって、強引に自宅へ招くという展開になっています。
一人むきになって断られても食い下がる才之助の強情さは、読者をも閉口させてしまうほどの勢いです。
才之助はこのほかにも、畑の境界に高い生垣を作ってみせたり、自分から別居を言い出したり、原作にもまして意固地な性格が強調されていることが分かります。
さらに、家へ招かれた翌朝にも、才之助と三郎が言い争う場面があります。
姉弟の馬が逃げて、才之助の菊畑を荒らしてしまったのです。
「どうなさいました。何か御用ですか。」
「見て下さい。あなたたちの痩馬が、私の畑を滅茶滅茶にしてしまいました。私は、死にたいくらいです。」
「なるほど。」少年は、落ちついていた。「それで? 馬は、どうしました。」
「馬なんか、どうだっていい。逃げちゃったんでしょう。」
「それは惜しい。」
「何を、おっしゃる。あんな痩馬。」
「痩馬とは、ひどい。あれは、利巧な馬です。すぐ様さがしに行って来ましょう。こんな菊畑なんか、どうでもいい。」
「なんですって?」才之助は、蒼くなって叫んだ。「君は、私の菊畑を侮蔑するのですか?」太宰治『お伽草紙』(清貧譚),新潮文庫,40頁
ここで三郎は「こんな菊畑なんか」などと挑発するような物言いをして、やや苛立ちをのぞかせています。
このほかにも、清貧について議論する場面では「三郎も、むっとした様子で」「三郎は、大いに閉口の様子である」という描写が加えられていたり、菊作りについて口喧嘩になった際「あなたは、どうして、そうなんでしょう」と才之助にうんざりした様子が描かれていたりします。
もともと原作の三郎は、常に穏やかで余裕のある人物として描かれていました。
この「馬が菊畑を荒らし言い争う」という展開も原作にはなく、むしろ「陶(=三郎のモデル)はよろこんでそこにおって、毎日北の庭へきて馬(=才之助のモデル)のために菊の手入れをした」と描かれています。
三郎の人物像が仏のような好青年から、やや短気で平凡な青年へと変更されていることがわかります。
さらに黄英についても、才之助の家に招かれた際は「顔を赤くし」ていたり、「清貧がけがされた」と嘆く才之助に対しては「流石に淋しさうな顔」や「泣声」になっていたり、才之助の言葉に一喜一憂する様子が描かれています。
どちらの場面も、原作では余裕ありげに微笑んでいるのみで心情が読み取れる描写はありません。
黄英もまた、感情の浮き沈みをしっかり描写することで人間味あふれる人物像に変更されているのです。
なぜ太宰は、このように人間味を際立たせるような描写を加えたのか?
それは怪異譚としての「黄英」を、人間ドラマへ昇華しようとしていたからと考えられます。
太宰は、三郎と黄英を「菊の精」ではなく「一人の人間」として描こうとしたのです。
才之助の頑強さを強調したのは、ラストにおける彼の変化を物語の主軸としたためでしょう。
実際、清貧を貫けなかった才之助へ黄英が皮肉をいう場面では、原作の「馬もまた自分で笑って返事ができなかった。」という一節を「才之助は、深く恥じた。」と改めています。
才之助のこの深い反省こそ、本作の核となる部分だったのではないでしょうか。
怪異譚から人間ドラマへの改変
こうした意図は人物描写だけでなく、ストーリー展開の改変にも表れています。
次は、原作における怪異譚の要素に着目しつつ、展開の相違点について見ていきたいと思います。
原作において怪異譚としての側面を強めているのは、「黄英との結婚」「三郎の死」の二場面でしょう。
それぞれ、原作と本作の展開を比較していきます。
1.黄英との結婚に至る経緯
原作「黄英」 | 『清貧譚』 |
酒の席で、馬が黄英に「なぜ結婚しないのですか」と問うと、「四十三箇月の後です」との返答。 ↓ 三郎が出稼ぎで留守の間、馬の細君の呂が病死。 ↓ 三郎から手紙で、黄英との縁談の申し入れがある。 ↓ 手紙が送られた日は細君の命日であり、宴会の日から四十三箇月目だった。 ↓ 黄英は入婿にしようとしたが、馬はそれを聞かず黄英を自分の家へ迎えた。 |
ある日、唐突に、三郎から「姉と結婚してください」との申し出。 ↓ 才之助「入り婿は、まっぴらです。」「清貧が、いやでなかったら、いらっしゃい」と返答。 ↓ 黄英「清貧は、いやじゃないわ。」と受け入れる。 |
原作では馬に呂という細君がいたことになっていますが、彼女について詳細は描かれていません。
彼女の存在は、「四十三箇月の後です」という予言の伏線として描かれたものだったのでしょう。
呂の死を通して姉弟の予知能力を描くことで、彼らが神秘的な存在であることを暗示していたのです。
本作でこの部分が丸ごとカットされたのは、怪異譚の要素をなるべく削ろうとしたためと考えられます。
2.三郎が死に至る経緯
原作「黄英」 | 『清貧譚』 |
馬の友人·曾が酒豪であるため、三郎と飲み比べをさせる ↓ 泥酔した三郎は菊畑のところで菊の姿になってしまい、馬は初めて姉弟が菊の精であることを知る ↓ 朝になると三郎は元の人間の姿に戻っていた ↓ いつものように曾と飲んで菊になってしまった三郎は、そのまま萎れてしまう |
一家三人で花見に出かけ、才之助が三郎に酒をすすめる ↓ 黄英は、飲んではいけないと目で促す ↓ 三郎「姉さん、もう私は酒を飲んでもいいのだよ」「菊を作るのにも、厭きちゃった」 ↓ 酔い潰れた三郎のからだは溶けて、煙となり、着物の下の土に菊の苗が一本生えていた |
馬の友人·曾の削除、「菊の精」発覚からラストまでの展開の省略と、大幅に改変が見られます。
これは物語上の三郎の役割の違いによるものと考えられるでしょう。
原作は「菊の精」として三郎にもスポットを当てていますが、本作における三郎はあくまで脇役なのです。
原作では、三郎が順天に戻ってからの生活や菊に戻ってしまうまでの展開が細かく描かれています。
馬と黄英が和解した後の後半部は、ほとんど三郎を主役とした「菊の精」の物語なのです。
故郷である金陵での結婚を考えていたり、順天へ戻ってから女中と子をもうけていたり、人間としての生活に前向きな描写も多々ある中で、三郎は不慮の事故によって完全に菊に戻ってしまいます。
これは「菊の精」の悲しい最期を描いた美しいラストシーンとして読むことができるでしょう。
しかし、本作における三郎は徹底して脇役として扱われています。
構造的に読むと、彼は黄英が才之助に惹かれていることを示すための装置であり、二人の生活がうまくいった時点で既にその役割を終えているのです。
そのため、三郎を主役としたエピソードは削られ、ラストシーンも自ら望んで菊に戻るという清々しい結末で描かれました。
太宰は『清貧譚』に必要な要素を徹底的に取捨選択し、物語の重要なラストシーンを変更してまで自身の描きたいテーマを貫いたのです。
「白い柔い蝶」が意味するもの
最後に、本作を通じて太宰が描きたかったテーマとは何か、読み解いていきたいと思います。
本作の主軸となる才之助の変化とは、いうまでもなく「清貧」への執着からの解放でしょう。
タイトルや展開からも明らかですが、一つ印象的なモチーフがありますので、こちらを最後に紹介していきたいと思います。
それは、黄英の嫁入り前の描写にある「白い柔い蝶」です。
(前略)「けれども、入り婿は、男子として最も恥ずべき事です。お断り致します。帰って姉さんに、そう言いなさい。清貧が、いやでなかったら、いらっしゃい、と。」
喧嘩わかれになってしまった。けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗って白い柔い蝶が忍び入った。
「清貧は、いやじゃないわ。」と言って、くつくつ笑った。娘の名は、黄英といった。太宰治『お伽草紙』(清貧譚),新潮文庫,48頁
実際に黄英が蝶となって現れたのか比喩なのかは不明ですが、これが黄英を表しているのは間違いないでしょう。
太宰はなぜ唐突に、原作にない蝶というモチーフを挿入したのか?
卵→幼虫→蛹→成虫と、大きくその形態を変化させながら成長することを「完全変態」と言います。
蝶は、この「完全変態」のプロセスを辿ることから、変化や成長の象徴として用いられてきた生き物です。
また羽を広げて舞う姿から、自由と開放の象徴として描かれることも多くあります。
この「白い柔い蝶」は、黄英が才之助の偏った「清貧」への執着を断ち切ることの伏線として描かれたのでしょう。
この大事な場面に印象的なモチーフを取り入れたところからも、太宰がこの「執着からの解放」を物語の主軸としていたことが読み取れます。
『清貧譚』感想
生活のための「菊」と「小説」
太宰はこの時期、「清貧」ということについてよく考えていました。
例えば、本作の前年に発表された『きりぎりす』にも「清貧」という言葉が登場しているのです。
(前略)私たちは清貧ではございません。貯金帳を、ごらんにいれましょうか。あなたは、この家に引越して来てからは、まるで人が変ったように、お金の事を口になさるようになりました。(中略)なんでそんなに、お金にこだわることがあるのでしょう。いい画さえ描いて居れば、暮しのほうは、自然に、どうにかなって行くものと私には思われます。いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います。
太宰治『きりぎりす』,新潮文庫,187頁
『きりぎりす』では絵が売れるようになってからというもの、金に執着するようになった画家の夫への非難が妻の視点から描かれています。
「貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません」とあり、妻は「清貧」を美徳として扱っています。
「清貧」への執着を醜く描いた『清貧譚』とは対照的な印象も受けますが、最後には「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、」という一節もあります。
太宰は、この清貧と現実との葛藤に頭を悩ませていたのでしょう。
実際、同時期に執筆された『乞食学生』『東京八景』の二作品には次のような描写があります。
一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになっていない筈である。(中略)ままになる事なら、その下手くその作品を破り捨て、飄然どこか山の中にでも雲隠れしたいものだ、と思うのである。けれども、小心卑屈の私には、それが出来ない。(中略)編輯者は、私のこんな下手な作品に対しても、わざわざペエジを空けて置いて、今か今かと、その到来を待ってくれているのである。(後略)
太宰治『新ハムレット』(乞食学生),新潮文庫,104-105頁
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。(中略)私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」(後略)
太宰治『走れメロス』(東京八景),新潮文庫,213-214頁
「下手な作品」でも「この世の中に生きてゆく義務として」原稿を送らねばならない苦悩と、「以前にまさる苦しさは在っても」「この家一つは何とかして守って行く」という覚悟が綴られています。
家庭を持つ身として、文筆の意義が自己表現から生活の糧を得ることへ転換していった時期だったのでしょう。
芸術と生活のはざまで苦しみながらも、太宰は筆を止めることなく作品を描き続けました。
だからこそ、「人はかりそめに富を求めてはならないですが、しかし、また務めて貧を求めなければならないこともないでしょう」という「黄英」の一節に、心を救われたのではないでしょうか。
本作中で三郎が語る「天から貰った自分の実力で米塩の資を得る事は、必ずしも富をむさぼる悪業では無いと思います。」という言葉は、太宰が自分自身に贈りたかった言葉だったのかもしれません。
以上、『清貧譚』のあらすじ、考察と感想でした。