『最後の一句』の紹介
『最後の一句』は、1915年(大正4年)10月、『中央公論』に発表された森鷗外の短編小説です。
江戸時代後期の文人・太田南畝の『一話一言』を原拠として、鷗外による〈歴史離れ〉の脚色が加えられた作品として知られています。
ここでは、そんな『最後の一句』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『最後の一句』—あらすじ
元文三年、大阪で、船乗り業桂屋太郎兵衛を斬罪に処すとの達しがありました。
船主の太郎兵衛は、新七という男を船長に任じて運送業を営んでいましたが、新七の不正が原因で二年前に入牢し、ついに死罪が決まったのでした。
太郎兵衛には妻と五人の子供がいました。
太郎兵衛が死罪になることを知った長女・いちは、自身と兄弟を身代わりに、父の命を助けてほしいという旨の願書を大阪西町奉行・佐佐又四郎成意に提出します。
子供らしからぬよくできた書付の内容に、大人が書かせたのではないかと怪しんだ佐佐は、太郎兵衛の妻と五人の子供を呼び寄せ、尋問します。
「身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもいいか」と問われたいちは、「よろしゅうございます」と冷ややかに答えます。
そして、少しの間をおいて、「お上の事には間違いはございますまいから」と言い足しました。
いちの最後の一句に潜む反抗の鋒は、その場にいた役人一同の胸を刺しました。
その後、太郎兵衛の刑は、大嘗会執行による恩赦で、大阪からの追放処分に減免され、家族は太郎兵衛と会って別れを告げることができました。
『最後の一句』—概要
物語の主人公 | いち:桂屋太郎兵衛の長女。十六歳。 |
物語の重要人物 | 桂屋太郎兵衛:大阪で船乗り業を営む。 佐佐又四郎成意:大阪西町奉行。 |
主な舞台 | 大阪 |
時代背景 | 江戸中期 元文三年(1738年) |
作者 | 森鷗外 |
『最後の一句』―解説(考察)
太郎兵衛の刑の減免に至るまで【用語解説】
『最後の一句』結末では、太郎兵衛の死罪は回避されます。
父の命を助けてほしいという長女・いちの願いは叶ったことになりますが、これはあくまで結果論にすぎません。
すなわち、
✖ いちの願いが聞き届けられて、太郎兵衛の死罪はなくなった
◯ 恩赦による刑の減免で、太郎兵衛の死罪はなくなり、結果的にいちの願いが叶った
ということになります。
太郎兵衛の刑の減免に至る経緯を、作中に登場する語の意味と合わせて整理していきたいと思います。
〈太郎兵衛の刑の減免に至る経緯〉 |
いちが、父の助命を請うて、大坂西町奉行に申し立てを行う |
申し立てを受け、尋問の場に列座した大坂西町奉行らは、当時の行政司法の自然な流れとして、太郎兵衛の刑の執行を「江戸へ伺中日延」とする |
刑の執行が保留となっている間に、元文三年十一月十九日に挙行された桜町天皇の大嘗会に合わせた恩赦が決定 |
「大坂町奉行」
「大坂町奉行」とは、
を指します。
尋問に列座した大坂西町奉行らは、拷問を仄めかされても動揺を見せず、しまいに強烈な一言を放ったいちに驚愕するものの、同情はしていません。
太郎兵衛の刑の執行保留は、同情によるものではなく、当時の行政司法の在り方として、そうするより他に選択肢がなかったからです。
というのも、当時、幕府町奉行には死罪などの重い刑罰を出す権限はなく、重追放以上の重い刑罰(例:遠島や死罪など)は、町奉行より更に上の役職に当たる「老中」に上申し、採決を待つ必要がありました。
(ですから、時代劇などに見る、自ら潜入捜査をして悪人をあぶり出し、白州で「打ち首獄門!」などと言い渡す町奉行は、実際にはあり得ないトンデモ奉行ということになります)
インターネット上で、『最後の一句』解説等を検索してみると、自らの判断に責任を負いたくない奉行が、とりあえず上の判断を仰いでみた、というような解釈が見られました。
時代考証を踏まえてみると、このような解釈は、誤りを含んでいると思われます。
「大嘗会」
江戸の採決を待っている間に、「大嘗会」に合わせた恩赦が決定し、太郎兵衛の刑の減免が行われました。
「大嘗会」とは、
のことで、天皇一代に一度だけ行われる大祭です。
「新嘗祭」は、天皇がその年に収穫された新穀を神に奉り、秋の収穫への感謝を捧げ、来年の豊穣を願う宮中行事です。
大嘗会は大嘗祭とも呼ばれ、最新の例では、平成から令和への改元に伴い、2019年に営まれています。
ちなみに、現代では11月23日が勤労感謝の日として国民の祝日に制定されていますが、元来11月23日は新嘗祭が営まれる日として、休日に制定されていました。
戦後、GHQ主導で様々な占領改革が行われ、その一環として、日本国民の皇室敬愛の念を薄める必要があるとされ、宮中行事と国民行事が切り離され、改称して生まれたのが「勤労感謝の日」です。
さて、作中の「大嘗会」に話を戻しますと、太郎兵衛を斬罪に処するとの立札が立つ直前、元文三年(1738年)十一月十九日に、桜町天皇(第百十五代天皇)の大嘗会が挙行されています。
大嘗会は、室町時代の後土御門天皇即位に伴う挙行の後、長く中断が続いていましたが、1687年、桜町天皇の祖父・東山天皇(第百十三代天皇)が約200年ぶりに復活させました。
中御門天皇(第百十四代天皇)の時、大嘗会は再び中絶しましたが、桜町天皇が再興し、この後は定例行事となりました。
「恩赦」
作中では、桜町天皇が挙行した大嘗会に合わせた恩赦で、太郎兵衛の刑が減免されています。
ここでの「恩赦」とは、
を指します。
近代国家になり、律令制は完全に廃止されましたが、行政権による司法権への介入という形で恩赦法が制定され、刑罰の軽減を行う恩赦の制度は今も機能しています。
最新の例では、2019年の今上天皇の即位に合わせて、即位恩赦が実施されています。
と言っても、2019年の即位恩赦では、過去に交通事件などの罰金刑を受けて資格を制限された人々の復権が大半を占めています。
恩赦で減刑になった死刑囚で見れば、1975年に恩赦が確定した、福岡事件(1947年発生)の実行犯の例が最新です。
律令制における恩赦は、罪を犯した人やその家族の申し出によって実施されるのではなく、皇室や国家の慶事などに合わせて実施されたので、『最後の一句』の太郎兵衛はタイミングがよかっただけ、と言えるでしょう。
『最後の一句』では、その時に偶々、慶事が挙行されており、それに合わせた恩赦も実施されたことで、結果的にいちの願いが叶いました。
町奉行らが子供たちに同情して、その願いを叶えてあげたというハートフル物語ではありません。
『最後の一句』に関わらず、歴史小説というものは、その時代の知識を深めることで、話の筋の理解がぐっと進みますので、その他のジャンルの小説とは異なる独特の読み応えを感じます。
『最後の一句』主題について
『最後の一句』の主題をどのように捉えるべきか。
いくつか考えられると思いますが、
と私は考えます。
さて、これを解説するにあたり、『最後の一句』の原作と言われている、太田南畝の随筆『一話一言』に注目したいと思います。
※太田南畝(1749ー1823)
江戸時代後期、天明期の文人・狂歌師。
幕臣でありながら、狂歌(=短歌の一種。滑稽な内容を詠む)・狂詩・狂文・随筆・漢詩文・洒落本など、多方面で文名をあげた。
特に、狂歌で知られ、天明調狂歌の基礎を作った。
※『一話一言』
太田南畝の随筆。読みは「いちわいちげん」。五六巻。
1775年頃から1822年頃の、約50年間に渡って書き留められたもの。
風俗・歴史・流行・事件・天災など、内容は多岐に渡る。
巻十に掲載の「元文三午年大坂堀江橋近辺かつらや太郎兵衛事」が、『最後の一句』の原作と言われている。
『一話一言』と大筋の部分では一致しており、太郎兵衛が大嘗会の恩赦で死罪を免れるという結末も一緒なのですが、肝心のいちの最後の一句「お上の事には…」は、鷗外の完全なる創作です。
白洲にはせめとはるべき道具をかざり、さらばきらんず有さまにて、其前にかしこまらせ、被仰出には、汝等が願ひ無益の事也、身代りに立んといふも今一度父に逢ん為なるべし、願ひの如くになりても先汝等を殺して後に父を免すべきなれば、逢ひ見ん事あるべからず、さもあれば父殺されてあひ見ぬ事もかはる事なしとのたまへば、姉畏りて申やう、其事もとく存じ奉り候、父の命さへ御免し被下候はゞ、逢見ぬ事もいさゝか恨み奉らじと申上る。さあらばかゝる苦しみかゝる責ありと数々いひ聞かするに、たとへいかやうの苦しみなりとも受候べしと少しも滞りなく申上る処、また此願ひに母を除きたるはいかにとあれば、我々命失はんと思ひ立つ子供に、いかにも死ねと申す母や候べき、それ故知らせ不申参り候といふ。
日本随筆大成編輯部,『日本随筆大成 別巻2』,大田南畝 一話一言2(巻九~巻十六)吉川弘文館,1978,94頁
町奉行といちのやりとりは上記引用部分の限りで、この後に妹や弟が順番に尋問され、「又こそ召出されめとて其日は帰されたり。」と、町奉行とのバトルはあっさり終了します。
『最後の一句』では、「お上の事には…」の言葉そのものだけでなく、「言い放った」「冷ややかな調子で」など、表現の端々で、いちの反抗心の強さ、あるいは権威に対する侮蔑のようなものが透けて見られます。
しかし、このような反抗心を痛烈に印象づける表現は、原作『一話一言』の「元文三午年大坂堀江橋近辺かつらや太郎兵衛事」では丸ごと存在していません。
『最後の一句』では、「マルチリウム」(=ラテン語で殉教、献身を意味する)という洋語が示されます。
しかし、マルチリウムが主題ということであれば、むしろ原作のまま手を加えない方が自然です。
鷗外が手を加えた部分だけを見ても、『最後の一句』のテーマが、権威への批判に重きを置いていることは明白でしょう。
鷗外は、『最後の一句』発表の翌年、『高瀬舟』という短篇小説を発表しています。
『高瀬舟』では、「オオトリテエ」(=「authority」の音写。権威を意味する)という洋語が示され、権威批判とも読み取れるような内容が見られます。
権威に対する鷗外の考え方は、『最後の一句』に完結せず、『高瀬舟』へと繋がって読者に示されているとも言えるでしょう。
『最後の一句』―感想
「森鷗外」が『最後の一句』を執筆した理由
森鷗外は、肩書きの多い人物で、作家としての顔の他に、陸軍軍医としての顔がありました。
『最後の一句』発表の翌年、1916年(大正5年)、鷗外は54歳で陸軍を退職しました。
退職までの約8年間は、人事権を有する軍医のトップにあたる、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長の役職に就いていました。
陸軍省と言えば、当時の日本の中央官庁の一つ。
つまり、鷗外は官僚、ゴリゴリのエリート様です。
体制側、言わば権威を持つ側の人間であった鷗外が、権威批判とも読める作品を執筆した理由。
これについては、鷗外の人生や考え方の変遷をより深く掘り下げていく必要があり、明確な答えは分かりません。
ただ、権威の側にいたからこそ、思うところや見えてくる部分があったのだろうとは、容易に想像できます。
ところで、「お上」という言葉の意味を検索してみると、朝廷や幕府、政府など政治を執り行う機関だと表示されます。
昨今、ニュースを開けば、内閣支持率の過去最低記録更新、与党の汚職疑惑の数々…。
さて、もしも鷗外が現代に生きていたとしたら、現代の「お上」に対して、どのような一言を突きつけていたでしょうか。
「お上の事には間違いはございますまいから」
こうした皮肉が胸に刺さる「お上」が、存在していればまだいいものですが。
以上、森鷗外『最後の一句』のあらすじ・解説・感想でした。