太宰治『女の決闘』あらすじ!原作との違いとは?

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太宰治『女の決闘』あらすじ!原作との違いとは?

『女の決闘』紹介

『女の決闘』は太宰治著の小説で、1940年『月刊文章』に掲載されました。

本作は『鴎外全集』に収録された十九世紀、ドイツの作家·ヘルベルト·オイレンベルグの『女の決闘』という短編を、作者(太宰)が作中で注釈を加えつつ改変してゆくという珍しい構成の小説です。

鴎外の訳文がそのまま全文採用され、その途中に太宰の注釈と追加描写が差し込まれています。

ここでは、『女の決闘』のあらすじ·解説·感想までをまとめました。

『女の決闘』あらすじ

鴎外全集を手にした作者(太宰)が、これから十九世紀のドイツの作家·ヘルベルト·オイレンベルグの「女の決闘」という小説を読んでいきます、と語りはじめます。

小説は、とある女学生が交際中の男の女房から決闘を申し込まれる場面から始まります。

拳銃による決闘は、射撃経験者の女学生が初心者の女房に撃たれる結果となりました。

復讐を果たした喜びも束の間、女房は罪を背負ってしまったことの絶望に打ちひしがれ、やがて檻房の中で絶食によって自死を遂げます。

遺書はなかったものの牧師宛の手紙が残されており、そこには、自分の恋愛を傷つけられたからには女学生の手で殺され、公然と相手を奪われたかったのだと記されていました。

太宰はこの小説について描写の冷淡さを指摘し、原作者は女房の亭主その人ではないかという突飛な仮説を立てます。

そこで原作に加筆して新たに、気の強い女学生の独白や、決闘を前にしながらただ傍観するだけの下衆で情けない亭主(原作者)の独白を随所に差し込みました。

女房の強かさに畏怖する亭主の独白と最期を描き、そこで小説を締めた太宰は最後に、この小説が原作よりも身近に生臭く共感してもらえたら、試みは成功だと記すのでした。

『女の決闘』概要

主人公 私(太宰)
重要人物 女学生、女房(コンスタンチェ)、亭主(ヘルベルト·オイレンベルグ)
主な舞台 不明
時代背景 1940年ごろ(作中作:19世紀)
作者 太宰治

『女の決闘』解説(考察)

本作はヘルベルト·オイレンベルグ著『女の決闘』の改変小説ですが、原作をそのまま採用した上で加筆する形式や、作中に注釈が差し込まれる構成が珍しい作品です。

たいてい改変では原作に敬意を表するものですが、本作では「構成の投げやりな点」を指摘し、さらには原作者自身が不貞の亭主ではないかという邪推をもとに物語を展開します。

太宰自身も「人の作品を踏台にして、そうして何やら作者の人柄に傷つけるようなスキャンダルまで捏造した罪は、決して軽くはありません」と記している通り、たちの悪い改変です。

注釈など入れず原作への批判は秘めたままオマージュすれば良いところを、なぜわざわざ、このような悪どい手法を用いたのでしょうか。

それは、本作が芸術論の表明のために書かれたからではないかと思われます。

「二十世紀の写実」を目指して

まずは具体的にどのような加筆が加えられているのか見ていきたいと思います。

一つ目は、視点の追加です。

原作は女房のコンスタンチェ視点のみで語られますが、本作では女学生と亭主の視点を加えています。

これについて、太宰は下記のように言及しています。

(前略)私は、その亭主を、(乱暴な企てでありますが、)仮にこの小品の作者御自身と無理矢理きめてしまって、いわば女房コンスタンチェの私は唯一の味方になり、原作者が女房コンスタンチェを、このように無残に冷たく描写している、その復讐として、若輩ちから及ばぬながら、次回より能う限り意地わるい描写を、やってみるつもりなのであります。(後略)

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 52

この後の加筆部では、女学生をひどく薄情な気のつよい娘として描いたり、亭主を言い逃ればかりの情けない人物として描いたり、「意地わるい」感じは非常にわかりやすく演出されています。

加えて、「汗ばんだ上衣」「特徴ある犬歯がにゅっと出た」「芋の煮付が上手でね」など生々しさや湿っぽさを感じさせる描写が連なっており、これは原作者の「冷淡さ」「そっけなさ」に対抗した工夫のように思われます。

そうして加筆部の直後、太宰は下記のような注釈を記しています。

 おそろしく不器用で、赤面しながら、とにかく私が、女学生と亭主の側からも、少し書いてみました。甚だ概念的で、また甘ったるく、原作者オイレンベルグ氏の緊密なる写実を汚すこと、おびただしいものであることは私も承知して居ります。けれども、原作は前回の結尾からすぐに、『この森の直ぐ背後で、女房は突然立ち留まった。云々。』となっているのでありますが、その間に私の下手な蛇足を挿入すると、またこの「女の決闘」という小説も、全く別な二十世紀の生々しさが出るのではないかと思い、実に大まかな通俗の言葉ばかり大胆に採用して、書いてみたわけであります。二十世紀の写実とは、あるいは概念の肉化にあるのかも知れませんし、一概に、甘い大げさな形容詞を排斥するのも当るまいと思います。人は世俗の借金で自殺することもあれば、また概念の無形の恐怖から自殺することだってあるのです。決闘の次第は次回で述べます。

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 64-65

太宰は「冷淡な」原作に対抗して「全く別な二十世紀の生々しさ」を目指していたのです。

この「二十世紀の写実とは、あるいは概念の肉化にある」という考えが現れた場面があります。

それは、女房の遺書を写実した後の亭主の独白の場面です。

(前略)女は玩具、アスパラガス、花園、そんな安易なものでは無かった。この愚直の強さは、かえって神と同列だ。人間でない部分が在る、と彼は、真実、驚倒した。(中略)私はこの短篇小説に於いて、女の実体を、あやまち無く活写しようと努めたが、もう止そう。まんまと私は、失敗した。女の実体は、小説にならぬ。書いては、いけないものなのだ。いや、書くに忍びぬものが在る。止そう。この小説は、失敗だ。女というものが、こんなにも愚かな、盲目の、それゆえに半狂乱の、あわれな生き物だとは知らなかった。まるっきり違うものだ。女は、みんな、――いや、言うまい。ああ、真実とは、なんて興覚めなものだろう。(後略)

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 95-97

亭主は、愚直な女の強さは神と同列だと語り、「書いては、いけないものなのだ」と写実を断念してしまいます。

原作においても「わたくしは十字架に釘付けにせられたように」など女房を神に重ねる描写は見られますが、なぜ本作では写実に失敗してしまったのでしょうか。

それは「二十世紀の写実とは、あるいは概念の肉化にある」からです。

どちらも女房に対し神という言葉が用いられているものの、その実態は異なっています。

原作は神聖さを演出するものですが、本作ではその裏にある盲目的な強さ、暴力的ともいえる生々しさが強調されています。

事実をそのまま写実した「冷淡な」描写ではなく、「概念の肉化」を試みたことでその裏にある愚直さに気付かされ、亭主はそれに戦慄したのでした。

この場面では「二十世紀の写実」に生じる、人間の本性に迫ることへの恐怖が描かれているのです。

このように、本作では二つの視点を加えたことによって、女房の自死という結末に生々しさが加わり、女房、ひいては女性の清さの裏にある獰猛さを描き出すことに成功しているのです。

「愚かな思念の実証」という試み

では、「二十世紀の写実」を実現することで太宰が目指していたものとは何なのでしょうか。

それは冒頭の注釈部から読み取ることができます。

 諸君は、いま私と一緒に、鴎外全集を読むのであるが、ちっとも固くなる必要は無い。だいいち私が、諸君よりもなお数段劣る無学者である。書見など、いたしたことの無い男である。いつも寝ころんで読み散らしている、甚だ態度が悪い。だから、諸君もそのまま、寝ころんだままで、私と一緒に読むがよい。端坐されては困るのである。

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 36

太宰は「世の学問というものを軽蔑」しており、鴎外を難解と思わせているのは学術的な文学にとらわれた「あさましい無学者」だと痛烈に批判しています。

彼は寝転んで読むような面白い小説をこそ目指していたのです。

そして、その面白さこそ『女の決闘』に足りないと考えていたものでした。

(前略)目前の事実に対して、あまりにも的確の描写は、読むものにとっては、かえって、いやなものであります。殺人、あるいはもっとけがらわしい犯罪が起り、其の現場の見取図が新聞に出ることがありますけれど、奥の六畳間のまんなかに、その殺された婦人の形が、てるてる坊主の姿で小さく描かれて在ることがあります。ご存じでしょう? あれは、実にいやなものであります。やめてもらいたい、と言いたくなるほどであります。あのような赤裸々が、この小説の描写の、どこかに感じられませんか。この小説の描写は、はッと思うくらいに的確であります。(後略)

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 48

この「的確の描写」を一流と認めつつも、太宰はこれを「いやなもの」と捉えています。

その理由は終盤に述べられています。

(前略)それに、この原作は、第二回に於いて、くわしく申して置きましたように、原作者の肉体疲労のせいか、たいへん投げやりの点が多く、単に素材をほうり出したという感じで、私の考えている「小説」というものとは、甚だ遠いのであります。もっとも、このごろ日本でも、素材そのままの作品が、「小説」として大いに流行している様子でありますが、私は時たま、そんな作品を読み、いつも、ああ惜しい、と思うのであります。口はばったい言い方でありますが、私に、こんな素材を与えたら、いい小説が書けるのに、と思う事があります。素材は、小説でありません。素材は、空想を支えてくれるだけであります。私は、今まで六回、たいへん下手で赤面しながらも努めて来たのは、私のその愚かな思念の実証を、読者にお目にかけたかったが為でもあります。私は、間違っているでしょうか。

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 99-100

太宰は「的確の描写」ばかりの原作を「単に素材をほうり出した」だけと感じ、そこに物足りなさを感じていたのです。

彼は、よい小説には「素材」に「空想」を加えることが必要と考えていました。

太宰はこの「素材」ばかりの小説に、自身の「空想」を書き加えることで『女の決闘』という小説を完成させようと試みたのです。

だからこそ良質の「素材」である原作の訳文はそのまま採用した上で、「原作者自身が不定の亭主」というあくどいけれども「甚だロマンチックの仮説」を加筆する、この奇妙な形式をあえて選択したのでしょう。

太宰の小説には、自身の体験をもとにしたと思われる作品が数多くあります。

しかし、実は私小説と読める作品の中にも必ず、小説を面白くするための「空想」が加わっていたのではないでしょうか。

太宰はあえて原作を活かし、丁寧に注釈を入れつつ、『女の決闘』の改変に臨みました。

そして、その全体図を明らかにした状態で「果して成功しているかどうか、それは読者諸君が、各々おきめになって下さい」と読者に提示しているのです。

とすると、本作は小説というよりもむしろ評論文と読めるのではないでしょうか。

太宰は本作を通して、自身の芸術論を提唱したのでした。

感想

「この小説は、失敗だ」

本作において印象的だった一文があります。

それは、亭主が女房の手紙を書き写したのち筆を投じてしまった場面です。

(前略)まんまと私は、失敗した。女の実体は、小説にならぬ。書いては、いけないものなのだ。いや、書くに忍びぬものが在る。止そう。この小説は、失敗だ。(後略)

太宰治『新ハムレット』(女の決闘),新潮文庫, 96

「この小説は、失敗だ」という台詞から想起されたのは、1935年執筆の『道化の華』の一節でした。

作中の語り手である「僕」が苦悶しながら執筆を続けている場面です。

(前略)この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。(後略)

太宰治『晩年』(道化の華),新潮文庫,202

『道化の華』は、太宰自身の心中事件をもとにしたといわれる作品です。

この作品にも数々の脚色が加えられていますが、そこには心中から立ち直れない苦しさや芸術家としての絶望が書き綴られており、事実を小説として昇華する難しさが記されています。

「この小説は失敗である」と語った『道化の華』の語り手とはかなり近い距離にいた太宰ですが、5年後、『女の決闘』においては「この小説は、失敗だ」という台詞を作中作の亭主に託し、半ば批判するような姿勢をとっています。

『道化の華』執筆の1935年ごろは私生活が大いに乱れ、自殺未遂を頻繁に繰り返していた時期でした。

しかし、1939年の結婚を経て家庭を持った太宰は、職業作家として心機一転、覚悟をもって精力的に執筆を始めました。

『女の決闘』が執筆されたのは、ちょうど創作活動が上向きはじめた頃と重なります。

創作に対して真摯に向き合うなかで、「素材」に「空想」を加えて小説を生み出すという創作スタイルを確立しはじめていたのではないでしょうか。

1940年以降、太宰は何かしらのモチーフを使った小説を数多く執筆しています。

『お伽草紙』『新ハムレット』をはじめ、源実朝を描いた『右大臣実朝』、ユダをモデルとした『駆け込み訴え』、『聊斎志異』を改変した『清貧譚』『竹青』など、そのモチーフは多岐に渡ります。

これらの作品群はいずれも登場人物に太宰自身の影をみることができるのも興味深いところです。

まさに「素材」に「空想」を加えた例だといえるでしょう。

『女の決闘』はそんな太宰なりの芸術論を表明した、決意の一作だったのではないでしょうか。

以上、『女の決闘』のあらすじ、考察と感想でした。

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