室生犀星『蜜のあわれ』赤子を登場させた意味とは?

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室生犀星『蜜のあわれ』赤子を登場させた意味とは?

『蜜のあわれ』について

『蜜のあわれ』(蜜のあはれ)は、室生犀星が死の3年前、1959(昭和34)年に発表した小説です。

美少女に化けることができる金魚・赤子と、犀星をモデルとした老作家・上山の、エロティックで幻想的な関係が描かれています。

2016年には、赤子を二階堂ふみさん、上山を大杉連さんが演じた映画が公開されました。

『蜜のあわれ』のあらすじ

3歳の金魚・赤井赤子は老作家・上山に飼われています。

赤子は人間、それも20歳前後の美少女に化け、いつしか上山とエロティックな関係になっていました。

ある日、上山の講演会を聴きに行った赤子は、体調の悪そうな女性を介抱します。

彼女は田村ゆり子という名で、美貌の編集者でした。

田村ゆり子は十数年前に上山と親しくしていましたが、既に鬼籍に入っており、上山も彼女の死を知っています。

赤子から田村ゆり子の幽霊の話を聞き、「今頃どうして…」と訝しむ上山。

田村ゆり子は上山に会いたいようですが、遠慮深い性格で、いざ対面しそうになると逃げてしまいます。

上山は、田村ゆり子の幽霊は赤子が作り上げた空想だと、信じようとはしません。

ふたりの対面は叶わず、やがて冬が訪れようとしていました。

金魚の赤子は冬を越せないかもしれません。

しかし赤子は去っていく田村ゆり子に向かって、春まで生き延びるからまた会いに来てほしいと頼むのでした。

『蜜のあわれ』ー概要

主人公 あたい(赤井赤子・金魚)
おじさま(上山・老作家)
重要人物 田村のおばさま(田村ゆり子・幽霊)
主な舞台 東京都内 (大森、銀座、丸の内など)
時代背景 1958(昭和33)年頃
作者 室生犀星

『蜜のあわれ』の解説

・実在するもの、しないもの

『蜜のあわれ』は金魚の「あたい」と老作家「おじさま」、幽霊・田村ゆり子の会話で構成されています。おじさま以外の登場人物、人間に化ける金魚や幽霊は幻想の世界の住人です。

しかし、おじさまが生きている作品内の世界は、限りなく現実に近いものとなっています。作中に出てくる固有名詞をいくつか調べてみました。

バトラー歯科医院 赤子が通院している歯科医院。丸ビルにある。 1923年に開業した歯科医院。現在も同地で診療中。
大森の白木屋 赤子が見知らぬ男性から待ち合わせの場所として指定された場所。 1929年に開店した「白木屋百貨店大森分店」。既に閉店し、現在はスーパーマーケットに。
『殿方ご免遊ばせ』 おじさまが最近観た映画。ブリジット・バルドーが良かったとのこと。 1957年12月に日本公開された映画。ブリジット・バルドーがフランス大統領の娘を演じている。
ヘンデルの4拍子 おじさまと赤子の家の時計の時報。「ウエストミンスター寺院のかねの音いろ」が流れるらしい。 ヘンデル、4拍子、ウエストミンスター寺院の鐘の音色から、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」か。

恐竜の滅亡についてのテレビ番組を観て、映像のリアルさにビックリした経験があります。実在の自然の映像に、恐竜のCGを合成しているとのことでした。

執筆当時、大森付近に住んでいた室生犀星。

庭いじりを好むこと、自宅の最寄り駅が大森駅であり、帰宅途中に白木屋百貨店があることなど、老作家とその周囲のディティールがリアルであればあるほど、人間に化ける金魚や幽霊という、幻想の生き物の存在感が引き立つのです。

・もし金魚がいなかったら

『蜜のあわれ』は4つの章からなります。

・第一章「あたいは殺されない」

赤子が丸の内まで出掛ける話。赤子は変な男に声を掛けられ、怖い思いをしながら帰宅します。上山は赤子の本能的に身を守る術に感心します。

・第二章「おばさま達」

上山宅の石垣の工事が始まり、過去の火事や隣家との土地のトラブルについて語られます。そんななか、赤子は上山の講演会に行き、田村ゆり子と出会います。上山は田村ゆり子がずいぶん前に急死したこと、その死体から時計が奪われていたが犯人が見つからないことを赤子に話すのでした。ある日、上山と赤子は一緒に田村ゆり子の幽霊に遭遇しますが、すぐに見失ってしまいます。

・第三章「日はみじかく」

上山は文通していた女性と面会し、話を聞きます。彼女は望まない職業から足を洗ったそうなのですが、税金の支払いのため、またその職業に戻らなくてはならなくなりそうなのです。お金の援助をするのかという赤子に、そうではないと告げる上山。
別の日、ある女の幽霊が上山の家を訪ねます。それは、かつて上山をこっぴどく振った女だったのでした。謝罪したいという女を、赤子は追い返してしまいます。

・第四章「いくつもある橋」

上山の妻が病気のため立って歩けなくなってから、19年が過ぎました。膝で歩くため、膝を守るものを装着させたら、という赤子に、上山は「橋にいる足の悪い乞食を思い出すから嫌だ」と言います。家のない人が橋に座って金銭を求めているが、誰しも一度はそのような状況に陥る時がある、しかし戦時中は皆がその状態だったのだ、と上山は回想します。やがて、上山家を田村ゆり子が訪ねます。しかし上山と田村ゆり子は再会することはありませんでした。赤子は自分の死期が近いことを心配していましたが、田村ゆり子とまた会うために長生きする、と心に決めるのでした。

それぞれの章の内容を書き出してみると、赤子と幽霊の存在以外は、現実的な物語です。

家の建て替えで隣家とトラブルになったり、変な男に付きまとわれたり、急死した友人や失恋の相手を思い出したり。

身に迫った死や老い、男女の悲喜こもごも、老いてなお失われない性欲などを赤子が無邪気に聞き、上山が説明するという場面も多く挿入されています。

もし赤子が存在しなければ、『蜜のあわれ』はごくごくありふれた、老境の人間の日常生活が描かれているのです。

死んだ友人(恐らくもう少し複雑な関係だった女ともだち)がもの言いたげに現れたり、かつて自分をこっぴどく振った女性がひどく後悔して謝罪に現れ、それを冷たく追い返したり、こうであったらいいのにな、という空想を赤子に演じさせているようにも思えます。

赤子を登場させることによって、日常生活を楽しみ、退屈や過去の傷を癒やしているのです。

・「嘘ほど面白いものはない」

上山は田村ゆり子の幽霊の存在を、頑なに信じようとしません。赤子にはわからない事情があるようなのです。

赤子が上山を無邪気に愛する様子とは反対に、上山と田村ゆり子は分別の付いた、大人同士の愛で結ばれています。

物語の終盤、田村ゆり子の幽霊が、上山の家の門までやってきます。

ここまで来ても田村ゆり子は上山と会おうとせず、上山もまた、田村ゆり子は赤子の妄想の産物だと言うのです。

”「噓ほど面白いものはない、」”

室生犀星『蜜のあわれ』

上山は赤子にこう言い放ち、幽霊を信じる赤子と喧嘩になります。

これは現実世界に存在しない美少女・赤子を、まるで存在するかのように描いたこの作品に対する、犀星の本音だったのではないでしょうか。

また、去っていく田村ゆり子へ、赤子が次のような言葉を掛けます。

”「おばさま、田村のおばさま。暖かくなったら、また、きっと、いらっしゃい。春になっても、あたいは死なないでいるから、五時になったら現れていらっしゃい、きっと、いらっしゃい。」”

室生犀星『蜜のあわれ』

五時というのは、いつも田村ゆり子の幽霊が現れていた時間です。

この台詞は、赤子(上山(=室生犀星)が作り上げた空想)と、上山(室生犀星)が作中で一体となった瞬間なのだと思います。

きっと、室生犀星には会いたい人がいた。そして、自分の死期が近いことを知っていた。

「嘘」に助けられ、「嘘」を楽しんでいた老作家。彼が赤子を作り上げた最大の理由は、「田村ゆり子」へ言葉を伝えるためだった。

だからこそ、上山の周囲の女性にすぐに嫉妬する赤子が、田村ゆり子には嫉妬をしなかったのではないでしょうか。

『蜜のあわれ』では、本当に伝えたかったことが嘘=フィクションと合成され、フィクションとして表現されているのです。その嘘の甘さが心地よい作品です。

『蜜のあわれ』の感想

・魅惑の魚「金魚」

私はかつてアクアリウムが好きでした。

好みの水槽に(私の場合は硝子でできた継ぎ目のない正方形の水槽)、好みの砂と植物を入れて、好みの魚を育てる。

餌を工夫すると、魚の色合いや大きさすら、自分好みにすることが出来るのです。小さな世界の秩序は私が握っており、ちょっとした神さまになった気分でした。

それと同時に、まるごと自分の趣味に染めることが出来る、限りなくフェティッシュな空間だったなと、今になって思います。

それからしばらく魚を飼うことはなかったのですが、1年前からコロナ禍の自宅での楽しみに、また魚を飼い始めました。今回は金魚です。

普段はこちらのことなど気にせず、ゆうらりと泳いでいる金魚たち。それが、食事の時間になると大きな目をこちらに向け、口をパクパクと開いて、餌の催促をするのです。

その様子の可愛いことといったらありません。金魚はそれぞれにかけがえのない命をもった、大切な家族です。今も金魚たちを眺めながら、この原稿を書いています。

無邪気で、可愛くて、フェティッシュな金魚水槽の世界。金魚を美少女に見立てた室生犀星の気持ちが、少しわかるような気がします。

・映画版『蜜のあわれ』

『蜜のあわれ』は2016年に映画化されました。上山は大杉連さん、赤子は二階堂ふみさんが演じています。赤子のコケティッシュな魅力が存分に発揮された素敵な作品でした。

私も実際に映画館に足を運んだのですが、隣の女性が上映中に新聞紙を広げ、さらにおせんべいを齧りはじめたため、大変困惑した記憶があります。

しかし、金魚は目の良い魚です。暗闇で新聞紙を読んでいたことから、もしかしたら隣の女性は赤子が人間に化けた姿で、自分がモデルの映画を観に来ているのかもしれない…。

そう思ったら、急にその状況が非日常的でわくわくする、楽しいものとなりました。

何でもない街の写真に、カラーペンで美しい金魚の絵を落書きするだけで、その世界は美しく幻想的なものとなります。

ものの見方を変えるだけで、こんなにも愉快な気持ちになるのだと実感した体験でした。

以上、室生犀星『蜜のあわれ』のあらすじ・解説・感想でした。