森鴎外『寒山拾得』タイトルの意味から主題まで解説!

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森鴎外『寒山拾得』タイトルの意味から主題まで解説!

『寒山拾得』の紹介

『寒山拾得』(読み:かんざんじっとく)は、1916年(大正5年)1月、『新小説』に発表された森鷗外の短編小説です。

中国、唐の時代の二人の僧・寒山と拾得の伝説が題材になった作品です。

次作『渋江抽斎』(19161月連載開始、同年5月完結)から、鷗外は史伝小説の道に進んだため、『寒山拾得』は鷗外最後の歴史小説ということになります。

ここでは、そんな『寒山拾得』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『寒山拾得』-あらすじ

唐の貞観の頃、台州の主簿として着任した閭丘胤は、国清寺に出掛けました。

閭が国清寺に往くには、ある因縁がありました。

台州に旅立つ前、閭が頭痛に悩んでいたところ、一人の僧が訪れ、頭痛を呪で直して進ぜようと申し出ました。

仏典を読んだこともないのに、僧侶や道士に尊敬の念を持っていた閭は、呪を依頼しました。

僧が口に含んだ水を閭の頭に吹きかけると頭痛は治り、驚いた閭は、どこの者か尋ねました。

僧は天台の国清寺の豊干と名乗り、台州に会うべき人がいるかという閭の問いに、国清寺の拾得と、その寺の西にいる寒山の二名を教えました。

豊干曰く、拾得は普賢、寒山は文殊の化身ということでした。

国清寺に到着した閭が、拾得と寒山について尋ねると、二人は厨で火に当たっているようでした。

厨に赴いた閭が目にした拾得と寒山は、どちらも痩せてみすぼらしい小男でした。

閭が二人の傍へ進み寄り、恭しく礼をして挨拶すると、拾得と寒山は、腹の底からこみ上げてくるような笑い声を出し、厨を駆け出して逃げました。

逃げしなに、「豊干がしゃべったな」といったのが聞こえました。

驚く閭の周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧等が、ぞろぞろと来てたかりました。

『寒山拾得』-概要

物語の主人公

閭丘胤(りょきゅういん):台州の主簿(帳簿を取り扱い、庶務を総括する役人の長)として着任した官吏。

物語の重要人物

豊干(ぶかん):禅僧。天台山国清寺に住したと言われる伝説的な人物。
拾得(じっとく):唐代の僧。豊干の拾い児と言われる伝説的な人物。普賢(仏教で釈迦の右に侍す菩薩)の化身と称される。
寒山:天台山の西の石窟に住んでいたと言われる伝説的人物。文殊(仏教で釈迦の左に侍す菩薩)の化身と称される。

主な舞台

中国(唐)の台州
現在の浙江省東部の州)

時代背景

唐の貞観の頃
西暦627年~649年)

作者

森鷗外

『寒山拾得』解説(考察)

寒山拾得伝説とは?

森鷗外『寒山拾得』は、中国の寒山と拾得の伝説を題材とした作品です。

寒山拾得とは、

  • 中国、唐代の伝説上の隠者(俗世間との交わりを断ち、修行などをして隠れ住む人のこと)・寒山と拾得のこと。

世俗を超越した奇行ぶりで語られる。

また、多くの詩を作ったとも言われ、没後、寒山・拾得・豊干の詩を集めて編んだ『寒山子詩集』が残されているが、いずれも実存の人物であるかは不明。

鷗外の『寒山拾得』は、『寒山子詩集』に収録されている閭丘胤作「寒山子詩集序」のエピソードの一部を小説化したものです(ちなみに、この閭丘胤についても、実存していたかは怪しいようです)。

禅宗では、仏教の戒律などを逸脱した行動を、悟りの境涯を現したものとして肯定的に見る【風狂】という用語が重要視されています。

寒山と拾得は、風狂の代表として知られ、禅画の画題としても多く描かれています。

どうやら2023年には、東京国立博物館で寒山拾得図を集めた展示も行われていたようです。

さて、鷗外がこの伝説を題材とした作品を記した経緯ですが、これについては鷗外著『寒山拾得縁起』の中で明らかにされています。

 寒山詩が所々で活字本にして出されるので、私の内の子供がその広告を読んで買って貰いたいと云った。
「それは漢字ばかりで書いた本で、お前にはまだ読めない」と云うと、重ねて「どんな事が書いてあります」と問う。(中略)
私は取り敢えずこんな事を言った。床の間に先頃掛けてあった画をおぼえているだろう。唐子のような人が二人で笑っていた。あれが寒山と拾得とをかいたものである。寒山詩はその寒山が作った詩なのだ。詩はなかなかむずかしいと云った。
子供は少し見当が附いたらしい様子で、「詩はむずかしくてわからないかも知れませんが、その寒山と云う人だの、それと一しょにいる拾得と云う人だのは、どんな人でございます」と云った。私は已むことを得ないで、寒山拾得の話をした。
私は丁度その時、何か一つ話を書いて貰いたいと頼まれていたので、子供にした話を、殆そのまま書いた。いつもと違て、一冊の参考書をも見ずに書いたのである。

森鷗外,『阿部一族・舞姫』,新潮社,1968,271272

この内容からは、子供に聞かれたから、という極めてシンプルなことが契機となって作品が生み出されたことが分かります。

また、引用の中に、「いつもと違て、一冊の参考書をも見ずに書いたのである」とありますが、これは実際に『寒山拾得』の作中で察することができます。

例えば閭丘胤について、鷗外は作中、一貫して【閭】と表記していますが、正式には閭丘が姓、胤が名であるため、閭という表記は鷗外の誤りということになります。

断定はできませんが、鷗外が詳細な資料に拠らず、記憶に基づいて書いたために生じた誤りという見方もできるように思います。

宗教への態度三分類

鷗外著『寒山拾得』のストーリーは、基本的には『寒山子詩集』「寒山子詩集序」の内容の一部に忠実に描かれています。

そんな中、地の文で、作者・森鷗外が素顔を覗かせている箇所があります。

鷗外は、『寒山拾得』の中で、世の中の人の宗教への態度を三通りのパターンに分けて説明しています。

この三分類について、解説を進めたいと思います。

〈世の中の人の、道や宗教に対する態度〉

  1. 全く無頓着な人
  2. 著意して道を求める人
  3. 盲目の尊敬を向ける人

(1)について、鷗外は次のように説明しています。

自分の職業に気を取られて、唯営々役々と年月を送っている人は、道と云うものを顧みない。これは読書人でも同じ事である。勿論書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務だけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。

森鷗外,『阿部一族・舞姫』,新潮社,1968,263

次に、(2)について、以下の説明をしています。

次に著意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務は怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じ事である。こう云う人が深く這入り込むと日々の務が即ち道そのものになってしまう。約めて言えばこれは皆道を求める人である。

森鷗外,『阿部一族・舞姫』,新潮社,1968,263264

隠者である寒山や拾得は、(2)に分類される人です。

そして、(3)は、(1)と(2)の中間にある人として説明されています。

この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道を云うものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だと云うわけでもなく、さればと云って自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。(中略)ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、偶それをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。

森鷗外,『阿部一族・舞姫』,新潮社,1968,264

閭丘胤は、「科挙に応ずるために、経書を読んで、五言の詩を作ることを習ったばかりで、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともない」人物です。

しかし、その一方で「僧侶や道士と云うものに対しては、何故と云うこともなく尊敬の念を持っている」人物でもあります。

まさに、閭丘胤は(3)に分類される人ということになります。

さて、本筋と話が逸れますが、一般的に、日本人は無宗教が多いという認識があるかと思います。

しかしながら、神などの存在に対して肯定的な割合は、低くありません。

鷗外が『寒山拾得』の中で示した(3)の態度は、こうした日本人の態度を的確に表現しているようにも思います。

時代を超えて尚、読者になるほどと感じさせる表現の上手さは、さすが文豪~!と思うばかりです。

森鷗外『寒山拾得』の主題

さて、宗教への態度の三分類については、既にまとめましたが、これは『寒山拾得』の主題を考える上で、重要なキーワードになっています。

『寒山拾得』の主題とは何か、まとめると、

  • 盲目の尊敬に対する批判

であると考えます。

鷗外の『寒山拾得』は、『寒山子詩集』の中にある閭丘胤作「寒山子詩集序」のエピソードを題材にしていますが、あくまで、ごく一部を切り抜いた内容ということに注目します。

『寒山拾得』は、非常に中途半端なところで物語が終結しています。

しかし、本来の「寒山子詩集序」のエピソードには、続きがあります。

そこでは、寒山や拾得の風狂ぶりが示されていくわけですが、鷗外はこれをばっさりカットしています。

ですから、鷗外の『寒山拾得』では、寒山と拾得の風狂ぶりは今一つ掴めません。

正直に言ってしまえば、『寒山拾得』の寒山と拾得には、不気味で意味不明なやばい小男二人組という印象しかありません。

『寒山拾得縁起』の中に「子供はこの話には満足しなかった。大人の読者は恐らくは一層満足しないだろう」という文があることから、『寒山拾得』の物語が中途半端である、という事実は、鷗外自らも認めているように思われます。

物語が中途半端である自覚がありながら、何故鷗外はここで話を終結させたのか?

これは、『寒山拾得』の主題が、その一見すると中途半端な部分までに集約されているから、と考えます。

より分かりやすく言うと、標題こそ『寒山拾得』ではありますが、この作品の主題は寒山と拾得の人物像、風狂ぶりに焦点を当てたものではありません。

正体がよくわからないみすぼらしい小男二人に対して、盲目の尊敬の念を持つ閭丘胤が恭しく礼をする。

その様子を見て、腹の底からこみ上げてくるような笑い声嘲笑と言っても良いでしょうをあげる隠者二人。

物語が中途半端であるからこそ、強いインパクトが残る最後のシーンですが、このシーンの強調こそ、鷗外の狙いであったのではないでしょうか。

閭丘胤が示す盲目の尊敬への嘲笑は、すなわち、盲目の尊敬に対する批判を描いたものだと推測されます。

鷗外の『寒山拾得』の物語が中途半端に終結している事実は、鷗外が読者に、盲目の尊敬に対する批判を示そうとしたことに他なりません。

したがって、『寒山拾得』の作品の主題は、盲目の尊敬に対する批判であると整理することができるでしょう。

『寒山拾得』感想

他の鷗外歴史小説との違い

『寒山拾得』は、ストーリーに注目して読もうとすると、意味不明で面白味に欠く作品だと思います。

しかし、主題を考えながら読むと、短いながらも非常に読み応えのある面白い作品へと変貌します。

鷗外の他の歴史小説には見られないこのギャップが、個人的には大好物です。

また、登場人物の立場・職業に注目しても面白さがあります。

世俗を離れて生きる寒山、拾得に対して、閭丘胤の職業は官吏。

前作『高瀬舟』(19161月発表)、前々作『最後の一句』(191510月発表)でも役人が登場し、どちらも権威批判のようなメッセージが透けて見えます。

19164月、鷗外は陸軍省医務局長の座から退きますが、これらの作品が創られる頃には、軍務の一線を退く意志は固まっていたことでしょう。

私の考えは、『寒山拾得』の主題は、盲目の尊敬に対する批判である、というものです。

しかし、この主題以外にも、『寒山拾得』には官吏、あるいは権威というものに対する否定的な眼差し、そして、世俗を離れた生き様への憧憬のようなものも内包されていると感じます。

官吏生活にピリオドを打ち、新たな生活に舵を切ろうとしていた鷗外が書いた最後の歴史小説。

このように見ると、閭丘胤の態度を笑う寒山と拾得の姿が、得体の知れない不気味なものではなくなり、何処か清々しいような、小気味の良い印象を感じさせてくれます。

他の歴史小説とは異なり、謎々のような小説にも見えますが、鷗外の最後の歴史小説としてふさわしい、秀逸な作品であると思います。

父親としての森鷗外

作品の内容から逸れた感想にはなりますが

森鷗外は、子煩悩な人であったと言われます。

鷗外には、前妻との間に一人、後妻との間に四人の子どもがいます。

次男の不律は生後半年程で亡くなっていますが、残りの四人はそれぞれ、鷗外についての著作を残しています。

それらの著作からは、鷗外の子煩悩ぶりを窺い知ることができます。

例えば、次女・小堀杏奴の著作『晩年の父』から、いくつか引用します。

 夜中でも、父が一番私の気持の近い所にいた、と感じたのは、呼ぶと直ぐ眼を覚まして返事をしてくれるからだ。
「アンヌコや、パッパコ、アンヌコや」
こんな事を呟きながら、父は私の恐怖が解っていてくれるように、直ぐ電気をつけた。
なんという違いかただろう。あかるくなって、父が微笑している顔や、始終着ている茶色っぽい、所々にぽつぽつ小さく綿の出てゐる綿入れの着物が見えると、実に私は嬉しく感じた。
「おしっこか?よし、よし」
そうして彼は掟、長い廊下を便所までついて来てくれる。
暗い廊下にしゃがんで父は私を待っていた。
「眠るまで電気つけといてね」
私は父の手を持ち、安心して、また眠る事が出来る。

小堀杏奴,『晩年の父』,岩波書店,1981,46頁~47

 父だけ特別副食物を作るなどというような事は絶対になく、いつも皆同じものなのだが、私たちの好きなものが出ると父は大抵自分が食べないで私たちに呉れてしまうので、母は困ってよくこぼしていた。

小堀杏奴,『晩年の父』,岩波書店,1981,56

 父は何時も自分と同じような気持になっていてくれたような気がする。
私が犬を可愛がれば一緒になって可愛がってくれる。
蚕を飼う事に夢中になれば、父も一大事のようにして蚕の事に一生懸命になってくれる。どんな詰らないお伽話を長々と話して聞かせても、心から喜んで微笑を浮かべながらそれを聞いてくれる。
これは父が子供を愛するあまり、子供と同じ気持になると言うばかりではなかったらしい。父は母に向って、
「お前はもっと子供の話を一生懸命に聞いて遣らなくてはいけない。大きくなるほど子供は親に何んでも話せるようにして置かないと、思掛ない間違が起るものだ」
と言っていたそうだ。

小堀杏奴,『晩年の父』,岩波書店,1981,129

『晩年の父』では、他にも色々な思い出が語られていますが、そこに浮かびあがるのは、いずれも愛情深い父の姿です。

『寒山拾得』が子供に問われたことがきっかけで生まれた作品とは解説しましたが、それを明かしている『寒山拾得縁起』は、次のような文章から始まります。

 徒然草に最初の仏はどうして出来たかと問われて困ったと云うような話があった。子供に物を問われて困ることは度々ある。中にも宗教上の事には、答に窮することが多い。しかしそれを拒んで答えずにしまうのは、殆どそれは嘘だと云うと同じようになる。

森鷗外,『阿部一族・舞姫』,新潮社,1968,269

陸軍の仕事、執筆活動、etc…鷗外の多忙ぶりは想像に難くありませんが、そうした中で、子供の質問に真剣に、根気強く向き合う様子は、本当に子供想いの、良い親だったんだろうなあ~と感じさせます。

何時いかなる時でも、子供の「なに?」に答えられる(知識的にも、心の余裕的にも)、そういう親に、私もなりたい

作品から窺い知れる、親としての鷗外像に、己の育児を反省しつつ、しみじみと思うのでした。

以上、森鷗外『寒山拾得』のあらすじ・解説・感想でした。

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。