『伊沢蘭軒』の紹介
『伊沢蘭軒』(※読み:いざわらんけん)は、1916年(大正5年)6月から1917年(大正6年)9月にかけて、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載された森鷗外の史伝小説です。
鷗外の史伝三部作と称される内の一つで、翻訳・評論なども含めた鷗外の全著作の中で、最長の作品となっています。
ここでは、そんな『伊沢蘭軒』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『伊沢蘭軒』-あらすじ
伊沢蘭軒は、江戸時代後期の医者・儒学者です。
江戸住みの備後福山藩医の家の長男として生まれ、後に父の後を継いで福山藩医となりました。
また、泉豊州に儒学を学び、儒官としても務めました。
江戸時代後期の漢学者・頼山陽や、狂歌師として有名な幕臣・大田南畝らと親交があり、渋江抽斎、森枳園など多くの子弟を育てました。
渋江抽斎調査の過程で、伊沢蘭軒を知った鷗外は、伊沢蘭軒とその周囲の人々の事蹟を史伝小説として書き記しました。
『伊沢蘭軒』-概要
物語の主人公 |
伊沢蘭軒:〈安永6年11日(1777年12月10日)-文政12年3月17日(1829年4月20日)〉 |
主な舞台 |
江戸 |
時代背景 |
江戸時代後期~大正 |
作者 |
森鷗外 |
『伊沢蘭軒』―解説(考察)
鷗外の史伝小説の方法
一般的に、伝記や史伝と言うと、その人物の生涯にスポットを当て、その死を以て作品が終了するパターンが多いかと思います。
『伊沢蘭軒』では、蘭軒の事蹟のみならず、死後の遺族についても詳しく触れています。
これは、前作『渋江抽斎』でも同様です。
この試みについて、鷗外は『伊沢蘭軒』の中で、下記のように言及しています。
わたくしは渋江抽斎、伊澤蘭軒の二人を傳して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚すべき事でもない。否、全く無用の勞であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を傳ふるに當つて始て此に著力し、蘭軒を傳ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する發展を遂げた。
一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
前人の傳記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其絲を断つことをなさずして、組織の全體を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。森鷗外,『森鷗外全集第五巻』,筑摩書房,1971,449頁
このように、鷗外は明確な意思・意図を以て、その叙法を用いているということが分かります。
そして、『渋江抽斎』で試みた叙法に自信を得て、『伊沢蘭軒』ではそれを更に磨き上げている、ということも窺えます。
鷗外の史伝小説に見る叙法は、作品を、単に一人の人物の生涯を知るものに留まらず、その時代を生きた日本人の群像、その軌跡を知らしめるものへと変える上で、非常に有効な方法であったと言えるでしょう。
前作『渋江抽斎』との違い
同様の叙法で作られた『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』ですが、二つの作品の違い、あるいは『渋江抽斎』から『伊沢蘭軒』に見る発展について、考察を進めたいと思います。
ここでは、その一例として、横の拡がりに注目します。
簡単にまとめると、
と言うことができます。
前作『渋江抽斎』でも、抽斎の横の拡がりに関して、多くの記述が見られます。
『伊沢蘭軒』では、それを上回る量で横の拡がりが記され、編年式の記述が試みられています。
例えば、作中、北条霞亭という人物に関する記述が見受けられます(※北条霞亭の詳細については、次作『北条霞亭』の解説記事にて触れたいと思います)。
『伊沢蘭軒』は、その一からその三百七十一までの章がありますが、北条霞亭に関する記述は、前半の20章(その百十八からその百二十二、その百三十六からその百五十)にも及んでいます。
読んでいる途中から、あれ?違う作品になったんか?と思うような勢いで、周辺人物の掘り下げが行われています。
これを面白いと思うか、読みにくいと思うかは、個人個人の好みの問題になるので言及しません。
しかし、『伊沢蘭軒』が前作『渋江抽斎』より、更に深い追求が試みられているということには違いありません。
鷗外が示した「諦念」とは
明治42年、鷗外は「Resignation」という心境を示し、自らの立場を明らかにしました。
私の心持を何といふ詞で言ひあらはしたら好いかと云うと、resignationだと云つて宜しいやうです。私は文藝ばかりでは無い。世の中のどの方面に於ても此心持でゐる。それで餘所の人が、私の事をさぞ苦痛をしてゐるだろうと思つてゐる時に、私は存外平氣でゐるのです。勿論resignationの状態と云ふものは意氣地のないものかも知れない。其邊は私の方で別に辯解しようとも思ひません。
森鷗外,『森鷗外全集第七巻』,Resignationの説,筑摩書房,1971,99頁
「Resignation」とは、諦念・諦観などの意味を表すドイツ語です。
鷗外が理想とした諦念とは、
自らの置かれた立場を受け入れて、それを積極的に自分の運命となして生きていくこと
を意味する考え方と言われています。
『伊沢蘭軒』では、この「Resignation」に似たキーワードが示されています。
人間不平の事が多い。少壮にして反撥力の強いものは、これを鳴らすに激越の音を以てする。蘭軒は既に四十七歳である。且蹇である。これに應ずるに忍辱を以てし、レジニアシヨンを以てするより外無い。
森鷗外,『森鷗外全集第五巻』,筑摩書房,1971,191頁
同全集の注釈では、レジニアシヨンとは、フランス語の「resignation」のことで、「断念」「諦め」という意味で説明されています。
鷗外の諦念の心境は、晩年の史伝小説においても変わらず表現されていることが窺えます。
あるいは、蘭軒の生き方に諦念を感じたことも、鷗外が蘭軒を主人公とした作品を書いた理由の一つになったのではないでしょうか。
『伊沢蘭軒』―感想
無態度の態度とは
解説中にも触れましたが、『伊沢蘭軒』は、『渋江抽斎』調査の過程で生まれた史伝小説です。
歴史小説の史料として武鑑収集に励んでいた鷗外が、渋江抽斎という人物を知り、抽斎について調べていく中で出会ったのが伊沢蘭軒という人物です。
言い換えると、歴史の追求につぐ追求の果てに生み出された作品が『伊沢蘭軒』ということになります。
個人的な感覚として、一つの物事を突き詰めていく時、それは次第に、孤独で暗いものになりがちな気がしています。
しかし、これ程までに歴史への没入を見せながら、鷗外の作品には、そのような暗さは感じられません。
これは、『伊沢蘭軒』作中にも記されている、鷗外の次のような執筆態度が大きく影響しているように感じます。
其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維れ谷まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行當ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
無態度の態度は、傍より看れば其道が険惡でもあり危殆でもあらう。しかし素人歴史家は樂天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、豫期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り來つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。森鷗外,『森鷗外全集第五巻』,筑摩書房,1971,5頁
「無態度の態度」は、作品の自由度を上げ、鷗外の史伝小説を、他の史伝小説とは異なるものに変えているのだと思います。
『伊沢蘭軒』は非常に長い作品ではありますが、鷗外の執筆態度や、史伝小説の方法に関する考え方などを知る上でも、興味深い作品であると感じています。