『畜犬談』紹介
『畜犬談』は太宰治著の短編小説で、1939年10月号の雑誌『文学者』に掲載されました。
副題には「―伊馬鵜平君に与える。」とあり、太宰の無二の親友であった作家・伊馬春部氏に送られています。
これは作中に登場する、猛犬に噛み付かれた「友人」が伊馬氏をモデルとしているからと思われます。
犬を猛獣といって恐怖し、その卑しさを毛嫌いしているにも関わらず、たまたま家まで着いてきてしまった犬を養うこととなってしまった「私」の日常を描いた作品です。
ここでは、『畜犬談』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『畜犬談』あらすじ
「私」は日頃から犬は猛獣だと恐れており、昨年、友人が噛み付かれたという話を聞いて、ますます憎悪を募らせています。
住んでいた甲府には野良犬が多いため、襲われないよう微笑みかけるなどしていましたが、かえって犬に好かれしまい、ついに家まで着いてきた子犬を飼うことになります。
ポチと名付けて世話を焼くものの、胴が長くてみっともない、人の顔色ばかりうかがって卑しい、と憎悪は増すばかりで、夏に東京へ移住するにあたってポチは甲府に置いてゆくことに決めます。
しかし、引越しの直前、ポチが皮膚病でひどい風貌になり、悪臭まで放つようになりました。
ご近所に悪いから殺してください、という妻を、もう少しだから、といさめていましたが、ある夜、怒りが頂点に達し、ついにポチを殺そうと決意します。
もと捨てられていた場所にポチをおびき出し、毒入りの肉を与え「私」は帰路につきます。
しかし、薬品が効かなかったのか、ポチは変わらず自分の後を着いてきていたのでした。
帰宅した「私」は妻に弁明するように「あいつには、罪がなかったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」と言い、ポチも東京に連れて行こうと告げるのでした。
『畜犬談』概要
主人公 | 私 |
重要人物 | 友人、ポチ、家内 |
主な舞台 | 甲府 |
時代背景 | 1939年ごろ |
作者 | 太宰治 |
『畜犬談』解説(考察)
本作の主人公の「私」は、甲府に住みはじめたというところや小説家であるところなど、太宰自身をモデルにしていると思われる部分が多く、本作を随筆、私小説風の作品と捉えることもできます。
太宰はいやしい畜犬に自身を投影することで、過去の悔恨と自身の弱さに向き合うための覚悟を描いていたのです。
なぜ太宰が畜犬に自身を重ねて見ていたのか、そして、ポチの皮膚病と毒殺という展開に込められた意味について解説していきます。
自身のメタファーとしての「畜犬」
太宰は、本作において「畜犬」を自分自身に重ねる形で描いています。
それを読み解くキーワードとなるのは、「いやしさ」です。
「私」の犬に対する嫌悪の要因は「恐怖」と「いやしさ」の二つに分類できます。
冒頭では主に、鋭い牙で噛みつかれること、狂水病を移されることなど、その凶暴さに対する「恐怖」を語っていますが、中盤に至ると、鋭い牙を持ちながら人間に隷属している「いやしい根性」を「不潔」と言って、ますます嫌悪感をあらわにしています。
それは、この「いやしさ」という性質こそ、太宰が「畜犬」に自身を重ねる最大の要因だからです。
作中でも、畜犬の「いやしさ」について語る中で「なんだか自分に似ているところさえある」とはっきり記されています。
(前略)ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんと言い尻尾まいて閉口して見せて家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言った。日に十里を楽々と走破し得る健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐り果てたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持無く、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つき合わせると吠え合い、噛み合い、もって人間の御機嫌を取り結ぼうと努めている。(中略)思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。(後略)
太宰治『きりぎりす』(畜犬談),新潮文庫,63-64頁
この「いやしさ」に対する自己嫌悪は、たとえば太宰の自伝小説とも言われる「人間失格」の描写からも見てとれます。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。太宰治『人間失格』,新潮文庫,14頁
「人間失格」では、社会に溶け込むため道化を演じ続ける主人公・葉蔵の苦悩が描かれています。
作中には「哀しいお道化」「お道化の底の陰惨」「お道化の虚構」などという表現が用いられ、全体を通して、道化を演じ続ける自身への憐憫のようなものを匂わせています。
「ただひたすらに飼主の顔色を伺い」「きゃんといい尻尾まいて閉口してみせて、家人を笑わせ」ている畜犬に、そんな自分と通じる「いやしさ」を見ていたのではないでしょうか。
なぜポチは皮膚病になったのか
太宰が畜犬に自身を重ねて描いていたとすると、ポチが皮膚病を患うという展開にも意図が見えてきます。
ここでポチが患うのは、他のあらゆる疾患ではなく皮膚病でなければなりませんでした。
太宰の中で、皮膚病とは非常に象徴的な意味を持つ病だったからです。
本作執筆の同年に、太宰は『皮膚と心』という小説の中で皮膚病を患った女性の懊悩を描いています。
ここから、太宰の中の皮膚病に対する考え方が見えてきます。
(前略)私は、どんな病気でも、おそれませぬが、皮膚病だけは、とても、とても、いけないのです。どのような苦労をしても、どのような貧乏をしても、皮膚病にだけは、なりたくないと思っていたものでございます。脚が片方なくっても、腕が片方なくっても、皮膚病なんかになるよりは、どれくらいましかわからない。(後略)
太宰治『きりぎりす』(皮膚と心),新潮文庫,105頁
(前略)私は、お化けでございます。これは、私の姿じゃない。からだじゅう、トマトがつぶれたみたいで、頸にも、胸にも、おなかにも、ぶつぶつ醜怪を極めて豆粒ほども大きい吹出物が、まるで全身に角が生えたように、きのこが生えたように、すきまなく、一面に噴き出て、ふふふふ笑いたくなりました。そろそろ、両脚のほうにまで、ひろがっているのでございます。鬼。悪魔。私は、人ではございませぬ。このまま死なせて下さい。(後略)
太宰治『きりぎりす』(皮膚と心),新潮文庫,108頁
『皮膚と心』の主人公は、五体満足でなくなる以上に皮膚病が恐ろしいと語り、「これは、私の姿じゃない」「鬼。悪魔。私は、人ではございませぬ」と、大袈裟とも思えるほど皮膚病を患った身体を嘆いています。
彼女がそれほどまでに皮膚病を恐れている理由は、作品の後半に描かれています。
(前略)けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感触が、どんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智と関係ない。全く、愚鈍な白痴でしか無いのだ、とはっきり自身を知りました。
太宰治『きりぎりす』(皮膚と心),新潮文庫,119-120頁
彼女は「謙譲だの、つつましさだの、忍従だの」といった内面の美徳は偽物で、「皮膚」という表層の器官にこそ自身の真の誇りを見出していたことに気づくのです。
それに思い当たった彼女は自身を「愚鈍な白痴」と言いますが、同時に、その事実を受け入れてある種の清々しさを感じているようにも描かれます。
ここで描かれている皮膚は、人の表面上の性質、つまり愛想や媚といったものの暗喩とも捉えて良いでしょう。
皮膚病とは、そんな人間の「いやしさ」が表出した状態であり、さらにその醜さによって自己の尊厳が失われうる病なのです。
皮膚病になったポチは、太宰が畜犬の中に見出していた「いやしさ」が膨れ上がって表出した状態といえます。
それを目の当たりにしたからこそ、太宰はポチを殺さなければならない、と決断するに至るのです。
「私」はポチとともに橋を渡った
では、物語のラスト、ポチの毒殺とその失敗にはどのような意味が込められているのでしょうか。
本作における毒殺は自殺行為の暗喩であり、その失敗とはつまり、自身の度重なる自殺未遂を描いていると思われます。
そのキーワードとなるのは、「薬品」と「橋」です。
太宰は、執筆の1939年までに計6回の心中・自殺未遂をしていますが、そのうちの4回はカルモチンという睡眠薬の大量摂取による服毒自殺です。
直近の1937年、小山初代との心中未遂にもやはりカルモチンが用いられていました。
獰猛な犬を殺すには展開としても毒殺がごく自然ですが、自身を重ねたポチの殺害に「薬品」を用いたのには意図を感じます。
さらに、気になるのは「橋」についての描写です。
ポチに毒入り肉を食べさせるため、「私」ははじめポチが捨てられていた練兵場に連れ出しますが、そこへ辿り着く直前に彼らは「橋」を渡っています。
「よし! 強いぞ」ほめてやって私は歩き出し、橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。
太宰治『きりぎりす』(畜犬談),新潮文庫,77-78頁
そして、練兵場でポチに毒入りの肉を与え、その様子を見届けることなくのろのろと帰路についた「私」は、再び橋を渡ったところで振り返るのです。
(前略)橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目無げに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。
太宰治『きりぎりす』(畜犬談),新潮文庫,78頁
この「橋」は言わずもがな、三途の川を連想させます。
「橋」を渡ってから、振り返るとポチがいた、というのも象徴的です。
作中には街を歩く描写が数多くありますが、「橋」という単語はこの毒殺のための往来の場面にしか登場していません。
太宰が、象徴的な「橋」という単語に対して無頓着であるとも考えにくいため、これが意図的に描かれた可能性は高いでしょう。
「私」はポチ一人に橋を渡らせるのではなく、ともに橋を渡り、結果的に二人で生還しました。
この場面には「ポチの毒殺」ではなく、「ポチと私の心中」つまり「太宰自身の自殺行為」が描かれていたのかもしれません。
毒を飲ませたにも関わらずポチを殺せなかった、という展開は度重なる心中・自殺未遂で死にきれなかった太宰自身の体験がもとになっているのでしょう。
妻に対して述べる「芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ」という言葉は、そういった自身の暗い過去をなんとか芸術として昇華しようとする、作家としての覚悟、あるいは人間としての泥臭さを感じさせます。
『畜犬談』は、太宰が自身の弱さに徹底的に向き合い、それを受け入れる覚悟を記した小説と言えるかもしれません。
『畜犬談』感想
離別と裏切りに対する悔恨
太宰は自身に畜犬を重ねていると考察しましたが、本作における畜犬の描写の中で、太宰自身の体験を反映していると明確に感じさせる箇所があります。
それは「友を売り、妻を離別し」という一節です。
(前略)たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、(後略)
太宰治『きりぎりす』(畜犬談),新潮文庫,63-64頁
「友」「兄弟」「父母」は犬にも当てはまる概念といえますが、犬に婚姻制度は存在しないため「妻と離別」という表現には違和感があります。
これは畜犬への嫌悪の中に「私」、つまり太宰自身の体験を投影しているからでしょう。
実際に、当時の太宰の私生活を見ていくと「友を売り、妻を離別し」という一節から想起されるエピソードがあります。
「友を売り」という一節で思い浮かぶのは、1936年の「熱海事件」です。
友人の檀一郎と熱海で豪遊し借金を膨らませてしまった太宰は、「菊池寛から金を借りてくる」と言って檀を人質とし、一人東京へ戻りました。
しかし、待てど暮らせど戻ってこない太宰を檀が探しにゆくと、彼は井伏鱒二と将棋を指していたのです。
後に、檀一郎はこの事件こそが「走れメロス」の構想に繋がったのではないか、と語っています。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」などと呟いた太宰が、果たしてこの事件を悔いていたかは疑問ですが、メロスという男を友のため困難を乗り越えて帰還を果たす、という自身と正反対の誠実さをもって描いたところを見ると、太宰なりに思うところがあったのかもしれません。
「たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に」という表現も、このエピソードを想起させます。
そんな自分の卑怯な根性を、畜犬の「いやしさ」に重ねて語ったのでしょう。
一方、「妻と離別し」という一節は、先妻・小山初代との離縁を指していると思われます。
本作に登場している「家内」のモデルは、当時の太宰の妻・石原美知子と思われますが、執筆の二年前、太宰は先妻である小山初代と、心中未遂を経て離縁しています。
離縁前の太宰は薬物中毒によって乱れた私生活を送っており、家庭は崩壊寸前、そこに初代の不倫の発覚もあり離縁に至ったのです。
太宰は、後妻・美知子との婚姻の際、師・井伏鱒二に宛てた手紙の中で、「小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生といふものを知りました」と記しています。
当時の婚姻制度は、現代に比べて社会的な意味合いも強く、離婚という選択は非常に重大な決断だったことでしょう。
太宰の中で、先妻との離別という出来事は、自身の中の大きな悔恨の一つだったのだと思われます。
それでもなお、後妻・美知子と婚姻して平穏に暮らしている自身に対しての後ろ暗さを、「かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却」してしまう畜犬の「いやしさ」に投影していたのかもしれません。
本作には、太宰自身のそうした過去の離別や裏切りに対しての強い思いが滲んでいるように感じました。
浮かない顔の「家内」を描く覚悟
『畜犬談』が執筆された1939年は、太宰が石原美知子との婚姻を経てデカダンス的生活から脱却を試みていた時期です。
実際、たった8年間で6回もの自殺未遂を繰り返していた太宰は、美知子との婚姻後10年ちかくにわたって自殺を図ることはありませんでした。
井伏鱒二に宛てた手紙に記された「ふたたび私が、破婚を繰りかへしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい」という言葉からも、その覚悟がうかがえます。
しかし、一方で、自身の弱さを完全に切り捨てることは非常に難しいことだったのではないでしょうか。
「畜犬談」の中で、ポチを殺すことはおろか甲府へ置いていくことすらできない「私」の意気地のなさは、自分の弱さを完全に切り捨てることのできない太宰自身の不安を描いているようにも感じられます。
さらに太宰は、その弱さも丸ごと芸術家としての起点だと主張する「私」に対し、「家内は、浮かぬ顔をしていた。」と描きました。
その自身の思い切りのなさが、将来、美知子を不幸せにするかもしれない、と太宰は自覚していたのでしょう。
「畜犬談」は、弱さを乗り越える小説ではなく、弱さを受け入れる小説であると言えます。
さらに、その愚かさも自覚した上で、「家内」へ「おまえも我慢しろ」と言い放っています。
覚悟を持って望んだ婚姻ですが、死の直前の数々の放蕩ぶりを見ていると、やはり太宰は最後まで己の弱さに打ち勝つことはできなかったように思われます。
しかし、その愚かさとの葛藤こそが、数々の名作を生んだのも事実でしょう。
『畜犬談』は軽快なコメディでありながら、裏に、そんな太宰の後ろめたい覚悟と、無意識の予言めいたものを含んでいる気がしてなりません。
以上、『畜犬談』のあらすじ、考察と感想でした。