『坊っちゃん』の紹介
夏目漱石の代表作である『坊っちゃん』。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」と開幕の一文は、内容までは読んだことがなくても耳にしたことくらいはあるという人は多いのではないでしょうか。
タイトルでもある主人公の坊っちゃんは、子供のまま大人になったような人物です。
そんな坊っちゃん視点から見た田舎の狭い社会の中にある、さらに狭い学校社会の実態を面白おかしく描いた今作の解説をしていきたいと思います。
『坊っちゃん』のあらすじ
幼い頃の主人公・坊っちゃんは、弱虫と煽られただけで2階から飛び降りて怪我をするくらい無鉄砲で、いたずらは大方してきた喧嘩っ早い乱暴者でした。
親兄弟からも乱暴さゆえに見放されていて、両親は頭のいい兄の方を可愛がっていました。
一方、坊っちゃんは勉強家の兄のことを「女みたいに肌の色が白く狡賢いやつだ」と嫌っていて、両親が死んだ後実家を売って得た金を分けた後は、二度と会うことないまま別れます。
誰にも可愛がられない中、唯一清という十年来家に召し使っていた下女だけは、「真っ直ぐでよいご気性だ」と坊っちゃんを我が子のように可愛がり、将来家を持ったらそこで働かせてくれと繰り返し伝えます。
親亡き後、実家や家財を売って兄と分けたお金をなんとかやり繰りして学校に三年通った坊っちゃん。
卒業後特に進路を決めてなかった彼は、学校の校長から四国辺にある中学校で数学教師が要るという話をされ、特に考えることもなく、行くと返事をします。
しかし、閉鎖的な田舎や学校社会の慣習に、早々に後悔して過ごしはじめます。
他所からきた単純で無鉄砲な若者である坊っちゃんは、生徒からは悪戯の的にされ、同じ教員からも嘲笑されます。
特に教頭の赤シャツという人物は、非常に頭が回る狡猾さで目障りな人物を排除していき、主人公も巧みな言葉でいいように扱われます。
赤シャツが心根の曲がった人物だと知った主人公は制裁を与えようとします。
遂には頭が回り証拠を残さず動く赤シャツに根を切らして、策略など練れない主人公坊っちゃんは、仲間の数学教師の山嵐と共に鉄拳制裁を実行します。
赤シャツを制裁した後、東京に戻った坊っちゃんは違う職につき、月給も安くなりながらも小さな家を買い、信頼のおける清を召抱えて暮らすことができました。
『坊っちゃん』ー概要
物語の主人公 | 坊っちゃん |
物語の重要人物 | 清(幼い頃から坊っちゃんを可愛がってくれる下女) |
主な舞台 | 四国の田舎にある中学校 |
時代背景 | 明治時代 |
作者 | 夏目漱石 |
『坊っちゃん』の解説
・坊っちゃんとは
坊っちゃんという愛称
主人公の名前は出てきません。坊っちゃんの視点で物語は進みます。
主人公はなぜ坊っちゃんの愛称が使われているのか?
作中での坊っちゃんには2種類の意味があります。
1.清が使う「坊っちゃん」
生家に十年来奉公している下女の清という婆さんは、幼い頃から主人公のことを「坊っちゃん」と呼んで心から可愛がってくれました。
奉公先の主従であるため、尊敬を込めた呼称でもあります。
2.軽蔑の意味で言われる坊っちゃん
社会に出たときに、世間知らずをからかう意味で「坊っちゃん」と人を呼ぶことがあります。
「たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。」
夏目漱石『坊っちゃん』
「坊っちゃん」とは、主人公の真っ直ぐさに対して清が「可愛がる意味」で呼び、世間知らずを軽蔑する者からは「からかい」の意味で呼ばれる呼称です。
主人公の世間知らずな面を好意的にとらえるか、または批判的にとらえるかでその意味合いが変わってくるのです。
清の存在
はじめ、血の繋がった家族でもないただの奉公にきている清という下女が実子のように愛情を向けてくることを坊っちゃんは気味が悪く、少々疎ましく感じます。
また、両親が先立ち生家がなくなり、お金も未来もなく、何の確証もないにも関わらず坊っちゃんはいずれ立派になると頑なに信じる清を、現実が見れない学のない婆さんだと憐れみを覚えます。
ただ、そんな清と離れて見知らぬ土地で苦労するうちに、清に対して抱いていた気持ちに変化が起こります。
「それを思うと清なんてのは見上げたものだ。教育も身分もない婆さんだが、人間として頗る尊い。今まではあんなに世話になって別段難有いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。」
夏目漱石『坊っちゃん』
離れた土地で暮らし始めて、ようやく親のありがたみを知るといった経験をした人は多いのではないでしょうか。
それと同じで、坊っちゃんも東京を離れた事により、清の親切さの価値に気づくことが出来たのです。
坊っちゃんはまだ若く、知恵の足りない部分があり、長く生きている清の方が社会で生きるための知恵があります。
そうした知恵でサポートしてくれる清は、坊っちゃんの足りない部分を補う大切な存在です。
それが田舎にいる坊っちゃん宛の手紙からもわかります。
「坊っちゃんは竹を割った様な気性だが、只肝癪が強すぎてそれが心配になる。ーほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。ー田舎者は人がわるいそうだから、気をつけて苛い目に遭わない様にしろ。」
夏目漱石『坊っちゃん』
主人公は勝手に渾名(あだな)をつけて呼んでいて、そのことを清から注意されています。
渾名をつける行為も、主人公坊っちゃんの子供っぽさが出ているところだと思います。
ただし、侮蔑の意味を含んだ渾名は他人との軋轢を生むため、その点をわざわざ手紙で叱ってくれる半ば親のような役割をしてくれる、清の存在は主人公にとってなくてはならないものです。
そんな清という心の綺麗な人に、一心に愛情を受けて育ったからか、坊っちゃんは清のように心根が優しい人物を尊敬しています。
特に英語教師のうらなり君は、人形のように大人しく君子のような男だと認めており、その優しすぎる人柄を内心褒めながら親身に扱います。
こうした人情の厚い一面なども、血の繋がってない他人の清から世話してもらった影響からきているのかもしれません。
・坊っちゃんと赤シャツ
東京から四国へはるばる数学を教えにきた真っ直ぐな性格の坊っちゃん。
赴任先の中学校には文学士である教頭がいて、いつも気取った赤いフランネルのシャツを着ていることから坊っちゃんが勝手に「赤シャツ」と渾名をつけています。
主人公は本を読んだり俳句を読んだりする文化人に元から苦手意識があり、江戸っ子の気質からも気取ったなよなよした女みたいな趣味だと内心馬鹿にしています。
そのため文学士も似たようなもんだと始めから嫌っています。
性格的にも正直な坊っちゃんと回りくどい赤シャツは、端からわかり合うことは出来ませんでした。
この赤シャツと呼ばれる教頭は、自分の都合の良いように人を操り、自身にとって不都合な人間を排除する悪どい人でその本性を知るごとにますます嫌いになっていきます。
赤シャツの悪事
赤シャツはタチの悪いことに直接的ではない間接的な嫌がらせをして、自分自身の手を汚さずに証拠を残さないように頭が回ります。
主人公は考えるのが苦手で、単純な性格であるため、赤シャツからは簡単にやり込めると見なされて中学校に赴任し始めてからすぐに振り回されることになります。
以下が赤シャツから被害を受けた事柄3つです。
1.校長に口を聞いて、教師が団子屋や蕎麦屋にいくのを禁じさせた。
坊っちゃんにとって、団子屋や蕎麦屋に行くことは唯一の楽しみでした。
しかし、
「中学の教師は社会の上流だから、団子屋や蕎麦屋へ行くような物質的な快楽ばかり求めてはいけない。釣りや文学書を読むといった精神的娯楽を求めるように」
と赤シャツが口を出します。
そのせいで楽しみを失った坊っちゃんは窮屈な思いをします。
2.山嵐への疑念を植え付ける
赤シャツは、坊っちゃんと山嵐を不仲にさせようと、釣りに誘って「山嵐が生徒を扇動して嫌がらせをするような危ない人だ」と嘘の忠告をします。
それは坊っちゃんが来る以前に、赤シャツと山嵐が揉めたことが原因です。
うらなり君が騙されてお金を失ったせいで許嫁のマドンナとの結婚が延びているところへ、赤シャツがマドンナに結婚を申し入れてきたことが関係しています。
許嫁のうらなり君がいるにも関わらず、赤シャツとマドンナは交際を続けており、うらなり君を不憫に思った山嵐が赤シャツに意見をしても言いくるめられて助けになれませんでした。
それ以来赤シャツと山嵐は不仲になります。
赤シャツとしては、マドンナと結婚をするために山嵐とうらなり君が邪魔な存在です。
そのため2人を排除しようと企み、その企みの一つに坊っちゃんも巻き込まれたのです。
3.赤シャツにとって邪魔なうらなり君が延岡まで異動した後、給与を上げようと口をきいてくる
赤シャツとしては増給で坊っちゃんを手懐けようとしたのでしょう。
しかし坊っちゃんはこの件を、赤シャツがうらなり君を遠ざけて、マドンナを手に入れる策略だと思い、増給を断ります。
以上のような行為で、赤シャツは、
- 坊っちゃんの娯楽を否定して自分の考える教師の娯楽を押し付けて行動を制限したり
- 坊っちゃんが自分を信用するように巧みな言葉やお金の力を使って働きかけてきたり
します。
ですが、狭い田舎なので人伝に赤シャツとマドンナの関係を知り、赤シャツの人を騙すような悪どい本性に気づいた坊っちゃんは、決して赤シャツ側につくことはありませんでした。
・赤シャツへの鉄拳制裁
最終的に、赤シャツの策略に嵌り辞職まで追い込まれた山嵐と、赤シャツの悪事が許せない坊っちゃんは、2人で赤シャツを殴って改心させようとします。
口でも頭でも敵わない赤シャツを止める解決法は、もうそれしかなかったからです。
赤シャツが出入りする予定の宿に数日張り込み、やってきた赤シャツと取り巻きの野だという渾名の人物とを2人まとめて鉄拳制裁を行います。
法律上では裁かれない悪である赤シャツを、法を犯し暴力を振るって裁いた坊っちゃんたちの、どちらが悪か正義かを考えさせられる結末で、この鉄拳制裁は完了します。
坊っちゃんたちは赤シャツを殴った後巡査が来るまで待つから訴えてもいいと言って、待ちますが赤シャツたちは訴えることはありませんでした。
赤シャツが坊っちゃんを訴えなかった理由
狡猾な赤シャツが訴えなかったのは何故でしょうか?その理由は2通り考えられます。
- 落ち度が自身にあることをようやく認めた
- 山嵐は学校から追い出せたし訴えなくてもいいと思った
以上の2点が考えられます。
2の方だと、坊っちゃんの方は引き続き学校に残ると赤シャツたちも認識している筈なので、自分を殴った相手と平然に過ごすには余程の理由がないと難しいと思います。
ですので1にあげた、
自分たちのやってきたことに後ろ暗さを自覚していて、2人に殴られたことも因果応報だと落ち度を認めた
という理由で訴えなかったと考えます。
「赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」「無法で沢山だ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぼかぽか撲ぐる。」
夏目漱石『坊っちゃん』
法を犯してまで、愚かな過ちを殴ってやめさせようとした2人の覚悟は並大抵ではないと伝わったのでしょう。
それが伝わるくらいには赤シャツたちが落ちぶれていなくて良かったです。
『坊っちゃん』の感想
・坊っちゃんは実話?夏目漱石=坊っちゃんと捉えられる理由!
自分を赤シャツだという皮肉
夏目漱石は実際、田舎の中学で教職についたことがあります。
『私の個人主義』という、夏目漱石が学習院で行った講演内容をまとめた書籍で、次のように述べています。
「一年の後私はとうとう田舎の中学校へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学校と聞いてお笑いになるが、大方私の書いた「坊っちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊っちゃん」の中に赤シャツという渾名を持っている人がいるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし「坊っちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちかくいう私の事にならなければならんので、ーはなはだ有難い仕合せと申し上げたいようなわけになります。」
夏目漱石『私の個人主義』
中学で教師を務める文学士という共通点では、「赤シャツ=夏目漱石」と判断できることを言っています。
ですが、漱石は「ありがたい仕合わせ」という言葉を皮肉で使用したと考えられます。
『坊っちゃん』の作品内でも皮肉として使う部分が見られます。
「生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪いんだと公言している。気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有い仕合せだ。」
夏目漱石『私の個人主義』
講演で赤シャツのモデルを自分だと言ったのは、仕合わせという言葉を皮肉のように使用したと考えられることからも、本気で言ったわけではないと推察できます。
実際坊っちゃんを読んだら、自身は赤シャツのモデルだとは進んで言いたくもないでしょう。
また夏目漱石は、いくら頭が良くても、金や権力で人を操り、妨害する人間を軽蔑しているため、ますます自分を赤シャツと同類とは言わないと思います。
それは『私の個人主義』で、人格のない人間を次のように述べていることからわかります。
「もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。」
夏目漱石『私の個人主義』
ここでいう人格のない人間の3条件は、赤シャツの行動にも当て嵌まります。
社会において権利や金力を得た頭の良い文学士であり教頭であっても、人格が良くなければ人間として立派とは言えないということを『坊っちゃん』の赤シャツという存在で、伝えたかったのだと思います。
ただ、文学士については『坊っちゃん』でこき下ろすように書いているため多少の自虐はあるかもしれません。
おそらく、夏目漱石自身の文学士に対して持っていたイメージをそのまま書いていると思います。
文学士であるにも関わらず、文学士を酷く書くのは、相当捻くれているとも思いますが、その一方で客観的な観点に優れていた人物であったと伺えます。
坊っちゃん=夏目漱石
実際は、赤シャツよりも坊っちゃんの方が夏目漱石と似ていると思います。それは性格や経歴に共通する部分があるからです。
『私の個人主義』では、夏目漱石の人間性についても自身で言及しています。
そこでは自分は教職には向かない、正直すぎる性分を持っていて、特に教師になりたいわけでもなくのらくらしていたら声がかかり教師になったと過去の経歴を述べていています。
その性格や経緯は、坊っちゃんと類似しています。
また、夏目漱石が帝国大学で教鞭を取った際には、前任者の人気が高すぎたこともあり初めの頃は生徒達から不人気だったそうです。
『坊っちゃん』では、坊っちゃんが中学に赴任し始めた頃から生徒に揶揄われて悪戯されてしまう様子が描かれおり、生徒から反感を買われるという部分が一致しています。
そういった経験からか、生徒を扱う難しさの描写も巧みに書かれています。
学校の内情について坊っちゃんからでる批判はとてもリアルで、実際に夏目漱石も教職に着いた折に思ってたことを坊っちゃん伝いに言っている気がする程です。
教師という仕事の窮屈さを実際の夏目漱石も痛いほど感じていたことでしょう。
・『坊っちゃん』を通して夏目漱石が言いたかったこと
『坊っちゃん』を通して夏目漱石が言いたかったことは、以下の3点にまとめられるでしょう。
- 狭い社会における悪習への批判
- 本当の善人とは決して欲深くない他人を思える者であること
- 田舎での苦い経験により気づいた真の幸せ
1.狭い社会における悪習への批判。
田舎故の狭い環境は互いを監視するような息の詰まる空間です。
坊っちゃんは田舎に住む全員に監視されているような窮屈さを始終感じていました。
狭い分噂はすぐに拡がるため、誰も彼も下手な行動ができません。
それは学校というさらに狭い社会でも同じことで学校側は生徒に強く出れず、問題が起きたとしても有耶無耶にしている悪習が描写されています。
坊っちゃんを通じて、田舎の凝り固まった悪習に縛られる学校側の運営に対する批判が書かれていると感じました。
狭い組織の中で生き残るには下手な真似をせず、媚びへつらい互いを蹴落とし合うことをしなければならない状況が蔓延る現実の無情さに対する嘆きが伝わります。
2.本当の善人とは決して欲深くない他人を思える者であること
教職を勤める者が、法で捌ききれない悪事を働いている。
お金を持っているから、偉い立場であるから、善人だということではない。
あらゆる角度で見て、自身で善悪を決めなければ周囲に振り回されるだけである。
そのことを、坊っちゃんと赤シャツの関わりで伝えたかったと思います。
3.田舎での苦い経験により気づいた真の幸せ
坊っちゃんは田舎の学校社会で苦しい経験をします。
自分を本当に大事に思ってくれる清の有り難みを感じ、真に望むことは故郷の東京で簡単な家をもち清と暮らすことだと気づけたのです。
苦い経験も、本当の幸せのために自分が望むことを知るには必要だったのです。
そうした意味では、ずっと清の側に居たら得られなかった経験ができたことは、坊っちゃんにとって貴重な経験だったといえます。
自分の幸せとは何か
大人になっても子供心を忘れないことは大事と言われますが、同時にその生きづらさは相当なものです。
社会人になりたての坊っちゃんの苦悩や葛藤は、社会に出た経験者は特に共感できる部分がたくさんあると思います。
坊っちゃんは性格的に裏でこそこそやるような不正を許さず、あらゆる物事に真っ直ぐで素直でいることが正しいと考えています。
そのため他人に合わせることをせず、自身が正しいと思うことをする自己中心的な面があり社会生活では中々上手くいきません。
それでも、清のようにありのままの無鉄砲な性分を理解して受け入れてくれる存在はいます。
日常生活では常に人と関わります。
自分を大切にしてくれる相手を大切にしていくことが幸せな環境は得る上では大事になってきます。
まさに坊っちゃんは最後、劣悪な田舎社会から飛び出して住み慣れた東京で大切な清と安らかに暮らします。
自らの幸せを手に入れるには自身の幸せは何か気づき、そのために動くことが重要だということを伝えたかったのだと思います。
以上、『坊っちゃん』のあらすじ・解説・感想でした。