『あにいもうと』について
『あにいもうと』は1934(昭和9)年に室生犀星が発表した小説です。
文庫本で30ページ程度の短い作品ですが、これまでに何度も映像化されています。
一番新しいものは2018年に放送されたテレビドラマ版で、主人公を宮崎あおいさん、主人公の兄を大泉洋さんが演じています。
『あにいもうと』のあらすじ
多摩川沿いに住む赤座一家。
一家の長・赤座は川師として、人夫たちをまとめています。
仕事熱心ですが、それゆえに他人を怒鳴ることが日常茶飯事です。
母・りきは優しい性格で、献身的に家族を支えます。
兄・伊之は28歳。石職人として働いています。
しかし、放浪癖・浪費癖があり、女性関係のトラブルも多く、なかなか家に帰ってきません。
次女・さんは真面目でおとなしい性格です。奉公に出ており、お土産を携えて週に1回帰省します。
この物語の主人公であり、赤座家の長女である「もん」は23歳。
もんは交際していた大学生の子どもを妊娠した末、死産していました。
交際相手は妊娠がわかると逃げ出し、1年近く音信不通となっています。
死産後のもんは何をするにもだらしなくなり、現在は五反田の飲食店に勤務している様子。
1週間に1回帰省するものの、家族も勤め先を知りません。
ある日、赤座家に小畑という大学生が訪ねてきました。
お坊ちゃま然とした大学生・小畑こそがもんの交際相手であり、お腹の子どもの父親であったのです。
家には赤座とりきがいるのみで、子どもたちは全員留守にしていました。
もんの子どもの安否を聞き、死産の事実に安堵して、お金を置いて帰った小畑。
帰宅中の小畑を兄・伊之が見かけ、怒鳴り散らします。
大事な妹のもんを傷つけたことが許せないのです。
1週間ののち、もんとさんが帰省しました。
もんは小畑が訪問したという話を聞き、伊之が小畑を傷つけなかったかと気にします。
伊之と小畑のいざこざを知ったもんは小畑を庇い、伊之に暴言を吐き続けるのでした。
『あにいもうと』ー概要
主人公 | 赤座もん |
重要人物 | 赤座伊之、小畑 |
主な舞台 | 赤座家 (続編の記述から、現在の大田区六郷か?) |
時代背景 | 1900年頃? (赤座が上京した時期から推測) |
作者 | 室生犀星 |
『あにいもうと』の解説
・多摩川の美しさが示すもの
『あにいもうと』は、赤座が多摩川で食事をする場面から始まります。物語の最後も、赤座が多摩川で仕事をする場面です。
赤座は「川師」という仕事をしていますが、川師について調べても、詳しい情報は出てきません。「蛇籠(河川の護岸を補強する道具)」を使用する場面があることから、漁師ではなく、川に関する工事を行う職人ではないかと推測します。
一年中川原で過ごす赤座は、季節ごとの魚の美味しい食べ方を知っています。
”寒の内は旨い鮒の味噌汁をつくった。春になると、からだに朱の線をひいた石斑魚をひと網打って、それを蛇籠の残り竹の串に刺してじいじい炙った。お腹は子を持って撥ちきれそうな奴を、赤座は骨ごと舐っていた。”
室生犀星『あにいもうと』
また、『あにいもうと』は赤座が捕まえる魚の姿かたちや多摩川べりの風景など、自然描写の美しさが特徴的です。
『あにいもうと』はタイトルのとおり、兄・伊之と妹・もんの大喧嘩が話の中心となるのですが、赤座が働く多摩川が多く描かれています。
美しい自然描写のあとに人間の愛憎劇を描くことによって、その荒々しさ、醜さがより強調されています。
しかし、川はいつでも美しいわけではありません。赤座が年中蛇籠の点検を行っているように、氾濫し、人命を奪う一面をもっています。
『あにいもうと』では、この対比と二面性が物語の要であるといえます。
・物事のうらおもて
多摩川の美しさと人間の醜さの表現のほかに、『あにいもうと』には対となるものが多く描かれています。
- 学はないが世知にたけた赤座夫婦と、世間知らずな大学生・小畑
- 赤座家のある多摩川沿いと、伊之やもんが暮らしている浅草・五反田などの繁華街
- 妹の前では妹を罵倒するが、妹を傷つけた男を許さない兄の姿
- 一見自堕落な姉と、真面目な妹
- 母親思いで優しいもんと、汚い言葉で兄を罵るもん
- 家族に対する愛と憎しみ
などです。
兄と妹という関係も、同質でありながら異質な存在です。『あにいもうと』では、完全な対比ではなく、物事のうらおもてとなるものが同居し、その結果、不和を起こしているように見えます。
「禍福は糾える縄の如し」といいますが、赤座一家の関係も、一筋縄ではいきません。
『あにいもうと』を読むと、仲の良し悪しではなく、家族だからこその憎しみや甘え、その根底にあるゆるぎない愛が伝わってきます。
光が強いと影が濃くなるように、相反するように思えるものが、お互いの作用を強くしているのです。
・『続あにいもうと』
小説に限らず、映画やマンガの登場人物のその後が描かれた作品に、胸を躍らせる人は多いはず。
『あにいもうと』の数か月後に発表された『続あにいもうと』は、赤座家のその後の物語です。
〈『続あにいもうと』あらすじ〉
『あにいもうと』からしばらく経ち、唐沢という公務員に嫁いだもん。彼女は3人兄弟の母となっていました。長男は夭折してしまいましたが、次男・三男は独立する年頃です。
物分かりの良い次男に比べ、三男はことあるごとにもんに噛みついてきます。
そしてある日、もんの中でタブーとなっている、もんの父・赤座の過去に言及してしまうのです。
赤座は加賀の出身でした。そこで「首切り片槍役」として働いていたのです。赤座は妻子にその事実を隠し続けていました。ところが赤座の死後、死刑執行に関する書類や道具が見つかります。
優しかった母・りきは赤座の子どもを生んだことを後悔し、心を病んでしまいました。
兄・伊之は行方知れずとなり、妹・さんは不可解な死を遂げました。
赤座の過去を誰にも知られてはならぬと、奔走するりきともん。ありとあらゆる証拠を消したはずなのに、なぜ三男が知っているのだろう…。
三男がタブーに触れてしまったがゆえに、もんの罵倒はエスカレートし、ついに唐沢と次男までもがもんを見放します。
”お前もわたしの味方から逃げてゆく気か。………ではわたし一人で皆を引受けて暮らして行けというのか、ああ苦しい死にそうだ。どれもこれも敵だ。”
室生犀星『続あにいもうと』
・鬼とは誰のことか「市井鬼もの」
1934(昭和9)年、室生犀星は45歳でした。
1918(大正7)年に発表した『抒情小曲集』をはじめとする抒情詩で一世を風靡した室生犀星。
しかし、このころには「文壇から殆ど忘れかけられ、隠棲した文人のように思われていた」と福永武彦が記しています(福永武彦『室生犀星小伝』)。
そんななか、室生犀星はこれまでの抒情的な作風から一転、「市井=ちまた、人と人のあいだ」に潜んでいる「鬼」を描いた「市井鬼もの」を発表し、再び注目を集めます。
『あにいもうと』では、もんと伊之の大喧嘩がいかにも「鬼」という印象を残します。
特にもんの罵詈雑言には、鬼気迫るものすら感じます。
しかし、この物語の「鬼」はもんと伊之だけでしょうか。
首切り役人だった赤座は、当時「鬼」に近い存在だと思われていたかもしれません。
冒頭の、子持ち石斑魚を骨まで舐って食べる赤座の姿も、これまた地獄の鬼のようです。
しかし、赤座には一家の父という一面、腕のいい職人という一面もあります。
子持ちの魚を貪る赤座と、妊娠した娘を守る赤座。どちらも同じ人間です。
もんも伊之も、相手を口汚く罵りながらも、家族思いの一面があります。
周囲から「嬶仏(かかあぼとけ)」と呼ばれるほど優しいりきが、赤座の過去を知った途端これまでの人生を激しく後悔する様も鬼のようですし、育ちの良い大学生・小畑がもんに対して行ったことは、まさしく鬼の所業です。
(余談ですが、『続あにいもうと』には、かつて私(もん)に言い寄った大学生が今では知事になっている、というもんの台詞があります。小畑はもんとの一件ののちも、何事もなく生き、順調に出世したのかもしれません)
自然と人、人と人のあいだだけでなく、ひとりの人間のなかにも対比するもの、うらおもてとなるものが含まれている。
そして全てのものごとの中に、鬼は潜んでいる。『あにいもうと』はそういった物語であると、私は読みました。
触れられたら鬼と人間が瞬時に入れ替わる鬼ごっこのように、ほんの少しのきっかけで、次は自分が鬼になるかもしれません。
『あにいもうと』の感想
・映画やドラマになった『あにいもうと』
2022年までに、『あにいもうと』は3回映画化、8回ドラマ化されています。
ドラマ版の一番新しいものは2018年に放送され、兄を大泉洋さん、もんを宮崎あおいさんが演じています。
もんは桃子と名前を変え、職業も飲食店勤務からトラック運転手になるなど、時代背景や結末が原作とは異なっています。
映画化2回目の1953年版は、もんを京マチ子さんが演じています。
室生犀星は映画が好きで、特に京マチ子さんが御贔屓だったとのこと。この配役には喜んだのではないでしょうか。
・もんと読者の取っ組み合い
『あにいもうと』は、疲れているとき、体力がないときには読めない作品です。
もんの罵りの激しさ、気性の荒さに、こちらの体力が持っていかれてしまうのです。それはさながら、もんと取っ組み合いの喧嘩をしているかのよう。
本を開くと、わたしをわかって!わたしを受け止めて!というもんの心の絶叫が聞こえてきます。
もんはもしかしたら、心のよりどころを持たないまま大人になったのかもしれません。
もんの暴言に辟易しながらも、私がもんを嫌いになりきれないのは、もんが「ああ苦しい死にそうだ」とは言うものの、「死んでやる」とは言わないから。
もんは赤座家の生き残りで、したたかに生きていく力のある人間です。
『続あにいもうと』のさらにその後の日々を、もんが穏やかに生きた事を願わずにいられません。
・「生き抜いてやる」という決心
生母を知らず、養母から過酷な仕打ちを受けて育った室生犀星。
『続あにいもうと』でも、母・りきが赤座の子どもを生んだことを後悔する場面がありますし、もんは死産の経験を唐沢に話しません。
母と子という人生の最初の場面で傷ついた経験が、作品にも反映されているのではないでしょうか。
しかし犀星はそこから這い上がり、詩人・小説家として大成し、一家の良き父となりました。
室生犀星の小説には、読後に不思議な高揚感があります。「この人生を生き抜いてやる」という気持ちになるのです。
『あにいもうと』から感じるのは、土砂降りの中ぬかるみに足を取られて、それでも歯を食いしばって立ち上がろうとする強さ。
その強さには野性の美があり、私もそういった強さを持った人間でありたいと、心から思います。