夏目漱石『それから』考察|『三四郎』との関係から花の暗示まで!

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夏目漱石『それから』考察|『三四郎』との関係から花の暗示まで!

『それから』の紹介

『それから』は、明治42年6月から同年10月にかけて朝日新聞に連載された夏目漱石の長編小説。

漱石前期三部作の二作目として知られており、定職に就かず親の金で暮らす主人公・代助が、友人の妻・三千代と生きていく決意をするまでを描いた、略奪愛の物語です。

ここでは、そんな『それから』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『それから』ーあらすじ

裕福な実業家の次男長井代助は、大学卒業後一度も定職に就かず、親の金で気ままな生活を送っていました。

ある時、代助の友人平岡と、その妻三千代が東京に戻ってきます。

平岡は銀行に勤めていましたが、部下の公金使い込みの責任を取り、職を失っていました。

ある日、三千代が代助の自宅を訪ねてきます。

平岡は高利貸しに多額の借金をしており、三千代は代助に借金を頼みに来たのでした。

三千代が金の工面に苦労する一方、平岡は芸者遊びにうつつをぬかしており、三千代を愛していながらも、義侠心のために平岡に譲った過去を代助は後悔します。

やがて思いつめた代助は、三千代に愛の告白をします。三千代もまた、代助に心を寄せていました。

平岡に三千代のことを話さなければならないと決心した折、代助は三千代が倒れたことを知ります。

代助は三千代を譲ってくれるよう平岡に頼みますが、病身で渡すのは義理が立たないから三千代が回復してからにしてくれと平岡に告げられ、二人は絶交します。

平岡からの手紙で事の経緯を知った代助の父は、代助に勘当を言い渡します。

裕福な生活や家族を捨てて三千代を選んだ代助は、職を探すと言って、町へ飛び出していくのでした。

『それから』ー概要

主人公 長井代助:裕福な実業家の次男。30歳。東京帝国大学を卒業し、一度も職に就いたことがない。
重要人物 ・平岡三千代:平岡常次郎の妻。子供を亡くしたことがきっかけで心臓を患っている。
・平岡常次郎:代助の中学校時代からの友人。
主な舞台 東京
時代背景 明治42年
※作中では、実際に起きた事象【例:東京高等商業紛争(明治41年〜明治42年)、日糖事件(明治42年)】について言及されており、作品執筆と同じ明治42年の日本を描いたものと推測できます。
作者 夏目漱石

『それから』―解説(考察)

・高等遊民を描いた小説

主人公の代助は、東京帝国大学卒でありながら、30歳になるまで一度も職に就いたことがありません。

父や兄夫婦からの援助を受けて、悠々自適な生活を送っています。

『それから』とは、代助という一人の高等遊民を描いた作品だと見ることができます。

高等遊民とは、大学などの高等教育を受けながら、経済的不自由がなく、定職に就かず暮らしている人を指し、明治〜昭和初期にかけて多く使われた言葉です。

現代的な言い方をすれば、高学歴ニートが近いでしょうか。

代助は明治の日本社会の在り方に批判的であり、社会に対する一種の反抗として、働くことを拒絶しています。

代助はけっしてのらくらしているとは思わない。ただ職業のためにけがされない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。

夏目漱石『それから』,角川文庫,1953年初版,36頁

「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大げさに言うと、日本対西洋の関係がだめだから働かないのだ。(中略)こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。ことごとく切りつめた教育で、そうして目の回るほどにこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。

夏目漱石『それから』,角川文庫,1953年初版,90頁

もしポテト―がダイヤモンドよりたいせつになったら、人間はもうだめであると、代助は平生から考えていた。向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼はいやでもダイヤモンドを放り出して、ポテト―にかじりつかなければならない。

夏目漱石『それから』,角川文庫,1953年初版,196頁

代助はまさに高等遊民を代表するような人物であり、代助自身もまた、己が高等遊民であることを認識し、高等遊民的生活に信念やこだわりを持っていたことが窺えます。

ちなみに、漱石作品には『それから』の代助以外にも、高等遊民が多く登場します。

高等遊民という言葉が作中で用いられているのは、後期三部作の一つ『彼岸過迄』だけですが、例えば『こころ』の先生も、高等遊民の代表例と言える人物です。

漱石作品を読む上で、高等遊民は欠かすことのできない存在だと言えるでしょう。

・『三四郎』との関係性

前期三部作『三四郎』『それから』『門』はいずれも、主人公の恋愛模様を描いた作品です。

三作品は、登場人物も舞台も年代も異なる独立した話ですが、それぞれの作品は関係し合っています。

前作『三四郎』は、田舎から進学のために上京した若者・三四郎が、東京での様々な経験や交流を通し、美禰子という女性に惹かれ、失恋する話です。

『三四郎』と『それから』がどのように関係しあっているかを考えるため、以下の二点を考察します。

  1. 主人公の人物像の違い
  2. 主人公が迎える「崩壊」という共通項

それぞれ解説を進めていきます。

1.主人公の人物像の違い

漱石が記した『それから』の予告を、以下に引用します。

色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描たが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何うなるかは書いてない。此意味に於ても亦それからである。

夏目漱石『それから』予告,青空文庫

三四郎と代助は全くの別人物ですが、代助は、三四郎という人物を起点として生み出された存在だと分かります。

三四郎は田舎から出てきた23歳の大学生で、代助は30歳の高等遊民です。

三四郎は都会に翻弄され、社会との繋がりを持とうとあくせくしますが、代助は社会に対して批判的で、社会から一線引こうとする立場です。

大学に入りたてで世界の広がりに期待と不安を抱く若者と、歳を重ねていく内に厭世的な気分になるアラサーは、対照的ではありますが、一つの未来の形としてありうるでしょう。

一見、両作品はなんの関係性もないように思われますが、予告文で明かされているように、『それから』は『三四郎』を引き継ぐようにして成立した側面を持ち、代助は、三四郎の未来像の可能性の一つとも考えることができるでしょう。

2.主人公が迎える「崩壊」という共通項

『それから』が『三四郎』を引き継ぐ側面を持つと言っても、基本的に両作品は独立しており、話の筋は異なります。

主人公のヒロインへの想いがどうなったのかという点についても、『三四郎』ではヒロインの美禰子が別の男性と結婚する結末に対して、『それから』では代助の想いは三千代に受け入れられます。

『三四郎』は失恋、『それから』は恋の成就という全く逆の展開です。

しかし両作品の主人公は、恋愛を通して、それぞれある「崩壊」を迎える点で共通しています。

『三四郎』の三四郎は、恋愛に対して抱いていた虚妄に気が付くことで、現実世界のイメージの崩壊を迎え、迷い羊状態に陥ります。

『それから』の代助は、三千代を選んだことで、それまでの豊かな生活基盤を失い、職を探す状況に陥ります。

社会を批判し、高等遊民的生活を何よりも大事にする代助が、あれだけ忌避していた職を探しにいくことは、それまでの代助の思想や生き方、アイデンティティそのものを捨て去ることと同義です。

つまり、代助の恋の成就は、高等遊民としての敗北を意味し、それまでの自己の崩壊という結果を招いているのです。

両作品の関係性をまとめると、

【『三四郎』→『それから』】
『それから』は『三四郎』の延長上に存在する作品である

【『三四郎』=『それから】
『それから』と『三四郎』は一人の男の「崩壊」の様を描いた作品である

という構図で見ることができるでしょう。

・花が暗示するもの

『それから』には、様々な種類の花が登場します。

どのような花が作中で登場するか、表にまとめました。

色の記載 どのようなシーンに登場するか
(〇内の数字は章を表す)
八重の椿 ①枕元に落ちていた椿の匂いを代助が嗅ぐ
(記載なし) ②代助の家の庭に生えている桜を、代助と平岡が眺める
アマランス
(※)
④代助が鉢植のアマランスの花粉を取って雌蕊に塗りつける
君子蘭 (記載なし) ⑧代助が花の散った君子蘭の葉を剪定する
鈴蘭 ⑩代助が鈴蘭を鉢に活ける
⑩三千代が鈴蘭を漬けている鉢の水を飲む
薔薇 ⑩庭の隅に咲いた薔薇を代助が見る
擬宝珠 (記載なし) ⑩手水鉢の傍にある擬宝珠の葉を代助が見る
柘榴 (記載なし) ⑩柘榴の花を代助が見る
百合 ⑩三千代が三本の百合を代助に買ってくる
⑭代助が百合を沢山買ってきて、自宅に飾り、三千代を招いて愛の告白をする

(※)作中ではアマランスと表記され、角川文庫版注釈でも葉鶏頭(ハゲイトウ。アマランサスという植物の一種)とされていますが、描写される花の特徴から、正しくはアマリリスと思われます。

このように、非常に多くの花が登場していますが、注目したいのは、色の明記がある花は、決まって赤と白です。

繰り返し描かれる赤い花と白い花が持つ意味について、順に考察を進めます。

1.赤い花について

代助は「赤」について、『それから』第五章で次のように考えています。

それから十一時すぎまで代助は読書していた。がふとダヌンチオという人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分かって装飾しているという話を思い出した。(中略)
代助はなぜダヌンチオのような刺激を受けやすい人に、奮興色とも見なしうべきほど強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。
代助自身は稲荷の鳥居を見てもあまり好い心持ちはしない。

夏目漱石『それから』,角川文庫,1953年初版,61~62頁

赤というカラーにあまり良い気持ちを向けていないにもかかわらず、代助が触れたり見たりする花は赤が多いという矛盾があります。

これはつまり、赤い花は代助の好みではなく、作者の意図を示すアイテムであり、

  • 赤い花=代助に起こる大きな不安を暗示するもの

と考えることができます。

作品冒頭の、赤い八重の椿に焦点を当ててみましょう。

枕元に落ちていた、赤ん坊の頭ほどもある大きな椿の花を見つめていた代助は、思い出したように心臓の鼓動を確かめ始め、死の恐怖を覚えます。

赤い椿→赤い血潮の流れる心臓→死への不安という流れから、赤い椿の描写には、不穏な印象を受けます。

別作品になりますが、椿が印象的に映る情景として、明治39年の漱石の小説『草枕』の一場面が思い起こされます。

『草枕』でも、椿は「異様な赤」、「毒々しい」、「血を塗った、人魂のように落ちる」などと表現され、不穏かつ不吉な印象を読者に与えています。

『それから』全体を通して、椿に始まり繰り返し登場する花の赤色は、クライマックスシーンではありとあらゆる物の色になって描かれ、怒涛の勢いで代助の世界を覆い尽くします。

「ああ動く。世の中が動く」とはたの人に聞こえるように言った。彼の頭は電車の速力をもって回転しだした。回転するにしたがって火のようにほてってきた。(中略)
たちまち赤い郵便筒が目についた。(中略)傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高くつるしてあった。(中略)四つ角に、大きい真っ赤な風船玉を売ってるものがあった。(中略)小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とすれちがうとき、また代助の頭の中に吸い込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。しまいには世の中が真っ赤になった。

夏目漱石『それから』,角川文庫,1953年初版,297~298頁

自己の崩壊を来した代助は、これから三千代と二人で生きていく未来に大きな不安感や焦燥感を抱いており、この不安感は、真っ赤に染まった狂気の世界として表現されています。

最終的に火のようになって代助の頭の中を焼き尽くす赤は、代助の不安を象徴するカラーなのです。

赤い花は、代助に起こる大きな不安や絶望の暗示であり、代助の傍にしか描かれません。

特に、椿は死への不安に結びついていることから、代助の自己の崩壊という、自己存在の精神的死に対する不安を暗示していたと捉えることができるでしょう。

2.白い花について

作中では、白い花として、百合と鈴蘭が登場します。

赤い花が代助の傍にだけ登場するのに対して、百合と鈴蘭は三千代がいる場面で登場します。

特に百合の花は、第十四章で、代助が三千代に愛の告白をするシーンで非常に印象的に描かれています。

立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花という諺がありますが、百合は美しい女性の例えとしても用いられる花です。

このような百合の花が持つイメージも踏まえ、

白い花=三千代との美しい愛を象徴するもの

であると考えます。

ちなみに鈴蘭は、漱石の自筆原稿の中では「リリー、オフ、ゼ、ワ゛レー」と表記されています。

「lily of the vally」は鈴蘭の英語名であり、直訳すると「谷間の百合」となります。

三千代の美しさ、純潔な愛の美しさを表すために、漱石は白百合と鈴蘭という二つの「百合」を用いたのだと思います。

また、余談として、1836年にフランスの小説家バルザックが書いた『谷間の百合』という小説があります。

バルザックの『谷間の百合』は、不幸な青年と伯爵夫人の不倫の話です。

鈴蘭だけわざわざ英語名で登場させた漱石は、バルザックの『谷間の百合』との連想から、『それから』が不倫話であるということを、作品中盤の時点で読者に示していたという見方もできるでしょう。

『それから』ー感想

・『それから』の"それから"

恋愛模様を描く漱石前期三部作の中でも、『それから』は唯一、恋の成就場面が描かれた作品です。

しかし、そこに至るまでが非常に長く、前半のほとんどが代助の高等遊民的生活の描写です。

三千代との恋に落ちてからの話の展開は早く、そのスピード感と心理描写に、知らず知らずのうちに引き込まれてしまいます。

特に、クライマックスの鬼気迫る赤の描写は、前半の高等遊民的生活がゆったりと描かれていただけに、非常に対照的に感じられ、代助の自己の崩壊に伴う不安感・焦燥感・絶望感がより際立って浮かび上がります。

狂気の世界に堕ちていく代助が"それから"どうなったのか?

漱石は、代助がそれからどうなるかは書いていないと予告文に記し、結末は読者の想像に委ねられた形ですが、話の筋は、前期三部作の三作目『門』に繋がっていきます。

是非、『三四郎』『門』と合わせて読むことをおすすめしたい作品です。

以上、夏目漱石『それから』のあらすじ・解説・感想でした。

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。