福永武彦『廃市』直之の死が意味することとは?

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福永武彦『廃市』直之の死が意味することとは?

『廃市』について

『廃市』(はいし)は福永武彦の短編小説です。

1959年7月から9月に掛けて、雑誌『婦人之友』で連載されており、また1983年には大林宣彦監督により映画化されました。

ここではそんな『廃市』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『廃市』のあらすじ

〈僕〉は10年前に訪れた、ある田舎町を思い出していました。

たまたま読んだ新聞で、その町の大部分が火事により焼けてしまったことを知ったからです。

あの夏、〈僕〉は大学生でした。

卒業論文を書くため、静かな場所に逗留したいと考えていた〈僕〉は、叔父からある町の旧家を紹介されます。

汽車に乗って着いた町は、運河が印象的な、いわゆる”水の町”でした。

〈僕〉が逗留することとなった貝原家は、おばあさん、姉・郁代とその夫・直之、妹・安子の4人家族。姉妹の両親はすでに他界し、郁代が婿養子を取ったそうです。

しかし、〈僕〉が郁代夫婦を見かけることはありませんでした。

ある日〈僕〉は、郁代が近所の寺院に住んでおり、直之は愛人・秀と暮していることを知ります。

祭りの晩、〈僕〉は正義感から直之に詰め寄ります。直之はなんでもあけすけに話すように見えて、何かを言い淀んでいるようでした。

夏が終わるころ、直之と秀が心中します。

通夜の席で、郁代と安子は言い争いを始めました。

郁代は、直之が本当に愛していたのは郁代でも秀でもなく安子であり、安子の幸せを願うあまり、自分は家を出たのだと言うのです。

それを聞いて安子は、直之が愛していたのは郁代であると言い返します。

郁代は棺に向かい、「あなたが好きだったのは、一体誰だったのです?」と泣くのでした。

〈僕〉は町を離れる汽車のなかで、直之が愛していたのは安子だったのではないかと考えます。

そして〈僕〉もまた、安子を愛していたことに気付くのでした。

『廃市』ー概要

語り手
重要人物 貝原安子
主な舞台 運河のある架空の町
時代背景 戦後
作者 福永武彦

『廃市』の解説

・3人のおんなたち

『廃市』における最大の事件は直之の死であり、最大の関心事は直之が愛していたのはだれだったのか、ということです。

直之の死に触れる前に、彼をめぐる3人の女性を紹介します。

・郁代

…直之の妻。近所の寺に籠っている。

悲劇的かつ古風な美しさと気品をもち、お雛様のよう。

善良で真面目、控えめな性格。直之が自分を愛しているわけがないと、頑なに信じている。

・安子…

郁代の妹。20歳くらい。

明るい性格で、よく泣き、よく笑うが、時々暗い発言をする。

自分の住む町は死んだ町であり、自分はここから出ていけないのだと思っている。

・秀…

直之の愛人。直之とともに死ぬ。

垢ぬけた美人。気位の高い貝原姉妹と違い、しおらしい美しさをもち、家庭的。

直之が誰を愛していようと、自分は直之のそばにいるだけで良いと思っている。

なお、〈僕〉はイギリス文学専攻の大学生、直之は〈僕〉より少し年上の、貴公子然とした実業家です。しかし直之の事業は傾いています。

・直之の死が意味すること

もしも『廃市』が愛をめぐる物語であるならば、『廃市』ではなく、恋愛小説らしい、もっと効果的なタイトルをつけることが出来たはずです。

また、直之が死ぬ必要性も低くなります。

では、なぜ直之は死んだのでしょう。直之の死には、なにか意味があるはずです。

それは、直之が死んでいく町そのものであり、「人間の死」と「町の死」が重ね合わされているからです。

福永武彦は、音楽の技法を用いた小説を多く残しました。

『廃市』では人間の死と町の死が互いに干渉し、絡み合い、二重奏を奏でているのです。

直之をめぐる3人の女性のなかで、郁代は古風な魅力を持っていました。

対する安子は明るく活発で、お転婆な若い女性です。作中では、この二人の特徴の対比が繰り返し描かれています。

郁代が古き良きもの、安子が新しいものを象徴しているのです。

・直之=財政難に陥った町
・郁代=古き良き時代。もう帰ってこないもの。
・安子=新しい時代。将来を見据える人。
・秀=町とともに消えていく、故郷を離れられない人。

このように考えると、秀が直之と離れない理由、そして二人がともに死んだ理由が見えてきます。

直之は、古き良き時代の魅力に抗えず、けれども新しいものを拒否することもできず、行き場を見失って死んでいったのです。

方針が定まらず、迷走の末に滅んだ国や町のように。

・火葬される町

〈僕〉があの夏の出来事を思い出したのは、火災を報じる新聞記事がきっかけでした。

〈僕〉に強烈な印象を残しつつも、いつの間にか忘れられていたあの町が、あらかた焼けてしまったというのです。

『廃市』は、以下のエピグラムから始まります。

……さながら水に浮いた灰色の棺である。/北原白秋「おもひで」

このエピグラムは、北原白秋が自らの生い立ちを振り返った「おもひで」の一文です。

北原白秋の生家は、福岡県柳川市にあります。

「おもひで」のなかで白秋は、柳川は「廃市」であると言い、その姿は「さながら水に浮いた灰色の棺である」と表現しています。

福永武彦はこの文章から、『廃市』の着想を得たのでしょう。

このエピグラムのとおり「廃市」=「棺」であるのだとしたら、棺の行き着く先は「火事」=「火葬」ではないでしょうか。

あの夏〈僕〉が過ごした町は決定的な死を迎え、ついに荼毘に付されたのです。

『廃市』の感想

・廃市=柳川市か

前述のとおり、「廃市」という言葉は、柳川市について書かれた北原白秋の文章に由来します。

また、映画が柳川市で撮影されたため、廃市=柳川市であると断言されがちです。

しかし私は、柳川市が舞台であるとは思いません。

福永武彦は現地に行くことなく、柳川市の写真を見て『廃市』を書いたといいます(※)。

福永武彦の故郷は、福岡県筑紫野市二日市です。

筑紫野市の「西鉄二日市駅」から柳川市の「西鉄柳川駅」までの所要時間は、約40分。「JR二日市駅」から「西鉄柳川駅」までは約1時間となっています。

これは現在の所要時間ですので、福永武彦が生きた時代は、もう少し時間が掛かっていたはずです。

想像でしかありませんが、柳川市は少し遠方の、水が印象的な町という立ち位置だったのではないでしょうか。

「古池や蛙飛び込む水の音」という松尾芭蕉の有名な俳句があるように、ささやかな水音が聞こえてくると、その場の静けさが引き立ちます。

絶えず水の音が聞こえてくる、静かな町。その静けさと古風な抒情が、滅びの予感に繋がったのでしょう。

私も10年ほど前に、柳川市を訪れたことがあります。

短歌に熱中していた私は、柳原白蓮が過ごした旧伊藤邸、菅原道真の和歌が有名な太宰府天満宮、そして柳川市の北原白秋生家をめぐったのでした。

私の記憶に残る柳川市は、白い壁と緑の柳、川下りの舟が涼やかな、清潔で静かな町です。

土地の方々の努力の賜物かもしれませんが、けして廃市ではない、生きた町でした。

以上のことから、廃市=柳川市だと断言することは出来ません。

しかし、柳川市は作品の源泉として、重要な役目を果たしています。

・日本中の「廃市」

安子は自身の住む町について、このように話します。

「昔ながらの職業を持った人たちが、昔通りの商売をやって、段々に年を取って死に絶えて行く町。若い人はどんどん飛び出して行きますわ、あとに残ったのはお年寄ばかりよ。」

安子が「廃市」と形容した町の特徴は、いまや日本の地方都市の大部分に当てはまるのではないでしょうか。

柳川市は『廃市』において重要な役割を果たしましたが、物語の本当の舞台は、日本各地に散らばっているのです。

「廃市」が日本中に広まった今、『廃市』は多くの人の郷愁に訴えかける作品となりました。

私は九州の出身です。『廃市』に登場する船上での祭り(水神様のお祭り)は、私の故郷にも同様のものがありました。

親戚や近所の人との濃密な付き合い、方言と共通語の使い分けなど、思い当たる節が多々あります。

私も自身の故郷について安子と全く同じように考え、上京しました。

〈僕〉が見送った町の棺には、安子や郁代だけでなく、学生だった自分の姿や、安子への淡い恋心が入っていたことでしょう。

きっと私が見送る棺にも、私の「廃市」の人々や町並みだけでなく、そこで過ごした自分自身が入っているのです。

自分から手放した「廃市」。けれどそれを思うとき、ぎゅっと締めつけられるような懐かしさと、少しの罪悪感に襲われます。

九州で生まれ、8歳で上京した福永武彦にも、郷愁を感じる瞬間があったのではないでしょうか。

以上、福永武彦『廃市』のあらすじ・解説・感想でした。


(※)池澤夏樹・池澤春奈『ぜんぶ本の話』毎日新聞出版,2020,p.206
・北原白秋の「おもひで」は、青空文庫『思ひ出 抒情小曲集』に拠りました。