『海と毒薬』の紹介
『海と毒薬』は、遠藤周作が昭和32年(1957年)に発表した小説です。
第二次世界大戦中に実際に起きた、捕虜の生体解剖事件をモデルとしています。
そんな『海と毒薬』について、あらすじ・解説・感想をまとめました。
『海と毒薬』のあらすじ
東京の郊外に引っ越してきた「私」は、近所にある勝呂医院に通い始めました。
無口ではあるものの腕はいい医者、勝呂に「私」は興味を持ちます。
ひょんなことから、勝呂がある事件に関わったことを知ってしまいます。
その事件とは、戦争中に起きたアメリカ人捕虜の生体解剖。
当時、勝呂は大学病院の研究生でした。
上司の橋本教授は病院内の出世争いに参加。
しかし、前医学部長の親類である患者を手術で死なせたことで、先行きに暗雲が立ち込めます。
ある日、勝呂は捕虜の生体解剖に誘われます。
同時に参加を打診されたのが、看護師の上田ノブと同じ研究生の戸田。
満州で子供を失い、夫にも捨てられたノブは、橋本教授の妻・ヒルダ夫人への反発心から手伝うことを決めます。
一方、戸田は、子供の頃から罪の意識を感じることができません。
戸田は生体解剖をすることで良心の呵責を感じるか、興味を持ちます。
そして当日、大学病院では捕虜を生きたまま解剖し、死なせてしまうのでした。
『海と毒薬』―概要
物語の主人公 | 勝呂二郎 |
物語の重要人物 | 「私」、戸田、橋本教授、上田ノブ、大場看護師長 |
主な舞台 | 九州F市、東京 |
時代背景 | 第二次世界大戦中、第二次世界大戦後 |
作者 | 遠藤周作 |
『海と毒薬』の解説
・『海と毒薬』の構成
『海と毒薬』は、タイトルにもある「海」について考察されるケースが多く見られます。
しかし、私はあえて「語らない人たち」に焦点を絞って考えてみたいと思います。
『海と毒薬』は4つの視点から成る小説です。
それは、
- 「私」
- 勝呂
- 上田ノブ
- 戸田
です。
最初のパートでは、「私」が患者として勝呂と出会い、勝呂が関わった事件を知るくだりが描かれます。
次に、勝呂の視点です。大学病院で研究生として働く勝呂の日常と心境が綴られます。
続いて、上田ノブの手記です。夫と子供を失った過去や、生体解剖に参加することを決めた背景などが語られます。
その後、戸田の独白に移ります。子供の頃から罪の意識を感じたことがないという戸田。その性格が、いくつものエピソードとともに紹介されます。
最後に勝呂のパートに戻り、生体解剖の様子が記され、ここで物語は幕を閉じます。
・語らない登場人物
『海と毒薬』の特徴として、以下が挙げられます。
- 登場人物それぞれがフォーカスされたパートで構成。
- そのうち勝呂のみ三人称、他は一人称を使用。
一人称を用いることで、登場人物の内面をじっくり描いた小説と言えるでしょう。
だからこそ、私は内面が見えない登場人物の存在が目につきました。
その登場人物とは、橋本教授と大場看護婦長です。
橋本教授は勝呂と戸田の上司であり、医学部長の椅子を巡って争っています。
点数を稼ぐために行った手術で、前医学部長の親類を死なせてしまいます。
大場看護婦長は、その手術で隠蔽を手伝い、さらに生体解剖にも参加します。
橋本教授と大場看護婦長は、作品中でほとんど話さず、周囲が次のように評す様子から想像するしかありません。
【橋本教授】
- 「おやじは例のオペ以来、権藤教授の第二外科に押され気味だからね。この際、彼等と手を握って西部軍の医官とつき合うのも悪くないし――」(遠藤周作『海と毒薬』角川書店、80ページ)
- 「おやじは一瞬たちどまり、壁にぐったりと靠れていた勝呂の今にも泣きだしそうな顔にチラッと眼をやって、急に視線をそらせた」(同、148ページ)
- 「おやじは手術台から体を起し、突然怒りのこもった声で呶鳴った。「こいつは患者じゃない」」(同、153ページ)
- (生体解剖後の様子について)「落した肩や曲げた背や夕闇に光る銀髪は、ひどく老いこみ、窶れているように思われた」(同、168ページ)
【大場看護師長】
- (生体解剖の場に現れた大場看護婦長について)「能面のような表情をした」(同、141ページ)
- (生体解剖後の様子について)「看護婦長の顔が痩せこけて、頬骨がひどく飛び出ているように思われる」(同、169ページ)
- 「(ああ、イヤらしか。この石みたいな女、橋本先生に惚れとったんだわ)」(同、173ページ)
- 「わからないこと」への不安
抜粋した部分のみを読めば、次のように考えられます。
- 橋本教授は出世争いに焦って生体解剖に協力したものの良心の呵責を感じている。
- 大場看護婦長は橋本教授への恋心から生体解剖に協力した。
戸田や上田ノブの動機に比べると、わかりやすいと言えます。
ただし、これはあくまでも周囲による推測です。
本人たちには本人たちしか理解できない理由があるのかもしれません。
生体解剖という残酷かつ非道な行為に手を染めつつも、その動機は本人たちからは明かされません。
この小説には、同様の人物が他にも出てきます。
二人とも戦時中、人を殺した過去を持っています。
そうした過去を持っているにもかかわらず、「私」に対しては穏やかに接します。
そのギャップから、「私」はこの二人に好奇心を掻き立てられます。
「私」と勝呂の周囲に、こうした人物をあえて配置した意図は何なのでしょうか。
戸田や上田ノブが生体解剖に手を染めた理由が彼らの過去とともに紹介されることで、賛否は別として彼らの行動は理解できます。
しかし、あえて理由や背景を描かない人物を登場させることで、人間の二面性を強調する狙いがあったのではないでしょうか。
平常時は、ごく普通の近所の人であり職場の仲間。
異常時は、非道なことにも手を染める人間。
事件が起きた際、「まさかあの人が」「普段はいい人だった」と周りが言うケースがよく見られます。
裏を返せば、いい人に見えた人さえも異常な状況下では、非道な行為をする可能性があるということ。
そんな人間の弱さを描くために、遠藤周作は「語らない登場人物」を用意したのではないかと思います。
『海と毒薬』の感想
・他者から見た自分
遠藤周作は生涯に伝記をいくつか残しています。
伝記を書くために数多くの資料を読んだり、現地に足を運んだりして、かなり本人について調べていたようです。
資料を読み込むなかで、やがて遠藤周作は次のように考えるようになりました。
我々が死んだあと、この地上に残す自分の存在とはすべて他人の見た自分である。ある人は我我をいい奴だと思い、他の人はイヤな男だと思っている。(中略)だがそれら他人の眼を通したイメージの集積がつくりあげた自分の姿――、その姿をもし我我が墓のなかで知ったとしたならば、どうだろう。我々はきっとこう叫ぶにちがいない、「自分はそれだけではない。自分にはもっと別のXがあった筈だ
遠藤周作『人間のなかのX』中央公論社、14ページ
伝記を書くにあたって、その人のすべてのエピソードを書くことはできません。
どう取捨選択をするかが、作者の個性であり力量でもあると言えるでしょう。
とはいえ、遠藤周作の考えも一理あります。
これは伝記で描かれる人たちだけの話ではありません。
戸田にしても上田ノブにしても、彼らの過去がじっくりと描かれているため、彼らがどんな人なのかを読者も説明できるでしょう。
けれども、生体解剖に関わったことで、その関係者という面がクローズアップされるようになります。
・抑止力と再生
残酷な行為に手を染めたら、一生そのレッテルを貼られて生きていかなければならない。
そのような考えは、犯罪を防ぐ抑止力ともなりえるでしょう。
一方で、本人が反省し再生を願った場合、足枷ともなり得ます。
まさに勝呂がそのいい例でしょう。
事件後、勝呂がいい医療を提供していても、事件を知った「私」は勝呂に恐怖を感じます。
「私」がこれまで出会ったどんな医師よりも、勝呂の腕が優れていたにもかかわらず。
「私」が恐怖を感じていることに気づいた勝呂は、一体どう思ったのでしょうか。
「患者のためにこんなに頑張っているのに」と傷ついたのでしょうか。
「仕方がない」と諦めの気持ちを抱いたのかもしれません。
事実、
「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが」(同、30ページ)
と勝呂はつぶやきます。
しかし、心のうちでは、「自分にはもっと別のXがある」と考えた可能性もあります。
私たちも日常生活で「違う。私にはもっと違う一面がある」と否定したくなった経験はあるはずです。
それを誤解だと訴えるケースもあるでしょうし、諦めることもあるでしょう。
『海と毒薬』の戸田や上田の良い一面は、物語の中には出てきません。
もし彼らの別の一面(いい隣人でありいい同僚)がよりクローズアップされていたら、彼らに対してまた違う感情を抱くようになるのだろうか、と考えてしまいます。
それとも、そんな「いい人」でもひどいことをする、という事実に打ちのめされるのでしょうか。
別のXについて、知りたいような知りたくないような気持になります。
以上、『海と毒薬』のあらすじ・解説・感想でした。