林芙美子『放浪記』三部構成で読む『放浪記』の進化

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林芙美子『放浪記』三部構成で読む『放浪記』の進化

『放浪記』紹介

『放浪記』は、林芙美子著の自叙伝です。

第一部・第二部の原型となる『放浪記』『続放浪記』は1930年に刊行、第三部はそれから17年後の1947年に発表されました。

本作は、大正11年から5年間、日記風に書き記された雑記帳をもとにまとめられたもので、第一部の原型となる『放浪記』は、貧困にも挫けず日々を実直に生きる強さが人びとの心を打ち、刊行後すぐにベストセラーとなりました。

ここでは、『放浪記』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『放浪記』あらすじ

幼少期の芙美子は、行商を営む両親と木賃宿を転々とする放浪生活を送っていました。

女学校を卒業すると恋人を追って上京したものの、男に裏切られた末、ひとりきりの東京で途方に暮れることになります。

職を転々とする貧しい生活、貧乏につけ込んで言い寄ってくる男たち、書きためた詩や童話はいっこうに評価されない。

そんな辛い境遇にあっても、芙美子は最後まで書くことへの情熱を捨てず、憎しみも辛さも文学に昇華しようともがきつづけます。

『放浪記』概要

主人公

林芙美子

重要人物

母、義父、時ちゃん、十子、松田さん、利秋君

主な舞台

北九州、尾道、東京

時代背景

19221927年ごろ

作者

林芙美子

『放浪記』解説(考察)

『放浪記』の成り立ち

本作は、大正11年から5年間にわたって記された雑記帳を抜粋して構成された自叙伝です。

現在、新潮文庫で刊行されている完全版は三部構成になっていますが、第一部、第二部、第三部はそれぞれ独立しており、これらの章の内容は時系列順ではありません。

そもそも『放浪記』として昭和57月に刊行されたのは、第一部の内容のみでした。

その後、異例の大ヒットを受けて同年11月に『続放浪記』として発表されたのが、第二部の内容にあたります。

この第一部・第二部はともに戦時中に刊行されたため、検閲を考慮してかなり内容が吟味されていました。

そこで、戦後になって検閲のために刊行できなかった部分を発表したものが第三部です。

『放浪記』刊行から15年以上が経過した昭和22年のことでした。

つまり、第一部・第二部はまだ無名、あるいは駆け出しの作家であった芙美子が編成した内容であり、第三部はすでにベテラン作家となった芙美子が編成した内容なのです。

おおもととなる日記自体は同時期に書かれたものでありながら、編集によってか、改稿によってか、章ごとに異なる空気感をもっています。

ここでは、それぞれの章に色濃く記された内容をたどることで、三部構成の『放浪記』完全版の読み味をあらためて追求していきたいと思います。

第一部 貧困文学と搾取された青春

幼少期の記憶

第一部は、まずなによりも芙美子の生い立ちがよく分かる内容になっています。

その書き出しは、あまりにも有名です。

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

  更けゆく秋の夜 旅の空の

  侘しき思いに 一人なやむ

  恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫,8

第一部は、全体のなかで唯一幼少期のことが記されている章であり、北九州・尾道にいたころの生活の様子が淡々と、詳細につづられています。

少女時代の芙美子のそばには、常に文学がありました。

例えば、「クヌウト・ハムスンだって」「チエホフは心の古里だ」「ランデの死を読む」など、作家や作品の名前が多く登場しています。

芙美子が「心の古里」と語ったロシア文学を代表する作家・チェーホフは、貧しい農夫から作家となった人物であり、何も起こらない日常における人々の内面を描いた作風で知られます。

また、ノルウェーの作家・クヌウトハムスンも貧しい家の生まれであり、虐待から逃れて職を転々としながら執筆をつづけた人物です。

どちらも若き日の芙美子の境遇に近いところがあり、辛い境遇のなか、少女時代の彼女がいかに物語から救いを得ていたか垣間見ることができます。

搾取される青春

第一部の雰囲気を語るにふさわしい場面のひとつは、セルロイド工場の女工として働いているときの思いをつづった下記の一節でしょう。

 なぜ?

 なぜ?

 私達はいつまでもこんな馬鹿な生き方をしなければならないのだろうか? いつまでたっても、セルロイドの匂いに、セルロイドの生活だ。朝も晩も、ベタベタ三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離された歪んだ工場の中で、コツコツ無限に長い時間と青春を搾取されている。若い女達の顔を見ていると、私はジンと悲しくなってしまう。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 45

まだ20歳にもならない芙美子は、夢のため執筆に没頭することも、恋にときめくこともできず、ただ明日の生活のためにセルロイドのにおいに身を浸していました。

彼女は薄暗い工場で、たしかに「青春を搾取されて」いたのです。

しかし、この一節は次のようにつづきます。

 だが待って下さい。私達のつくっている、キュウピーや蝶々のお垂げ止めが、貧しい子供達の頭をお祭のように飾る事を思えば、少し少しあの窓の下では、微笑んでもいいでしょう――

林芙美子『放浪記』,新潮文庫,46

これほどまでに不遇な環境下でも、芙美子はひねくれず、会ったことのない貧しい子供達の喜びを思います。

絶望の中でもかすかな希望を見出すこの強さが、戦中の暗い世を生きる人びとの心を打った所以だったのではないでしょうか。

第二部 振り回される恋と覚悟

芙美子を苦しめる恋

第二章は、恋人についての記述が多い章といえます。

章のはじまりは、帰省して音信不通となった元恋人を訪ねる場面であり、終わりは「いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった」「何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う」という一節で締めくくられます。

本作に描かれた恋に、喜びやときめきを感じさせるものはひとつもありません。

例えば、ひとり故郷へ戻った「島の男」については「私は男の下宿代をかせぐために、こんなところへまで流れて来た」と語られ、献身のすえに裏切られたことへの恨みがにじみ出ています。

さらに、芙美子は言い寄ってくる男にも苦しめられることとなります。

これみよがしに十円の貸しをつくる松田さんや、米を一升もってくる利秋君など、彼らは芙美子の貧しさにつけ込むようなやり方で彼女の自尊心を傷つけます。

しかし、米を持ってきた利秋君を芙美子は毅然とした態度で追い返します。

「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」

 私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 326

自分ひとりの生活すらままならない芙美子は、「島の男」の裏切りを経験し、男に入れ込むことが自分の身を滅ぼすということを痛感していました。

だからこそ、彼女は男の親切に素直に甘えることはできません。

あるいは、その好意を利用するような器用なこともできません。

ただ、色恋沙汰のわずらわしさをどうにか断ち切ろうともがき、清貧を貫こうとする姿は読者の憐憫をさそいます。

書くことへの覚悟

第二部においてもうひとつ印象的なのは、その終わりに書き添えられた文章です。

「私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える」――そんな一節からはじまるのは、第二部の原型である『続放浪記』を刊行するにあたって追加で執筆されたものと推測されます。

つまり、日記当時から5年後に書かれた言葉です。

『放浪記』で一躍ベストセラー作家になった後、ようやく執筆業で生活できるようになった喜びがにじみ出ているかと思いきや、そこにつづられているのは生きることに対する諦念でした。

「林芙美子という名前は、少々私には苦しいものになってきました」「私はこんなことにくたびれ始めました」など、終始、世に名が出たことを負担に思う気持ちや家族への恨みごとが記されているのです。

(前略)けれど、私の仕事はマッチ箱を貼るのやミシンの内職とも違うし、机の前に坐ってさえおれば原稿が金にでもなるようにも思っているらしい家族達に、私のいまの気持ちを正直に云ったところでどうにも始まった事でもないだろうと思います。いっそミシンのペタルでも押して内職した方が楽しみかも知れないのだけれど……。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 346

夢を叶えてもなお自分の好きには生きられない、家族を養う責任を負わなければならないことを芙美子は繰り返し嘆いています。

しかし、そんな状況すら耐え忍び、受け入れていこうとする芙美子らしい強さで、第二章は幕を閉じるのです。

只、力を出して仕事に熱中し努力したいと思っています。それより他には私には何もなくなったのだ。何かもっと云いたい気もするけれども、心が鬱々としている時、何かはっきり云えない気持ちなのです。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 352

これからはただ自分の夢のためでなく、家族のために書き続けるのだという覚悟が感じられます。

恋の多い芙美子でしたが、彼女が男に全身をあずけて恋に溺れるさまはほとんど記されていません。

あくまで彼女の人生の軸が、文学と家族であったことがうかがえます。

彼女が放浪生活に終止符をうったきっかけは、手塚緑敏という画学生との内縁の結婚でした。

それは、彼が芙美子の執筆を助ける人であり、なにかを搾取されることのない関係を築けたからでしょう。

第二部からは、男に裏切られ搾取され、恋においても誰かひとりに思いを留めることのない芙美子の悲しい流浪の性が垣間見えるようです。

第三部 書くことへの情熱

無心でつづけた詩作

第三部は、全体として第一部・第二部と読み味がかなり変わっているように感じられます。

第一部・第二部は一年で立て続けに刊行されたのに対し、第三部は出版までに15年以上のブランクがあるため、老年の芙美子による改稿がかなり入っているのではないかと推測されます。

内容としては、書くことについての思いが多くつづられていることが印象的です。

例えば、第三部の冒頭は読売新聞に送った詩が掲載されない旨の手紙を受け取った場面から始まります。

読売新聞に送った「肺が歌う」と云う詩、清水さんと云う方が長くて載せられぬと云う手紙だ。花柳病の薬の広告はいやにでっかく出ているけれども、貧乏な女の詩は長くて新聞には載せられないのだ。

 たった八頁の新聞は馬鹿な詩なぞよちがないのだ。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 356

このときの芙美子は職を転々としながらも詩や童話を売り歩き、作品が雑誌に掲載され始めた時期と推測されます。

ようやく文筆業で金をもらえるようになったものの、まだ駆け出しの作家であるために出版社や新聞社に軽んじられることを嘆く言葉がつづられています。

この第三部で、芙美子は執拗に思えるほど、自分の作品は一文にもならないという言葉を繰り返しています。

(前略)私は本当に詩人なのであろうか? 詩は印刷機械のようにいくつでも書ける。只、むやみに書けると云うだけだ。一文にもならない。活字にもならない。そのくせ、何かをモウレツに書きたい。心がその為にはじける。毎日火事をかかえて歩いているようなものだ。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 412

 童謡をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当にする事は一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。書いてはつっかえされて私はまた書く。山のように書く。海のように書く。私の思いはそれだけだ。そのくせ、頭の中にはつまらぬ事も浮んで来る。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 414

(前略)長い間書きためた愚にもつかないものばかりだけれども、何となく捨てかねて持ち歩いている私の詩。これこそ一文にもならぬものだ。焼いてしまいたいと何度か思いながら、十年もたったさきへ行って、こんなこともあった、あんなこともあったと思うのも無駄ではないとも思える。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 442

 

みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いているのに一銭にもならない。どんな事を書けば金になるのだッ。もう、殴る事なンかしない優しい男はいないのだろうか? 下手くそな字で、何がどうしたとか書いたところで、誰もああそうなのと云ってくれる者は一人もない。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 450

あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。それだけの事だ。名もなき女のいびつな片言。どんな道をたどれば花袋になり、春月になれるものだろうか、写真屋のような小説がいいのだそうだ。

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 543

第三部は、検閲を考慮し戦時中には掲載できなかった内容を多く収録しています。

しかし、これらの内容が第一部・第二部から外されていたのには、芙美子自身の気持ちの問題も大いにあったように思われます。

ここにつづられているのは、あまりに強い思いだからこそ軽々しく発表できなかったのではないでしょうか。

『放浪記』の刊行から15年以上を経て大作家としての地位を築いたからこそ、若き日にくすぶっていた激しい劣等感や悔しい思いを世間に暴露することができたのではないかと思われるのです。

まさにはらわたをつかみ出しそうな勢いで言葉をつづっていた芙美子にとって、書くことへの思いを吐露することは、死に値する行為のようにも思われたことでしょう。

これらの言葉を世間に晒したとしても、もう死ぬことはないと確信を得た老年の芙美子だからこそ、血まみれの若き日の姿を晒すことに寛容になれた、と考えられないでしょうか。

一銭にもならないまま、それでも書きつづける。

芙美子はこの数年後にベストセラー作家となるのですが、そのことを知っていてもなお、これらの嘆きの言葉には心をえぐられずにはいられません。

いくら老年の芙美子による手が加わっていたとしても、当時の彼女がはらわたをつかみ出す勢いで書きつけた、嘘のない言葉の強さが滲み出ているのでしょう。

そして、この書くことへの強い執着こそ、第一部・第二部でつづられた貧困にも裏切りにも屈しない強さの源だったように思われます。

とすると、やはり『放浪記』は第三部をもって完全体になったといえるでしょう。

すでに大作家の地位を築いていた芙美子が、第三部という形でふたたび過去の日記を発表する決断を下したことは、読者にとって大きな幸福だったのではないでしょうか。

感想

泥臭い親子の絆

本作を読んでいて印象的だったのは、芙美子を貫いている母の存在でした。

彼女は生涯、ほとんど唯一の肉親である母を救うことに心血注いでいたように思われるのです。

特に強烈な印象を残したのは、次の一節でした。

(前略)お君さんのお義母さんと、御亭主とじゃ、私のお母さんの美しさはヒカクになりません。どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 285

「どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも」と強い覚悟をもって記された一文です。

ここで芙美子が語った「母の思想」とは何だったのでしょうか。

それは、何かを潔く切り捨てることのできない弱さ、あるいはその全てを背負い続けるたくましさではないかと思われます。

芙美子の母は、家を出てから一緒になった義父と生涯連れ添いました。

「いつも弱気で、何一つ母の指図がなければ働けない」と芙美子が語る頼りない義父でしたが、どれだけ貧しくても母はそれを受け入れ、義父をなじることはありません。

また、親子が困窮していたとき援助をきっぱり断った娘(芙美子の姉)が数年後、図々しくも自身の出産祝いを求めてきたとき、母は「何か送って祝ってやりたいよう」だったとも記されています。

芙美子の母の、情に流されやすい性がうかがえるエピソードです。

そんな情に流されやすい性質を、芙美子も少なからず受け継いでいるように感じられます。

学生のあいだ養ってもらった恩を忘れてひとり故郷へ帰省した男の裏切りすらも、芙美子が正面きって糾弾する場面はありません。

また、喧嘩別れした過去の恋人と出くわしたときは、笑って鰻丼を食べたことが記されています。

 昼、浴衣を一反買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人共沈黙って笑ってしまう。あのひとは鰻が食べたいと云う。二人で鰻丼をたべにはいる。何か心楽し。浴衣の金を皆もたせてやる。病人はいとしや。(後略)

林芙美子『放浪記』,新潮文庫, 283-284

過去の争いを笑って流すだけでなく、身体を壊している男のために、浴衣にあてるはずだった金をすべて手渡してやるという甲斐甲斐しさです。

働けど働けど楽にならない生活のなか、両親にも男にも搾取されてばかりの芙美子の境遇では、人を信じられなくなったり、攻撃的になったりしてもおかしくないように思われます。

しかし、芙美子は自身も飢えているなかで、男に、仕事仲間の少女達に、情をかけつづけます。

心の中では疎ましく思いながらも、ときには蔑むような気持ちを抱きながらも、最後まで誰かを突き放すことはしません。

その弱さ、あるいは果てしない強さの根底には、「母の思想」があったのではないでしょうか。

芙美子がこれほど壮絶な少女時代を送ることになったのは、幼い彼女をつれて家を出た母の責任も大いにあります。

しかし、そんな辛い境遇でも自分の力で生き抜く強さを与えていたのもまた、母だったのです。

『放浪記』は芙美子というひとりの女性の奮闘記であるとともに、親子の泥臭い愛情が描かれた作品ではないでしょうか。

以上、『放浪記』のあらすじ、考察と感想でした。

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キノウコヨミ

早稲田大学 文化構想学部 文芸・ジャーナリズム専攻 卒業。 主に近現代の純文学・現代詩が好きです。好きな作家は、太宰治・岡本かの子・中原中也・吉本ばなな・山田詠美・伊藤比呂美・川上未映子・金原ひとみ・宇佐美りんなど。 読者の方に、何か1つでも驚きや発見を与えられるような記事を提供していきたいと思います。