『ヴィヨンの妻』の紹介
『ヴィヨンの妻』は1947年(昭和38年)太宰治によって執筆された短編小説です。
傷つきやすく破滅的な詩人の姿を劇画化し、妻の立場から批判的に描いています。
ここでは『ヴィヨンの妻』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『ヴィヨンの妻』あらすじ
私は来年四歳になる息子と貧しい生活を送っていた。夫は常に泥酔をしておりめったに家に帰ってこない。
ある夜、夫が珍しく帰宅する。普段とは異なるように優しい夫を訝しげに見ていると、鋭い声が届く。玄関には男女が憤慨して立っていた。
二人は飲食店を営む夫婦であった。夫は焼酎代として一度百円札を払ったきり、三年間、無銭で焼酎を飲み続けてきたという。加えて今晩は五千円を店から持ち出した。そこで跡をつけ自宅を突き止めたのだった。
借金を返すため、私は夫婦の店で働くことを決断する。極めて有能に働く私は直ぐに店の人気女給となった。クリスマスの夜、夫が愛人と店を訪れる。
妻の姿に驚いた夫は、盗んだ分の金銭を愛人に立て替えてもらい、店との折り合いをつけて去った。
借金を返した後も私は働き、充実した日々を送る。そのうち私は人間が「うしろ暗い罪をかくしているように」思われてくる。罪が一つもなく生きることは不可能だと思った矢先、客の一人から強姦されてしまう。
翌朝店に行くと、夫が新聞を読んでいた。そして自分は人非人(人でなしの意)ではないと言い張る。私は「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きてさえすればいいのよ」と言った。
『ヴィヨンの妻』概要
主人公 | 私(妻、さっちゃん) |
重要人物 | 夫(大谷)、飲食店の夫婦 |
主な舞台 | 中野駅近くの飲食店 |
時代背景 | 第二次世界大戦 終戦後 |
作者 | 太宰治 |
『ヴィヨンの妻』解説
戦後社会に対する鋭い目が行き届いた太宰作品
『ヴィヨンの妻』は、太宰治が敗戦直後、疎開先の青森から東京に戻って創作した作品です。
アメリカ軍が進駐し、GHQの占領下に置かれた日本人は、これまでの軍事的な雰囲気とは異なる風潮の中で、生活をすることになりました。
本作品でもクリスマスで活気づいた街や華やかな装いでイベントを楽しむ人々の様子が描かれています。
戦時下の日本が一貫して軍事的な雰囲気に飲み込まれていたかと問われると、そうでもないようです。
作品の中で、飲食店の店主は次のように語ります。
「あなたの旦那の大谷さんが、はじめて私どもの店に来ましたのは、昭和十九年の、春でしたか、とにかくその頃はまだ、対米英戦もそんなに負けいくさでは無く、いや、そろそろもう負けいくさになっていたのでしょうが、私たちにはそんな、実体、ですか、真相、ですか、そんなものはわからず、ここ二、三年頑張れば、どうにかこうにか対等の資格で、和睦が出来るくらいに考えていまして、(中略)東京でも防空服装で身をかためて歩いている人は少く、たいてい普通の服装でのんきに外出できた頃でしたので」
太宰治『ヴィヨンの妻』青空文庫
戦時中とはいえ、外出して酒が飲めるような時期もあったことが分かります。
実際は不利な状況だったのにもかかわらず、国民はその実態を知るすべもなかったのでしょう。
「実体」「真相」も隠されたまま、国は終戦を迎えてしまう。
頼りにしていたものが実際のところは張りぼての力だった。
そして実情を知らされることなくGHQが進駐し、社会の世相も変わってしまった。
信じていた確固とした軸が消え、その中でも生活していかなければならなくなった国民が、盗みや強姦、詐欺などをして「何か必ずうしろ暗い罪をかくしているように」、「私」の目に映ったのは当然のことと言えるでしょう。
戦後の混沌とした社会の中で、日本人が何を信じ、何を頼りにして生きていかなければならないか。
当時は心身ともにまだ健康だった太宰の、鋭い社会に対する目が行き届いた作品だと言えます。
道化師大谷の不安とは?
さて、本作品で「私」のほかに主要人物として挙げられるのは、「私」の亭主である大酒飲みの「夫」です。
作品内では、「大谷さん」というふうに呼名されています。大谷の人物像を見ていきましょう。
詩人の大谷は常に泥酔をしており、深夜に自宅に帰宅します。
ほとんど家に落ち着いていることはなく、四歳の息子が熱を出してもいそがしげに出かけてしまいます。
自宅にも自分では金を入れず、出版社の関係者から譲り受けて、妻子に飢え死にをしのがせている始末。
「私」とは夫婦のような形にはなったものの、籍が入っているわけではない。
毎晩飲み歩く大谷は二、三人の愛人(パトロン)を持っているようで、遊び歩きながら生活をする、堕落した男でした。
いわゆる放蕩息子とも言われてしまうような大谷。
しかし常に何かに怯えている様子も見られます。
「私」の布団の中にもぐり込み、「私」を抱きしめながら「こわい! たすけてくれ!」と震える夜もありました。
仕事を終えた「私」と一緒に帰宅する際、大谷は次のようにこぼしています。
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様がないんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」太宰治『ヴィヨンの妻』青空文庫
このように、自分には「こわい神様」がついていると訴えて、妻に理解してもらおうとするのです。大谷は何に対して、怯えているのでしょうか。
太宰治のエピソードに着目すると、考察することができるかもしれません。
太宰治は1909年(明治42年)、青森県の津軽に生まれました。県内屈指の大地主である津島家の第十子(六男)です。母親が病弱だったため、主に乳母や子守に養育されました。
弘前高校に進んだ太宰は、敬愛していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けます。
また、地主階級を悪とする社会主義思想に影響を受け、地主の子供としての自分に嫌悪を感じ、睡眠薬による自殺を図りました。
命拾いをした太宰は、東京大学仏文科に入学し、恋人であった芸妓の女性との結婚を許されますが、不安により別の女性と心中します。
自分だけが生き残ってしまったことから長らく罪の意識に苦しんだようです。
同時期に長兄からの経済的援助が途絶え、左翼運動からも離脱しました。
その後は師事していた井伏鱒二を頼って一時期は人間性を回復させますが、戦後は過労と飲酒により衰弱、愛人の女性と薬物を飲み、玉川上水に入水しました。
生まれへの負い目、金銭的問題、左翼思想からの途中離脱、執筆活動による過労と飲酒。
これらの要素の影響で自分自身を肯定できず、かといって妻をはじめとする他者からの肯定にも耳を傾けることができず、どこにも長く安住できずにさまよった太宰。
家庭を持つ身にもかかわらず、何度もの自殺未遂を図った太宰は、拠り所のない自分自身に絶望していたのかもしれません。
自身の存在への罪悪感が消えなかったために、最終的には自殺を遂げてしまったのではないでしょうか。
三島由紀夫はエッセイの中で、太宰を「治りたがらない病人」と呼んでいますが、治す・治さないよりも、精神的(思想的)にも経済的にも「地に足のつかない自分」が存在していいのか・否かの間で葛藤していたようにも思えます。
太宰の抱えた言いようのない不安感は、『ヴィヨンの妻』の大谷にも見て取れるのではないでしょうか。
大谷はクリスマス・プレゼントだと称して、バーで働いている女の子たちにむやみにお金を配りました。
また愛人の店にケーキや七面鳥など豪華な食べ物を持ち込んで、人をたくさん呼びこみ、大宴会を開いていました。
賑やかで明るく、陽気な会を主催した一方で、大谷も「こわい神様のようなもの」に怯えていました。
最終の場面では自身を「神におびえるエピキュリアン(快楽主義者)、とでも言ったらよいのに」とぼやいています。
不安から逃れるために、目先の快楽に逃げる大谷。
けれどもその道化の下には常に黒くさびしい感情が隠されているのでした。
作品では、大谷の過去については触れられませんが、家庭に安住できず、女や酒に酔うことで漠然とした恐ろしさから逃れようとする大谷の不安定さには、太宰の鬱屈とした側面も重ねられているのではないでしょうか。
太宰の思いが込められたラストシーン
次は妻である「私」について見ていきましょう。
女遊びをしても、愛人と出かけても、「私」が他の女性と異なるのは「私」と大谷が夫婦であり、その間には息子がいるということです。
「私」が飲食店で働き始めると、大谷は二日に一度は顔を出し、夜おそくになると再び店に顔を出して、「私」とともに家路につくこともありました。
「私」が若い男に犯された翌朝も、大谷は店に泊まっており、「椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくってね」と呟くのでした。
「私」は決して夫である大谷に泣きつきはしません。
金銭こそなく、貧しい生活を強いられていますが、夫に媚びを売ることもなければ、ヒステリックに騒ぐこともありません。
愛人がいても取り乱す様子は見せず、客にからかわれても一枚上手の返事をし、生き生きと飲食店で働いています。店の夫婦が憤慨して自宅を訪れた際も、動揺はしたものの、夫の責任を負うように努めました。
もともと強かでしっかりとした女性であることが分かります。また働く上で「うしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事はできない」と悟っていく様からも、非常に思慮深く、賢さを持ち合わせていることが推測されます。
最終の場面で、夫である大谷は新聞を読みながら次のように言います。
「さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
「私」は大谷の言葉を格別うれしい様子も見せず、受け流します。
まるで大谷のいかなる言葉も、道化に包まれた不安から来ていることが分かっているかのようです。
そして、「人非人でもいいじゃないの。わたしたちは生きてさえすればいいのよ」と静かに言うのでした。
「人非人」でよい、生きてさえすればよいというラストシーンには、太宰のメッセージが強く込められているように思えます。
まず一つには、混沌とした時代の中で、後ろ暗いことを隠しながらも、精一杯その日を生きてきた日本人に対して。
そしてこの言葉はまた、後ろ暗い過去と自意識を持つ、太宰が自分自身に向けた言葉でもあったのではないでしょうか。
生きてさえすればかまわない。ここには多忙、人間関係によるストレス社会を生きぬき、孤独に悩みながらも生活する現代人をも、包み込むような温かさがあります。
沈鬱で安定しない生涯を送ってきた太宰が、最後まで信じたかった、誰かにかけられたかった、自身の人生の核として位置づけたかった言葉だったのかもしれません。
『ヴィヨンの妻』感想
タイトルの「ヴィヨン」とは、十五世紀にフランスで活躍した詩人、フランソワ・ヴィヨンからとったものです。
ヴィヨンも大谷と同じように、長らく放蕩生活を送りました。
殺人、盗みも犯したヴィヨンは死刑の宣告を受けましたが、のち許されて行方しらずとなりました。
作品の中で「私」は大谷の書いたヴィヨンについての論文を見つめ、ヴィヨンの生涯と夫の生涯を重ねたのでしょうか、涙を流しますが、それでも盗んだ金を返し、生きて行こうと前を向くのです。
愛人でもない、娯楽として楽しむような女でもない。
放蕩するだめな夫の、妻。それが「私」であり、「ヴィヨンの妻」なのです。
亭主が浮気をしても、泥酔しても、悲観的にならずに淡々と読者に語ろうとする。
借金を抱えても、自分が働いて、現状から抜け出そうとする。
知的に遅れている息子がいても、育てようとする。
そして性的に凌辱されても、うわべでは同じように出勤し、夫といつも通りの会話をする。
その立ち振る舞いからは、激動する戦後の時代の中でも、不幸や鬱屈した雰囲気に負けずに気高く在ろうとする、妻の高潔な人間性が表れています。
太宰は「ヴィヨンの妻」をどのように感じていたのでしょうか。
一説には、彼の本妻である津島美知子が主人公のモデルになっているとも言われています。
自身の不安や絶望から来る「こわい神様」の対極に位置するのは、運命に耐え、一歩退いて冷静に夫の姿を見つける「妻」の姿だったのかもしれません。妻は強し。
太宰の憧れと称賛の思いが、タイトルに隠されているとも言えそうです。
以上『ヴィヨンの妻』のあらすじと考察、感想でした。