『ヰタ・セクスアリス』の紹介
『ヰタ・セクスアリス』は、1909年(明治42年)、文学誌「スバル」7月号に発表された森鷗外の小説です。
標題は「うぃた・せくすありす」と発音し、性欲的生活を意味するラテン語「VITA SEXUALIS」に由来しています。
主人公・金井湛(かねいしずか)が自身の性的体験を綴っていく内容で、作者森鷗外の自伝的小説とも言われています。
発表当時、その内容が卑猥であると問題視され、「スバル」7月号は、発刊から一か月後に発売禁止の処分を受けました。
ここでは、そんな『ヰタ・セクスアリス』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『ヰタ・セクスアリス』—あらすじ
人が書かないようなものを書きたいと思っていた哲学者・金井湛君は、ある時、自分の性欲の歴史を書いてみようと思い立ちます。
その記録が長男の性教育の資料になり得るのではないかと考えた金井君は、実際に筆をとり、過去のエピソードを振り返っていきます。
6歳の時、初めて春画を目にした話。
11歳の時、上級生に男色の相手をさせられそうになった話。
13歳の時、東京英語学校に入学し、寄宿舎に入った話。
寄宿舎には硬派と軟派の二つの派閥が存在し、金井君はそこで様々な人々と交流を通じ、青春の日々を過ごしました。
時には、友人らと共に吉原を見にいくこともありましたが、性欲に冷淡であった金井君は、大学卒業の時分になっても女性経験はありませんでした。
金井君が一線を超えたのは20歳の時でした。
知人に強引に誘われ、遊女と一夜を共にした金井君は、その晩のことを振り返り、確かに性欲が自身の抗抵力を麻痺させていたと認めるのでした。
こうして性欲の歴史を綴った金井君でしたが、結局、我子にも読ませたくはないと思うようになります。
金井君は表紙に「VITA SEXUALIS」と大書きすると、誰にも読まれない手文庫の中にこれを投げ込みました。
『ヰタ・セクスアリス』—概要
物語の主人公 | 金井湛:哲学者。中国地方出身。東京の大学を卒業。 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 明治時代 |
作者 | 森鴎外 |
『ヰタ・セクスアリス』―解説(考察)
『ヰタ・セクスアリス』成立に至るまで
森鷗外の作品で特に有名なものが『舞姫』ですが、『舞姫』含むドイツ三部作は、鷗外の初期作品として分類されます。
対して、『ヰタ・セクスアリス』は鷗外の後期作品群の冒頭に位置づけられる作品です。
実は、鷗外の初期作品と後期作品の間には、約20年という長い年月が経過しています。
『ヰタ・セクスアリス』成立に至るまで、すなわち、鷗外の文筆活動休止の期間に何があったのか、以下にまとめてみました。
作者に起こった主な出来事 | 主な文筆活動(●は小説) | ||
明治23年 | 28歳 | ●『舞姫』(1月) ●『うたかたの記』(8月) |
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明治24年 | 29歳 | ●『文づかひ』(8月) | |
明治25年 | 30歳 | ・11月~アンデルセン『即興詩人』の重訳に着手(明治34年2月完結) | |
明治26年 | 31歳 | ・陸軍一等軍医正に昇進し、軍医学校長になる | |
明治27年 | 32歳 | ・日清戦争勃発に伴い、中国盛京省花園口に上陸 | |
明治28年 | 33歳 | ・4月、陸軍軍医監になる ・5月、日清講和成立に伴い、帰国 ・8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾赴任 ・10月、帰国後、軍医学校長になる |
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明治29年 | 34歳 | ・『めざまし草』創刊。合評「三人冗語」などを掲載 | |
明治31年 | 36歳 | ・10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長になる | |
明治32年 | 37歳 | ・6月、陸軍軍医監になり、第十二師団軍医部長として福岡県の小倉に赴任 | |
明治32年 | 40歳 | ・1月、判事荒木博臣の長女志げと再婚 ・3月、第一師団軍医部長になり、上京 |
・6月、『芸文』創刊(同年8月廃刊) ・10月、『万年艸』創刊 ・12月、初となる戯曲『玉篋両浦嶼』を発表 |
明治35年 | 42歳 | ・日露戦争勃発に伴い、中国に渡る | ・詩歌集『うた日記』を作る |
明治37年 | 44歳 | ・1月、日露講和成立に伴い、帰国 ・8月、第一師団軍医部長に戻る |
・6月、歌会「常盤会」設立 |
明治40年 | 45歳 | ・11月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる | ・「観潮楼歌会」開催 |
明治41年 | 46歳 | ・5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる | |
明治42年 | 47歳 | ・7月、文学博士の学位を授与する | ●『半日』(3月) ●『仮面』(4月) ●『ヰタ・セクスアリス』(7月) ●『鶏』(8月) |
明治24年以降、戯曲や翻訳、随筆などは細々と書かれているものの、小説作品はぱたりと途絶えており、鷗外の文筆活動は初期の旺盛さを失っているように見えます。
特に、二度の戦争勃発や、小倉赴任(※小倉左遷という見方もあります)前後では、目立った文筆活動はありません。
これは、鷗外の創作意欲の問題ではなく、陸軍軍医としての立場や多忙さが影響したものと考えられます。
後に鷗外は、「レジグナチオン(諦念)」という境地を示しますが、書きたくても立場や状況がそれを許さない、こうした経験もまた、この境地に行きつく要因の一つになったのではないでしょうか。
また、表に未掲載の明治42年以降も、鷗外は怒涛の勢いで作品発表を続けています。
文筆活動再開後の作品は、『舞姫』等初期のロマン主義文学とも系統が少し異なっており、併せて、初期の鷗外に見られた論争に次ぐ論争といった尖り具合も、年齢を重ねて様々な経験を踏むことで角が取れています。
『ヰタ・セクスアリス』は、文筆活動再開後すぐの作品であり、作家・森鷗外の新たな章のスタート地点に位置づく作品とも言えるでしょう。
明治日本における男色問題
『ヰタ・セクスアリス』では、学生の男色(男性の同性愛)問題にまつわるエピソードも記されています。
11歳で独逸語を教える私立学校に入った金井君が、上級生に男色の相手をさせられそうになって逃げた話。
13歳で入った東京英語学校の寄宿舎で、男色を好む年上の学生達に狙われていた話、など。
では、明治期の日本の男色の実態はどのようなものであったか?これについて調べてみました。
〈明治期の日本の男色の実態〉
- 明治維新以降、西洋的な考え方の拡大により、日本の男色は排除・衰退の動きにあった
- 一方、男子学生間では男色文化が流行していた
そもそも、日本では古代から男色文化がごく普通に存在していました。
遡れば『日本書紀』『万葉集』などにも男色に関係する記述が見られますし、平安時代の『源氏物語』なども男色に関する内容を含んでいます。
男色文化は中世の武士社会においてますます盛んになり、江戸時代前期には全盛を迎えました。
しかし、明治維新が起こり、同性愛を悪とする西洋の考え方が拡大すると、男色はタブー視されるようになり、一時は「鶏姦罪」という男性同士の性交を禁止する法律まで設けられました。
ところが、一部の男性社会において男色文化は残り、特に男子学生間では〈大志養成に向けてお互いに成長しあえる男性同士の関係の方が優れており、女色に溺れるより、男色に溺れるほうが良い〉というような考え方のもと、男色文化が流行していたと言います。
作中、上級生に無理やり男色の相手にさせられそうになった金井君が父親に相談し、父親が「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんといかん」と平気な様子で答える場面があります。
現代の感覚では、なんだこの父親と思ってしまう反応ですが、当時の男色の実態を踏まえると、父親の反応は実に自然であるということが分かります。
また、作中で登場する「硬派」と「軟派」という言葉。現代では、硬派という言葉には、真面目でストイックな人を指すイメージがあります。
一方、『ヰタ・セクスアリス』における硬派は男色を好む人々、軟派は女色を好む人々を指します。
先に述べた〈大志養成に向けてお互いに成長しあえる男性同士の関係の方が優れており、女色に溺れるより、男色に溺れるほうが良い〉というような考え方は、確かにある意味でストイックとも言えそうです。
現代の感覚で読むと、よく分からない場面や言葉も、明治の男色文化の実態を知ることで、成程と思えるようになります。
反自然主義文学とは?
森鷗外は反自然主義の作家であり、その中でも高踏派と呼ばれる流派の作家です。
反自然主義文学とは、その名の通り、自然主義文学に対して批判的立場の総称を指します。
※日本の自然主義文学とは
明治末期に主流となった文学運動で、虚構を排除し、現実をありのままに描き出そうとするのが特徴。
島崎藤村、田山花袋らが自然主義の作家として有名。
『ヰタ・セクスアリス』は、主人公・金井君が、諸々の理由から自身の性欲の歴史を書くことを思いつく、という場面から物語が展開します。
そして、その冒頭の場面では、自然主義文学に対する意見を見ることができます。
金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行往坐臥造次顚沛、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特にfrigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。
森鷗外『ヰタ・セクスアリス』,新潮社,1949,6~7頁
しかし近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じような事を書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写象に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。
森鷗外『ヰタ・セクスアリス』,新潮社,1949,7頁
これらの描写からは、自然主義文学への批判・疑念をはっきりと読み取ることができます。
また、『ヰタ・セクスアリス』は、自然主義文学で多く扱われた性欲をテーマにした自伝的作品でありながら、客観的に淡々と内容を綴っているのが特徴的な作品です。
この特徴は、露悪趣味の傾向が強い自然主義文学とは大きく異なっています。
『ヰタ・セクスアリス』は、鷗外の反自然主義の立場が明確に示された作品で、且つ非常に独自性の強い作品だと言うことができるでしょう。
『ヰタ・セクスアリス』―感想
近代日本の言論統制について
最初にも触れましたが、『ヰタ・セクスアリス』は発表当時、発禁処分を受けた作品です。
当時、日本では検閲という言論統制・思想弾圧行為が行われており、思想的に危険なものや、卑猥な性描写を含むものなどが検閲の対象になっていました。
確かに、題名も直球、男色から自慰行為から童貞喪失に至るまで漏れなくその歴史が綴られた内容なので、アウトと言われても仕方がないというのは分かります。
ただ、実際に読めば明らかなのですが、『ヰタ・セクスアリス』は客観的に淡々と性欲にまつわる歴史が綴られているだけで、生々しい描写は一切ありません。
発禁という厳しい処分を受けたのは、内容如何というよりも、鷗外の陸軍軍医としての立場が大きく影響していたのではないかと思います。
あくまで個人の勘ですが、仮に、無名の作家が同じような作品を発表していたとして、それが発禁になったかというと、そこまで重い処分にはなっていない気もします…。また、余談になりますが、鷗外と政府による言論統制・思想弾圧との戦いは、『ヰタ・セクスアリス』に限った話ではありません。『ヰタ・セクスアリス』発表の翌年、明治43年、日本では大逆事件という一連の事件が起きました。
※大逆事件とは
政府から弾圧されていた社会主義運動家の一部が、弾圧への復讐として明治天皇暗殺計画を打ち立てたとして、多数の社会主義者・無政府主義者が検挙・処刑された政治的弾圧事件。
殆ど証拠はなく、多くが冤罪だった。
大逆事件以降、日本の社会主義運動は「冬の時代」を迎えた。
大逆事件により、政府の言論統制・思想弾圧に強い危機感を覚えた鷗外は、政策に立ち向かい、言論の自由を訴えるようになりました。
例えば、明治43年の『沈黙の塔』という作品では、政府の言論統制・思想弾圧が直接的に批判されています。
陸軍の官僚というゴリゴリのエリート、取り締まる側の政府に非常に近い立場でありながら、作家という顔も持っていた鷗外は、本当に稀な存在です。言論統制と戦い続けた作家という観点から森鷗外作品を選んで読んでいくのも、面白そうだなあと思います。
以上、森鷗外『ヰタ・セクスアリス』のあらすじ・解説・感想でした。