『故郷』あらすじを詳しく紹介!語り手=魯迅について

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『故郷』あらすじを詳しく紹介!語り手=魯迅について

『故郷』の紹介

『故郷』は魯迅の短編小説で、雑誌『新青年』第9巻第1号に掲載されました。

語り手である「わたし(迅)」が故郷での再会と別離を通して懐いた、失意と希望の物語です。

同誌目次および奥付では「1921年5月1日出版」と記されていますが、実際の刊行は2、3か月遅れであったと推定されています。

また、『吶喊』収録時の編末に「1921年1月」と執筆年月らしき日付が記されていますが、2月8日(旧暦正月)の日記に「新青年社に原稿一編を送る」との記載があり、最終稿は2月上旬に完成した可能性が高いとされています(出典1)。

『故郷』―あらすじ

真冬、二十年数ぶりに帰郷した「わたし」は、侘しくうらぶれた景色に我が心を見るような思いがしました。

なぜならば数日後、「わたし」は母と甥の宏児を連れて、この地を去ることになっており、馴染み深い旧家は正月一日から、他人に明け渡されることが決まっていたからです。

「……それから閏土だけど、家に来るたびにおまえの噂をして、とても会いたがっているんだよ。おまえが家に着く大体の日取りは知らせてあるから、もうやってくるかもしれない」

母が口にした懐かしい名前に「わたし」は帰郷後初めて、美しい思い出を取り戻した気がしました。

――紺碧の空に金色の円い月がかかる夜、首に銀の輪をつけた少年が、叉を手に海辺の西瓜畑を守っている。彼は突き刺す、しかしチャーは身をひるがえし、彼の股の下から逃げていく――

そんな絵が、「わたし」の脳裏に去来しました。この小英雄こそが閏土です。

あれは「わたし」が10歳かそこらで、父がまだ生きていた頃。

その年は三十年に一度の大祭を我が家でとりおこなうことになっていたのですが、我が家には雇い人が忙月ただ一人で、彼はほかの年末業務もこなさなければならなかったため、祭器の見張り番として彼の息子である閏土が来ることになり、私はその日を毎日心待ちにしました。

「閏土がきたよ」ある日、母の知らせを受けて行ってみると、血色の良い円い顔をした少年が台所にいました。

彼ははにかみ屋でしたが、「わたし」達はすぐに仲良くなって、たくさんのことを話しました。

彼が道中で見たもののこと、きれいな小鳥のこと、西瓜畑のこと、チャーのこと。「わたし」や「わたし」の普段の友達が知らないことを、彼はたくさん知っていました。

父親に深く愛されていた閏土は、きらきら光る輪を御守りとして首にかけていました。

楽しかった正月も過ぎ去り、「わたし」も閏土も互いに別れが辛くて泣いたけれど、彼はとうとう父親に連れられて行ってしまいました。

のちに彼は父親に託して綺麗な鳥の羽と貝殻を届けてくれ、「わたし」からも何度か品物を贈りましたが、それ以来ふたたび会うことはありませんでした。

懐かしい閏土は今どうしているのか――

「わたし」の質問に対して、母は言葉少なに、その思わしくない近況を知らせてくれました。

話をしていると表から数人の女性の声がし始め、母が対応に向かったので、宏児の話し相手をしていると、突然甲高い叫び声がけたたましく聞こえたので、あわてて顔を上げると、頬骨のとがった唇の薄い中年女性が、腰に手をあて脚をひらいて、コンパスそっくりの姿で私の前に立っていました。

母のとりなしのおかげで「わたし」は彼女がかつて「豆腐美人」と呼ばれていた楊二嫂という女性であることを思い出しました。

自分が忘れられていたことを不服に思った彼女は、「わたし」に散々嫌味を言った挙句、置いてあった母の手袋をズボンの腰にねじ込んで行ってしまいました。

そのあとも、訪ねてきた親類を応対したり、合間に荷造りをしたり、そんなこんなで4、5日が過ぎた、ある寒い日の午後。閏土が訪ねてきたのです。

心と裏腹に言葉の出ない「わたし」。それはおそらく閏土も同じでした。

彼の顔には俄かに嬉しさと寂しさが浮かび、唇を動かしたけれど声にはならず、ついには恭しくなって、「旦那さま!……」はっきりとそう言いました。

かつての友人からの思わぬ呼びかけに唖然としていると、彼はうしろに隠れていた子供を引っぱり出し、お辞儀させようとしました。

彼の5番目の子供である水生は、顔色がわるく痩せており、銀の首輪もつけていなかったけれど、あのころの閏土にそっくりでした。

母と宏児が二階から降りてくると、彼はまた水生を前に出し、お辞儀をさせようとしました。

水生は昔の閏土と同様、はにかみ屋だったので、母は、水生と宏児に一緒に遊びに行くようにと言いました。

「昔どおりに迅ちゃんとお呼びよ」と勧める母に、「ご隠居さま、とんでもない」と、恭しい態度をくずさない閏土。

「わたし」が暮らしのことを尋ねると、彼はしきりに首をふりながらその悲惨な状況を打ち明けました。

「わたし」は彼の顔に刻まれたたくさんの動かない皺を見ていました。彼は飽和状態の苦しみのなかにいて、それを表すにはもはや言葉が追い付かなかったのでしょう。

まだ昼食を済ませていないという彼に、母は台所で米を炒めて食べるように言い、彼が退席したあと、「運んでいく必要のない品物はみんな彼にあげよう、彼自身に選んでもらってもよい」と言いました。

夕方彼は、香炉、燭台など数点の品物と、砂地の肥料となる藁灰全部を所望し、それらは「わたし」たちの出発当日に見送りをかねて船で取りに来ると言いました。

そして当日。「わたし」たちは話す暇もなく別れました。

船は前進し、両岸の山が黄昏の中、船尾のほうへ、つながりながら後退していきます。ふと宏児が「ぼくたち、いつ帰ってくるの?」と尋ねたので、理由をきいてみると、「水生がぼくに、家へ遊びにおいでといったんだもの」と彼は答えました。

「わたし」と母はまた閏土のことを話し出しました。

母が言うには、楊二嫂は、うちの荷造りが終わってからは毎日必ずやってきたが、一昨日、閏土が所望した灰の中から碗や皿を掘り出し、議論の末、これは閏土の仕業だろうということになった。楊二嫂はこの発見の報酬とばかりに犬じらしをつかんで、底の高い纏足で飛ぶように走っていった、とのこと。

旧家は遠ざかり、故郷の山河も次第に「わたし」から離れていきました。

未練はありませんでしたが、まわりとのあいだに生じてしまった、見えない高い壁によって、「わたし」は孤独に追いやられ、あれほど鮮明だった美しい記憶――西瓜畑の小英雄の姿も、今はぼんやりと霞んでしまったことがただ寂しく、悲しく思われました。

けれども宏児と水生のように若い者たちの心はなお一つです。

「わたし」は彼らが隔たり合わないことを希望しますが、心一つであろうとするばかりに、「わたし」のように苦しみ悩みながら生きていくようになってもらいたくはありません。

また、閏土のように、苦しみにしびれながら生きていくようになってほしくもありません。

さらにまた、ほかの人のように、苦しみのために荒みながら生きていくことも望みません。

彼らには、「わたし」たちの経験したことのない、新しい生き方が必要なのです。

希望といえば、閏土に品物を選んでもらった際に、彼が香炉と燭台をほしがったのをみて、相変わらずの偶像崇拝をこっそりと笑ったのですが、今「わたし」が考えた希望だって、「わたし」が勝手に拵え上げた偶像に過ぎないのかもしれない。

緑色の砂地、紺碧の空、金色の円い月。まどろみながら「わたし」はこう結論付けました。

希望というものは、ちょうど地上の道のようなもの。もともと地上に道はなく、歩く人が多くなれば、それが道になるのだ、と。

『故郷』―概要

主人公

わたし()

主要な登場人物

閏土、宏児、水生、母、忙月(閏土の父。忙月は雇用形態の一種で、人名ではありません)、楊二嫂(豆腐美人、豆腐小町、豆腐西施などの呼称もあります)、チャー(穴熊の一種。漢字で書くと、けもの篇に査の異字体)

語り手

わたし

舞台

浙江省紹興

時代背景

1919(子供時代:1890年前後)

作者

魯迅(周樹人)

訳本

駒田信二

『故郷』―解説(考察)

語り手「わたし(迅)」は魯迅か

『故郷』に、初めて本格的な注釈を付したのは、1929年に刊行された『新時代国語教科書第五冊』(商務印書館)でした。

同書では、本文冒頭の作者名を、ペンネームの魯迅ではなく、彼の本名である周樹人とし、末尾に25個ある注釈の第1番目に、「これは『吶喊』から選んだもので、作者自身が故郷に帰ったときのことを描いた小説である」としているので、本稿でも、語り手「わたし(迅)」イコール魯迅(周樹人)として、物語を読んでいきたいと思います。

魯迅は1919年(民国8年)12月に、彼の出身地である紹興に帰り、母、最初の妻、弟一家を連れて北京に発ちました(魯迅 駒田信二『阿Q正伝・藤野先生』年譜)。

・忙月、閏土、水生のモデル(出典2)

忙月と閏土にもそれぞれ章福慶(父)、閏水(子)というモデルになった人物が存在します。

閏水(閏土)は樹人(迅)よりも4歳年上でした。

物語にあるとおり、少年時代の彼らは兄弟のような友情を築きましたが、樹人は父を亡くした2年後に学問のために故郷を離れ、閏水も父を亡くしてからは、一家を支えるために過酷な生活を余儀なくされ、二人は別々の人生を歩んでいくことになります。

閏水の生活は苦しく、作中、迅の回想にも登場している畑を売却し、よそで土地を借りて必死に労働に明け暮れましたが、ついに体を壊し、それを治療するお金もなく、閏水は57歳で息を引き取りました。

また、閏土の息子・水生にも啓生というモデルが存在し、彼もまた大変早くに亡くなってしまいます。

けれども、啓生の息子の貴は生活の困苦に耐えながら粘り強く独学を続け、その努力と、魯迅との強い縁が実を結び、1993年までの40年間、魯迅記念館の副館長をつとめました。

ちなみに貴は樹人の息子・海嬰との対面を果たすこともできました。

・藁灰事件

出発した船の中で、母と迅が一昨日の出来事について話し合います。

内容は、閏土が所望した藁灰のなかに碗や皿が埋まっているのを楊二嫂が掘り出して、閏土の仕業であると結論づけた、というものです。

『故郷』が授業で扱われるとき、多くの生徒はこの会話に興味をもち、「閏土=犯人説」にかたむいてしまう傾向があるそうですが、その際の教師側の対応策として、「運んでいく必要のない品物は、みんな彼にやろう、彼に自分で選ばせてやってもよい」と言った迅の母の言葉を思い出させるのが定番になっているそうです(出典1)。

閏土は、「長テーブル二つ、椅子四脚、香炉と燭台一組、竿秤一本」と共に「藁灰全部」を所望しており、迅の母の厚意をごく素直に受け取っている様子が窺われます。

にもかかわらず、わざわざ碗や皿を藁灰に隠して盗もうとしたと考えるのは、いささか不自然です。

人民共和国成立前後になると、それまで閏土と楊二嫂とが同じ被支配者階級と見なされてきたあり方に変化が生じ、閏土は農民だが、楊二嫂は小市民であったと見られるようになりました。

魯迅の二番目の妻・許広平は『「吶喊」中の幾人かの女性』(1949)のなかで、「(楊二嫂は)閏土が品物を持っていくのは許しがたく、自分が堂々と盗んでいくのは理にかなっているとでもいうかのようだ。これはまさに普遍的なブローカー心理なのである」と指摘しています。

これを受けて、「魯迅は農民階級の美点を際立たせるために小市民の楊二嫂の醜悪さを描いた」との論調が強まり、「楊二嫂=犯人説」も反証として登場しました(出典1)。

・偶像的希望からの脱却

希望というものは、もともとあるともいえないし、ないともいえないものである。それはちょうど地上の道のようなものだ。実際地上にはもともと道はないのだ。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

この希望の論理を、当記事の筆者は「希望=道=多くの人が歩いた(踏み均した)痕跡」とイメージし、ながらく疑問を持ったことが無かったのですが、この解釈だと、迅(魯迅)が打倒しようとしていた伝統社会や、被支配者層がもがき続けている負のループ(あるいはスパイラル)も、「踏み均された道を歩くこと」に違いはないため、迅の願いとはかけ離れてしまいます。

それに、道のない場所を初めて歩く人には「希望がない」ということにもなってしまい、それは啓蒙者としての彼自身を否定することになってしまいますし、何より、彼が先に述べた「わたしたちの未だ経験したことのない生き方」という言葉と矛盾するのではないか……などの疑問が生じたので、当記事なりに考察してみたいと思います。

まず、迅は、宏児や水生たちに「新しい生き方」を希望しました。

しかし彼は、その希望が、実体のない観念の域を出ない限り、閏土が所望した香炉や燭台と何ら変わらない、偶像的希望であると考えています。

この問題を迅は、宙に浮いた希望を「地上」におろすことによって解決しようとしたのではないでしょうか。

希望を、(如何にはるかであっても)歩いていけば辿り着くことが可能な、より現実的な対象として置きなおし、これを見据えて歩いていく人の延長線上に存在するものであるとすれば、宙に浮いた決して辿り着くことのできない偶像的希望を仰ぎながら、苦しい暮らしを繰り返そうとする(とどまろうとする)人は次第に減っていくだろう。

「歩く人が多くなれば、それが道(希望)になる」とは、こういうことではないか、というのが当記事の拙考です。

『故郷』―感想

魯迅との出会い

私が魯迅を知ったのは、中学2年生の国語で『故郷』を学習した時でした。

季節は秋の終わり頃で、その控えめな日の照り具合や肌寒さが、『故郷』に漂う灰色っぽい感傷を、いっそう搔き立てていたのを憶えています。

失意の迅が朦朧とした意識の中、最後にもう一度、美しい幻想の景色――緑の砂地、紺碧の空、金色の円い月――を浮かべながら導き出した、希望の論理を、当時は「きちんと考えてみる」という過程を踏むことなしに、ごく直感的に受容し、個人的な心痛を癒すための常備薬としました。

『故郷』は日本に於いて(かつては中国に於いても) “安定教材” と呼ばれる作品であるため、この有名な希望の論理は、多くの既習者の心を支え続けているのではないかと推察しています。

こうして魯迅は、私にとって精神活動に欠かせない人物となりました。

現在所有している、魯迅(駒田信二訳)『阿Q正伝・藤野先生』は、私が高校入学を控えた春休みに購入したものです。

国語の教科書に採用されていたのは竹内好氏の訳文でしたが、近所の書店に置いてあったのは駒田信二氏の訳本だったので、同書の購入を決めました。

ページもだいぶ日焼けして良い風合いを醸しています。

この本に収録されている短篇を何度繰り返し読んだか分かりません。

けれども魯迅を読むきっかけとなった『故郷』だけは、却ってあまり読まなくなってしまっていたので、このたび記事を執筆させていただくことになったとき、「今『故郷』を読んで、私はどんなことを感じるのだろうか」と内心すこし不安な気持ちでページを開きました。

「故郷」への「道」

久々の『故郷』は懐かしくもあり、新鮮でもありました。中学生のときは読み流していたけれど、今改めて心を打たれたのは、迅と再会直後の閏土の一瞬の表情の描写です。

彼は立ちどまった。顔にはうれしさとさびしさの色があらわれた。唇を動かしたが、声にはならなかった。

この再会の数分後に、閏土は迅や迅の母と世間話をするのですが、そのときにはもう、石像のように動かない、打ちのめされた農民の表情が彼の顔に戻っていました。

つまり、迅と再会したほんの一瞬の間だけ、閏土は生き生きとした心を取り戻しかけていたのです。

もしかすると、閏土は迅と再会するまでは、彼にどう呼びかけるかを特に決めていなかったのではないかという気もします。

最後の最後で声にならずに立ち消えてしまった言葉は「迅ちゃん」だったのかもしれない。こう考えると胸にせまるものがあります。

一方で、中学生の時はあれほど直感的に受容したつもりでいた希望の論理は、「よくわからない」と感じてしまったのです。

そこで『故郷』を学習以来、初めてこれに向き合いました。

それが、先述の「偶像的希望からの脱却」〈『故郷』―解説(考察)〉です。

迅は、希望を、宙に浮いた崇拝対象から、それが如何に遠くはるかであっても歩いていけば触れることの可能な対象に置き換えたのだと、私は解釈しました。

閏土こと章閏水氏の子孫である章貴氏はまさに、作中で迅がとなえた希望の体現者であると言えます〈『故郷』―解説(考察)〉。

章貴氏の存在は、かつて国語の先生が教えてくださっていたので知っていましたが、当時の私は、閏土の苦しみや、彼が与り知らぬ場所で一方的に疑惑を着せられたままになってしまったことに対する心痛の方が強く、氏の活躍は喜ばしくはあっても、どこか物語とは決定的に断絶した場所で起こった話のように思えていました。

しかし、希望の論理を自分なりに考察してみた今、章貴氏という新しい生き方は、彼自身の多大な努力の結実であることは当然であるとしても、彼の祖先、すなわち、忙月(章福慶)、閏土(閏水)、水生(啓生)たちが、はるかな道のりを少しずつ歩み、章貴氏の時代に獲得し得た希望であったのかもしれないとも感じます。

誤解、すれ違い、過ち、死、時代、運命など、様々な要因によって、人は、不可逆的な別離、疎遠、断絶から免れられ得ない存在であるため、時には空を仰ぎ、切ない願いをたくすこともあるでしょう。

けれども、美しい想い出や遺志、エッセンスを自分の胸にあずかり、悲痛の向こう側へと歩き出していくことで、それらは息づき、行く手に新しい希望を形成し、その希望は歩く人を励まし、やがて願い続けた「故郷」へと導いてくれるのかもしれません。

以上、『故郷』のあらすじ・考察・感想でした。

出典
藤井省三『魯迅事典』三省堂
紫悠陌陌『“閏土”的孫子,成了魯迅紀念館館長,和周海嬰見面百感交集』(雪花新聞2018-11-21)
草根也說歷史『魯迅玩伴閏土的後代何在?孫子仍爲魯迅工作,任魯迅紀念館副館長』(雪花新聞2019-01-02)
評史『魯迅筆下的“閏土”:五十多歲窮困而死,孫子在魯迅紀念館工作』(雪花新聞2019-03-30)

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sakura

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