『夢十夜』(第三夜)の紹介
『夢十夜』は夏目漱石著の短編小説で、明治41年から朝日新聞で連載されました。
第一夜・第二夜に続き、第三夜も「こんな夢を見た」という書き出しで始まります。
第三夜は、第一夜・第二夜と違って、何やら薄気味悪い雰囲気が漂う作りをしています。
ここでは、そんな『夢十夜』第三夜のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『夢十夜』(第三夜)ーあらすじ
こんな夢を見た。
六つになる子供を負っている。
たしかに自分の子であるが、不思議な事に盲目である。
自分が御前の眼は何時潰れたのかと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。
子供を負って田圃道を歩いていく中、我子ながら少し怖くなり、どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
子供は「御父さん、重いかい」と聞き、「重かあない」と答えると「今に重くなるよ」と云う。
「もう少し行くと解る。——丁度こんな晩だったな」と背中で子供が独言のように云っている。
路はだんだん暗くなる。
只背中に小さい小僧が食付いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照して、寸分の事実も漏らさない鏡の様に光っている。
「此処だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」と小僧が云った。
「文化五年辰年だろう。御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
この言葉を聞くや否や、いまから百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺した自覚が頭の中に起った。
おれは人殺であったんだなと気が附いた途端に、背中の子が急に石地蔵の様に重くなった。
『夢十夜』(第三夜)ー概要
主人公 | 自分 |
重要人物 | 盲目の子供 |
主な舞台 | 森の中 |
時代背景 | 明治41年(文化5年の100年後) |
作者 | 夏目漱石 |
『夢十夜』(第三夜)―解説(考察)
・作中に登場する不吉のイメージ
『夢十夜』第三夜は、背負っていた自分の子供が、実は前世で殺した人物であったという結末を迎えます。
まるで怪談話のような展開です。
この結末を暗示するかのように、第三夜では、至る所にネガティブイメージの表現がみられます。
冒頭から、「我子ながら少し怖くなった」、「何だか厭になった」、「自分は堪らなくなった」など、「自分」が子供に対して恐怖やネガティブ感情を抱いていることは明らかです。
情景も、「闇の中」の田圃道や森で、「田の中の路が不規則にうねって中々思う様に出られない」等、いかにも不気味な印象を読者に与えています。
上記のネガティブ感情や情景描写の他にも、不吉のイメージを象徴させるものがいくつか登場しています。
ここでは例として、鷺に焦点をあてて考察を進めます。
第三夜冒頭で、鳥の鷺が出てくる場面があります。
左右は青田である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。
「田圃へ掛ったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後ろへ振り向ける様にして聞いたら、
「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。夏目漱石『文鳥・夢十夜』(夢十夜),新潮文庫,37頁
鷺という鳥は、明治~昭和の民俗学者である柳田国男曰く、魔の鳥として怖れられている鳥です。
昔も昔話が小児ばかりの戯れであったなら、あるいはこんな細かなことまで考えて置く必要はないのかも知れぬが、自分にはそうと考えられぬ理由がある。
信ずる人がもう尠なくなって、聴衆を無智文盲の幼童に求めた以前、久しい間夜の鳥は成人にも怖れられた。
鵺は単に未明の空を飛んで鳴くために、その声を聴いた者は呪言を唱え、鷺も梟も魔の鳥として、その異常な挙動を見た者は祭をした。柳田国男『野草雑記・野鳥雑記』(野鳥雑記),青空文庫
鷺が夜に鳴くこと以外にも、そのギャーギャーという特徴的な鳴き声が、不気味な印象を持たせる一因であったのではないでしょうか。
文学作品に登場する鷺の例をみても、鷺が持つイメージはあまり良くないものであることが分かります。
古くは『古事記』に登場しますが、天若日子(日本神話に登場する神の名)の葬儀の場面で、あまりポジティブなイメージはありません。
平安時代の『日本霊異記』では、水の中に鷺が沈み、その鷺が止まっていたのが観音像であったという話に登場し、やや不吉な印象を受けます。
清少納言の『枕草子』に至っては、鷺の見た目をただただ貶す章があります。
江戸時代に入ると、妖怪画で知られる鳥山石燕によって『青鷺火』という怪談として描かれるようになります。
漱石は、これらの不吉なイメージを引き継いで、わざと鷺という鳥を登場させたのだと思われます。
鶴や雀など数いる他の鳥ではなく、あえて鷺という鳥を登場させている辺りにも、第三夜を不気味に、不吉に仕上げようとした作者の意図を感じ取ることができます。
・第三夜の主題
『夢十夜』第三夜の主題は何かという問題を考えた時、多くの先行研究で指摘されているのが「人間存在の原罪的不安」です。
原罪とはキリスト教の考え方で、アダムとイブが禁断の実を食べた罪が、その子孫の人間に引き継がれており、人間は生まれながらにして罪を背負っているという考え方です。
このような、生まれる前から人が背負っている罪に対する不安感や怖れが、第三夜で主題として描かれているということは、明らかであると言えるでしょう。
また、この「生まれる前」というのも、第三夜を考えるにあたって注目しておきたい点です。
作者漱石と参禅の関係については、『夢十夜』第二夜の解説で触れました。
明治27年頃、鎌倉円覚寺で参禅をした漱石は、そこで「父母未生以前本来の面目」という公案を授けられています。
父母未生以前本来の面目とは、自分の父親や母親が生まれる前のあなたは何者であったのか?という問いです。
第三夜は、漱石自身が参禅の中で向き合った「自分とはどのような存在であるか」という問いをベースに、漱石が抱えていた原罪的な不安が混ざりあい、生まれ変わりと過去の罪の物語として成立したものだと思われます。
・他の夢との共通点
『夢十夜』の10の夢では、いくつかの話に渡って共通する描写があります。
それは以下のとおりです。
- 〈生と死〉に関する表現
- 夜の闇
- 印象的な色彩表現:赤色
第三夜の中にも、〈生と死〉を読み取ることが可能です。
第三夜は、殺人の加害者と被害者が、百年後に生まれ変わって父と子になり再会を果たす話です。
殺人・生まれ変わり等の内容や表現に、〈生と死〉を見ることができます。
また、第三夜では夜の闇が何度も描写されます。
しかも、田圃道から森の中に入るにつれ、路はだんだんと暗くなり、闇はますます濃いものと変化していきます。
そして、第一夜・第二夜と同じく、第三夜にも赤色は描写されています。
田の中の路が二股になっているところで、八寸角の石に道案内として書かれた文字が赤い字です。
ここでは、「闇だのに赤い字が明かに見え」、「赤い字は井守の腹の様な色」をしており、非常に印象的に赤が使われています。
また、作中で色彩には触れられていませんが、前述した鷺についても種類や時期によって虹彩が赤くなることがあります。
第三夜で殊更に黒と赤が協調されているのは、第三夜が罪の意識という心の闇の部分と、殺しという血生臭い部分を描いた作品であるからかもしれません。
『夢十夜』(第三夜)ー感想
・第三夜は怪談話か?
個人的に、『夢十夜』を読んでいると、サングラス姿の某司会者がストーリテラーを務めるオムニバステレビドラマを思い出してしまうのですが、『夢十夜』の十篇の中で最も番組テーマ曲が似合いそうなのが第三夜だと思います。
薄気味悪い情景描写と、伏線を回収してのまさかの結末——前述しましたが、第三夜の雰囲気はまさに怪談話のそれで、某番組テーマ曲がどこからか聞こえてきそうです。
ただ、本当に第三夜が怪談話であったかと言うと、これもまた考えていく必要性があると思います。
第三夜の結末部分では、百年前の人殺しの罪を自覚した途端、背中に背負っていた子供が石地蔵のように重くなります。
単純に石や岩というわけではなく、石地蔵と表現されているところが、個人的には気になるポイントです。
地蔵は、仏教の信仰対象である菩薩の一つであり、人々の苦悩を大慈悲の心で包み込んで救ってくれると考えられている存在です。
前世の人殺しという罪を自覚した途端、背中の子供は重くなりますが、同時に慈悲の心を持つ菩薩に変化する訳です。
このように考えると、盲目の子供は単なる不吉な存在ではないような気もします。
…とは言うものの、『東海道四谷怪談』にも赤子が石地蔵になる話があるようですから、作者の真意がどこにあるかは結局よくわかりません。
第三夜もまた、文章量はとても短いものですが、緻密な構成や、作者が作品に持たせた意味など、考察すべき点が多い難解な作品であると言えるでしょう。
以上、『夢十夜』第三夜のあらすじと考察と感想でした。
【引用URL】
夏目漱石『野草雑記・野鳥雑記』(野鳥雑記),青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52946_50716.html