『夢十夜』「第二夜」ラストで侍は悟ったのか?

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『夢十夜』「第二夜」ラストで侍は悟ったのか?

『夢十夜』(第二夜)の紹介

『夢十夜』は夏目漱石著の短編小説で、明治41年から朝日新聞で連載されました。

第一夜に続き、第二夜も「こんな夢を見た」という書き出しで始まりますが、第一夜の幻想的な愛の話とは打って変わり、第二夜は参禅の話となっています。

ここでは、『夢十夜』第二夜のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『夢十夜』(第二夜)ーあらすじ

こんな夢を見た。

和尚の室を退がって、自分の部屋へ帰ると、行燈がぼんやりと灯っている。

襖の画は蕪村の筆である。

広い寺だから森閑として、人気がない。

立膝をしたまま、座蒲団を捲って、右手を差し込んでみると、思った所に、朱鞘の短刀がちゃんとある。

お前は侍である、侍なら悟れぬ筈はなかろうと和尚が言った。

そういつまでも悟れぬ所を以て見ると、御前は侍ではあるまい、人間の屑じゃと和尚は言った。

隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、悟ってみせる。

悟った上で、和尚の首と悟りを引替に、和尚の命を取ってみせる。

侍が辱められて、生きている訳には行かないから、悟れなければ自刃する。

短刀を右脇へ引きつけて置いて、全伽を組んだ。——趙州曰く無と。無とは何だ。

無だ、無だ、と舌の根で念じるのに、一向に無は出てこない。

それでも我慢して凝と坐っていると、そのうちに頭が変になった。

行燈も蕪村の画も、有って無い様な、無くって有る様に見えた。

と云って無はちっとも現前しない。

ところへ忽然隣座敷の時計がチーンとなった。

はっと思って、右の手をすぐ短刀に掛けた。

時計が二つ目をチーンと打った。

『夢十夜』(第二夜)ー概要

主人公
重要人物 和尚
主な舞台 禅寺
時代背景 (※侍がいる部屋には与謝蕪村による襖の画があり、画の描写から『柳陰漁夫図』であろうと推察できます。与謝蕪村は江戸中期に活躍した俳人・画家であるため、第二夜の時代背景は江戸中期以降と考えられます)
作者 夏目漱石

『夢十夜』(第二夜)―解説(考察)

・「無」とは?

第二夜では、「侍」がひたすら「無」を追い求めています。

そもそも、「無」とは何かと言うと、

● 禅で説かれる無の境地、すなわち人間の煩悩や自我を捨て去った心身脱落の状態

と説明できます。

これを考えるために、第二夜で出てくる言葉の意味を整理していきます。

第二夜では「寺」、「和尚」、「趙州(中国唐代の禅僧)」などのキーワードが出てきます。

舞台は禅寺で、侍は入室参禅をしているということが分かります。

入室参禅とは、修行者が師家(一般の修行僧に対して、禅の修行を終えて修行僧を指導する力量をそなえた者を指す尊称)の室で指導を受けることです。

そこでは修行者は公案(修行のための禅の問題)を受け、これに対する見解を求められます。

侍は「無」に関する公案を受けており、その答えを見つけていない、というのが『夢十夜』第二夜の状況です。

趙州の「無」は、禅の代表的な公案の一つです。

※狗子仏性とは

『無門関』(禅宗の公案を紹介する仏教書)の第1則などに挙げられている公案です。

「趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや、也無しや。州云く、無。」

(【訳】ある一人の僧が趙州に、「犬にも仏性があるか、ないか」と尋ね、それに対して趙州が「無」と答えた。)

なぜ趙州が「無」と答えたのか、その本意を考える禅問答です。

趙州に尋ねた僧のような「すべてに仏性がある」という仏教の教えへの執着や、考え方の偏りをもすべて捨て去り、絶対的な「無」の境地とは何か考えるための公案です。

侍は、置時計が次の刻を打つまでに、この「無」を悟ってみせると決意しますが、最終的に置時計はチーンと鳴り始めてしまいます。

「無」は侍の前には「中々出て来ない」もので、「ちっとも現前しない」のです。

すべての執着や囚われから解き放たれて、何もない状態が「無」である筈なのに、侍は「無」が目の前に現れることを期待して、「無」の有る無しに囚われている状態にあります。

『夢十夜』第二夜は、置時計が鳴った場面で唐突に完結するので、侍が悟ったか否かはっきりと書かれているわけではありません。

しかし、「無」とは何かということを踏まえて考えると、やはり侍は悟ることができないまま物語は終了したと見ることが妥当でしょう。

・漱石と参禅

第二夜の参禅の話には、漱石自身の体験が反映されていると考えられます。

明治27年頃、帝国大学を卒業し高等師範学校の英語教師をしていた漱石は、極度の神経衰弱を患っており、鎌倉円覚寺で参禅を体験しています。

のちの明治40年には、高浜虚子著『鶏頭』の序の中で、この鎌倉での参禅のエピソードを綴っています。

それによると、「父母未生以前本来の面目」が公案として漱石に授けられていたことが分かります。

そして、『夢十夜』の二年後、明治43年に朝日新聞にて連載された『門』という作品では、作品後半で主人公宗助が鎌倉円覚寺で参禅する様子が描かれています。

『門』の主人公宗介が授かった公案もまた、「父母未生以前本来の面目」です。

漱石は、自身の参禅の体験を作品に反映させているのです。

また、明治43年に発表された漱石の『談話筆記』「色気を去れよ」でも、参禅の様子が綴られ、ここでは趙州の無字が公案として授けられたという内容が書かれています。

これがいつどこでの参禅体験かは分かりませんが、『夢十夜』第二夜の侍が体験していることは、漱石自身の体験に裏打ちされたものであるだろうと推察できます。

第二夜は、作者の実体験を素材の一つとして作られた作品だと考えられるでしょう。

・他の夢との共通点

『夢十夜』の10の夢では、いくつかの話に渡って共通する描写があります。

それは以下のとおりです。

  • 〈生と死〉に関する表現
  • 夜の闇
  • 印象的な色彩表現:赤色

第一夜に引き続き、第二夜でも〈生と死〉、夜の闇、赤の描写を見ることができます。

第二夜では、悟るか悟れないかという問題が、生きるか死ぬかという問題に直結しています。

悟れば和尚が殺され、悟れなければ自刃という結末が待っており、その場面こそ描かれてはいないものの、読者は第二夜の中にも〈生と死〉の存在を感じることができます。

また、行燈などの表現から読み取れるように、第二夜の時間軸は夜です。

辺りを包む夜の闇に、行燈がぼんやりと灯り、朱鞘の短刀の赤色だけが浮かび上がる光景を想像することができます。

短刀の赤色は、後にその刃を染めるであろう、侍か和尚の血の色を連想させます。

第二夜でも、3つの描写は読者に対してはっきりと示されていると言ってよいでしょう。

『夢十夜』(第二夜)ー感想

・第二夜に見る焦燥感と滑稽さ

『夢十夜』第二夜で描かれる「無」が、禅の教えで、人間の煩悩や自我を捨て去った心身脱落の状態を指す言葉であるということは既に解説したとおりです。

そして、侍が「無」に囚われすぎている様子から、結局悟っていないだろうということも述べたとおりです。

この結果は、実は作品前半部からも察することはできます。

まず、侍は「侍なら悟れぬ筈はない、悟れないならば侍ではなく人間の屑だ」と言ってきた和尚に対して「怪しからん」と感情丸出しにしています。

そして、「置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる」と自ら時間制限を課し、悟ることができれば和尚の命を取り、悟れなければ「侍が辱められて、生きている訳にはいかない」という矜持から自死する決意を固めるのです。

潔いほどに感情剥き出しで、殺すか死ぬかという煩悩に充ち溢れ、「無」を悟ろうとするスタートダッシュから大失敗しているように感じます。

『夢十夜』の十篇は、いずれも不思議で奇妙な夢の話ではありますが、第一夜が幻想的な雰囲気であったのに対して、第二夜はなんとかして悟ってやろうという焦燥感の中にも、やや滑稽な雰囲気を感じます。

寝ている間に次々と見る夢は、とりとめがなく、しばしば突飛な内容があるものですが、『夢十夜』の作品毎の振れ幅の大きさは、まさに実際の夢のようで、面白味を感じます。

以上、『夢十夜』第二夜のあらすじと考察と感想でした。

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。