『野性の棕櫚』の紹介
『野性の棕櫚』は、1939年、ランダム・ハウス社から出版されました。
作者のウィリアム・フォークナーは、ミシシッピ州のニューオールズバニーで生まれた、アメリカを代表するノーベル賞作家です。
本作は、フォークナーの代表作の一つとされていますが、2つの物語が交互に展開するという「二重小説」という構成をとっています。
ここでは、『野性の棕櫚』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『野性の棕櫚』――あらすじ
ヘンリー(ハリー)は医学大学を卒業後、インターンをしていましたが、人妻シャーロットと恋に落ち、住む場所を転々とする月日を送ります
やがて、シャーロットの妊娠がわかり、二人に別れがおとずれることになります(「野性の棕櫚」)。
列車強盗未遂で服役中の囚人は、ミシシッピ川の氾濫で人命救助に駆り出されます。
事故に遭い舟で妊婦を乗せて漂流することになった彼は、刑務所へ戻るため川を渡り、数々の困難を乗り越え、目的を果たしたのでした(「オールド・マン」)。
『野性の棕櫚』――概要
主人公 |
ヘンリー(ハリー)・ウィルボーン(「野性の棕櫚」)、背の高い囚人(「オールド・マン」) |
重要人物 |
シャーロット・リトンメイヤー、フランシス・リトンメイヤー、マコード、バックナー、ビリー、医者(「野性の棕櫚」) 太った囚人、女(「オールド・マン」) |
舞台 |
アフリカ南部 |
時代背景 |
1937年(「野性の棕櫚」)、1927年(「オールド・マン」) |
作者 |
ウィリアム・フォークナー |
『野性の棕櫚』――解説
『野性の棕櫚』は、アメリカを代表する作家ウィリアム・フォークナーの作品ですが、その構成に大きな特徴があります。「二重小説」と呼ばれる手法で、『野性の棕櫚』という長編は、「野性の棕櫚」と「オールド・マン」という2つの中編が交互に書かれた1つの作品として成り立っているのです(以降、本作を示す場合は、二重カギ(『』)の『野性の棕櫚』、本作の中の1編については一重カギ(「」)の「野性の棕櫚」と表記します)。
こういう話を聞くと、例えば、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思い浮かべる人もいるでしょうが、本作はそれとは異なります。というのも、「野性の棕櫚」と「オールド・マン」の話は決して交わることはない、それぞれ完全に独立した物語なのです。
アルゼンチン作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスがスペイン語への完訳を行ったように、世界的な影響を及ぼした本作ですが、日本では、大江健三郎の作品(『「雨の木」を聴く女たち』)に本作のモチーフが表れています。また、中上健次はフォークナーから刺激を受けて創作活動をしていた一人です。
しかし、本作は、前述のとおり「二重小説」であり、2編の中編が混じることのない完全なパラレルで交互に展開されるという構成であるということから、フォークナーの独特な文体も相まって、一般の読者にはなかなか馴染みにくい作品といえます。
作者フォークナーは、本作を「音楽でいう『対位法』の形式をとった」と説明しています。「対位法」とは、「同時に異なる旋律を2つ以上鳴らす技法」といわれていますが、これは、例えば、悲しいシーンに明るい音楽を流すなど、映画にも応用されています。
ここでは、本作を形作る2編の小説「野性の棕櫚」と「オールド・マン」における「対位法」が、具体的にどのように影響し合っていたかについて解説していきます。
さらに、感想で、この「対位法」から発生した作者も想定していなかった思わぬ反響や、実際にこの効果をどのように「受容」してみたらよいかについて論じていきます。
「文明」と「自然」―物語の骨格をなす普遍的なテーマ
明確に章立てとして番号はふられていませんが、本作は、全部で10章からなっています。
1、3、5、7、9の奇数の章が「野性の棕櫚」、2、4、6、8、10の偶数の章が「オールド・マン」です。
「野性の棕櫚」の章では、29歳で医者のインターンを途中でやめてしまったハリーと、4歳と2歳の女の子の母親で25歳のシャーロットが、ルイジアナ州の最大の都市ニュー・オーリンズ出会い、イリノイ州にある北アメリカ屈指の都市シカゴへ行き、ユタ州の鉱山、テキサス州、そして、最後はミシシッピ州へと彷徨する姿が描かれます。
医大を卒業したハリーは金銭的には恵まれていませんでしたが、インターンをしており、将来医者になる道が約束されていました。シャーロットは、安定した収入がある夫をもち、自身も人形などの工芸を製作する中産階級の女性です。あるパーティで出会った二人は、これまで恋愛経験のないハリーを、シャーロットがリードする形で関係を強めていきました。
しかし、シャーロットの夫フランシスは敬虔なカトリック教徒であり、妻を愛してもいたので、離婚を認めません。一方、逃避行するのにも、ハリーとシャーロットには余裕のあるお金は手元にありません。それで、二人の関係が終わりを告げようかとしたとき、ハリーは偶然、千二百七十八ドルの大金を拾ったのです。
「ぼくは罪なんて信じない。それはただタイミングを踏みはずすだけのことなんだ。人は生まれたときから自分の時間と限りない未知の時代の組み合わせを背負っている」
ウィリアム・フォークナー『野性の棕櫚』加島祥造訳, 中公文庫, 2023, pp72-73
「健やかになるのよ。すっかり忘れる――なにかをね。あたしはそれを切り捨てたいのよ」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp79
ハリーは初めての恋愛という冒険心から、シャーロットはこれまで自分が従っていた家族から、二人で「自由」を求めて、列車に乗って世界有数の都市シカゴへ向かったのでした。これが第3章(「野性の棕櫚」では二番目)の話になります。
そして、話は変わり、次章の第4章で、ある囚人も「自由」を得ました。それが、並行して描かれる「オールド・マン」の主人公である「背の高い囚人」です。フォークナーは本作をあくまで「ハリーとシャーロットの愛とその喪失の物語」と位置づけており、その対旋律にあたる「オールド・マン」では、登場人物に固有名詞が与えられていません。
25歳の背の高い囚人は、「大衆小説」に書かれた犯罪の手口をそのまま実行しようとして、列車強盗未遂として捕まった、どうにも間が抜けている男として登場します。彼は、「野性の棕櫚」のハリーやシャーロットのように、医術も工芸の才もありません。
背の高い囚人は、前章(「野性の棕櫚」第3章)で大都会シカゴへ夢と愛を成就させようと列車に揺られた二人とは対照的に、堤防の決壊の恐れがあり、避難と堤防の修繕を兼ねて、ミシシッピ州の荒れた自然の中を、仲間の囚人達と共に汽車で運ばれて行きます。
やがて、「背の高い囚人」は、「太った囚人」と一緒に、小舟で、木の上と綿倉庫の上にそれぞれ取り残されている、女と男を救助するように命令されます。けれども、川上で舟は転覆し、太った囚人は、その直前に木の枝につかまったことで難を逃れ、後にきた救助船に助けてもらいました。
「もう、残された囚は助からないだろう」という太った囚人の言葉を受けて、刑務所長は、彼の死亡手続きをするように、事務的に所員に伝えるのでした。
「『わかりました』と所員は言った。彼は身をまわし、あとの二人も外に出した。再び霧雨の闇のなかで、彼は太った囚人に言った。『さてと、お前は仲間に先を越されたってわけだ。やつはもう自由だ』」(略)
「『そうとも』と太った囚人は言った。『自由さ。あいつはもう好きなだけ自由でいられるのさ』」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp105
こうして、「野性の棕櫚」において、文明社会で自由に暮らし、己の愛とステータスを作ろうとしたハリーとシャーロットの二人と、「オールド・マン」で自然に翻弄されながら、死という皮肉な「自由」を得たとされ、これから周りがあきれるほどに実直に命令に従っていく「背の高い囚人」が、これからますます対比的に描かれていくのです。
作者は、彼らの人生の悲劇的な行方を、最初からカットバックの方式で暗示していきます。しかし、そこに善悪の評価は下していません。つまり、文明にかぶれる人間が浅はかであるとか、自然に従う人間が尊いとか、そういった直接的なメッセージは残さなかったのです。
特にシャーロットについては、作中では社会(家庭)の規範を犯しながらも、魅力ある人物として終始描かれていますし、背の高い囚人は、善人というより、「馬鹿正直」な人間として捉えられています。そこで、本作が典型的な物語にならないよう、人物造形の厚みをもたせているのです。
「堕胎」と「出産」―恋愛の舞台における「障害」
さて、自由になったハリーとシャーロットですが、シカゴの街で浮き沈みはありながらも、二人共に安定した生活を得ていきます。マコードという、彼らを助けてくれる友人も得ました。
しかし、ハリーはシャーロットとの生活に不満を覚えていきます。彼は、冬を迎えたシカゴの街を「地下牢」に例えました。この表現も、対旋律の「オールド・マン」の牢屋との連想があって興味深いところです。
「飢えの苦しみなんてごく軽いものだともわかったね、だって飢えは最後にぼくらを殺すだけだものね、ところがいまの状態はそんな死よりも、あるいは仲を裂かれた状態よりさえ、悪質だったのさ、いわば愛が死に果てた古い墓場になってたんだ、それは死骸をのせた腐った匂いの霊柩台で、それをかついで歩くのは腐肉を求める不死非情の、それゆえ臭覚のない存在の化身なんだ」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp179
ハリーは、シャーロットも自分も、毎日を生きるために働いているだけで、最初夢を見ていた「恋愛」の充実感が薄れてしまっているというのです。そして、これまで自分は「日食の影」に生きていたいたからよかったが、もう、こうした状態を「恐れられる」と訴えます。
せっかく日常には困らないところにまで生活を立て直したのに、シカゴの生活を全て捨てて、ユタ州にある鉱山へ、免許はないので形だけの「医師」ということで採用されたハリーに、シャーロットは文句をいうこともなく、付いていくことにするのでした(第5章)。
ここに、世間的、家族的な「幸せ」と交わることができない、ハリーとシャーロットの罪深さがわかると同時に、ハリーが都会を拒否し、望んで自然に身を寄せるという選択肢をとったことで、対旋律として自然が猛威をふるっている「オールド・マン」の存在が引き立ってくるのです。
そして、次に描かれる第6章「オールド・マン」では、そんなハリーの抽象的な悩みなどは吹き飛ばす勢いで、過酷な自然に抗い、囚人であるが故に、他者の助けもままならない男の姿が見られます。
死んだと思われていた「背の高い囚人」は、氾濫したミシシッピ川の上で舟を立て直すことができ、しかも、救助するようにいわれた女性にも会えました。ただ、彼はその女が妊婦だとわかり動揺します。
背の高い囚人は、妊婦を乗せ、どこにいるかわからなくなりながらも、ひたすら舟を漕いでいきます。もちろん、彼は女を見捨てることはしませんでしたが、道徳心からしているのかというと、それとは違い、ここでも注釈があります。
もし、ちゃんと町に戻れたらと彼は考えました。
「この預かりものを引き渡せるだろうし、そうなればこの女にたいして永久に背を向けて立ち去れるだろう――妊婦いった女っ気(け)にみちた存在から永久に手を切って、散弾銃と足枷の僧院めいた生活に戻って、やっと安心できることだろうと思った」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp196
背の高い囚人は、妊婦を「厄介な荷物」としているのです。道義的なことから世話しているのではなく、命じられたことを粛々と遂行するという、自分に課した決まり事に従って生きているのです。
この「オールド・マン」という対旋律で展開している、「子が生まれる」という問題は、「野性の棕櫚」にも直接、返ってきます。しかも、これは本作にとって、一番のテーマとなってくるのです。
後に明らかにされますが、「オールド・マン」の主人公は、この妊婦を恋愛対象としてみることはほとんどありませんでした。そして、それは彼女が妊婦だったということが大きかったとも語っています。
背の高い囚人にとっては、妊婦である女は重荷であり、この極限状態にあって、互いが助け合い、恋愛感情が芽生えてもおかしくない二人が、その到達をみることはなかったのです。
次の第7章の「野性の棕櫚」では、鉱山に入ったハリーとシャーロットは、現場監督のバックナーとその妻のビリーから歓待を受けました。ただ、実際に現場で作業しているのは、事情を正確に理解できてないポーランド人達だけで、賃金未払いのため、他の国の労働者達は出て行ってしまったと聞かされます。しかも、そこで妊娠してしまったビリーの堕胎をハリーはお願いされることになるのです。
前章の「オールド・マン」では、過酷な自然の中でも出産を望む「妊婦」がおり、ここでは人里離れた鉱山で堕胎を願う「妊婦」がいます。このコントラストは非常に見事です。
ハリーは、恋愛のために医師の道をあきらめたとはいえ、職業的な倫理観から最初は断るのですが、シャーロットからも説得され、とうとう手術をし、無事、それは成功しました。
バックナーとビリーは、先に下山していましたが、残された二人にもとうとう目にも見える「罪」が到来します。
シャーロットが妊娠してしまったのです。今度も彼女から堕胎手術をするように迫られたハリーは拒絶しました。彼は、とにかくこの鉱山を離れ、温かい土地へ行くことを提案し、二人はテキサス州のサン・アントニオへ向かったのでした。
産むのであれば、子を養うために仕事をしなくてはならない。しかし、ハリーは、一度、シカゴで食べるために「仕事」をするつらさ、(彼にとっての)「恋愛」ができなくなる怖さを体験しています。シャーロットは、その彼の根本的な矛盾をついたのでした。
「死に果てるのは愛そのものでなく、男と女、男と女のなかにあるなにかなのよ、それが死んでしまうと、男と女はもはや愛する機会を得るにあたいしないものになるのよ。いまのあたしたちを見てごらんなさい。子供を持てない。それだけのゆとりもないと二人とも承知しているのに、子供ができるのよ。それに子供というのはあまりに痛々しすぎるものなのよ、ハリー。苦痛そのものなのよ」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp279
つまり、ハリーは「恋愛」のために全てを犠牲にしているといいながら、「仕事」にも、「自然」にも、「子供」にも、何一つ本気で犠牲にすることができていないという、現実をつきつけられたのです。
「罪」と「罰」―ミシシッピ川がもたらすのも
ハリーが精神的に窮地に立たされた後、次章、第8章の「オールド・マン」では、妊婦は自力で出産をします。「オールド・マン」では、極力、内的描写は抑えられています。そこにあるのは、背の高い囚人と、女(そして、その子供)が、いまそこを生き抜くための記述です。この女もお金や将来のことについて一切、不安も何も語りませんし、背の高い囚人が聞くこともありません。
二人と乳児は、数々の幸運と助けにあいながら、ミシシッピ州へ戻り、囚人の望む「自首」をするところにまで辿り着きます。女は最後まで、囚人と共に行動していましたが、彼が捕まった、その後のことは語られていません。
囚人は、人命救助を行い、言われたとおりに舟まで確保しながら戻って来たのに、脱走未遂ということで10年、刑が加えられました。一度、死亡届を出してしまった体裁を繕うための役人の判断でした。背の高い囚人は特に反論することもありませんでした。
結果として、いつでも脱走できる機会がありながら、従順に命令に従った、背の高い囚人は罰を受けることになったのです。ですが、彼は世に新しい生(女の子供)を授ける一役も担ったのでした。
そして、次の第9章「野性の棕櫚」で、ミシシッピ州のある別荘におり、堕胎手術に失敗したシャーロットは命を落とし、ハリーは罪に問われることになります。ここでは、二人の子供と、母になりえたであろうシャーロットという2つの命が失われました。
しかし、ハリーは囚人となる前に、他の選択肢を与えられることになります。まずは、シャーロットの夫フランシスが、彼にお金を渡し逃亡を勧めたのです。それを断ったハリーに、彼は、今度は青酸カリを与え、自殺するよう促しました。もちろん、それは、ハリーのためではなく、亡くなったシャーロットのことを思っての行動でした。
「悲しみと虚無しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp415
ハリーは、肉体が滅びれば記憶が失われてしまう、シャーロットは死んでその記憶は半分なくなったのだが、自分が死ねば彼女の全てが消えてしまうと考え、自死より「罰」を受けることを望みました。
最後、「野性の棕櫚」「オールド・マン」のそれぞれの主人公ハリーと背の高い囚人は、お互いにミシシッピ州で罰を受けることとなったわけです。ただ、「生死」という意味においては、二人の「罪」は異なります。
そうなると、本作においては、「生死」に関する「罪」を問うことよりも、この問題に巻き込まれ、「罰」を甘受したハリーと背の高い囚人という人間の精神性に焦点が当てられていたと考えるべきではないでしょうか。
一つ大きなキーワードになるのが「水」です。
「死ぬのなら水のなかがいいわ。熱い土地の上の熱い空気のなかでなんてごめんだわ(中略)水、あの冷たいものは、人をすぐにひやして、だからすぐ永遠の眠りに入れるわ。それに頭脳のなかからも、眼からも、血のなかからも、すべて――自分が見たり思ったり感じたりほしがったり否定したりしたものを、すべて洗いさってくれるわ」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp78
ハリーとシカゴへ向かう列車の中であった、シャーロットの言葉です。
「彼女の両眼は大きく見開かれ、依然として知覚の底まで空(うつ)ろなまま彼を見つめていたのだ。(中略)それは水中を魚が浮上してくるのを眺めているときに似ていた――小さな点が小魚に、そしてさらにどんどん大きくなってゆき、次の瞬間には、もはや水たまりはなく、知覚だけでいっぱいになるだろう」
ウィリアム・フォークナー, 前掲書, pp362
これは、ハリーが堕胎手術に失敗し、苦しんでいるシャーロットの眼を見た時の描写です。彼女は、最後は、報われず「雪が火のようだ」と言いながら死んでいきました。
逆に、「オールド・マン」では、女が水際のインディアンの塚で子供を出産します。ここの世界でも、背景としては、荒れ狂ったミシシッピ川(別称:オールド・マン)は何人も人の命を奪い、背の高い囚人も傷だらけになりながら、この氾濫した川を渡っていったのですが、物語上での死の描写はありませんでした。
同じ「水」を通して、「野性の棕櫚」では、死へのイメージ、「オールド・マン」では、生の授かりしものとして表現されました。ここで仏教の輪廻まで持ち出すのは話が飛躍しすぎなのですが、大きな世界で考えれば、世代においても生と死は循環するものですから、その媒介の命の源として、ミシシッピ川を作者フォークナーが選んだことは無理な解釈ではありません。
彼は自分が住んでいたミシシッピ州ラファイエット郡の町オックスフォードをモデルに架空の土地ヨクナパトーファ郡を設定し、そこを舞台に、ヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる一連の作品を出すほど、南部への思いを強めていました。彼にとってのミシシッピ川は単なる地名ではないのです。
社会の規律に背いたハリーは罰を受け、シャーロットは死にました。作者が自ら語るとおり、「野性の棕櫚」は、二人の愛の獲得と喪失の物語なのですが、ミシシッピ川(オールド・マン)という水を媒介にした「生死」の世界の広がりを、「オールド・マン」という対旋律でみせることで、彼らを単なる愚かな者として社会から排除するわけではない、社会に生きる私達に何かを見せたかったのではないか、こうした考察を次に展開してきたいと思います。
『野性の棕櫚』――感想
本作は、厳密な意味での二重小説として成り立っていますので、「野性の棕櫚」と「オールド・マン」を別々の小説として分割してしまうことも十分できますし、実際にそうした試みもされました。
ここでは、単独作品として各々をみた場合の鑑賞のポイントと、解説で行った対位法による本作の優れた特長を再検証しつつ、フォークナーの技巧がどれほど文学的な価値をもたらしたかについて論じていきたいと思います。
「オールド・マン」の輝き
分割して商業的に成功した例が、1946年に、ヴァイキング社より出版された『ポータブル・フォークナー』です。これは、フォークナーが著した、ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡を舞台にした「ヨクナパトーファ・サーガ」を時系列でまとめあげた本です。
編者は、批評家・編集者のマルカム・カウリー。彼が、まだ一部の読者の対象でしかなかったフォークナーを、この本によって一躍メジャーへ押し上げ、1950年のノーベル賞受賞への道筋を作ったといってもよいでしょう。
「オールド・マン」は、『ポータブル・フォークナー』の「第六部 ミシシッピ河の大洪水」の箇所に、単体で収録されたのです。
カウリーは、「編者ノート」において、この「オールド・マン」は、「野性の棕櫚」よりも小説として成功しており、独立させた方が、その魅力がわかりやすいと評しました。
しかし、フォークナーは、『野性の棕櫚』は、「恋のためにすべてを振りすて、しかもその恋を失うシャーロットとウィルボーン(ハリー)の物語」だとしています。つまり、「野性の棕櫚」という主旋律があって、その対旋律として生み出されたのが「オールド・マン」だとしているのです。
もちろん、『ポータブル・フォークナー』の出版にあたっては、フォークナーも関与していたわけですから、この独立掲載については承諾していました。実際の作品の成立ちはおいといて、カウリーの見立ても認めたのです。作家が想定していなかったところで、新たな作品の価値が引き出された、わかりやすい例といえるでしょう。
単体でも「オールド・マン」は、ミシシッピ川を漂流する冒険小説とも読み取れ、その自然描写はフォークナーならでは臨場感が発揮されています。この中編で恋愛が誕生しなかったことも、かえって非情な自然に粛々と抗する人間の姿をより鮮明にさせています。
ただ、「オールド・マン」は、あくまで「野性の棕櫚」の対旋律として書かれた作品ですから、登場人物の氏名もなく、人物の背景の掘り下げもほとんどなされていません。女にしてもどうした経緯で、シングルマザーとなったのか、その説明すら全くないのです。それは、背の高い囚人が理由をたずねることがなかったということを暗に示しているのですが、そうした乾いた関係性も味となるともいえます。
背の高い囚人が、内心では、なぜ妊婦を遠ざけたのかという解釈は、「野性の棕櫚」によるハリーとシャーロットの愛の困難があってこそ、理解が深まるという指摘もあります。
ですが、この背の高い囚人は、大衆小説を信奉して列車強盗を働こうとしてしまう人間で、ある意味、かなり戯画化されたキャラクターをもっています。
その設定故に、命じられたまま、愚直に任務を遂行し、量刑が増えても文句もいわず、仲間の囚人に半ば呆れられながら、刑務所に戻ってきたのです。
恋愛に至らないことも、彼の前だと納得できるほどの作られたキャラクターになっています。
また、本作にとっても、「オールド・マン」にとっても、最終章になる第10章で、彼が逮捕される前に付き合っていた女性に、いともたやすく恋の裏切りにあうというエピソードも盛り込まれています。彼が、母なるもの、女性なる者に対して根底に大いなる不信感をもっていたとしても、このストーリーの中で理解される範疇にあるでしょう。
いくつかの課題はみえますが、「オールド・マン」は、単独の作品としても十分に通用するものであり、フォークナーも多少なりともその出来栄えに自信をもちながら、あえて本作に組み込んだのだといえます。
「野性の棕櫚」に弱点はあったのか?
フォークナーは、「野性の棕櫚」の第1章を書き上げたときに、何か欠けているものに気付き、「オールド・マン」を挿入し、そして、また「野性の棕櫚」へという形で交互に執筆していったと語っています。
また、作者は、すべてを愛のために犠牲にしたハリーとシャーロットに対して、囚人の方は本人が望んでいないのに、愛の世界(舟における囚人と女の空間)に強制的に引き込まれてしまうという、本来ならば、その世界は、ハリーとシャーロットが望んでいたいものであったことを補完したかったとも説明しています。
「野性の棕櫚」を単独の作品としてみてみると、描写では「オールド・マン」の自然活劇には負けてしまいますが、これもまた、二人の魂の漂流といえる見方ができます。州にしても、ルイジアナから、イリノイ、ユタ、テキサス、(間にルイジアナを一瞬はさみますが)ミシシッピというように、安住の地を求めて二人はいくつかの州を彷徨いました。これも一つの形にはなっているのです。
また、何といっても、「野性の棕櫚」におけるシャーロットという女性は、夫と二人の娘のある生活を捨てて、もう子供は産みたくないと切望する、社会が規範とする家族の母親像から完全に逸脱していて、背徳者といってもよい人物です。しかし、とても人への情が厚い魅力的な人物として描かれており、十分、話を引っ張ることができる存在になっていました。
フォークナーは、「野性の棕櫚」に欠けたものがあるといっていましたが、それは一つの言い方の方便で、普通に書けば成立した小説にあえて、別の単体として成立する話を劇薬として注入して、その混乱も含めて、実験を試みたのではないでしょうか。
「わかりやすさ」を否定する印象の操作~文学の可能性
そもそも、本作に登場する主要人物達は、どこかしら、社会の規範からずれています。その「罪」なのか、ある者は死に至り、ある者は刑に服することになりました。
では、作者は、この一般的には愚かで、どうしようもない人達を突き放したのかというと、そうではありません。社会で当たり前のように捉えられていることに、疑問を抱くこと自体は決して悪いことではない、例えば、家庭生活を守ることが「愛」なのか、それを一度つきつめて考えてみるのは間違いではない、そういったメッセージが背景にあるのです。
そして、その表現の役目を大きく担ってきたのは「文学」でした。ですが、一方で、フォークナーは、いわゆる「大衆小説」や安易に煽情的に走る映画作品について否定的な印象を抱いていました。
「野性の棕櫚」で、ハリーは、シカゴで告白雑誌にストーリーを売る仕事をします。内容は、『私って女の肉体と欲情を持っていましたが、世間並みの知識と経験となると、まだほんの子供でした』、『もしも私に母の愛があってあの呪わしい日に私を守ってくれたら』といったものです。やがて、彼はこうした生活を捨て去る決意をするのですが、それは作者の思いも込められています。
「野性の棕櫚」と「オールド・マン」は、対立関係にあり、補完関係にありますが、作者が、これをあえて対立法として1冊の小説にしたのは、一口に社会規範から外れたといっても、個々にどのような価値観を持っているのか、その多様性と深さを、ストーリーの内容理解に困難が生じるリスクをしりつつも、読者の想像の翼を広げてもらい、より実感してほしかったからに他ならなかったのではないでしょうか。これが文学の可能性でもあるのだと。
「野性の棕櫚」は文明と対峙した、実に内向的、思想的な話を含んでいます。これは、裏返せば、そんなことに悩んでいるのであれば、なぜ、もっと当たり前の行動を起こさないのかという突っ込みを入れられます。
「オールド・マン」は自然に抗った活動的なお話です。しかし、登場人物は戯画化されており、寓話的でもあり、やや思想の深みに欠けます。
ですが、両方とも、社会の規範からずれた人々が、なんとか自分の価値を守りながら、奮闘していくことで共通しており、解説で書いたとおり、本作はミシシッピ川に象徴される「水」でつながり、「生死」の深淵も見せてくれているのです。
確かに、『野性の棕櫚』を初見で一読した場合、読みに困難が生じる可能性があるのは否定できません。しかし、本稿の解説に書いたテーマやキーワードに留意しつつ、再読してもらえると、作者の意図がみえてくるかと思います。そして、本作で文学の味わいに浸っていただけると幸いです。
★参考文献
大橋健三郎『フォークナー アメリカ文学、現代の神話』、中央公論新社、2007年
西川正身編著『20世紀英米文学案内 16 フォークナー』、研究社、1966年
ウィリアム・フォークナー著、マルカル・カウリー編『ポータブル・フォークナー』、池澤夏樹、小野正嗣、桐山大介、柴田元幸訳、河出書房新社、2022年
池澤夏樹『【増補新版】世界文学を読みほどく』、新潮社、2017年
日本ウィリアム・フォークナー協会編 『フォークナー事典』 松柏社、2008年
『PERFECT DAY』ビターズ・エンド、2023年
ウィリアム・フォークナー『野性の棕櫚』加島祥造訳、中公文庫、2023年
ウィリアム・フォークナー『野性の棕櫚』大久保康雄訳、新潮文庫、1994年
ウィリアム・フォークナー『フォークナー全集 14 野性の棕櫚』井上謙治訳、冨山房、1968年