『厩火事』の紹介
『厩火事』は古典落語の名作の一つで、夫婦の人情の機微を描きだした味わい深い演目です。
江戸時代後期から高座にかけられていた古い噺ですが、八代目桂文楽 (1892-1971) が女心の揺れ動きを精緻に表現するなど研鑽を重ね、現在演じられている型に練り上げました。
古典落語には珍しく働く女性が主人公のお話しで、男女共働きが普通になった現代にも受け入れられやすいストーリー展開となっています。
ここでは、「厩火事」のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『厩火事』―あらすじ
女髪結いのお崎は、勝気、おしゃべりで純情なところもある。
お崎には年下でイケメンの亭主がいる。この亭主、昼間っから家でゴロゴロしているグウタラ野郎で「髪結いの亭主」そのものだ。
亭主がいったい何を考えているのか、その心中を計りかねて夫婦間のゴタゴタが絶えない。
お崎は将来への不安も感じて毎日を過ごしている。
今日もお崎が仲人の家へ飛び込んでくるなり、夫婦喧嘩の一部始終をべらべらと話し始めた。
「昨日は髪結いの仕事が忙しくて私が少し遅く疲れて家に帰ってきたのに、亭主は『いったいどこで遊んで来たんだ!』と怒り出す始末。こんな薄情な亭主にはもう愛想が尽きました。仲人の旦那にお願いして亭主と別れさせていただこうと思って。それで相談に伺ったんですけれども・・・」
お崎は仲人がいつものように愚痴を聞いて亭主と仲良く暮らすよう諭してくれるものと思っていた。
しかし、仲人はお崎に対し「女房が油だらけになって稼いでいるのに、亭主が昼間っから酒飲んで遊んでいるようじゃあ困るだろう。
もう、遠慮することないはよ。縁がないんでしょ。お別れ、お別れ、別れるほうがいい、別れなさいッ!」と言い放った。
仲人からの返答に驚いたお崎、今度は亭主をかばってのろけたり悩みを吐露したり、ふらふらし始めた。
「仲人の旦那の前ですけれどもね、うちの亭主はもうこれっきりできないとおもうほど、やさしくしてくれることもあるんですよ。だけど、あの畜生野郎なんて死んでしまえばいいと思うことがあるんですよ。だから、あの人、本当に人情があるのか非人情なんだか、私にはちっともわからないんですもの」
「それじゃあ『亭主の本心を試す』しかないなあ」と思った旦那は、お崎に二つの逸話を語った。
一つは「モロコシ」の話。
昔、モロコシ(中国)の孔子という偉い学者の留守中に厩が火事になり、愛する白馬が焼け死んでしまった。
家に戻ってきた孔子は家来の無事を喜ぶばかりで、馬については一言も触れなかった。
家来は大変感激し、孔子の人望はますます上がった。
もう一つは陶芸品に凝っている「麹町のさる殿様」の話。
殿様が大事にしている皿を奥様が運んでいる最中に階段から滑り落ちてしまった。
この時、薄情な殿様は皿のことばかり心配して奥様の身を案じることがなかった。
そのため離縁となり、以後はさびしく一生独身で過ごしたという。
この二つの話しをもとに、仲人はお崎に亭主の心を試すよう勧めた。
「亭主が大事にしている瀬戸物を割ってしまい、亭主がお崎の身体か、それとも瀬戸物の方か、どちらを最初に心配するか試してみなさい」
さあ、わが家の髪結いの亭主は、お崎の身体を心配してくれる人(モロコシ)なのか、それとも瀬戸物ばかり気にかける人(麹町)なのか、家に帰ったお崎は大芝居をやってのけた!
お崎は亭主が大事にしている瀬戸物の茶碗を持ったままわざと足を踏み外して転んでしまった。茶碗は粉々に。
「お崎、大丈夫か、ケガはないか? 瀬戸物は金を出せば買えるんだ」
「嬉しいよ。やっぱりお前さんはモロコシだよ! そんなにあたしが大事かい」
「当たり前よ。おまえにケガでもされたら、明日から遊んでて酒が飲めねえ」
『厩火事』の面白さ
・亭主が語る見事なサゲ
家に帰ってから、仲人に教わった通りに亭主の大事な瀬戸物茶碗をわざと壊したお崎は、亭主が何を言うか、ドキドキしていました。
亭主は真っ先にお崎の身体が大丈夫か心配してくれた。
お崎は感激のあまりしばらく言葉も出ません。
ようやく、「あんた私の身体を心配してくれて、うれしいよう~」と言うことができました。
これでハッピーエンドかと思いきや、そうならないのが落語の奥深いところ。
亭主のサゲの一言がすごいです。「お前に怪我でもされたら明日から遊んでて酒飲めねえ」
お崎の身体よりも先ず自分のことを心配しているのが伝わってきました。
この夫婦、これからどうなっていくのやら。このように急に落とすサゲは「途端落ち」と呼ばれています。
・年上女房の悩み
いつ聞いても笑ってしまうのは、お崎が亭主よりも七つも年上だというのを悩んで赤裸々に語っているところです。
「こっちが七つも年上だから心配なんです。女なんて年をとっちまえばね、嫌われるにきまってますから。皺だらけのばあさんになって、病気にでもなって寝ててごらんなさいな。そんな時、若い女でもひきずりこんで変な真似されりゃいい心持ちしないでしょ。そこで食らいついてやろうと思っても、歯も何にも抜けちまって土手(歯茎)ばかり・・・」
・お崎のボケと仲人のツッコミ
仲人が二つの逸話を語り始めますと、お崎は話しが何を意味しているのか解らなくなってきてトンチンカンな反応しかできなくなりました。
仲人の話しが当時の女性にとってはついていけないレベルの教養を必要としたのかもしれません。
しかし、これがちょうどいいボケとつっこみになっていて、聞き手の笑いを誘います。
お崎はモロコシも学者も何のことか知らず、モロコシは食べ物、学者は役者のことだと思いこんで話しを聞いていました。
「麹町のさる殿様」の話しになっても、猿の殿様がお屋敷にいるんだ、へえ~と感心していました。
見どころ
いきなり亭主をかばい始めたお崎の心の揺れ動き
仲人が「もう別れなさい」ときっぱり言うもんだから、お崎は内心がっかり。ついに本音を語り出します。
「夫婦喧嘩はするけど、あんなやさしい亭主はほかにはいません。でも、あの人はふわふわしていて何を考えいるかわからないから、私は年取っても一緒にやっていけるかとても不安なんです」
こんなに心がグラグラしていてどうしたらいいのか解らなくなっているお崎には、もう付き合いきれないと思った仲人は、ついに、奥の手を使うことにしました。これが「亭主の本心を試す」企てをお崎に実行させることです。
亭主の本心を試すお崎の大芝居(「モロコシ」か「麴町」か?)
お崎が家に帰り、仲人に教わったことを実行します。
さあ、いよいよ、亭主の本心を試す時です。
計画通り、足元の板を踏み外して、亭主の大事な茶碗を無残なまでに割ってしまいました。
「ケガはないか?」 と心配する夫の声が!・・・しばしの沈黙が続いた後、「お前さん、モロコシだねえ」とお崎の声がうれしそうに弾みます。
単なるハッピーエンドかと思ってしまうこの話しの結末部分、聞き手の気分も最高潮に達します。
現代では理解しにくい点&小ネタ
・女髪結い
女髪結いは道具を持って客のところを回るシステムでした。
女性の髪型がファッションとして複雑化した1700年代頃から商売として登場しました。
女性の仕事の中でも髪結いは特別でした。
江戸時代後期には需要は増える傾向にあり、技術されあれば収入も安定したようです。
「髪結いの亭主」という言葉がありますが、これは稼ぎがよい女房の亭主という意味で、あまり働かない男の代表のような存在です。
(参考文献:林家正蔵と読む落語の人々、落語のくらし(岩崎書店))
・江戸時代の女子教育
江戸時代は封建制度のもとで女子は男子のように学問による高い教養は必要がないものと考えられ、女子の教育は主として家庭内で行なわれ、家庭外でなされる教育も、お屋敷奉公や女中奉公を通じて行儀作法などを学ぶことが重視されていました。(出典:文部科学白書)
このような事情から、「厩火事」で高尚なことを話しがちな仲人(ある程度の教養を学んだ男)とお屋敷や町屋などに出入りして女性を相手に髪結いの仕事をしていたお崎とはなかなか話しがかみ合わなかったんだろうと思います。
例えば、孔子は役者の幸四郎の弟子か?とお崎は仲人に聞いています。
また、孔子が愛していた白馬のことを濁酒の話だろうと思っていました。
『厩火事』―感想
「亭主の本心を試す」方法をお崎に実行させた仲人の力量に感銘!
亭主と別れたいと言ったけれども、それはお崎の本音ではありませんでした。
「やっぱり亭主は可愛いし一緒にいたい。でも、亭主の気持ちが解らないと将来どうなるか不安でつい悩んでしまう」というのがお崎の本音なんだろう・・・このように判断した仲人は、亭主との関係を変えることが出来る新しい行動(亭主の本心を試すこと)を具体的な方法として教え込ませることに成功しました。
二つの短い逸話(モロコシと麹町のさる)を持ち出して物事をあまり考えていないお崎に理解させるというのは、もう立派な教育者です。感銘を受けました。
・ダメ亭主にもいいところがある
お崎の亭主は昼間っからブラブラしていて世間的にはダメな亭主だけれども、時にはすごく優しかったりして、女房一途のようにも見えるし、案外賢い人なのかもしれません。
お崎は頑張り屋で“自力本願”の人、亭主はおっとりした“他力本願”の人なのでしょうか?
「厩火事」の最後に見事なサゲの一言を発したのは亭主です。
賢い人だから、女房が頑張っている間は手を抜いているようにも思えます。
以上、「厩火事」について述べました。