内田百閒と番町界隈|番町最初の居住地から三畳御殿まで

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内田百閒と番町界隈|番町最初の居住地から三畳御殿まで

内田百閒と番町界隈

内田百閒は、明治22年(1889年)生まれの文筆家です。

夏目漱石の門下生で、その生活感のある文体と偏屈な人柄で知られています。

とくに、酒好き。小鳥が好き、うまい物が好き、自宅には愛鳥の鳥カゴがぎっしり。琴をたしなみドイツ語を教える。そんな文化人でした。

そして彼は鉄道も好きでした。戦後まもないころ、借金までして1等列車の切符を入手、それに乗車して東京―大阪間を往復するだけの様子を書いた作品『阿房列車』はよく知られています。そう、内田百閒は「乗り鉄」の先駆けなのです。

そして百閒による戦時下の作品として秀逸なのが『東京焼尽』です。

1.内田百閒と合羽坂

『東京焼尽』とは、昭和19年11月から翌年8月までに書かれた百閒の日記です。

敗戦が色濃くなっていく日本。しかし田舎へ疎開することなく東京の中心で日常生活を送る百閒。彼はほぼ毎日、その様子を思うままに書き記しました。

私は、この東京焼尽に不思議な魅力を感じます。敗戦が近いとなれば、食糧難と毎日の空襲、精神的にもまいってしまう…となるところを、百閒は一人の人間として見届けてやろうという、なんとも淡々としたところがあるのです。

独特のユーモアもある。まあその内実は、食料不足でもとにかく酒!近所から借りてでも酒!という百閒先生なのですが。

この日記が書かれたとき、百閒の住居は番町にありました。そして空襲によって2度転居、番町内で合計3ケ所を移り住んでいます。

その番町の前、内田百閒は合羽坂に住んでいました。日記の中では頻繁に「合羽坂のころ」「合羽坂では」と記されています。

その合羽坂に向かいます。曙橋駅で下車して散歩スタートです。

見下ろす傾斜は想像よりも緩やか。距離も短い合羽坂です。

着きました。

百閒の家は、資料によると「坂を登り切らない左側」ということらしいので、この碑の辺りでしょうか。

実際に立つと感慨深い。

内田百閒が通ったであろう、同じ地に足を踏み入れた私。うれしい。

合羽坂は狭い通りですが、車が頻繁に通ります。

ふふ、私は90年前の合羽坂にタイムスリップしている…

そんな優越感に浸りながら、坂の途中で何度もスマホを構える私。よい写真が撮れました。

2.市ヶ谷駅と番町へ

合羽坂下は靖国通りと交差します。これを東に1kmほど進めば、市ヶ谷駅と番町です。

靖国通り。いい道ですね。

左に防衛省を見ながら進みます。広大な敷地。戦前は陸軍士官学校でした

合羽坂から番町への引越しの際は百閒もこの道を行き来したのでしょうか。だろうな!

市ヶ谷駅と番町界隈まで、もう少しです。

外濠越しに見る五番町

外濠の向こうがJR中央線と番町地域です。

90年前の百閒は省線電車に乗って東京駅へ通勤、日本郵船に勤務していました。仕事はおもに文章の翻訳、表記や言い回しの相談にのるなどがあったそうです。

通勤定期は四谷駅―東京駅。四谷駅に急行が停車するため、通勤の最寄り駅は四ツ谷駅でした。

市ヶ谷駅に到着!

駅前の新坂。「東京焼尽」では「市ヶ谷駅から新坂を上り」と書かれています

新坂を少し上がったところで右に折れて、五番町にやってきました。

道は、ゆったりとしたカーブを描いて奥へと続きます。風情があります。昔から変わらない土地の形のようですね。

道の左手が五番町

新坂の賑やかさから打って変わり、閑静な気配です。

百閒先生もここを通っていたのですね。

そして、このカーブの先に見えてくるのが、旧松木男爵邸跡地です。

内田百閒の2番目の居住地

松木男爵邸跡地

1945年5月26日の空襲で家を焼け出された百閒は、この松木邸敷地内に立っていた小さな小屋に仮住まいさせてもらうことになりました。

この旧松木邸跡地は、百閒にとって番町で2つ目の住まいとなります。

松木男爵邸内の小屋は、広い敷地内の角辺り。この場所を、戦禍を逃れた仮住まいとしたのです。ここをしばらくの家と決め、3年間を過ごしました。通りの左手が五番町、右手が六番町です。

この通りの左側に、内田百閒の番町生活最初の住居地がありました。

内田百閒の最初の居住地

百閒が合羽坂から昭和12年(1937年)に越してきた最初の家はここにありました。

現在は番町会館です。

番町会館の斜め向かいには、記念碑があります。ここが、番町最後の住居跡地です。空襲で最初の家を焼け出され、松木邸の小屋に仮住まいを経た1950年、この場所に有名な「三畳御殿」を構えました。

内田百閒の番町最後の住居跡地

三畳御殿とは、三畳間が三部屋連なった間取りを、百閒独特の呼び方でそう称したものです。

整備された路地のような区画があり、のぞいてみました。ちょっと、百閒の終の住処「三畳御殿」への路地を再現したような一画ですね↓

百閒はここに戦後23年間住み続け、昭和46年(1971)に81年の生涯を閉じました。

文筆に励み、酒と小鳥とうまいものと我が人生を楽しんだ百閒先生。きっと番町の有名人だったのでしょう。

番町小学校へやってきました。

1871年(明治4年)創立。三畳御殿のすぐ裏にあります。

百閒の生誕日にはこの番町小学校において、百閒大好物のうな重を食べる会が催されるそうです。

3.四ツ谷駅

百閒は中央線で四ツ谷駅から東京駅まで通勤していました。

日記では「今年も四ツ谷駅にツバメが巣を作った」と記されています。

四ツ谷駅

撮影する私のすぐ後ろが雙葉学園です。空襲では、この学校も焼けてしまいました。

昭和20年当時は、雙葉女学校が焼ける火の雨が、百閒宅に降り注ぐので必死で払って自宅の延焼を免れたのだそうです。

とはいえ、百閒の家も同年5月26日に、とうとう焼けてしまいます。そして、松木邸敷地内の小屋生活が始まりました。

4.「秋本」のうなぎと内田百閒

酒とうまいものを愛した百閒先生。しかし、それはただ単に贅沢品のみを好んだのではないようです。

「今あるもので最大限にうまい物を楽しむ」というスタンスでした。お酒も普段は並レベルのものを飲んでいる。その方が、一級酒が飲めるときの美味さが増すというスタンス。

そして自分がハマったものはとことん追求しました。

その一つが「秋本」のうなぎです。番町小学校で開催されるうなぎを食べる会とは、ここのうな重を食べることなのです。

うなぎ秋本

ここのうなぎを気に入った百閒は、29日連続で取り続けたことがあるそうで…ええ、ちょっと引くような執着ぶりです。でも食べてみたい。

日本建築に「う」の文字。都会の喧騒とあわただしさを忘れ、ぽっと灯るオアシスのようです。

しかし中をのぞいたところ、かなり混んでいる…

麹町のお勤め人や、ここだけを目指して訪れたであろうお客さんが次々と出入りしていました。

番町はほかにもスポットがいっぱい

実は、この市ヶ谷駅と番町界隈は、百閒のほかにも数多くの文化人にゆかりのある地域なのです。

一度では周りきれないスポットがいっぱい。またあらためて訪れたいと思います。

今日はここまで。「う」印の看板を振り返り振り返り、またねと麹町駅の階段を下りた私なのでした。

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アキラ

都内大学の国文科卒業。 愛する作家は内田百閒、寺田寅彦、三島由紀夫、山田風太郎。 ドナルド・キーン氏からいただいたファンレターのお返事は宝物です。 読書の合間にはジャグリング練習をします。